ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第四話

 

 

 

 

 禪院直哉は、まだ背丈も廊下の欄間に届かぬ年齢でありながら、自分がこの家の頂点に立つ存在であると疑っていなかった。磨き上げられた板張りの廊下を歩く足取りには無意識の傲慢が滲み、襖に映る己の姿を見ては口元を緩める。その歩みの最中、不意に父・直毘人の声が聞こえた。普段は人払いされている部屋だ。直哉は反射的に足音を殺し、柱の陰に身を寄せた。

 

 「おぉ甚爾、久しぶりじゃないか。どうした?また金か?それとも借りを返しにくるか?」

 

 受話器越しに向けられた声音は、家人に向けるそれとは微妙に違う。面白がるような、しかしどこか警戒を含んだ響きだった。

 

 (甚爾?甚爾って……)

 

 その名を脳内で転がした瞬間、禪院の中で繰り返し聞かされてきた蔑称の数々が連鎖した。

 

 「あぁ?五条家に行きたい?何を言っとんるんだお前は……まぁいい。いつだ?」

 

 直哉はそれ以上聞かなかった。興味を失ったわけではない。ただ、その名の持つ響きが不快だったからだ。部屋に戻るとすぐに家中を歩き回り、あらゆる者に問いかけた。

 

 返ってくる言葉はどれも同じだった。

 

 「甚爾?あぁあの出来損ないですか?」

 

 「呪力が一ミリもないゴミですよ」

 

 「禪院家を出奔した捻くれ者だ」

 

 「禪院家の落ちこぼれ」

 

 「甚爾か……アイツはなぁ……」

 

 誰もが嘲笑を浮かべ、微妙な表情をした。しかし直哉を見れば顔を緩める。

 

 「直哉様は天才や」

 

 「次期当主は直哉様や」

 

 その落差が幼い胸を甘く満たした。

 

 (俺は天才なんやって、皆言っとる。父ちゃんの次の当主は俺やって!)

 

 自分は選ばれた側で、甚爾は落ちこぼれ。その単純な構図が、まだ幼い思考の中で絶対のものとして固まっていく。

 

 そして数日後。

 

 伏黒(禪院)甚爾が来ると聞いた直哉は、待ちきれず廊下を駆けた。磨かれた床に映る自分の姿が上下に揺れる。足取りは軽く、口元には好奇の笑みが浮かんでいた。

 

 (どんなしょぼくれた人なんやろ)

 

 男で呪力なし。出来損ない。そう聞かされ続けてきた存在の顔を、この目で見てやろうという子供じみた残酷な興味。

 

 曲がり角を抜けた瞬間、直哉の足が止まった。

 

 そこに立っていたのは、想像していた「落ちこぼれ」ではなかった。

 

 据えた目でただ前を向き歩く男。背は高くも低くもないはずなのに、天井が低く見える。気配を発しているわけではないのに、空気そのものが押し潰されるように重い。床板が軋む音がやけに大きく響き、直哉の喉が乾いた。呪力はない。確かに感じない。だが、だからこそ理解できない圧がそこにあった。禪院の誰とも違う、術式でも血筋でもない、生身の肉体が放つ暴力の気配。

 

 その隣に立つ老人は、まるで対照的だった。温和な笑みを浮かべ、穏やかな歩調で進む。だが一歩、床に足を置くたびに空気が震え、見えない奔流が廊下を満たす。呪力とは違う質の力。濃密な魔力が静かに波打ち、障子紙の表面を微かに揺らした。

 

 直哉の心臓が跳ねた。

 

 (……なんや、これ)

 

 これまで「天才」と呼ばれ続けてきた自負が、初めて揺らぐ。視線を外したくなるのに、外せない。足が一歩も動かない。喉の奥に、今まで知らなかった感覚がせり上がる。

 

 恐怖とも違う、敗北感とも違う、ただ本能が告げる理解。

 

 自分がまだ触れたことのない領域にいる存在。

 

 伏黒甚爾は直哉の方を一瞥もしなかった。ただ通り過ぎる。その無関心が、直哉の胸を強く締め付けた。

 

 初めてだった。

 

 禪院直哉が、自分より上にいる何かを目の当たりにしたのは。

 

 ただ立ち尽くす。その言葉しか今の禪院直哉を表現できなかった。磨き抜かれた板間に差し込む冬の光が、障子越しに白く滲んでいる。その淡い明るさの中で、自分の影だけが頼りなく揺れているのを見て、直哉はようやく自分が呼吸を止めていたことに気付いた。胸の奥が焼けるように痛い。肺が空気を求めて痙攣し、喉がひゅうと鳴る。

 

 呪力を持たず、術式すら宿さないはずのただの男と、どこか古びた匂いを纏う老人。その2人を見ただけで、禪院の次期当主と持て囃されてきた自分の内側が、音もなくひび割れていくのを感じた。今まで浴びてきた賛辞や視線、期待や羨望が、砂で出来た城のように崩れていく。

 

 2人の足音は重くもなく、むしろ静かだった。だが廊下の空気は確実に押し退けられ、柱や天井までもがわずかに軋んでいるように感じる。その歩みの先にあるのは父・直毘人の部屋だ。襖の向こうでどんな会話が交わされるのかなど、どうでもよかった。ただ、その背中が遠ざかっていくという事実だけが、直哉の胸を締め付けた。

 

 「こひゅっ」

 

 ようやく息が漏れた。自分でも聞いたことのない、ひしゃげた音だった。肺に冷たい空気が流れ込み、胃の奥がひっくり返る。視界の端が暗く揺れ、指先がじんと痺れる。

 

 蛇に睨まれた蛙。

 

 その言葉が頭の中に浮かぶ。禪院の中で、自分は常に蛇だったはずだ。睨む側であり、畏れられる側であり、上に立つ側だった。だが今は違う。視線を向けられたわけでもないのに、ただそこに存在していただけで、全身が凍り付いた。

 

 頂点を前にした底辺。

 

 そんな構図を、直哉は生まれて初めて理解した。

 

 「あ、ははは……」

 

 乾いた笑いが漏れた。自分の声がやけに遠く聞こえる。足が震えている。逃げ出したいのに動かない。膝の裏が冷たい床に吸い付くようで、重力が倍になったみたいだった。

 

 (なんやねん……あれ……)

 

 頭の中で繰り返す。呪力がないはずの男。だが、禪院の誰よりも禍々しい。術式もないはずの存在が、術式を持つ者すべてを踏み潰せると本能が理解してしまう理不尽。あの老人も同じだ。柔らかな笑みの奥に潜む、底の見えない深さ。直哉が知っている「強さ」の尺度では測れない。

 

 廊下の先で襖が開く音がした。父の声が聞こえる。だが内容は耳に入らない。直哉の意識はまだあの背中に縛り付けられていた。

 

 心の奥底で、何かが軋む。

 

 それは恐怖だけではなかった。

 

 悔しさとも違う、屈辱とも違う、もっと原始的な衝動。

 

 (……なんでや)

 

 自分は天才だと教えられてきた。次期当主だと疑ったこともなかった。禪院の血こそがすべてだと信じていた。だが、あの男はそのどれも持たずに、ただ歩いていただけで自分の心を折りかけた。

 

 その事実が、直哉の中で形を変える。

 

 震えていた膝に、ゆっくりと力が戻る。拳を握る。爪が掌に食い込み、痛みが意識を現実に引き戻した。

 

 (……あんなもん、認めるか)

 

 笑いながらも、瞳の奥には濁った光が灯っていた。恐怖の残滓はまだ消えない。だがその奥で、禪院の血に染み付いた選民意識が蠢く。

 

 廊下の向こうで襖が閉まる音がした。

 

 伏黒甚爾とアルバス・ダンブルドアが、父の部屋に入ったのだ。

 

 その音を聞いた瞬間、直哉の胸の奥で何かが固まった。

 

 初めて味わった敗北感は、やがて歪んだ執着へと姿を変え始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ジジイ、ここが禪院家だ」

 

 「フシグロ君の実家じゃな」

 

 「まぁそうだな」

 

 冬の乾いた空気が石畳を舐めるように流れ、俺の足袋越しに伝わってくる冷えが妙に懐かしかった。門の向こうに広がる屋敷は、昔と何も変わっていないように見える。いや、むしろ記憶の中よりも歪んで見えた。高く積まれた塀瓦は黒光りし、雨風に晒されたはずなのに不自然なほど整っている。その一枚一枚が、禪院の血と金と執着を象徴しているようで、胸の奥に薄くこびりついた記憶を引き剥がしてきやがる。

 

 「やはり由緒正しきお家なんじゃな。この門構え、素晴らしい」

 

 ジジイが顎髭を撫でながら感嘆の声を漏らす。その横顔は純粋に建築の美を眺めている学者のそれで、ここに渦巻く腐臭をまだ知らない。

 

 「汚れまくってるけどな」

 

 瓦の下に溜まったものを思い出す。血の色、湿った土の匂い、子供の頃に押し込められた蔵の暗さ。綺麗なのは外面だけだ。中身は腐ってる。

 

 「いいかジジイ、ここじゃ力が全てだ。ナメられるなよ」

 

 「……難しいのぉ」

 

 そう言いながらもジジイはいつもの脱力した姿勢のままだが、杖を仕込んだ腕の角度がわずかに変わる。空気の揺れを読む癖は、こいつも俺と同じだ。

 

 門を潜った瞬間、視線が突き刺さる。気配を消しているつもりの連中が、柱の陰や廊下の奥から様子を窺っているのが分かる。弱肉強食の家畜小屋。昔から何一つ変わってねぇ。

 

 玄関前に立っていた男が、俺の顔を見た瞬間に目を見開いた。

 

 「お、お前は……!!!」

 

 その声の震え方で分かる。名前だけは知っている雑魚だ。

 

 「どけ」

 

 足を止めずに間合いに入る。肩の高さに拳を滑らせ、頬骨の下を掠める角度で叩き込んだ。骨に当たる感触と同時に、肉が歪む鈍い音が響く。男の身体が宙を舞い、砂利を抉りながら庭の端まで転がった。衝突した石灯籠が傾き、乾いた音を立てる。

 

 「だ、大丈夫かの?」

 

 ジジイが引き気味に男を見る。

 

 「ナメられたら終わりなんだよ」

 

 それだけ言って玄関の引き戸に手を掛ける。木の擦れる音がやけに大きく響いた。土間の冷気が足裏を刺し、草履を脱いだ瞬間、禪院の匂いが一気に鼻を突いた。畳と古木と、長年染み付いた線香の臭い。その奥にある、血と湿気の混ざった匂いも変わらない。

 

 ジジイがぎこちなく靴を脱ぎ、裸足で上がる。その仕草がこの場所に似合わなすぎて、少しだけ笑いそうになる。

 

 廊下を進むたびに、記憶の中の景色と重なっていく。柱の傷、障子の歪み、角を曲がった先の庭石の配置。ガキの頃に叩き込まれた歩き方が、身体の奥から勝手に出てくるのが気に入らない。

 

 遠くで襖の開く音がした。

 

 直毘人の部屋だ。

 

 俺は歩幅を変えず、そのまま進む。背中に集まる視線の数が増えていくのが分かる。だが振り返らない。ここで立ち止まる理由はない。

 

 ジジイが小さく息を吐いた。

 

 「……なるほどの。確かに力の場所じゃ」

 

 「だろ」

 

 襖の前に立つ。中からは酒の匂いと、あの男の気配が滲み出ていた。

 

 懐かしいようで反吐が出る空気の中で、俺は指先で襖に触れた。

 

 襖を開けると畳の青い匂いが立ち上り、その奥の一段高くなった上座に直毘人が胡座をかいていた。昼間だというのに徳利が既に三本転がり、猪口の縁には濁った酒の跡がこびりついている。障子越しの冬の日差しが斜めに差し込み、煙草の煙と酒気を白く浮かび上がらせていた。

 

 「おぉ!甚爾!来たか」

 

 赤らんだ顔で猪口を掲げる。喉の奥で笑う声は昔と同じだが、その目だけは獣みてぇに濁って光っていた。最後に顔を合わせたのは競馬帰り、游玄亭の個室の便所でだ。手を洗いながら馬券の話をして、互いに勝っただの負けただのと笑っていたあの時と何も変わらねぇ。

 

 「……あぁ」

 

 短く返すと、直毘人の視線がジジイに移る。

 

 「おや、そちらのご老人は……」

 

 「うむ、わしはアルバス・ダンブルドアという。以前ユウゲンテイでお会いしたの」

 

 「おぉ……ホグワーツ校長に会えるとは光栄だ。私は禪院直毘人、禪院家の当主にして甚爾の叔父だ。よろしく」

 

 畳に手をついて頭を下げる仕草は丁寧だが、腹の中で何を測っているかは声の重さで分かる。値踏みだ。魔力の気配を感じ取れねぇ代わりに、場の空気と俺の立ち位置を計ってやがる。

 

 「御託はいい。早速例の件だ」

 

 畳の上に踏み込む。わざと足音を立て、上座との距離を詰めてその場に胡座をかいた。礼儀なんざ知ったことか。ジジイも静かに隣へ座るが、背筋は伸びたまま、いつでも立ち上がれる重心だ。

 

 直毘人が猪口を口に運び、喉を鳴らして酒を流し込む。嚥下の音がやけに大きく聞こえた。

 

 「五条家に行きたい……と」

 

 「そうだ」

 

 言葉を落とした瞬間、部屋の外の気配が一斉に張り詰めた。障子の向こうで息を潜めている連中の心拍が、床板を伝って微かに響いてくる。俺が五条の名を出しただけでこれだ。相変わらず分かりやすい家だ。

 

 直毘人は顎に手を当て、目を細めた。酔っているようで、その視線は冷えている。

 

 「物見遊山ではあるまいな?」

 

 「ガキを一目見てぇだけだ」

 

 「六眼と無下限の抱き合わせ……か。数百年ぶりの化け物だ」

 

 「だからだ」

 

 畳の目を指でなぞる。乾いた藺草の感触が指先に引っ掛かり、昔ここで正座を強いられていた時の痺れを思い出した。

 

 「禪院の名を使う気はねぇ。ただツテがいるだろ」

 

 「ハッハッハ、随分と素直だな今日は」

 

 直毘人が笑う。酒で緩んだ声だが、奥にある計算は消えていない。

 

 「見返りは?」

 

 「ねぇよ」

 

 「ほう?」

 

 空気が重く沈む。ジジイが横で顎髭を撫でた。

 

 「わしとしても興味があっての。その子を一目見てみたい」

 

 直毘人の眉がわずかに動く。ホグワーツ校長という肩書きは、さすがに無視できねぇらしい。

 

 「……なるほどな」

 

 徳利を傾け、新しい酒を猪口に注ぐ。透明な液体が光を受けて揺れる。

 

 「甚爾、お前が禪院()に頼み事とは珍しい。面白い」

 

 「勘違いすんな。頼んでるんじゃねぇ。使えるもんを使うだけだ」

 

 言うと、直毘人は喉の奥で愉快そうに笑った。畳の上に落ちた酒の雫が、じわりと染みを広げていく。

 

 「いいだろう。五条家に話を通してやる」

 

 その言葉と同時に、部屋の外の気配がざわついた。禪院と五条、その名が交わるだけで連中は騒ぐ。

 

 俺は直毘人を睨んだまま、静かに息を吐いた。次に会うのは六眼のガキだ。胸の奥で、久しく感じていなかった種類の興味がゆっくりと熱を帯びていく。

 

 「ところで……教師生活はどうだ?順調なのか?甚爾」

 

 直毘人がお猪口を唇の前で止め、わざと間を置いてから言った。その目は笑っているが、底の方では別の色が揺れている。俺がどこで何をしているか、既に一通り調べはついているという顔だ。禪院の情報網は腐っても御三家、国外だろうが魔法界だろうが嗅ぎつけてくる。

 

 やっぱ知ってやがるか。俺がホグワーツで働いてること。

 

 「別にどうもこうもねぇ。金がいいから働いてる、それだけだ」

 

 わざと興味なさそうに畳の縁を爪で引っ掻きながら答える。藺草が微かに軋む音が、妙に耳についた。

 

 「へぇそうかい。ダンブルドア校長よ、甚爾は迷惑かけてないか?人を殺したりとかは?」

 

 「おい」

 

 思わず声が低くなる。部屋の外で控えている連中の気配がびくりと揺れたのが分かった。ジジイはまるで気にした様子もなく顎髭を撫でている。

 

 「ホッホッホ、フシグロ君は立派に()()を果たしておるよ。授業も熱心じゃしの、生徒達にも人気じゃ。少々鍛え方が荒いきらいはあるが、それで泣き言を言う者はおらん」

 

 「鍛え方が荒い、のぉ……」

 

 直毘人が楽しそうに復唱する。酒の入った目が細まり、俺を上から下まで眺めた。

 

 「そうかそうか。クックック……いやぁ甚爾が教師ねぇ」

 

 笑い声が畳の上を転がる。鼻につく笑い方だが、不思議と怒りは湧かなかった。ガキの頃ならこの場で殴り飛ばしていたが、今はただ鬱陶しいだけだ。俺は畳に片肘をつき、天井の木目を見上げた。禪院の屋敷特有の、古い木と湿った酒の匂いが肺に入る。

 

 「似合わんと思っとるか?」

 

 「当たり前だろ。呪力ゼロの出来損ないが、異国の学び舎で子供を教える……これ以上の滑稽があるか?」

 

 そう言いながらも、直毘人の声には嘲りだけじゃない何かが混じっていた。面白がっている。予想外の展開を眺める博打打ちの顔だ。

 

 「だがな」

 

 猪口を畳に置く音が小さく鳴る。

 

 「禪院の名を背負わんお前が、別の場所で居場所を得とるいうのは……存外、悪くない話だな」

 

 その一言で部屋の空気がわずかに緩んだ。外の気配も動く。連中は今の言葉をどう受け取ったか分からんが、少なくとも俺の胸の奥に溜まっていた何かが一瞬だけ静かになった。

 

 ジジイが横で茶を啜る。湯気の向こうで目が細められていた。

 

 「フシグロ君はの、生徒に慕われとる。あの子らが君の背中を追う姿を見るのは、わしとしても嬉しいもんじゃよ」

 

 「やめろ」

 

 そう言いながらも、否定はしなかった。ハリーやネビルの顔が一瞬浮かぶ。あいつらが歯を食いしばって杖を振るっている姿が、畳の上に重なった。

 

 直毘人が徳利を持ち上げ、俺の前に酒を注ごうとする。

 

 「飲め」

 

 「いらねぇ」

 

 「祝いだ。教師就任祝い」

 

 「いらねぇっつってんだろ」

 

 だが徳利は止まらない。透明な酒が猪口に満ち、畳に少し零れた。仕方なく手に取る。口は付けず、ただ持ったまま直毘人を睨む。

 

 「壊す気はないんだろ、この家を」

 

 唐突に言われた言葉に、指先が僅かに強張った。

 

 「お前ならいつでもできる。ここにいる全員、まとめてな」

 

 直毘人の視線は真っ直ぐだった。酒で濁っていたはずの目が、今だけは冴えている。

 

 「……さぁな」

 

 曖昧に返す。だが直毘人は笑った。

 

 「わしが生きとる間は壊さん、そういう顔しとる。いや、利用価値がある間か……クックック」

 

 畳の上に落ちた酒の染みがじわじわと広がっていく。それを眺めながら、俺は猪口を口に運んだ。喉を通る酒は相変わらず不味い。だが、昔飲まされた時ほどの嫌悪はなかった。

 

 この家がまだ形を保っている理由を、俺も直毘人も分かっている。そしてその均衡が、五条家への訪問でどう揺れるのかを考えながら、ゆっくりと息を吐いた。

 

 「で、子は?」

 

 直毘人が何気ない調子で言ったその一言が、畳の上の空気を変えた。徳利の口から落ちる酒の雫がやけに遅く見える。ジジイも湯呑を持ったまま視線だけをこちらに寄越している。

 

 「子?」

 

 思わず聞き返す。頭の中で一瞬だけ、黒髪の女の背中が浮かんだが、すぐに消した。

 

 「しらばっくれるな甚爾、お前の子はまだかと聞いてるんだ。もう結婚してかなり経つ、いつまでもいないというわけにもいかないだろう」

 

 「そのうちできんだろ」

 

 興味なさげに言いながら猪口を指先で転がす。だが直毘人の視線は外れない。値踏みする目だ。禪院の血を残すかどうか、それだけを見ている。

 

 「もし……お前の子が相伝だったら禪院で引き取ってやらんこともないぞ」

 

 「はぁ?何言ってんだ。できてもねぇのに」

 

 即座に返した声が低くなる。畳の下で何かが軋んだように感じた。

 

 「いやぁな、直哉を見たか?わしの悪いとこを継いでてなぁ……術式も投射呪法だし」

 

 酒を煽りながら笑う。だがその奥にあるのは本音だ。次の当主に相応しい器かどうか、既に計り終えている顔。

 

 「そんなの知らねぇよ。もし相伝だったとしても()()()()()

 

 言い切った瞬間、自分でも驚くほど迷いがなかった。畳の上に落ちる自分の声が、妙に重い。

 

 「ほぉ……お前が?」

 

 直毘人の眉がわずかに上がる。嘲りではない。純粋な興味だ。

 

 「禪院で育つガキがどうなるか、お前が一番知ってるはずだろ」

 

 視線を外さずに言う。廊下の奥から聞こえる怒鳴り声、蔵の湿った匂い、血の乾いた鉄の臭い。全部が一瞬で蘇る。

 

 「呪力があるだけで上に立てる場所だ。なけりゃゴミ扱い。そんなとこにガキを放り込めるか」

 

 部屋の外の気配が凍り付いたのが分かる。聞いている。全部聞いている。

 

 直毘人はしばらく黙っていた。やがてゆっくりと猪口を置く。

 

 「……変わったな、甚爾」

 

 「そうか?」

 

 「昔のお前なら、子がどうなろうと知ったことかと言っただろう。それこそ売り飛ばすくらいはした」

 

 その通りだ。昔の俺なら鼻で笑って終わりだ。だが今は違う。ホグワーツの石畳を走るガキ共の足音、授業で息を切らしながら杖を握る手、負けて悔しそうに歯を食いしばる顔が頭にこびり付いている。

 

 「教師の影響かの」

 

 ジジイが楽しそうに言う。

 

 「うるせぇ」

 

 短く返すが、否定はしない。

 

 直毘人が笑った。今度は酒臭い笑いじゃない。

 

 「いいだろう。お前が育てると言うならそれでいい」

 

 そう言って徳利を持ち上げる。

 

 「ただし」

 

 その声で空気がまた締まる。

 

 「相伝が生まれた場合、禪院は必ず関わる。血は血だ。無視はできんぞ」

 

 「……」

 

 予想していた言葉だ。完全に切れるほど、この家は甘くない。

 

 「好きにしろ。だがガキに手ぇ出したら、禪院ごと潰す」

 

 畳の上に落ちた俺の声は、さっきよりも静かだった。だが重さは段違いだ。

 

 直毘人はそれを聞いて、愉快そうに肩を揺らした。

 

 「クックック……それでこそ甚爾よ」

 

 その笑い声を聞きながら、俺は猪口の酒を一気に流し込んだ。喉を焼く熱さの向こうに、まだ見ぬガキの姿がぼんやりと浮かぶ。

 

 それが呪力を持とうが持つまいが関係ない。

 

 禪院の外で育てる。

 

 それだけは、もう決めていた。

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