ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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伏黒甚爾と秘密の部屋
第一話


 

 

 

 

 

 夏の強い日差しが照りつける中、郊外の住宅街にあるダーズリー家の庭からは、規則的な音が響いていた。

 

 その音の主は、他でもないハリー・ポッターである。

 

 学校から戻ったばかりだというのに、彼は毎日のように決まった時間に庭に立ち、汗を流していた。夏休みだからといってダラけることなど一切ない。少なくとも、伏黒甚爾の授業を受けたあとでは。

 

 腕立て伏せ、スクワット、腹筋、素振り――その全てを、彼は淡々と、しかし力強くこなしていた。

 

 「……ふっ!」

 

 ハリーは木の棒を両手で握り、地面に足を踏ん張る。腕の筋肉に力が入ると、骨ばった肩がしっかりと浮き出た。素振りの音が空気を裂き、まるで刃のようにシャッと鳴り響く。

 

 これがホグワーツへ入学する前のハリーだったら、考えられない光景だった。昔はただ細くて、風に吹かれたら倒れそうなガリガリの少年にすぎなかった。それが今では、筋肉がつき、顔つきにも自信が宿っている。

 

 ホグワーツでの1年目、体育という名の地獄を教え込まれたおかげだ。

 

 「……先生の授業よりは全然マシだ」

 

 ハリーは息を吐きながら、額の汗を拭った。

 

 ホグワーツでは死ぬほど走らされ、腕立てを強いられ、真冬でも容赦なく筋トレをさせられた。ちょっとやそっとの肉体的苦痛なんて今の彼にとっては“休憩”みたいなものである。

 

 そしてそれは、ダーズリー家での生活にも大きな変化をもたらしていた。

 

 ホグワーツから帰ってきた直後、いつも通りダーズリー一家はハリーを“異物”として扱い、虐げようとした。ダドリーがニタニタ笑いながらハリーの肩を叩こうと手を伸ばし、バーノンおじさんは腕を広げて押し倒そうと近づいてきた。ペチュニアおばさんは、いつも通り鼻をつまんで毒のある言葉を吐こうとした。

 

 ――が。

 

 その全ては、かつてのハリーにはなかった“力”によって封じられた。魔法ではない。純粋な“力”でだ。

 

 「な、なにするんだよっ!」

 

 ダドリーがハリーの肩に触れようとしたその瞬間、ハリーは無駄のない動きでその腕を掴み、ぐるりと捻り上げた。ダドリーの巨体がそのまま悲鳴と共に傾く。

 

 「ぎゃああああああ!!!」

 

 ダドリーは涙目になりながら地面に転げた。

 

 「……なんだと……」

 

 バーノンが焦った声を漏らす。怒鳴りつけようと一歩踏み込んだその瞬間、ハリーは体を半身にし、ひょいと避けた。デブの巨体はそのままソファに突っ込み「ぐえっ」と情けない声を出す。

 

 ペチュニアはいつものように言葉でねちねち攻撃しようとしたが、その時、ハリーの視線が鋭く彼女を射抜いた。

 

 ――伏黒甚爾が授業中に、敵を見る時に見せる、あの“殺す気の視線”を真似たのだ。というか授業中生徒に向かってそんな目付きをする伏黒甚爾はどうかと思うが。

 

 「……っ……!」

 

 言葉が喉で詰まり、ペチュニアは一歩、二歩と下がった。

 

 ハリー・ポッターは強くなっていた。

 

 「……ふぅ」

 

 夜、シャワーを浴びてベッドに横になったハリーは、ぼんやりと天井を見上げた。

 

 ホグワーツの1年間は、彼にとってまるで嵐のような時間だった。魔法の世界の入り口をくぐり、仲間を得て、数多くの試練を経験した。クィレルとの戦いも、決して忘れられない。だがその全ての根底にあったのは――「生き延びるための力」を叩き込んだ男、伏黒甚爾の存在だった。

 

 「……先生、今頃何してるんだろ」

 

 口の中で小さく呟く。

 

 筋肉痛で軋む腕を軽くさすりながら、ハリーは思い出す。体育の授業中、伏黒はいつも不機嫌そうにしながらも、決して手を抜くことはなかった。生徒が泣こうが、吐こうが、筋トレをやめることは許されなかった。

 

 そしてその“地獄”を乗り越えた今、ハリーは確かに強くなっていた。

 

 バーノンに何を言われても、もう怖くない。ダドリーが突っかかってきても、力でねじ伏せられる。あの家の中で、自分の立場が“変わった”のだ。

 

 「今年は……負けない」

 

 ハリーはゆっくりと拳を握った。

 

 昨年のホグワーツでの戦いは、たまたま勝てただけかもしれない。あのときは仲間がいた。先生もいた。けれど、次は――自分自身でも立ち向かえるようにならなければならない。

 

 そうして少年は、知らぬ間に“強さ”という新たな感覚を、自分の一部として受け入れ始めていた。

 

 夜風が小さく吹き込み、カーテンが揺れる。

 

 夏休み、ハリー・ポッターは静かな決意を胸に、再び眠りへと落ちていった。

 

 その寝顔には、かつての弱々しい少年の面影はもうなかった。

 

 夏の暑さもどこか柔らかくなり、夜風が心地よく吹き抜ける頃――8月30日。

 

 ハリー・ポッターは自室の中でホグワーツへ戻る支度をしていた。

 

 部屋の片隅には、学校で使う教科書やローブ、そして杖が整然と並べられている。トランクの中もきっちりと整理し、必要な物と不要な物の仕分けも終わりかけていた。夏休みが終わるのが楽しみで仕方がなかった。

 

 ――あの城に帰れる。

 

 ダーズリー家にいるよりも、ホグワーツの方がずっと落ち着く。魔法の世界には危険があるけれど、そこには自分を信じてくれる仲間と、何より自分を変えてくれた男――伏黒甚爾がいる。

 

 「……もうすぐだ」

 

 小さく呟きながら、シャツの袖を畳んでトランクに詰め込む。

 

 ダーズリー一家は、夏休みの間ずっと大人しかった。いや、正確には“逆らう度胸がなくなっていた”という方が正しい。

 

 今でも家の中でバーノンがハリーを見ると、ビクリと肩をすくめる。ペチュニアおばさんは何か言いかけて視線をそらし、ダドリーは露骨に避けるようになった。あの日、腕を捻られソファに沈められた記憶がまだ新しいのだろう。

 

 「ふぅ……これで一通りは……」

 

 荷造りの手を止めた、その瞬間だった。

 

 ――何かが、いる。

 

 目に見えるものは何もない。音も、匂いもない。ただ空気の揺らぎが、確かにあった。

 

 「……気のせいじゃない」

 

 ハリーはゆっくりと息を整える。

 

 伏黒甚爾の授業が脳裏に蘇る。

 “常に場の気配を察知しろ。敵が現れてからじゃ遅い。先に気づいた方が勝ちだ”

 

 夏休みの間も、毎日筋トレと素振りを欠かさなかったのは、この感覚を鈍らせないためだった。

 

 「……そこか?」

 

 ハリーは足の裏で床を捉え、軸をわずかにずらす。揺らぎの方向を定め、一気に回し蹴りを放った。

 

 「グェ!!」

 

 空気が弾けるような音がして、見えない“何か”が壁に激突した。

 

 「な、なんだ……!?」

 

 ベッドの上にボフッと何かが落ちる音がしたかと思うと、空間が歪み、そこから小さな生き物が現れた。大きな耳、細い手足、ボロ切れのような服。

 

 ――屋敷しもべ妖精だ。

 

 「ハ、ハ、ハリー、ハリー・ポッターに蹴られるとはなんたる光栄……わわ私は、屋敷しもべ妖精の……ドビー……」

 

 か細い声で名乗った瞬間、その小さな体は白目を剥いてパタリと気絶した。

 

 「……え、ちょっと待って」

 

 ハリーは呆然とその光景を見下ろした。

 

 「……やっちゃった?」

 

 思い返すと、容赦ない一撃だった。普段から鍛えている上に、気配を感じ取って先手を打った結果……まさか初対面の相手を秒で蹴り飛ばすことになるとは。

 

 「……いや、だってさ……」

 

 誰に言い訳するでもなく呟き、ベッドの上で伸びているドビーを覗き込む。

 

 大きな耳がだらんと垂れ、小刻みに痙攣している。どうやら骨は折れていない。気絶しただけらしい。

 

 「……よかった……殺してたらどうしようかと思った……」

 

 汗を拭いながら、ハリーは大きく息を吐いた。

 

 それにしても、こんな夜に突然部屋の中に忍び込むとは何者なのか。

 

 屋敷しもべ妖精は魔法使いに仕える存在だと授業でも少し聞いた。城でも掃除などで見かけたことはある。けれど、自分の部屋にいきなり侵入してくるなんて想定外だ。

 

 「……伏黒先生だったら迷わず蹴るな」

 

 ハリーはベッドに腰を下ろし、ドビーを見下ろしながら呟く。

 

 今も耳の奥に残る、伏黒の声。

 “自分の命を守るためなら、迷うな。敵かどうかは後で考えろ”

 

 「……うん、正解だな」

 

 ドビーはピクリとも動かない。

 

 「……どうしよう……」

 

 倒れているドビーを前に、ハリーはとりあえず保冷剤を取りにキッチンに向かおうと立ち上がる。だが、その瞬間――

 

 「……うぅ……」

 

 ドビーが小さく呻き声を上げ、ぴくぴくと耳を震わせた。

 

 「起きた!」

 

 ハリーはとっさに距離をとり、自然に構えの姿勢を取る。足は肩幅に開き、重心は低く、片手は前、もう片方は後ろ。伏黒甚爾から叩き込まれた基本の構えだった。

 

 「う、うぅ……こ、これは……ハリー・ポッター様……!」

 

 ドビーがよろよろと立ち上がり、目を見開いた。

 

 「す、すごい……!ドビー、今まで誰にも見つからずに潜入してきたのに……ハリー・ポッター様、なんて察知力……!」

 

 「いや……まぁ……」

 

 「ドビー、感激でございますぅぅぅ!!!」

 

 急に膝をついて床にひれ伏すドビー。

 

 「ちょ、ちょっと待って!何それ!?」

 

 「ハリー・ポッター様は偉大な魔法使い!そして強い!ドビー、さっきの蹴りで人生観が変わりましたぁぁぁ!!」

 

 「……えぇ……」

 

 ハリーはなんとも言えない顔で額に手を当てた。

 

 そして悟る――この夏休みの締めくくりは、またしてもろくでもない方向に転がっていくのではないか、と。

 

 伏黒甚爾の“地獄の体育”で鍛えた身体能力が、思わぬ方向で役立つとは、さすがに想定外だった。

 

 「……とりあえず話、聞こうか」

 

 ハリーは大きく息を吐き、構えを解いて椅子に腰を下ろした。

 

 その前でドビーはぴょこんと正座し、まだ目を輝かせたまま、ハリーに向かって土下座を続けていた。

 

 ――夏休みの夜は、静かに終わるはずがなかった。

 

 そうして夜の静寂が、ダーズリー家の二階の一室にじわりと染み込む。開け放たれた窓からは生ぬるい夏の風が吹き込み、カーテンをわずかに揺らしていた。そんな中、ベッドの上に座った小さな屋敷しもべ妖精――ドビーは、蹴られた脇腹を摩りながら必死に口を開いた。

 

 「ドビーめは……知ってしまったのです……!今学期、ハリー・ポッターは……ホグワーツに戻ってはなりません……!お、恐ろしい罠が……罠が仕掛けられております!」

 

 掠れた声に、ハリー・ポッターは一瞬で表情を引き締めた。つい数分前まで、彼は“8月30日の夜”を静かに終えようとしていた。まさか自分の部屋に妖精が現れ、しかもいきなり「ホグワーツに戻るな」などと警告されるとは、想像だにしていなかった。

 

 ハリーは椅子に腰掛けたまま、ドビーの言葉をしっかりと受け止める。普段なら「なんだそれ」と笑ってしまうかもしれないが、ここ最近、彼の勘は以前とは違っていた。伏黒甚爾の授業で叩き込まれた“空気の変化”に対する感覚が、それを馬鹿げた話として片付けるなと訴えている。

 

 「……罠?」

 

 ハリーは慎重に言葉を選びながら問い返す。

 

 「それを……どこで知ったの?」

 

 ドビーはその問いを聞いた瞬間、ぴくりと耳を震わせた。小さな身体がわなわなと震え、目をぎゅっと閉じてから叫ぶように言った。

 

 「うっ!そ、それは……言えません!ドビーめは……主人の悪口は言えないんです!!!」

 

 叫び終えると同時に、ドビーは立ち上がり――そして自分で壁に向かって頭を打ち付けようとした。

 

 「ちょっ、おいおいおいおい!」

 

 ハリーが慌てて声を上げるより早く、ドビーの小さな足が床を蹴った。しかし次の瞬間――

 

 「い、いたぁぁぁい!!!」

 

 脇腹を抑えながら、派手に転倒した。

 

 さっき蹴られた箇所がまだ痛むのだろう。床に転がり、涙目になってジタバタするドビーの姿に、ハリーは頭を抱えた。

 

 「……いやいや、何してんの?」

 

 「ドビーは……ハリー・ポッター様にご迷惑を……ご迷惑をかけてしまったぁぁぁ!!!」

 

 「迷惑っていうか、勝手に自分で頭ぶつけようとしただろ……!」

 

 ハリーは思わず声を荒げてしまった。だがドビーはそんなこと気にも留めず、床の上でバタバタと転がり続ける。その姿はどこかコントじみているのに、彼の声には確かに“恐怖”が滲んでいた。

 

 「……主人?」

 

 ハリーは呟いた。

 

 先ほどの言葉の中に、聞き逃せない単語があったのだ。

 

 ドビーはピタリと動きを止め、ぎこちなく振り返った。

 

 「うっ……ドビーめが、一生……仕える魔法使いの一族です……!」

 

 その声は震え、恐怖と忠誠が入り混じった奇妙な響きを帯びていた。

 

 「ハリー・ポッター様……絶対に……今学期、ホグワーツに行ってはなりません……!」

 

 必死の形相で叫ぶドビーの姿に、ハリーは思わず唾を飲み込んだ。

 

 ここまで取り乱している屋敷しもべ妖精を、ハリーは見たことがない。ホグワーツにいる妖精たちは皆、黙々と掃除や料理をこなし、表情を崩すことはほとんどなかった。だが目の前のドビーはまるで別人――何かに怯え、必死に“忠告”している。

 

 「……罠って、どんな罠なんだ?」

 

 ハリーはもう一歩踏み込んで聞こうとした。だがドビーは全身を小刻みに震わせ、目を大きく見開いて悲鳴のような声を上げた。

 

 「い、言えないんですぅぅぅぅぅ!!!ドビーめは……ご主人様に逆らえないのですぅぅぅ!!!」

 

 「ちょっと、落ち着けよ!」

 

 ハリーが手を伸ばしたその瞬間、ドビーは今度はベッドの柱に頭をぶつけようとした。

 

 「やめろ!!!」

 

 ハリーは思わずその小さな身体を抱きかかえ、押しとどめる。

 

 「離してくださぁぁぁい!罰を受けなければ……ご主人様の悪口を……!!」

 

 「悪口なんて言ってないだろ!!」

 

 ハリーの叫びに、ドビーはハッとしたように口を閉じた。その目には涙がにじみ、震える肩が小刻みに上下している。

 

 「……あのね、ドビー」

 

 ハリーは少しだけ声を落とした。

 

 「僕に何かを言いたいのはわかった。でも、自分で頭ぶつけたりするなよ。脇腹だってまだ痛いんだろ?」

 

 ドビーは黙ってこくこくと頷いた。

 

 その様子を見て、ハリーの胸に妙な感情が芽生える。怒りでも呆れでもない。どこか、守ってやらなきゃという気持ちだった。

 

 「……ホグワーツに行くと危ないんだな?」

 

 「は、はい……ハリー・ポッター様を陥れる……恐ろしい罠が仕掛けられているのです……!」

 

 「でも、詳しくは言えないと」

 

 「ドビーには……ご主人様の悪口は……言えません……それが屋敷しもべ妖精の……宿命なのですぅ……!」

 

 ハリーは大きく息を吐いた。

 

 ようやく話の筋が見えてきた。ドビーはホグワーツで何かが起こると知っている。だが、主人に逆らえないため、詳しいことを口にできない。けれど、黙っていることもできず、こうして忠告しに来た――たぶん、そういうことだ。

 

 「……だったらなおさら、行くしかないじゃないか」

 

 ハリーは椅子に深く座り込み、呟いた。

 

 伏黒甚爾に鍛えられたこの身体と感覚を、ただ“夏休みの筋トレ”で終わらせるつもりはなかった。

 

 「な、なにを言ってるんですかハリー・ポッター様ぁぁぁぁぁ!!!」

 

 ドビーが絶叫した。

 

 だがハリーの心には、すでに火が灯っていた。

 

 去年、あの夜に戦ったクィレルとの死闘を思い出す。恐怖はあった。だが、それ以上に――「今度は守る側になる」という強い意志が、今も胸に残っている。

 

 「僕は……行くよ」

 

 ハリーは真っ直ぐにドビーを見つめた。

 

 「誰が何を仕掛けてこようと……僕はもう、何も守れないガキじゃない」

 

 その言葉に、ドビーの耳がぴくりと動いた。震えながらも、ハリーの瞳を見つめ返す。

 

 伏黒甚爾に叩き込まれたのは、筋力や反射神経だけじゃない。“戦う覚悟”という、もっと根本的な強さだった。

 

 「……ハリー・ポッター様は……とても……とても勇敢です……!」

 

 ドビーは涙をぽろぽろとこぼしながら言った。

 

 だが、その声には絶望と希望が入り混じっていた。

 

 「……でも、どうか……お気をつけください……ドビーは、忠告はしましたから……!」

 

 そう言って、ドビーの小さな身体が空気に溶けるように消えていった。

 

 静まり返った部屋に、夏の夜風がまた吹き込む。

 

 「……なんなんだよ、もう」

 

 ハリーは頭を抱えた。

 

 ――ホグワーツに戻れば、何かが起こる。

 

 それだけは、確かだった。

 

 

 

 

 

 

 深夜のダーズリー家――1階の居間は暗がりに包まれ、静寂をたたえていた。

 しかし、その静寂を破るように「ドカッ」「グェ!」といった妙な物音が天井の上から響いてきた。

 

 「な、なんだ……? 今の音……」

 

 ソファに座ってテレビを見ていたバーノン・ダーズリーが肩をビクリと震わせ、リモコンを取り落とした。隣にいたペチュニア・ダーズリーも顔を引きつらせ、上階――つまりハリーの部屋の天井を見上げた。

 

 「ま、まさか……またあいつが……!」

 

 バーノンの頭の中には、ここ数か月の“トラウマ”が鮮明に蘇っていた。入学当初はただの“変なガキ”だったハリー・ポッター。しかし今や彼は、息子ダドリーを地面にねじ伏せ、バーノン自身も床に転がされ、ペチュニアをも黙らせる存在になっていた。家の中で最も“恐れられる存在”――それが今のハリー・ポッターである。

 

 「なぁ、おい……また、暴れてるんじゃないか?」

 

 「しっ、しっ!声を出さないで!聞かれたらどうするの!」

 

 ペチュニアは必死に夫の口を押さえた。彼女自身、ハリーの視線を一度でも受けたことがある。まるで猛獣に睨まれたような、背筋が凍る感覚を忘れられない。

 

 「……っ!聞こえた? 今の……」

 

 二階から、また何かが転がるような音がした。

 

 「ドサッ」

 

 その瞬間、ダドリー・ダーズリーはポテトチップスの袋を手から落とし、体を硬直させた。

 

 「お、僕じゃないからな!? 僕、何もしてないからな!?」

 

 まるで過去の経験が全て蘇ったような反応だ。以前、ちょっとハリーにちょっかいを出しただけで腕を捻られ、ソファに叩きつけられたのだ。あの痛みをもう一度味わうくらいなら、たとえ深夜であろうと逃げ出した方がマシだとすら思っている。

 

 「だ、大丈夫……きっと……きっと大丈夫よ……」

 

 ペチュニアは震える声で言った。だが、その目は全く大丈夫そうには見えなかった。

 

 「何が大丈夫だってんだ!俺たちの家の中だぞ!?二階で何かが暴れてるんだぞ!?」

 

 「暴れてるって……や、やめてよ……!」

 

 「やっぱり“あいつ”なんだ……!今夜、何か“ヤバいこと”が起きてるんだ……!」

 

 バーノンは汗をかきながら、上階の天井を睨みつけた。しかし、その目には怒りよりも恐怖が色濃く浮かんでいる。

 

 「お、俺たち……なにもしてないよな?」

 

 「してないわよ!……多分」

 

 「“多分”ってなんだよ……!」

 

 再び、「ゴンッ」という鈍い音が鳴り響く。

 

 ペチュニアは思わず悲鳴を上げそうになる口を押さえ、ダドリーは体を丸めてソファの陰に潜り込んだ。

 

 「おい、誰か……様子を……」

 

 「お前が行けよ!」

 

 「いや、あいつの部屋だぞ!?僕が行くわけねぇだろ!!」

 

 家族の間で責任の押し付け合いが始まった。

 

 「ママが行けばいいじゃん!」

 

 「何言ってるのダドリー!あんた男でしょ!!」

 

 「嫌だよ!あいつに腕捻られるのもうやだぁぁ!!」

 

 ダドリーは大粒の涙を浮かべながら、まるで幼児のように首を振った。普段は威張り散らしている彼も、ハリー相手では完全に小動物である。

 

 「……バーノン、あなたが……」

 

 「いやいやいや!お前が行け!俺は仕事で疲れてるんだ!」

 

 「ふざけないで!私だって掃除と料理とあんたの面倒で疲れてるのよ!」

 

 「なにぃ!?」

 

 と、夫婦喧嘩が始まりそうになったその瞬間――

 

 「ゴトッ……」

 

 再び天井の上から音が響いた。しかも、今度は“誰かが話しているような声”が聞こえたのだ。

 

 「……ハリー・ポッター様……」

 

 「っ!!」

 

 ダーズリー一家の全員が同時に凍りついた。

 

 「な、なに今の……声……?」

 

 「……おい……おいおいおい、聞こえたか……?今、ハリーって……」

 

 バーノンの顔から血の気が引いていく。

 ハリー以外にこの家に誰かがいる? 深夜のダーズリー家で?

 

 「ま、まさか……魔法使い……」

 

 ペチュニアが震える声で呟く。

 

 「ひ、ひぃぃぃぃ……!」

 

 ダドリーは完全にパニックに陥り、ソファから転がり落ちて床にしがみついた。

 

 「俺たち……呪われるんじゃ……!?」

 

 「落ち着け!誰も……誰もまだ“呪う”なんて言ってない!」

 

 だがバーノン自身の手も、震えていた。

 

 「ま、まさか……あの忌まわしい“魔法”が……うちの中に……」

 

 もはや冷静な思考はない。家族3人が居間の片隅に集まり、小動物のように震えながら天井を見上げている。

 

 「だ、誰も来ないって……言ってたじゃない……!学校は夏休みでしょ!?」

 

 「わかるかよそんなもん!魔法使いの常識なんて知らねぇ!!!」

 

 怯えと混乱が部屋の空気を支配していた。

 

 ――ハリーが二階でドビーと対峙しているなど、知る由もない。

 

 彼らにとって魔法とは、“理解できない脅威”そのものだった。

 

 「なぁ……ダドリー……お前、見に行けよ」

 

 「いやだよ!!ママが行けよ!!」

 

 「ママは行かないわ!!」

 

 「……じゃあ……じゃんけん……」

 

 「誰がじゃんけんするかバカ!!」

 

 家族の情けないやりとりの中、再び声が聞こえた。

 

 「……ハリー・ポッター様ぁぁぁぁ!!」

 

 その甲高い声は、まるで呪いの叫びのようだった。

 

 「ぎゃあああああああ!!!」

 

 三人の悲鳴が見事に重なる。

 

 バーノンはテーブルの下に飛び込み、ペチュニアはカーテンの陰に隠れ、ダドリーはクッションを頭にかぶって泣き喚いた。

 

 「うち……終わった……」

 

 バーノンが小さく呟いた声は、まるで戦場の敗残兵のように虚ろだった。

 

 上階の会話の内容など、彼らには理解できない。

 ただ――“魔法”が起こっている。

 その一点だけが、ダーズリー一家を恐怖の底に叩き落としていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜明け前の灰色がかった空気が、ハリー・ポッターの部屋を包み込んでいた。

 その静寂を破るように、ドビーが突如、胸を張って叫んだ。

 

 「ハリー・ポッター様、ドビーめはあなた様をホグワーツに行かせない為、数々の妨害をしておりましたぁぁぁぁ!!!」

 

 あまりにも衝撃的な宣言に、ハリーは目を見開き、思わず言葉を失った。

 

 「え……そ、そうなの?……なにかな?」

 

 ハリーが恐る恐る問いかけると、ドビーは懐に手を突っ込み「こ、こちらですぅ」と情けない声を漏らしながらごそごそと探り始めた。

 

 やがて、彼の手から出てきたのは厚みのある紙の束だった。

 どこか見覚えのある封筒。色とりどりの便箋。見た瞬間、ハリーはハッとした表情になった。

 

 「それ……!」

 

 ドビーはぺこぺこと頭を下げながら両手でそれを差し出した。

 

 「お返ししますぅ〜……」

 

 「……やっぱり君だったんだね」

 

 ハリーはその束を受け取ると、震える手で一通一通、丁寧に封を切っていった。

 

 最初の手紙はロン・ウィーズリーからだった。

 「筋トレが毎日地獄だ!」

 「腹筋がちょっと割れてきたぞ!」

 「兄貴に見せたら“まぁマシになったな”って言われたんだ!」

 そんな調子で、夏休みの間もトレーニングを続けている様子が生き生きと書かれていた。

 

 次の手紙はハーマイオニー・グレンジャー。

 几帳面な文字で「毎日5時に起きてダッシュしている」と書かれ、「ついにタイムが20秒縮んだのよ!」と興奮した様子が伝わってくる。

 「お父さんに“すごいじゃないか!”って言われたの。あれ、ちょっと嬉しかったわ」

 と最後に小さく書き添えられていて、ハリーは思わず笑みを漏らした。

 

 そしてネビル・ロングボトムの手紙。

 封筒を開けた瞬間、インクが少し滲んでいて文字がぐにゃりと歪んでいた。

 「りんご握りつぶせた!!」

 短く、それだけが勢いよく書かれていた。

 ネビルらしい、ちょっと不器用で、でも全力な筆跡にハリーは吹き出してしまった。

 

 最後の手紙は再びロンからのものだった。

 8月30日にみんなで集まり、ダイアゴン横丁へ学校の教材を買いに行こうと書かれていた。

 

 「……今日じゃん!」

 

 ハリーは思わず大声を上げた。

 

 手紙の日付とカレンダーを見比べる。赤丸がつけられた“今日”の日付に顔が青ざめた。

 

 「やばい、どうするんだよ……間に合わない!」

 

 部屋を見回し、頭を抱えるハリー。そのとき、薄暗い部屋が急に明るくなった。

 

 「……え?」

 

 外から差し込む光が、一気に部屋を照らす。

 まるで強いライトが当てられたように窓辺が白く輝いていた。

 

 「おーい!ハリー!迎えに来たぞー!」

 

 元気な声が響いた。窓の外には――空を飛ぶ車。

 

 「ロン!?それにフレッドとジョージも!?」

 

 目を見開いて窓に駆け寄ると、ロン・ウィーズリーが運転席、フレッド・ウィーズリーが助手席、ジョージ・ウィーズリーが後部席に座って手を振っていた。

 

 「お前、手紙も返さねぇし、迎えに来るしかなかったんだぞ!」

 「まったく、せっかくの夏休みが台無しになるとこだったじゃないか!」

 

 双子の軽口が部屋に響く。

 

 ハリーがふとベッドの方に目を向けると、そこにはもうドビーの姿はなかった。

 まるで最初から存在していなかったかのように、気配すら消えていた。

 

 そのとき――

 

 「幸運を祈っておりますぅ……」

 

 小さく、風に乗って届く声がした。

 確かに、ドビーの声だった。

 

 ハリーはほんの一瞬、胸の奥に重たいものが落ちる感覚を覚えた。

 その忠告は、決して冗談ではなかった。だが――ホグワーツに戻らないという選択肢は、彼にはない。

 

 「よし、行こう」

 

 トランクを閉じ、杖を腰に差し込み、窓を開ける。

 

 「おい、ハリー!早くしろよ!」

 

 ロンの声に、ハリーは大きく頷いた。

 夜明けの風が顔に当たる。

 

 「じゃあ――行こう!」

 

 彼は窓から飛び出し、車へと飛び乗った。

 

 「よっしゃー!出発だ!!」

 

 ロンが叫び、フレッドとジョージが笑う。車は一気に空へと浮かび上がり、ダーズリー家の屋根を超えて飛び去った。

 

 遠ざかる家を一瞬だけ振り返り、ハリーは深く息を吸い込んだ。

 

 夏休みの鬱屈した日々が、風と共に吹き飛んでいく。

 

 ――そして、新たな学期が、再び幕を開けようとしていた。

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