ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第七話

 

 

 

 

 「はぁ……なんで勝てねぇかな〜……」

 

 俺は城の中にある、いつもの授業場所とは別の中庭にあるベンチで、タバコを吹かしながら空を見上げていた。秋の空は高く澄んでいて、少し冷たい風が頬を撫でる。季節は10月半ば、朝晩の冷え込みも本格的になってきた。

 

 マジで勝てねぇ。もちろん競馬だ。パチンコ?あんなリターンの少ないもん、わざわざやる気にならねぇ。ジジイ――アルバス・ダンブルドアは「ゆっくりできてええの」とか言って頻繁に行ってるみたいだが、アイツ本格的にパチプロなんじゃねぇか?いや、あのジジイならあり得る。

 

 昼下がりの中庭にはガキ共がわんさかいて、どうにも落ち着かねぇ。授業の合間の中休みだから仕方ないといえば仕方ないが、やたらと甲高い声と足音が響き、落ち着いて一服するどころじゃねぇ。全員一列に並んで黙って歩いてくれればいいものを、わちゃわちゃと無駄に元気だ。

 

 「先生ー!」

 

 そんな俺に甲高い声が飛んできた。

 

 「あ!フシグロ先生ー!」

 「ここタバコ吸っちゃダメっすよ先生……」

 

 近づいてきたのはハーマイオニー・グレンジャーとロン・ウィーズリーだ。ロンが俺の持つタバコを見て、眉をひそめながら指摘する。悪かったな、教育的じゃなくて。

 

 「金が消えた時はこういうふうに吸いたくなんだよ」

 

 「金……?」

 

 ロンが首をかしげる。

 

 「ガキは知らなくていい」

 

 俺は短くそう言って、タバコの火を携帯灰皿に押し込み、ぱちんと閉じた。

 

 「先生ってなんか一々カッコいいよなぁ〜!」

 

 ロンが笑いながら言う。

 

 「そうか?」

 

 「うん、なんかさ、決め台詞が多いっていうか」

 

 「知るかよ……そういやもう1人はどこ行った?」

 

 ハリー・ポッターの姿が見えない。いつもならこいつら3人でつるんでる時間だろうに。

 

 「ハリーはクィディッチの練習。もうすぐ来るんじゃないかしら?」

 

 ハーマイオニーが髪をかきあげながら言う。なるほど。そう言っているうちに、遠くの廊下からざわざわと騒がしい声が聞こえてきた。

 

 「来たぞ」

 

 グリフィンドールの赤いユニフォームに身を包んだ一団が、肩で風を切りながら中庭を横切っていく。手には箒、顔は気合い十分といった様子だ。チームの先頭を歩いているのはオリバー・ウッド、そしてその後ろにハリー・ポッターの姿も見える。

 

 そいつらが通り過ぎようとしたちょうどその時、反対側の通路から、緑のユニフォームを纏った連中が現れた。スリザリンチームだ。2つの集団は廊下の真ん中で鉢合わせた。

 

 「フリント!どこへ?」

 

 グリフィンドールのキャプテン、オリバーが声を上げる。

 

 「練習だよ」

 

 スリザリンのキャプテン、マーカス・フリントがニヤリと笑いながら返した。

 

 「こっちが先約だぞ」

 

 「これを見ろ」

 

 フリントは懐から巻物を取り出し、オリバーに突きつけた。オリバーがそれを開くと同時に、周囲の空気がピリリと張り詰める。ちょっと揉めそうな雰囲気だな。

 

 「私たちもいきましょ」

 

 「おう!」

 

 俺の隣に座っていたハーマイオニーとロンが、そそくさと立ち上がり集団へと走っていく。俺はそれを見送りながら、巻物に目を向けた。

 

 「“私セブルス・スネイプはスリザリンチームに練習の許可を与える。新人シーカーの教育の為に”……新人シーカー?」

 

 オリバーが眉をひそめると、フリントが満足げな顔で言った。

 

 「こいつだよ」

 

 フリントの背後から現れたのは金髪のガキ、ドラコ・マルフォイだった。

 

 「……なるほどな」

 

 俺はベンチに肘をつきながら、じっとその光景を眺めた。

 

 スリザリンのチームが持っている箒にふと目をやる。光沢のある黒い柄、先端の繊細な仕上がり。どう見ても安物じゃない。むしろ高級品だ。グリフィンドールが使っている箒とは明らかにレベルが違う。

 

 「随分いい箒持ってやがるな」

 

 小さく呟いた声は誰にも届かない。だが、それは事実だった。

 

 ロンが「なんだよあれ!」と叫び、ハーマイオニーが「まさか……全部()()()()2()0()0()1()!?」と驚愕するのが遠くに聞こえた。金の力ってやつは、魔法界でも強いらしい。

 

 「やれやれ……」

 

 俺は空を仰ぎ、深くため息を吐いた。こういう子供の喧嘩に首を突っ込むつもりはねぇ。だがこのまま放っておいたら間違いなく殴り合いが始まる。

 

 「フシグロ先生……」

 

 どこからともなくそんな声が飛んできた気がする。たぶんグリフィンドール側の誰かが俺に助けを求めているんだろう。

 

 「……メンドくせぇ」

 

 小さく呟き、ポケットから灰皿を取り出して仕舞い、ゆっくりと腰を上げた。

 

 グリフィンドールとスリザリン。どちらも若い血が煮えたぎるガキ共だ。クディッチという競技は、俺にとっちゃただの箒を乗り回すスポーツだが、こいつらにとっちゃプライドと名誉の戦いらしい。

 

 さて――どこまで騒ぐつもりか。

 

 俺はその場に一歩、静かに足を踏み出した。騒がしい声と、ぶつかり合う視線の渦の中へ。

 

 集団に向かって歩いていくと、ざわついていた声の中にひときわ嫌な響きが混ざった。

 

 「ウィーズリー家とは蓄えが違うんでね」

 

 ……マルフォイのガキの声だ。あの鼻につく言い方、遠くからでも分かる。

 

 「おいドラコ言いすぎだろ」

 

 俺にいち早く気づいたスリザリンのキャプテン、マーカス・フリントが慌てて制止する声が聞こえる。しかしマルフォイ本人はまだ俺に気づいていないらしく、余裕しゃくしゃくで笑ってやがる。

 

 「まったく……」

 

 俺は深くため息を吐き、歩調を少しだけ速めた。その瞬間、ハーマイオニーの声が鋭く響いた。

 

 「こっちはお金じゃなく才能で選ばれてるの。お金でなんでも解決するあなたと同じにしないで」

 

 おいおい……火に油を注ぐようなセリフをぶち込みやがったな。

 

 ぐ……金か……。

 

 ちょうど俺が今一番聞きたくねぇ単語をこのタイミングで耳にしたせいで、心の奥がちくりと痛む。先週のレースで5000ガリオン吹き飛ばしたばかりなんだよ、まったく。

 

 「あぁ?お前に誰が意見を求めた?この“穢れた血”め!」

 

 マルフォイが吐き捨てるように言い放った。

 

 穢れた血か……マグル産まれを差別する言葉だな。

 

 「あ!おい!マルフォイ!」

 「それは言い過ぎだろ……」

 

 フリントや周囲のスリザリン生も顔を引きつらせている。貴族階級だの血統主義だの、こいつらはこういうとこがめんどくせぇ。

 

 俺はそのまま歩を進め、人の輪の中にずかずかと入っていった。

 

 「“純血”が何か偉そうなこと言ってんじゃねーか」

 

 俺が低い声で言い放つと、その場の空気がピタリと止まった。

 

 ハーマイオニー、ロン、ハリー、グリフィンドールの連中、そしてマルフォイを含むスリザリンチーム全員が一斉に俺の方を振り向く。

 

 「フ、フシグロ先生……」

 

 フリントが引きつった笑いを浮かべながら、頭を下げる。

 

 「……せ、先生!これは――」

 

 言い訳を始めようとした瞬間、俺は軽く顎を上げた。

 

 「静かにしろ。誰もお前の言い訳なんざ聞いてねぇ」

 

 その声だけで、集団のざわつきが完全に消えた。空気が重くなるのがはっきりと分かる。

 

 俺はゆっくりと視線をマルフォイに向けた。あのガキはまだ状況を完全には理解していないのか、少しだけ強がったような顔をしている。だが、その目の奥に微かな怯えがあるのは、ちゃんと見て取れた。

 

 「マルフォイ、今お前……なんて言った?」

 

 俺の声は低く、静かだった。怒鳴る必要なんてねぇ。俺が本気でキレた時は、静かな方がよく効く。

 

 マルフォイの喉がこくりと動いた。

 

 「……っ……」

 

 「言葉が出ねぇのか?もう一回言ってみろよ。“穢れた血”ってやつをな」

 

 ゆっくり一歩踏み出すと、周囲の空気が張り詰める。マルフォイの背後にいたスリザリンの連中も慌てて距離をとった。

 

 「お、おい先生……!」と誰かが声をあげかけたが、ロンに肘をつつかれて黙った。

 

 「俺はな、血とか家柄とかそういうもんに興味ねぇ。魔法使いだろうがマグルだろうが関係ねぇ。立って、殴って、耐えて、勝てるかどうかだけだ」

 

 俺はマルフォイの目を真っ直ぐに睨みつけた。

 

 「“穢れた血”とか言ったな。だったら俺はどうなる?」

 

 俺は一歩踏み込み、ガキの目の前まで詰めた。マルフォイがわずかに肩を震わせたのがわかる。

 

 「俺は魔法なんざ一発も使えねぇ“スクイブ”()だぞ」

 

 その言葉に、周囲が一瞬ざわめいた。ハリー達はもちろん、スリザリンの連中も一瞬息を呑んだようだった。

 

 「俺は杖もねぇし、呪文も使えねぇ。けどな……」

 

 バキ、と拳を握る音が響いた。

 

 「お前が何百ガリオンの箒を持ってようが、どれだけ魔法が使えようが、俺が本気で殴れば“1秒”で終わる」

 

 空気が凍った。ハーマイオニーでさえ息を呑んでいる。ロンは「ヤバ……」と呟き、ハリーは苦笑いすら浮かべていた。

 

 マルフォイは顔を真っ青にして後ずさる。

 

 「ひっ……」

 

 「覚えとけ。魔法の世界がどうだろうが、世の中には魔法が通じねぇやつもいる。魔法が使えるってだけで恵まれてると思うな」

 

 俺はふっと息を吐いてその場を離れた。

 

 「……先生」

 

 フリントが何か言いかけたが、俺は振り返らずに言った。

 

 「ガキ同士の喧嘩くらい自分で片付けろ。二度とくだらねぇ差別を口にするな。……聞こえたな?全員」

 

 「……はい!」

 

 両チームの声が重なった。

 

 俺は肩を回しながらその場を離れる。見上げた空には、さっきよりも冷たい風が吹いていた。

 

 「まったく……競馬で負けた時にガキの説教とか……ついてねぇ日だ」

 

 俺はぼやきながら、ポケットからタバコを取り出した。吸う場所は選ばねぇとな……と、思いながら。

 

 俺はそのままの足で校長室に向かった。

 

 廊下を歩きながら、さっきのマルフォイの面を思い出す。あの、自分が“選ばれた側”だと信じきって疑わねぇ顔。虫酸が走る。

 

 不死鳥の像の前に立ち、くちばしを軽く小突く。螺旋階段がギギギと音を立てながら上がっていき、俺はそのまま上へ登った。

 

 「おいジジイ、ドラコ・マルフォイがハーマイオニーを穢れた血呼ばわりしてたぞ」

 

 ズカズカと中に入る。

 

 「ほぉ……そうかそうか……」

 

 アルバス・ダンブルドアはいつもの調子で、全く動じる気配もなく茶を啜っていた。

 

 「図書室でそれなりに本は読んでるからな、“穢れた血”がどういう意味かくらいは分かる。魔法界も呪術界と同じだな、結局“恵まれた奴ら”が踏ん反り返ってんだ」

 

 俺は肩を鳴らし、机の脇に寄りかかった。

 

 「“恵まれた奴ら”……か」

 

 ダンブルドアはゆっくりとティーカップを置き、俺の顔を見た。その目は静かで、まるで全部分かってるような顔だ。

 

 「血統を誇る者、力を誇る者……そういう連中は、いつの時代にもおるものじゃ。マルフォイ家もその典型じゃな」

 

 「ふん……知ったこっちゃねぇ」

 

 俺は天井を仰いで鼻で笑った。

 

 「恵まれた環境に生まれて、好き放題魔法使って、家柄も力もある……そりゃ、いい気分なんだろうな。生まれた瞬間から勝ち組だ」

 

 その言葉には、自分でも気づいてる苛立ちがにじんでいた。怒ってるんじゃねぇ。軽蔑してるんだ。

 

 「……昔を思い出した」

 

 俺はぼそっと呟く。

 

 禪院家の冷たい部屋。術式を持たなかったってだけで、呪霊の巣に放り込まれた。幼い俺を、餌でも見るみてぇな目で見てた連中。術式を持ってるってだけで“偉い”顔をしてた奴ら。

 

 「ちょっと力を持ってるってだけで、ああやって踏ん反り返る。くだらねぇよ」

 

 「……フシグロ君」

 

 ジジイの声がやけに静かに響く。

 

 「君がその言葉を吐くとき、瞳が鋭くなる。まるで、何かを見ているようじゃな」

 

 「昔の話だよ。どうでもいい」

 

 俺は軽く鼻を鳴らし、ソファの背に肘を乗せた。

 

 「マルフォイのガキも結局、血筋がどうとかって思い込まされてるだけだ。恵まれた側の奴ってのは、そうやって“当たり前”を顔に貼り付けて生きてんだろ」

 

 「……そして、恵まれなかった側の者が、そういう“当たり前”をもっとも嫌悪する」

 

 「嫌悪じゃねぇ。ムカつくだけだ」

 

 俺は視線を横に流した。

 

 「恵まれてる奴らが上から目線で他人を踏みつけて、それで“正しい”って思ってんのが虫唾が走るんだよ。俺はアイツらの思想に怒ってるわけじゃねぇ。アイツらの“ツラ”がムカつくだけだ」

 

 ダンブルドアは目を細めた。

 

 「……なるほどのう」

 

 「ま、ジジイには分かんねぇかもしれねぇな」

 

 「いや、分かるさ。わしも長く生きておる。魔法界がどれほど“血”に縛られてきたか、嫌というほど見てきた」

 

 その口調は穏やかだったが、言葉の奥に重いものが滲んでいた。

 

 「恵まれた者の中にも、そこから抜け出そうとする者はおる。しかし、それは少数派じゃ。多くは自分が持つ特権を当然のものと信じ、他者を見下す」

 

 「だったら俺が黙らせてやるよ」

 

 俺が吐き捨てると、ジジイは吹き出しそうな顔をして笑った。

 

 「君らしい解決法じゃな。だが、それは彼らにとって最大の“脅威”でもある」

 

 「脅威?」

 

 「魔法を使えずとも、魔法使いより強い存在。そういう者は、魔法界にとって“異端”であり、“壊す者”じゃ」

 

 「だから嫌われるってわけか」

 

 「そうじゃな。マルフォイ家のような純血主義者にとって、君は特に気に食わぬ存在だろう」

 

 俺は鼻で笑った。

 

 「別に好かれたくもねぇ」

 

 「わしも、そう思う君のことが好きじゃよ」

 

 「……やめろ気持ち悪ぃな」

 

 軽く舌打ちして立ち上がる。

 

 「とにかく、あのガキはそのうち自分の立場を思い知るだろうさ。俺が何かしなくてもな」

 

 「あるいは、君が何かするかもしれんがな」

 

 ジジイが愉快そうに笑った。

 

 「勝手に言ってろ。俺はもう行く」

 

 階段を降り、冷たい廊下に出る。

 

 石造りの空間は昼間よりも静かで、天井の高い空間に足音だけが響いた。

 

 「“恵まれた奴ら”か……」

 

 俺は小さく呟く。

 

 「まぁ、どうでもいい。ムカついたら殴るだけだ」

 

 ふっと笑い、ポケットからタバコを取り出した。火をつけながら、俺は城を歩き出した。

 

 「ん?」

 

 まただ――この鼻の奥を刺激する、あの独特なドブ臭。下水道から吹き上がってくるような悪臭に混じって、かすかに“何か這いずるような音”が聞こえる。

 

 「なんだー?」

 

 俺は眉間を揉みながら顔をしかめた。……そういやこのこと、ダンブルドアのジジイに報告すんの忘れてたな。

 

 まぁいい。どうせ屋敷しもべ妖精が掃除サボってんだろ。あいつらは基本的に優秀だが、たまに妙なサボり方するからな。

 

 「フ、フシグロ先生……」

 

 突然、背後から掠れた声が聞こえた。

 

 「あ? あぁ、フィルチの旦那。どうした?」

 

 慌てて口に咥えてたタバコを指で摘まみ、携帯灰皿に押し込んで消す。こいつに見つかるのはマズい。というか、あの妙にうるさい猫にもだ。

 

 アーガス・フィルチは、俺と同じ“スクイブ”だ。魔法界じゃ、魔法族に生まれながら魔法を使えない人間をそう呼んで、下に見やがる。くだらねぇ差別だ。

 

 ただ――こいつの場合は、魔法を使えないだけで魔力はあるタイプ。俺みたいな天与呪縛持ちとは違う。そもそも魔法と呪術じゃ体系が違うから一緒くたにはできねぇけどな。

 

 「わ、私の猫を見ませんでしたか?」

 

 「猫? ミセス・ノリスか? 見なかったな」

 

 フィルチは青ざめた顔であたりをキョロキョロと見回している。いつもの不気味な落ち着きがねぇ。

 

 「おい旦那、どうした? いつもなら“廊下を走るな”って小言の一つも言うだろ」

 

 「ミセス・ノリスが……いないんです。さっきまで玄関ホールにいたはずなのに、跡形もなく……それに、この匂い……あなたも気づいてますよね……?」

 

 ……こいつ、案外鼻が利くんだな。

 

 「気のせいじゃねぇよ。確かにドブ臭い」

 

 俺は鼻を鳴らして匂いの方向を探る。悪臭は石造りの床下から、じわりじわりと広がっている。下水道……いや、それだけじゃねぇな。もっと“生き物”っぽい臭いが混ざってる。

 

 「どこで消えた?」

 

 「グリフィンドール塔へ続く廊下の途中です。そこから先、匂いも強くなって……」

 

 「案内しろ」

 

 俺はタバコをポケットに突っ込み、フィルチの背中を軽く小突いた。

 

 「ひっ……! わ、分かりました!」

 

 こいつ、昔から俺をちょっと怖がってる節がある。まぁ、俺は教師だが魔法使いじゃねぇ。魔法のない世界で生き抜いてきた人間にとって、この世界の連中は甘すぎる。

 

 俺たちは無言で廊下を進んだ。昼前の時間、授業の合間なのか、生徒の声が遠くで反響している。騒がしいのに、なぜかこの廊下だけがひどく静かだった。

 

 「なぁ旦那、この匂い……何か知ってるか?」

 

 「い、いえ……ただ、こんな匂いは初めてです。長年ホグワーツで働いてきましたが、こんなに生臭いような……嫌な臭いは……」

 

 フィルチの声が震えている。生臭い――その表現は的を射ていた。鼻の奥に残るのは、まるで腐った獣の肉と下水が混ざったような悪臭。

 

 「……止まれ」

 

 角を曲がる手前、俺は腕を伸ばしてフィルチを止めた。

 

 「な、なんですか?」

 

 「聞こえねぇか?」

 

 シン……と静まり返った廊下の奥から、ズズ……ズル……という音が聞こえる。這いずるような、地面を擦るような不快な音だ。

 

 俺はゆっくりと壁際に身を寄せ、音のする方に目を向けた。

 

 薄暗い廊下の奥――床に、黒い影のようなものが広がっている。

 

 「……なんだ、ありゃあ?」

 

 「ミ、ミセス・ノリス……!?」

 

 フィルチが息を呑む。その視線の先には、石造りの廊下の突き当たり、壁に張り付くように小さな猫の姿があった。目を見開いたまま、まるで石像みてぇに固まってる。

 

 「おい……あの猫、生きてるのか?」

 

 「ミセス・ノリス!!」

 

 フィルチが駆け寄ろうとするのを、俺は腕を伸ばして止めた。

 

 「落ち着け旦那、何かおかしい」

 

 猫の周囲には水たまりのような液体が広がっていた。だが、ただの水じゃねぇ。鼻を突く腐臭と、生暖かい空気。まるで地下のどぶ川を煮詰めたような――気持ちの悪い臭いが濃くなる。

 

 「……マジで嫌な感じがするな」

 

 俺は地面に手をつき、目を細める。空気の流れ、匂い、音。すべてが“異常”を告げていた。

 

 「先生……あ、あれを……」

 

 フィルチの震える指先の先。壁の高い位置に、何かが書かれている。

 

 《秘密の部屋は開かれたり、継承者の敵よ気をつけよ》

 

 そして、その下には吊るされた猫――ミセス・ノリス。

 

 「……はぁ?」

 

 俺は額に手を当てた。

 

 「おい旦那、あんたがやったんじゃねぇよな」

 

 「やるわけないでしょう!!」

 

 「冗談だよ。落ち着け」

 

 嫌な予感が胸の奥で渦を巻く。這いずる音も今は止み、静寂だけが残っている。

 

 「……フィルチ、この場から離れるな。俺が周囲を調べる」

 

 「わ、分かりました!」

 

 俺はゆっくりと猫と壁の間に歩み寄った。鼻を刺す悪臭。石造りの床に薄っすらと広がるぬめった液体。

 

 「……あぁ、これは普通じゃねぇな」

 

 禪院家で呪霊部屋に放り込まれたガキの頃から、こういう“空気”には嫌でも慣れてる。俺の第六感がハッキリと告げていた――これは“何か”がこの城にいる。

 

 「面倒くせぇことになりそうだな……」

 

 俺は目を細め、廊下の奥――闇が揺れるその先を睨んだ。

 

 「……ジジイに報告すんの、やっぱ後回しにするんじゃなかったな」

 

 俺は低く呟き、鼻を鳴らした。

 

 「……旦那、すまんがダンブルドアを呼んできてくれるか」

 

 「わ、私の猫……!」

 

 「俺が見てる。早く行け」

 

 フィルチの旦那は顔を歪め、名残惜しそうにミセス・ノリスを一瞥すると、靴音を鳴らして走り去った。

 

 俺は一人残され、改めて廊下を見渡す。

 

 ここはグリフィンドール寮のすぐ近く。昼前だというのに、この辺りは妙に静かだった。普段なら生徒が大勢通り過ぎる時間帯だ。だが今は、空気そのものが淀んでいるような不自然な静けさに包まれている。

 

 床は薄汚い水で満たされ、石畳の継ぎ目からぬめった液体が滲み出している。鼻の奥を刺す悪臭は強烈で、ただの汚水ではないとすぐに分かった。

 

 「……これは屋敷しもべ妖精の掃除サボりなんかじゃねぇな」

 

 しゃがみ込み、床をなぞる。靴跡、足跡、どれもない。液体の上には不自然なほど何も残っていなかった。まるで“何か”が、空気ごと滑るように通った跡のようだった。

 

 そんなことを考えていると、やがて廊下の奥から複数の足音が近づいてきた。

 

 「フィルチの旦那……随分たくさん連れてきたな」

 

 俺は立ち上がり、音のする方向へ振り向いた。

 

 廊下の向こうからフィルチを先頭に、アルバス・ダンブルドア、ミネルバ・マクゴナガル、セブルス・スネイプ、そして一番後ろで無駄にキラキラしているギルデロイ・ロックハートが現れた。場違いな男は、いつも通り“主役の顔”で大げさな歩き方をしてやがる。

 

 「フシグロ君……これは」

 

 ダンブルドアがミセス・ノリスの吊るされた姿と、壁に赤く刻まれた文字を見上げ、低く呟いた。

 

 「“秘密の部屋は開かれたり、継承者の敵よ気をつけよ”……なんと悍ましい」

 

 マクゴナガルは小さな悲鳴のような息を漏らし、口元を押さえる。緊張と嫌悪が空気をさらに重くした。

 

 「なんということ……まさか、また……」

 

 「皆さん、落ち着いてください!」

 

 ロックハートが一歩前に出て、金色のマントを大げさに翻した。

 

 「大丈夫です、私ギルデロイ・ロックハートがいれば! このような事件――朝飯前ですよ!」

 

 「黙れ」

 

 俺の声は静かだが、低く、よく響いた。

 

 「……え?」

 

 「黙ってろ。マントがうるせぇ」

 

 ロックハートはビクリと肩を震わせ、少し下がった。あぁ、静かになった。

 

 「フシグロ先生、あなたがやったのか?」

 

 スネイプが鋭い目で俺を射抜く。眉の動きひとつで“疑ってる”と分かる。

 

 「なんでだよ」

 

 俺が呆れた声を返すと、マクゴナガルが即座に口を挟んだ。

 

 「セブルス、それはさすがに無礼よ。フシグロ先生がこんなことをする理由があるとでも?」

 

 「理由などなくとも、彼は現場に最初にいた」

 

 「だったら俺がわざわざ吊るして、そのまま突っ立って待ってたってか?」

 

 スネイプの目が細まる。こいつ、冗談も通じねぇタイプだ。

 

 「フシグロ君」

 

 ダンブルドアが静かに口を開く。全員の空気が少しだけ落ち着いた。

 

 「君が最初にここを発見したと聞いたが、間違いないかね?」

 

 「あぁ。フィルチの旦那と一緒だった。こいつの猫が、こうなってた」

 

 「ミセス・ノリスが……!!」

 

 フィルチが小刻みに震えながら声を上げる。その目は恐怖と怒りで潤んでいた。

 

 「旦那、落ち着け。今近づくのは危険だ」

 

 俺は視線を壁に戻す。悪臭はなおも強く漂い、ぬめった水気が床を這っていた。這いずる音はもう聞こえないが――空気の淀みが残っている。

 

 「これは……本当に血なのかしら」

 

 マクゴナガルが震える声で呟いた。

 

 スネイプが杖を取り出し、壁の赤黒い文字を照らす。液体はもう乾き始めているが、生臭さがはっきりと残っている。

 

 「魔力反応はない。ただの血液だ」

 

 「誰の血かは?」

 

 「……人間のものではないな」

 

 「やっぱりな」

 

 俺は腕を組み、鼻を鳴らした。この臭いは“生き物”の血だ。人間の血とは違う、もっと濃い腐臭と、湿った生命の臭いが混じってる。

 

 「フシグロ君、何か感じたかね?」

 

 「気配はあった。這いずるような動き、湿った空気、臭い……何かが通ったのは確かだ。しかも、でかい」

 

 「何か、とは?」

 

 「さぁな。だが、人間じゃない」

 

 ロックハートがすっとんきょうな声を上げる。

 

 「に、人間じゃない……!? そ、それは、まさか――」

 

 「黙れって言ったろ」

 

 ロックハートの口がパクパクと金魚みたいに動き、音にならなかった。ようやく少しは役に立ったな。

 

 「フシグロ君の感知能力は信頼できる」

 

 ダンブルドアが壁の文字を見上げたまま言った。

 

 「この事件、軽視できぬ。まずは警戒体制を強化しよう。屋敷しもべ妖精にも廊下の巡回と掃除を徹底させ、生徒への不要な情報拡散は避けるべきじゃ」

 

 「了解」

 

 「フシグロ先生」

 

 スネイプが鋭い視線を送ってきた。

 

 「……今後同様のことが起きたら、必ず即座に報告を」

 

 「言われなくてもそうする」

 

 癪だが、これはこいつに同意だ。

 

 俺は壁と猫を見上げた。血のような赤黒い文字、吊るされた猫、腐った匂い――そして、足跡ひとつ残さずに消えた何か。

 

 「面倒なことになりやがった」

 

 俺はぼそりと呟き、奥歯を噛みしめた。こういう“得体の知れないもの”は一番厄介だ。殴るにも、姿がなきゃ話にならねぇ。

 

 「……あのジジイ、どこまで気づいてるかね」

 

 目の端で、血文字を見上げるダンブルドアをちらりと見る。あの老獪な顔に浮かぶ笑みは、どこか“何かを知っている”笑みだった。

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