ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
時は少し遡り9月下旬。
とある純血の名家に仕える屋敷しもべ妖精――ドビーは、己の小さな身体を震わせながら、ホグワーツの夜の廊下をすばやく駆け抜けていた。
主に逆らい、禁じられた行動に踏み切っていることは重々承知している。それでも彼はここに来た。ハリー・ポッターを守るために。
「ハリー・ポッター様……危険ですぅ……ホグワーツは、もう安全ではありませんぅぅ……」
震える声でそう呟く。彼が潜伏していることを知る者はいない。屋敷しもべ妖精の気配を察知できる魔法使いなど、そうそういるものではない。彼らは空間を縫うように移動し、影に紛れ、誰にも見つからずに歩ける存在だ。
――本来ならば。
「……おい」
ドビーの耳がピクンと跳ねた。
低く、どこか乾いた声が廊下の奥から響いた。
「……だ、誰ですかぁぁぁ……!?」
慌てて振り返るが、誰もいない。視線を左右に走らせても、夜の廊下は月光とランプの淡い灯りしか映していない。
「き、気のせい……ドビー、落ち着くのです……見つかるはずが……」
その時、背後から“音”がした。
ドン、と重い足音――ではない。
スッ……と、まるで影がすべるように近づく音。
「そこだろ」
暗がりから姿を現したのは黒いシャツと白いワイドパンツを身に纏った男――伏黒甚爾だった。
「う、うわあああああああああああああああっ!!!」
ドビーは両耳をバタバタと振って尻もちをついた。目をむき、必死に後ずさる。
「……なんでバレたのですかぁぁぁぁ!!!」
「お前、気配が薄いとはいえ……そこらの魔法使いほどじゃねぇよ」
甚爾は手をポケットに突っ込み、ぼそりと呟く。
「空気の揺れと、わずかな足音。あと……匂いな。誰もいない廊下で鼻が利けば、そりゃあバレる」
「匂い!? 足音!? そんな、そんな馬鹿な……」
ドビーは今にも泣き出しそうな声をあげる。気配遮断は屋敷しもべ妖精の特技。これを見破れる人間など――少なくともホグワーツにはいないはずだった。
「お前、こそこそ何してる?」
甚爾が一歩近づいた瞬間、ドビーは「ひぃっ!」と情けない悲鳴を上げた。
「ひ、人間じゃない……こ、この人間はおかしいぃぃぃ……!」
「うるせぇ。おかしいのはお前の顔だ」
「ひどいぃぃぃ!」
「いいから答えろ。何してる?」
甚爾の目は細く、鋭い。圧を感じてドビーはブルブルと震え、やがて蚊の鳴くような声で答えた。
「ド、ドビーは……ハリー・ポッター様を……守るために来たのですぅ……」
「ハリー?」
甚爾の眉がピクリと動く。
「は、はいぃぃ……! ハリー・ポッター様は……ホグワーツに来ては……いけないのですぅぅぅ!!」
ドビーの顔は真剣そのものだった。普段なら滑稽な姿かもしれないが、今のドビーは必死だった。
「なぜだ?」
「そ、それは……言えませんぅぅぅぅ……!! ドビーは主人の悪口を言えないぃぃぃぃぃ!!!」
叫び終えると同時に、自分で自分の頭を柱に打ちつけようとした。
「おい、やめろ馬鹿」
甚爾は素早くその小さな手首を掴んで止めた。骨が折れそうなほど華奢な手。だがその力は、屋敷しもべ妖精特有の魔法によって意外と侮れない。
それでも、甚爾の握力の前ではまるで意味をなさなかった。
「ひぃぃぃっ!? な、なんて力……!?」
「うるせぇ」
ドビーの動きを封じながら、甚爾は低い声で言う。
「……つまり、お前は“ホグワーツで何かが起きる”って分かってて、勝手に動いてるってことだな」
「ぅぅぅ……はいぃぃ……」
「そしてそれを俺に話せねぇと」
「はいぃぃぃぃぃ……」
ドビーの目には涙が浮かんでいた。だが、その中には揺るぎない意思もある。
「……ふん」
甚爾は手を離し、ひとつ鼻を鳴らした。
「まぁいい。好きにしろ。ただし……俺の邪魔だけはするな。いいな?」
「は、はいぃぃぃ……」
「あと、勝手に夜歩き回って誰かに見つかるなよ。俺は面倒事はごめんだ」
「……っ!」
ドビーはぶんぶんと首を縦に振った。
――この夜、屋敷しもべ妖精は理解した。
自分を最初に見つけたこの男は、他の魔法使いとはまるで違う。
恐ろしく、冷たく、そして……妙に頼りになる。
それが、伏黒甚爾とドビーの最初の接触だった。
まだ“怪物”も、“秘密の部屋”も動き出してはいない。だが、この邂逅は、後に訪れる嵐の“序章”であった。
そうしてドビーは伏黒甚爾に半ば……いや、完全に強制的に従わされることとなった。
「日本に行ってこれを買ってこい」
そう言って甚爾が差し出したのは、雑に折り畳まれた1枚のメモと1万円札1枚。
「釣りはお前にくれてやる。それと、お菓子でも好きなやつ買って食っていい。メモの中身は絶対に忘れるなよ。1文字でも間違えたら……分かるな?」
その静かな声音と、据わった目つきにドビーの背筋はビシッと伸びた。まるで蛇に睨まれたカエルのような顔で震え、差し出されたものをおそるおそる受け取る。
「は、はいぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
拒否するという選択肢は、最初から存在していなかった。
「行ってこい」
その一言で、ドビーはパッとその場から姿を消した。
屋敷しもべ妖精特有の転移は、魔法省の監視にも引っかからない。普通の魔法使いでは不可能な移動だ。だからこそ、甚爾にとっては便利な“使い走り”だった。
甚爾は煙草を取り出して火をつけ、煙をゆっくり吐き出した。
「……あの足、マジで便利だな」
――一方その頃。
ドビーは夜の日本、魔法族専用の裏通りに姿を現していた。
「ひぃぃ……ニッポン……来てしまいましたぁぁぁ……」
表の人間社会とは違い、ここは“魔法族専用”のコンビニエンスストアが立ち並ぶ裏路地だ。無魔法族(マグル)には認識できないように強力な秘匿魔法がかかっており、建物全体が空気のように霞んでいる。
屋敷しもべ妖精のドビーにとって、この場所は人目を気にせず行動できる“聖域”のようなものだった。
「メモ、メモ……け、競馬しんぶん……じょうほうざっし……」
震える声で甚爾の書いたメモを読み上げる。文字は読めないが、妖精特有の感覚で“目的の物”はしっかり分かる。
ガラス扉に手を伸ばすと、ドビーの姿は認識結界の中に吸い込まれるように消え、店内へと入った。
中には魔法族らしい客たちが何人かいた。魔法省の役人のような恰好をした中年、杖を帽子に突っ込んだ若者、魔法動物の飼育士らしき女性……。
しかし彼らの誰もドビーに注意を払わない。屋敷しもべ妖精が買い物をしている姿など、この世界ではそう珍しいことではなかった。
「し、新聞……これ……と、これ……と……」
新聞コーナーの棚には、国内競馬専門誌の他、魔法界向けのレース情報紙まで並んでいる。甚爾の指示に従い、ドビーは震える手で何紙も抱え込んだ。自分の身体よりも大きな新聞を小さな腕で支える姿はまるでバランスをとるハムスターのようだった。
「お、お菓子……も、いいって……いってた……」
棚を見渡すと、ポテトチップス、チョコバー、魔法界限定の蛙チョコの日本版まである。ドビーはじぃっとポテトチップスを見つめ、震える手で一袋を手に取った。
「ドビー……がんばる……ご褒美……」
決意の表情をして、カウンターに向かう。
「いらっしゃいませぇ〜」
受付にいたのは、魔法族専用コンビニで働く店員の魔女。ドビーが新聞とお菓子と1万円札をカウンターに置くと、魔女は慣れた手つきで品物をスキャンし、合計金額を告げた。
「は、はいぃぃ……」
ドビーはプルプルしながら硬貨とレシートを受け取り、商品を抱えなおす。
「ありがとうねぇ、ドビーちゃん」
「ひぃぃぃ!? な、なぜ名前を!?」
「私ね、開心術が得意なのよ〜だから君が考えてることなんてまるっと全部お見通しよ?気をつけて帰るのよ」
「は、はぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
慌ててお辞儀をし、ドビーは姿を消した。
――再び、ホグワーツ。
ドビーは甚爾の部屋の隅にポンッと姿を現した。肩で息をしながら新聞と雑誌とお菓子を差し出す。
「ふ、ふしぐろせんせぇぇぇぇ……も、持ってきましたぁぁぁ……!!」
「おう」
甚爾は煙草を咥えたまま、新聞を受け取りパラパラと中身を確認する。
「お菓子も買ったか?」
「は、はいぃぃぃ……ポテトチップス……買いましたぁぁぁ……」
「よし、好きに食え」
「ふしぐろ先生……や、優しいぃぃぃぃ!!」
感極まったドビーはその場で泣き崩れそうになっていた。
「あと釣りは?」
「もちろんなのですぅぅぅ!!!」
ドビーはじゃらじゃらと硬貨を差し出した。
甚爾は鼻を鳴らした。
「……案外使えるな、お前」
「ふしぐろ先生に褒められたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
涙目で跳ね回るドビーを横目に、甚爾は新聞に視線を落とす。
馬名、血統、勝率、過去の走破タイム……情報が頭にすんなり入ってくる。
「……ふっ、これで次こそ当てる」
この日から、ドビーは正式に
ドビーにとっては“怖いけど逆らえない”強制任務。
甚爾にとっては“便利で金のかからない”完璧な情報ルート。
奇妙な共生関係が、こうして始まったのだった。
しかしドビーは、本来の
――ハリー・ポッターの守護である。
当初、彼の役目は「ハリーをホグワーツに近づけさせないこと」だった。夏休みの間、ありとあらゆる妨害を仕掛けたのもそのためだった。
だが、ハリーによる“渾身の回し蹴り”によって(もちろん、正確には事故のようなものだったが)、ドビーの心の奥底にあった何かが目を覚ました。
ハリーを縛るのではなく――守る。
それがドビー自身の意思となった。
以降、彼は影からハリーを見守り、必要なときだけ密かに手を差し伸べることを選んだ。
なぜドビーがそこまでしてハリーを守ろうとするのか。
その理由は、かつての《あの時代》に遡る。
ヴォルデモートが魔法界を支配していた頃――恐怖と狂気に支配された暗黒の時代。
屋敷しもべ妖精たちは、人権など存在しないも同然の扱いを受けていた。
「害虫」――それが多くの純血の魔法族が、妖精たちに向ける呼び名だった。
主の機嫌一つで殴られ、罵倒され、時に命を奪われることさえあった。妖精は自らの意志で動くことを許されず、“道具”としてしか生きる術がなかった。
だが――あの日。
ヴォルデモートが赤ん坊のハリー・ポッターによって敗北したあの日から、世界は少しだけ変わった。
純血主義者たちが恐れ、怯えたその名前。
ハリー・ポッター。
その名が魔法界に希望をもたらしたのは、人間だけではない。屋敷しもべ妖精たちもまた、彼の存在によって“救い”を感じたのだ。
「もしかしたら、自分たちにも未来があるかもしれない」
多くの妖精がそう信じた。
もちろん、それで待遇が大きく変わったわけではない。魔法界の差別は今なお根強く残っている。だが、彼らの心には“希望”が芽生えた。
――そしてドビーにとって、それは信仰にも近いものになっていた。
彼の仕える家は、生粋の純血主義者だ。魔法界でも最も差別的な思想を持つ家の一つ。
その屋敷で、幼い頃から彼はずっと虐げられてきた。
冷たい床で夜を過ごし、些細な失敗で拷問まがいの罰を受け、それでも笑うことを禁じられ、誇りを持つことすら許されなかった。
そんな世界の中で、「ハリー・ポッターがヴォルデモートを倒した」という知らせだけが、彼の心を照らした。
「ヒーロー」という言葉を、ドビーは知らない。
でも、彼にとってハリーは
――だからこそ。
ホグワーツに危険が迫ると知ったとき、ドビーは迷わず家を抜け出した。
主の命令に背けば、自分がどうなるかは分かっている。
それでも彼は、ハリー・ポッターを守るために、ホグワーツへと向かったのだ。
「ドビーは……絶対に……ハリー・ポッター様を……守るのですぅ……」
夜の廊下を、ドビーは誰にも気づかれぬようすり抜けていく。
小さな影が、闇の中を音もなく駆け抜ける。
頭の中に思い浮かぶのは、あの少年の笑顔。
――大広間で誰とでも笑い、偏見なく人と接するハリー・ポッターの姿。
――図書室で真剣に勉強している姿。
――仲間とふざけあっている姿。
純血でも混血でも、穢れた血でも関係なく、ハリーは分け隔てなく向き合う。
それが、ドビーにはたまらなくまぶしかった。
自分とは違う。けれど、だからこそ――守りたいと、心の底から思えた。
「ドビーは……ドビーは……あの方のために……できることをするのですぅ……!」
小さな拳を握る。
その瞳には、先ほど甚爾に怯えていたときの涙とは違う、確かな決意が宿っていた。
……ただ、ドビーの
彼は戦士ではなく、ただの屋敷しもべ妖精だ。
強力な魔法は使えるが、主を裏切ることはできない。ホグワーツの警備体制を完全に把握しているわけでもない。
――だから彼は、影に徹する。
目立たず、誰にも気づかれず、ただ“危険”を察知し、“少しだけ”先回りして小さな手を伸ばす。
「フシグロ先生も……怖いですけどぉ……でも……ハリー・ポッター様のためですぅ……」
ドビーは廊下の影に身を隠しながら、小さく息を吸い込んだ。
甚爾の命令もある。
それを無視することも、彼にはできない。
だが――それでも。
「ドビーは……あの方を……見守るのですぅ……」
夜のホグワーツの廊下に、ドビーの小さな決意が溶けていった。
その姿を知る者は、この時点では誰もいない。
ただ、暗い闇の中で、確かに1人の妖精が、自分の信じる“光”のために動き始めていたのだった。