ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第十三話

 

 

 

 

 1992年11月15日、日曜日……ホグワーツの休息日。生徒達は休み、教職員も休みの日だ。週6日で仕事して勉強して、日曜日だけ唯一の休み。ガキ共も中々重労働だな。

 

 だが俺に休みはない。いや、厳密に言えば俺とダンブルドアに休みはない。

 

 日曜日、それは競馬がある日だ。もちろん日曜日以外にも競馬はある。だが平日にまで競馬に行くほど俺たちは落ちぶれちゃいない。

 

 「ダンブルドア……今日も頼む」

 

 「ホッホッホ、いいのじゃよ。わしも1週間の唯一の楽しみじゃからのぉ」

 

 1年前の有馬記念からコイツは競馬他ギャンブルに熱狂している。コイツの運の良さには腹立たしいが、ジジイがいなければ俺は競馬ができない。まぁ持ちつ持たれつの関係だ。そう信じてる。

 

 「では行こうかの」

 

 ダンブルドアが手を差し出す。

 

 それを掴んだ瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。魔法族の転移術――《姿くらまし》とやらだ。こればかりは便利なもんだなと素直に思う。呪力じゃこういうのはできねぇ。俺の天与呪縛がどれほど優れていても、空間転移なんて芸当は不可能だ。

 

 次に目を開けたとき、俺たちは日本の競馬場の一角に立っていた。冬の空気が少し冷たく、朝の空気にほんのり芝生の匂いが混じっている。競馬場の独特なざわめきが心地いい。俺にとってここは“戦場”だ。

 

 「ふぅ……やっぱこっちの空気はいいな」

 

 「ホッホッホ、まるで帰省したような顔をしとるのぉ」

 

 「黙れ」

 

 俺はポケットから新聞とメモを取り出した。これはただの新聞じゃない。血と汗と呪力(気持ち)と怨念が詰まった“戦略書”だ。昨日の夜、寝る間も惜しんで予想を詰めた。馬場の状態、調教師のコメント、前走タイム、血統、馬体重、脚質、展開予測――全部頭に叩き込んである。

 

 ジジイはというと、いつものように飄々と手ぶらで立っている。あのくそったれは何の準備もしないくせに、いつも当てやがる。理屈じゃねぇ、感で当てやがる。俺はそんな奴がこの世で一番腹立つ。

 

 「さて、今日はどうするんじゃ?」

 

 「俺の予想に乗れ。……いや、乗るな。お前に乗られると外れそうだ」

 

 「ふぉっふぉっふぉ、勝負は風に聞くものじゃよ。今日も“尻尾”が教えてくれる」

 

 「尻尾、ね……」

 

 ジジイが例の“尻尾”とやらを信じ始めてから、俺はもう6戦くらい連続で負けている。俺が外してジジイが当てるたびに、胸に刻まれるこの屈辱感。あのジジイのニヤけた顔が思い浮かぶだけで殴りたくなる。

 

 スタンド席に向かいながら、俺は人混みを観察した。人間観察ってのは競馬でも役に立つ。余裕のある顔をした奴は大抵勝ってるし、焦ってる奴は賭けすぎだ。俺はどちらにもならねぇようにしてる。負けたって、絶対にみっともない顔はしねぇ。

 

 「今日のメインは?」

 

 「第4レース、天皇賞だ」

 

 「おぉ、いいレースじゃのぉ」

 

 ジジイがまるで遠足にでも行くかのように言う。俺はマークシートに手を走らせ、迷いなく馬番を塗った。

 

 「お前は?」

 

 「尻尾がな……」

 

 そう言いながらジジイは空を見上げ、風に当たるようにして何かぶつぶつと呟き始めた。やがて満足げに一頭の馬を指差した。まったく意味が分からねぇのに、なぜか毎回当てるのがムカつく。

 

 「……本当に当たったらぶん殴るぞ」

 

 「ホッホッホ、楽しみじゃのぉ」

 

 馬券を買い、スタンドの席に戻るとレースが始まった。芝の匂いと歓声が一気に膨れ上がる瞬間。あの高揚感がたまらない。ゲートが開いた瞬間、俺の中の血が騒ぐ。こっちは真剣そのものだ。

 

 先行勢が飛び出し、直線に差し掛かると観客席の空気が一変する。全員が馬に声をかけ、拳を握りしめ、祈るような目でゴール板を見据える。馬の蹄が地面を叩く音が、腹の底に響く。

 

 「差せ!差せ!差せぇぇぇ!!!」

 

 俺は身を乗り出し、声を張り上げた。自分でも驚くほど大声だった。だがもう止められない。これは俺の戦いだ。

 

 「ふぉっふぉっふぉ!来た来た来た!」

 

 ジジイの野郎が隣で笑ってる。俺の馬は――4着。ジジイの馬は――1着。

 

 「……てめぇ」

 

 「ホッホッホ、またわしの勝ちじゃな!」

 

 「クソが!!」

 

 芝生に拳を叩きつけそうになったが、我慢した。ガキじゃねぇ。俺は大人だ。負け犬の遠吠えはしねぇ。だが、悔しいのは悔しい。

 

 「この流れ……どうせ年末(有馬記念)もお前が当てるんだろ」

 

 「尻尾が震えとるからのぉ」

 

 「尻尾ちぎれろ」

 

 俺は頭を掻きむしりながらため息をついた。ダンブルドアは上機嫌で鼻歌を歌ってやがる。俺は競馬場の空を見上げた。真っ青な空が腹立たしいくらい澄んでいた。

 

 「……来週こそ勝つ」

 

 小さく呟きながら、俺は敗北の昼を噛みしめた。こんな時でも、戦場に戻りたくなる自分がいる。あぁ、俺は本当にどうしようもないギャンブラーだ。

 

 俺とダンブルドアのジジイは競馬場を後にした。

 

 現在新宿歌舞伎町……16時50分。

 

 競馬場での敗北の余韻が、胃の奥にまだズンと残っている。ジジイの勝ち誇った顔を見続けるくらいなら、今すぐ馬場に戻って芝生の上で大の字になって寝てやりたい気分だ。

 

 「興味ないがどんな賭け方した?単勝か?」

 

 俺は歩きながらジジイに聞いた。

 

 「いつものじゃ、一発3連単じゃよ。こう見えてわしはかなり勝負に出るほうじゃからの」

 

 「今日はいくら入れた?」

 

 「それもいつも通り一口10万じゃ」

 

 「やっぱりイカれてんな」

 

 「ホッホッホ……まぁ今日はそれほど荒れんかったからの、配当は少なめじゃ」

 

 そう言ってジジイは紙袋を軽く揺らした。紙袋の口から覗いたのは、厚みのある札束。軽く見積もっても、俺の本日の負け分より余裕で多い。

 

 「チクショウめ」

 

 自然と低い声が漏れた。横で「ホッホッホ」と笑う声がまた腹立たしい。

 

 「では今日は焼肉かの?いつもの?ユウゲンテイで?」

 

 「……行くぞ!!!」

 

 俺は即答した。

 

 こいつに勝てなかった腹いせを肉で晴らす。肉と酒とニンニクの香りで一瞬でもこの屈辱を忘れる。それが俺のルーティンだ。

 

 歌舞伎町の雑踏を歩きながら、ジジイはご機嫌に杖をくるくる回している。まるで子どもが遠足帰りにソフトクリームでも買ってもらったみてぇな顔だ。

 

 「それにしても、今日の4レース、惜しかったのぉ。あの2番があともう少しで差しておったら、フシグロ君が勝っておったじゃろ」

 

 「言うな」

 

 「1/2馬身差じゃったなぁ〜、惜しい惜しい」

 

 「うるせぇ」

 

 ジジイは“尻尾”がどうとか言っていた。マジで意味が分からない。俺が馬柱と調教と展開予想を延々と分析してる横で、こいつは空を見上げて風を感じて「尻尾が震えた」とか言って当てやがる。

 

 あぁ、ぶん殴りてぇ。

 

 「フシグロ君、負けは負けでも楽しんだじゃろ?」

 

 「楽しんでねぇ」

 

 「ふぉっふぉっふぉ」

 

 こいつ……絶対わざと煽ってる。

 

 そのまま雑踏を抜けていくと、見慣れた“ユウゲンテイ”の看板が見えた。ネオンが少し薄暗いこの時間帯でも、あの赤い灯りはよく目立つ。毎度のことながら、このジジイと焼肉に来るのは複雑な気分だ。勝ったときも負けたときも、結局この流れになる。

 

 店に入ると、店員が「いつもの席ですね」と案内してきた。常連扱いかよ……。

 

 「特上カルビとハラミとロース、あとホルモン全部持ってこい」

 

 「いつも通りですね、かしこまりました〜」

 

 こっちは憂さ晴らしだ。金なんか気にしてられるか。

 

 向かいに座ったジジイは、相変わらずにこにこしていた。白い長い髭を揺らして、ビールのジョッキを片手に上機嫌。

 

 「おぉ、この泡がたまらんのぉ〜。競馬の後はこれに限る」

 

 「黙って飲め」

 

 俺はビールを流し込み、肉を網に叩きつける。ジュウゥゥという音と香ばしい匂いが、少しだけ気持ちを軽くした。

 

 「……はぁ、負けた後の肉はうめぇな」

 

 「負けても勝っても、肉はうまいのじゃ」

 

 「それはそうだな」

 

 焼き上がった肉を頬張りながら、今日のレースを頭の中で振り返る。展開は悪くなかった。馬の状態も、展開予想もほぼ読み通りだった。ただ、1頭だけ――最後に差してきたあの馬だけが誤算だった。

 

 「来週は当てる」

 

 「その意気じゃな」

 

 「で、お前はいくら勝ったんだよ」

 

 「ん〜……まぁちょっとした温泉旅行くらいは行ける額じゃの」

 

 「うるせぇ」

 

 そう言いながらも、ジジイは笑っていた。俺もため息混じりに焼肉を頬張る。

 

 このジジイは、俺が一番イラつく相手でありながら、今はこいつがいないと競馬にも来られねぇ。皮肉な話だ。俺は力だけで生きてきたが、こいつの魔法の転移術がなきゃ日本まで一瞬で来れねぇし、ホグワーツの教師としても世話になってる部分がある。

 

 「そういえば、今夜は戻ってから例の“蛇”の調査を進めるのじゃろ?」

 

 「……あぁ」

 

 唐突に真面目な話をするなよ。ビールがまずくなる。

 

 「この前のあの粘液、気になっておるのじゃ」

 

 「俺もだ。放っといたらまた誰か石になるかもな」

 

 焼肉の煙がテーブルの間を漂う。競馬の余韻と肉の旨味、そしてホグワーツの不穏な空気。その全部が俺の胸の中で交錯している。

 

 「……蛇を追う。今度こそ尻尾を掴む」

 

 「ふぉっふぉっふぉ、今度はその尻尾で勝負運を当ててみるのじゃな?」

 

 「殺すぞジジイ」

 

 ジジイが喉を鳴らして笑う。その声を聞きながら、俺は肉を口に放り込んだ。

 

 競馬と、ホグワーツと、蛇――すべてが並行して動いている。

 俺の休日なんて、元々この世に存在しねぇのかもしれねぇ

 

 「おっとすまねぇ、電話だ」

 「うむ」

 

 俺はトングを置いてポケットから携帯を取り出した。拳銃の弾倉みたいな携帯だ。持ち運びしやすくて意外と便利なんだ。

 

 画面に映った名前を見た瞬間、ほんのわずかに心臓が跳ねた。だが俺はすぐにその感情を押し殺した。指先が通話ボタンに触れかける――だが、そのままポケットに戻した。

 

 「誰かね?」

 

 ジジイが興味深そうに俺の顔を覗き込んでくる。

 

 「いや、気にしなくていい。肉食おうぜ」

 

 「……ふむ、そういえばフシグロ君はお酒を飲んでも酔わんのかね?未だに泥酔するところを見たことがない」

 

 「天与呪縛のフィジカルギフテッドは内臓にまで強化がいってる。だから酔わねぇ、だから正直あんま好きじゃねぇ」

 

 「天与呪縛……か」

 

 ジジイの目が細くなる。今までのふざけたような調子とは違い、少し真面目な空気が漂う。

 

 「魔法界にはそういうのはなさそうだな。図書室の本にも呪術のような“縛り”の記述はなかったな」

 

 俺は水を飲みながらぼそりと答える。ビールは美味くもなんともない。ただ喉を潤すだけの液体だ。世の中の連中が“酒は気持ちよくなるもんだ”とか言うが、俺にはそんな感覚は分からん。

 

 ジジイは焼けた特上カルビを箸でつまみ、タレにくぐらせて口に放り込む。白い髭の端に肉汁が染みているのが妙に腹立つ。

 

 「わしも()()を見るのはおぬしが初めてじゃよ。大昔、魔法界にもいたらしい」

 

 「へぇ?」

 

 「戦士たちの中に、神から力を授かったような者がおったと記録にある。杖を使わず、ただ肉体と技だけで戦い抜く。おぬしと同じような……いや、それ以上の異端じゃったようじゃ」

 

 「そりゃ嫌われるな」

 

 「実際、恐れられ、疎まれ、弾かれたとある」

 

 「はっ……どこも同じだな」

 

 焼き上がったロースを箸でつまんだまま、しばし手が止まった。鉄板の上ではカルビがジュウジュウと音を立て、煙が白く立ち昇る。

 

 俺は思い出す。――呪霊部屋のあの臭いを。

 

 俺がまだガキだった頃、術式を持たなかった俺は“穢れ”のような扱いを受けていた。禪院の連中にとっちゃ、俺は失敗作であり、存在そのものが恥だった。夜な夜な放り込まれた呪霊部屋。真っ暗な中で呻き声をあげる呪霊の群れ、鼻を突く腐臭、そして命を狙う眼。俺はそこから生き延びるために、噛み殺し、踏み潰し、ひたすら殴り殺した。

 

 「……おぬしは怒っておらんのじゃな」

 

 ジジイの声に顔を上げると、あいつはいつも通りニヤけた顔で肉をひっくり返していた。だがその目だけは、ほんの少し真剣だった。

 

 「怒る?……別に。腹立つのは、あいつら“恵まれてる”奴らの方だ」

 

 俺は静かに笑う。怒りじゃねぇ。ただ呆れてるだけだ。

 

 「生まれながらに力を与えられて、何も知らねぇで“当然”みたいな顔をしてる。そういう奴を見ると……ぶん殴りたくなる」

 

 「ふぉっふぉっふぉ、実にわかりやすいのぉ」

 

 ジジイが笑った。鉄板に肉を放る音が響く。

 

 「それに比べれば、魔法界はまだマシかもしれんのぉ」

 

 「同じだろ。上に立つ奴らが下を選別してる。形が違うだけだ」

 

 「……たしかにの」

 

 俺は焼きあがった肉を無理やり口に押し込み、飲み下した。味なんて覚えてない。ただ、過去の感情を思い出すたび、胸の奥が冷えていく。

 

 ポケットの中の携帯が、さっきの着信の余韻を残して重く感じた。画面を見なくても、誰からかなんて分かってる。

 

 「……戻るか」

 

 「うむ。蛇の尻尾が、また揺れ始めとるかもしれんのぉ」

 

 「クソジジイ、いちいち言い方がムカつくんだよ」

 

 「ホッホッホ」

 

 ギャンブルと肉と腐った過去――そして、またホグワーツで何かが動き始めている。

 

 面倒くせぇ。ほんと、面倒くせぇ。

 

 「会計」

 「少々お待ち下さいませ」

 

 店員にそう言って俺は席を立ち、トイレに向かった。

 

 焼肉の煙が染みついた服を軽く叩きながら個室前の鏡に映った自分を一瞥する。いつもの顔だ。腹の底に酒も酔いも溜まらないこの体じゃ、満足感なんて最初から求めちゃいない。

 

 便器の蓋を蹴って開け、用を足す。流れる水音と換気扇の低い唸り声。それに混ざって――鼻をつく、妙に懐かしい気配がした。

 

 「……チッ」

 

 思わず舌打ちがこぼれる。

 

 ここで会うとはな。

 

 手を洗いながら鏡越しに個室の扉を見る。ゆっくりと水が流れる音。続いて個室のロックが外れる音。

 

 「おぉ!甚爾!」

 

 派手な和装姿、無駄に整えられた髭、嫌味ったらしい余裕のある声――聞き違えるわけがねぇ。

 

 「直毘人……」

 

 個室から出てきたのは、俺のもっとも会いたくない人間の一人――あの禪院直毘人だった。

 

 金のステッキなんざ日本でもそうそう見ねぇ。焼肉屋のトイレという場違いな空間に、そいつはまるで高級クラブにいるかのような顔をして立っていた。

 

 「まさかこんな所で会うとはな、甚爾。奇遇じゃないか」

 

 「気分が悪くなる奇遇だな」

 

 「ふふ……口は相変わらずだ」

 

 直毘人が笑いながらステッキを軽く床にコツコツと鳴らす。その音が、背筋の奥にまで響いてくるようで、妙に昔のことを思い出させやがる。

 

 「お前が……ホグワーツで教師をしてるって噂、あれ本当だったんだな」

 

 「噂なんか流すなよ。俺は静かに生きたいだけだ」

 

 「静かに?お前が?」

 

 そいつは大げさに肩を揺らして笑った。

 

 「お前は昔から“静か”なんて言葉と無縁の奴だったろ。なにせ――術式を持たずに、あの呪霊部屋から何十回も生き延びた化け物だ」

 

 「それを放り込んでたのは……お前らだろうが」

 

 口から漏れた声は、自分でも驚くほど低く静かだった。

 

 直毘人は肩をすくめる。まるで「そんな昔話どうでもいいだろ」とでも言いたげに。

 

 「いやぁ、あれは必要な“教育”だった」

 

 その瞬間、背中の奥にズンと熱が走った。

 

 殺す……その選択肢が、ほんの刹那で浮かんだ。

 

 だが――この男は、あの家の“表”だ。いくら殴っても、裏から這い上がってくる。

 

 「教育ねぇ……まぁ、そのおかげで今の俺があるってことにしといてやるよ」

 

 「それでいい、それでいい」

 

 にやつく直毘人。昔とまるで変わらねぇ。

 

 「お前、今どこに住んでる?」

 

 「言うわけねぇだろ」

 

 「ふふ……まぁ、いい。いずれ分かることだ」

 

 「テメェ……」

 

 俺が睨みつけても、そいつは動じるどころか愉快そうに笑ってやがる。

 

 「お前が“呪術”の世界から逃げても、血は逃げられない。……禪院の血筋ってのは、そういうもんだ」

 

 「血?そんなもん……とっくに切り捨てた」

 

 「切り捨てたつもりでも、世界はそう見ちゃくれん。お前は“伏黒甚爾”である前に、“禪院の落とし子”だ」

 

 喉の奥で何かが鳴った。怒鳴るでもなく、殴るでもなく――ただ、深く沈んでいく感覚。

 

 「……テメェに言われる筋合いはねぇ」

 

 「はは、いい顔だ」

 

 そう言って直毘人は、俺の肩をポンと叩いて通り過ぎた。すれ違う一瞬、ステッキの金属が俺の腕に当たる。その冷たさが、昔の冬の日の冷気みてぇに染み込んでくる。

 

 「じゃあな、甚爾。またすぐ会う気がするぞ」

 

 「会いたくねぇよ」

 

 扉が閉まる。残ったのは、嫌な匂いと昔の記憶の残滓だけだった。

 

 便器の流水音がやけにうるさく聞こえる。鏡に映る自分の顔は、さっきよりも僅かに険しくなっていた。

 

 「……クソが」

 

 紙タオルを引きちぎる勢いで手を拭き、トイレを出る。

 

 直毘人――禪院家の象徴みたいな男。俺が呪術界を嫌いになった理由の象徴みたいな奴だ。

 

 “血”なんてくだらねぇものが、今さら俺の前に顔を出しやがるとはな。

 

 ――気分が悪ィ。肉も酒も全部、まずくなった。

 

 トイレから出ると、もう奴の姿はどこにもなかった。

 

 まるで最初から存在しなかったみてぇに、空気すら揺れていない。

 

 まぁ……当然だ。あの男――禪院直毘人の術式は《投射呪法》。自らの視界を画角として、1秒間の動きを24の瞬間に分割したイメージを頭の中で作り、それを自身の肉体で後追い(トレース)する術。

 

 動きを作ることに成功すれば、後は勝手に身体がその動きを再現する。しかも、ほんのコンマのズレもなく正確に。

 

 ただし、そのイメージの構築を失敗するか、あるいは過度に物理法則を無視した動き――例えば加速度が大きすぎるとか、無茶な角度転換とか――を描いてしまった場合は、1秒間フリーズして全く動けなくなる。

 

 クセが強い術だが、熟練すれば話は別だ。あいつはその術式を極めてる。

 

 だから――日本最速の術師なんて呼ばれてる。

 

 焼肉屋から出ていくスピードも尋常じゃなかったなはずだ。まるで瞬きの間に消えたみてぇにな。

 

 「フシグロ君、会計は済ませておいたぞい」

 

 ジジイの声がした。振り返ると、相変わらずお気楽そうな顔をしたダンブルドアが伝票をひらひらと振っている。

 

 「……さっきの人は……」

 

 「出てきたのを見てたか? アイツは禪院直毘人、俺の叔父だ」

 

 「ほぉほぉ……通りで少し“似ている”と思った」

 

 「似てねぇよ」

 

 俺は即答した。あんな奴と一緒にされたら腹が立つ。

 

 「顔立ちではなく……纏っておる“気配”じゃな」

 

 ジジイの目がわずかに細くなる。冗談混じりのようでいて、その実よく見ている。

 

 「おぬしは“禪院の血”からは逃げたが、完全に切り離すことはできとらん。……あの男は、おぬしに執着しているようじゃな」

 

 「アイツが執着してんのは“血”だよ。俺個人なんてどうでもいい」

 

 「ふむ……」

 

 ジジイはあえて何も続けなかった。あの目は知っている。人間の心の奥底を見透かして、軽口の中に針みたいな真実を混ぜてくる、あの厄介な目だ。

 

 「俺はあの家も、アイツも、全部切った。二度と関わる気はねぇ」

 

 「じゃが、向こうが放っておかぬじゃろうな」

 

 「チッ……」

 

 分かってる。俺が何もしなくても、あいつらは勝手にやってくる。血がどうのこうの、家がどうのこうの、くだらねぇ言葉を並べてな。

 

 「行くぞ」

 

 俺はさっさと踵を返した。

 

 「うむ。蛇も待っとるからのぉ」

 

 「ジジイ、マジでお前のその言い方腹立つな」

 

 ダンブルドアは楽しそうに笑いながら俺の隣を歩く。焼肉屋を出た路地は人通りが少なく、薄暗い。焼肉と油の臭いがまだ鼻につく。

 

 「ここでいいか」

 

 「うむ、では――」

 

 ジジイが腕を軽く振ると、空気が捻じ曲がるような感覚が走る。

 

 姿現し――転移魔法。

 

 「なぁジジイ」

 

 「なんじゃ」

 

 「禪院の連中とやり合う気はねぇぞ。俺はもうあいつらの犬じゃねぇ」

 

 「わしも犬じゃないが、犬は犬で時に牙を剥く。……そういう時は、ちゃんと吠えるのじゃぞ」

 

 「ハッ……説教かよ」

 

 視界がぐにゃりと歪み、焼肉屋の裏路地が一瞬で消える。

 

 次に目に映ったのは――ホグワーツの石造りの廊下だった。

 

 薄暗い廊下にしんとした空気が流れている。夜ではないのに妙に冷たいのは、あの“蛇”のせいだろう。

 

 「おかえりじゃ、フシグロ君」

 

 「気持ち悪い言い方すんな。ゾワっとすんだよ」

 

 「ホッホッホ」

 

 ジジイが笑いながら校長室の方へ歩いていく。

 

 俺はしばらく廊下に立ったまま、焼肉の匂いと直毘人の声が頭の中でぐるぐる回っているのを、深く息を吐いて追い払った。

 

 禪院直毘人――あの男は、“過去”の象徴みてぇな存在だ。俺が捨てたはずの血と呪いを、当たり前のように引きずり戻してくる。

 

 「クソが」

 

 小さく呟き、俺は肩を回した。

 

 蛇の問題、怪物の正体、そしてこの“禪院”の影。

 

 面倒事が一気に重なってきやがった。

 

 ――だが、逃げる気はねぇ。

 

 逃げたって、どうせ向こうから追ってくる。

 

 「競馬に負けて、嫌な奴に会って最悪な気分だ」

 

 足音が石造りの廊下に響いた。姿現しで戻った空気の冷たさが、俺の頭を妙に冴えさせていた。




呪術廻戦のキャラクターを出しました。禪院直毘人です。今後出るかは未定!
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