ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
というわけで、俺は今アズカバンにいる。脚には鉄球が繋がれていて、まるで絵に描いたような囚人セットってやつだ。襤褸を着せられ、岩をくり抜いたような牢にぶち込まれた。壁は湿って苔が張り付き、触れるとぬめっている。空気は重く冷たく、吸い込むたび肺の奥まで凍るようだった。
鉄格子越しに見える外は荒れ狂う海。灰色の雲が低く垂れこめ、絶えず雷鳴が響いている。波が砦の壁を叩きつける音が規則的な鼓動みたいに響き、どこか心臓の音にも似ていた。空にはディメンターが群れを成して漂っている。黒いローブが風に揺れ、ゆらり、ゆらりと動くたび、気温がさらに下がる気がした。
隣の牢か、それとも上か下か、どこからか呻き声が聞こえてくる。言葉にならない音が風に混じり、まるでこの監獄全体が呻いているようだった。何人いるのかも分からないが、どの声にも“生きよう”という意思は感じられない。ただ魂だけが、ここに取り残されている。
「もう出ていいかな」
俺は立ち上がり、鉄格子に手をかけた。冷たい。だが硬さは感じない。少し力を込めれば簡単にひん曲がるだろう。脚の鉄球も同じだ。あんなもん飾りだ。拘束のつもりらしいが、俺にとってはアクセサリーみたいなもんだ。腹の中には格納型呪霊がいる。武器も道具も全部そこにある。抜け出そうと思えば、いくらでも手段はある。
だけど俺は動かない。
「これ、ボーナス出るんだよな」
小さく呟いて笑う。笑うしかなかった。この“潜入任務”が、ただの遊びに思えてくるからな。
ディメンターが近づいてきた。ローブの裾が床を掠め、足音もなく滑るように移動してくる。顔は見えねぇ。ローブの奥には闇があるだけだ。だが奴らが放つ気配は分かる。氷みたいに冷たい、重く淀んだ感情の塊だ。普通の魔法使いなら、あの気配を浴びただけで心を折られるらしい。魂を吸われ、記憶を喰われ、幸福を奪われる。だが俺は、何も感じねぇ。
“
目の前で止まり、しばらく俺を見ていた。何かを探るようにローブの中で息を吸う音がする。次の瞬間、興味を失ったように方向を変えて去っていった。
「やっぱり、そうなるか」
ディメンターに無視される囚人。滑稽だが、悪くねぇ。無駄な戦闘を避けられるならそれでいい。俺は牢の奥に腰を下ろした。背中に当たる石壁が冷たい。天井の隙間から落ちてくる雫の音が、一定のリズムを刻んでいる。まるで時計の針みたいに、規則正しく時間を教えてくる。
だが、この場所に時間の概念なんてない。太陽は昇らず、月も見えない。あるのは終わりのない夜と、永遠に続く冷気だけだ。
聞いた話だと、アズカバンは昔、闇の魔法使いエクリジスが作った人体実験場だったらしい。魂を分離させるだの、意識を保存するだの、そういう研究をしていたとか。ディメンターはその副産物で、魂を喰うように変異した失敗作。魔法省はそれを回収して“看守”にした。皮肉な話だよな。
壁に古い刻印がある。錆びた文字と、意味の分からねぇ紋様。たぶんエクリジスが残した実験の痕跡だ。近づいて見ると魔力の残滓が微かに残っている。ただ、それももう消えかけてる。時間と海風に削られて、ほとんど骨だけの遺跡みたいになっている。
「よくもまぁ、こんな所を監獄にしたもんだな」
誰に言うでもなく呟いた。声が反響して、また俺の耳に返ってくる。他に音のない場所だからこそ、こうして自分の声がやけに大きく響く。
鉄球を軽く蹴ってみた。鈍い金属音が鳴る。鎖の長さは短い。自由に動ける範囲なんてほとんどない。だが、それで十分だ。今は焦る時じゃない。
ジジイが言ってた。“黒い犬と脱獄しろ”ってな。つまり、目的は脱出じゃなく“同行”だ。シリウス・ブラック。ホグワーツの卒業生で、今はこの監獄の囚人。そいつを救い出せば、報酬3,000ガリオン——悪くない話だ。
「まぁ、退屈はしなさそうだな」
牢の隙間から吹き込む潮風に髪が揺れる。冷たい。だが、この冷たさにも慣れてきた。息を吐くと白い煙になり、闇の中に溶けて消えた。遠くで雷が鳴る。光が壁を照らし、一瞬だけ牢の影が浮かぶ。それはまるで巨大な口を開けて笑っているみたいだった。
俺はその笑い返しをするように、無言で壁に背を預けた。この場所がどれだけ寒かろうが、心は凍らねぇ。それが俺、伏黒甚爾という人間の唯一の長所だ。
ここに入る前にダンブルドアに言われたこと、それはアズカバンに収監されている黒い犬──シリウス・ブラックと一緒に脱獄しろという命令だった。たったそれだけだ。殺しでも暗殺でもない。ただの“同行任務”。シリウス・ブラックを連れて此処から出るだけで3,000ガリオン。殺しよりも遥かに楽な仕事だ。だが、同時に妙な胸騒ぎもした。ダンブルドアのジジイの依頼はいつだって“何かの裏”がある。
まぁ、なんで俺がそもそもこんな場所に収監されなくちゃならんのかって話なんだが……確かに空飛ぶバイクで日本に行ったし、クィレルは俺が殺した。けどよ、ダンブルドアの方がよっぽどやらかしてねぇか?あいつなんてテレビにバンバン映ってたぞ。マグルのニュースに“怪しい老人が大金を掴む”って出てたくらいだ。それでも誰も捕まえねぇ。つまり、“校長”ってのはそれだけの免罪符ってことだ。くだらねぇ世の中だよ。
「人間の看守がいないのはザルすぎて助かるな」
俺は足元の鉄球を見下ろした。少し捻っただけで鎖が切れる。カラン、と軽い音を立てて鉄球が転がる。ディメンターに気づかれねぇだろうが一応静かに拾い上げ、肩に担ぐ。素材は魔法鋼だ。再利用できそうだし、どうせなら武器にしてやろう。
立ち上がり、鉄格子に向かう。冷たい金属の棒を握ると、力を込めた瞬間メリメリと嫌な音がして曲がった。軽く押すと、ぽきりと折れる。俺の天与呪縛の肉体からすれば、こんな鉄格子は紙みてぇなもんだ。少し隙間を作って外に出る。
外は風が強い。塩の匂いが混じった湿った風が顔を撫でる。眼下には海が広がり、黒い波が岩肌にぶつかって砕けていた。崖沿いの通路は人ひとりが通れるかどうかの幅しかない。下を見れば底なしの闇。常人なら落ちたらまず助からねぇな。
「ディメンターは俺に気づかない、楽な仕事だぜ」
呟きながら崖道を進む。ディメンターの群れが遠くで浮遊している。まるで夜空を覆うカーテンのようだ。だがそのどれもが、俺の存在に気づくことはない。魔力も呪力も感じられない俺を“生物”として認識できないからだ。だから俺は、この監獄の中で唯一“自由に動ける囚人”だった。
歩くたびに風が身体を押し返してくる。湿気と潮が混ざった空気が喉を焼くようだ。途中でいくつかの牢が見えた。中を覗くと、骸のような囚人が壁に凭れかかっていた。目は虚ろで、呼吸しているのかも怪しい。魂を抜かれた人間は、ただの抜け殻だ。
「おい、お前はシリウス・ブラックか?」
覗き込んだ牢の中に人影があった。髪はボサボサ、顔はやつれてるが、どこか生気が残っている。だが、その声が返ってくるよりも早く、甲高い女の声が響いた。
「あぁ!?シリウス!?というかアンタ誰よ!?あたしはベラトリックスよ!!」
「そうかい、じゃあな」
即答して離れた。ディメンターよりタチが悪い女だ。目はイカれてるし、笑い声が耳にこびりつく。狂気ってやつは空気からでも伝わってくるんだな。
しばらく進むと、また別の牢があった。ここは少し奥まっている。鉄格子の向こうには、一人の男がうずくまっていた。髪は伸び放題で黒く、頬は痩けているが、目だけは鋭かった。そして生きる意思を一際感じる。恐らくこいつだ。
「……お前が、シリウス・ブラックか?」
男がゆっくりと顔を上げる。目が合った瞬間、空気が変わった。腐っても元グリフィンドール、根の部分に“獣”がいる。眼光が鋭く、意志がまだ燃えてる。
「誰だ……お前は」
「伏黒甚爾。ホグワーツの教師だ」
「教師?こんな所に来る教師がいるのか」
「まぁ、仕事だ。お前を外に出せば3,000ガリオン貰える。だからさっさと出るぞ」
「……は?」
混乱した顔のまま固まっている。そりゃそうだ。いきなり見知らぬ男が監獄の鉄格子を折って“出ろ”って言ってるんだ、信じろって方が無理だろう。
「嘘みてぇだが本当だ。ダンブルドアからの命令だ」
「ダンブルドア……?」
「そうだ。お前を助けろってよ。理由は知らねぇ。けど、俺は仕事しかしねぇ主義だ」
そう言って鉄格子を掴む。金属が悲鳴を上げるように軋み、次の瞬間にねじ切れた。
「うそだろ……」
「早く出ろ。外はディメンターだらけだが、奴らは俺に気づかない。動くなら今だ」
「……信じられないが、ここにいるよりはマシか」
シリウスが立ち上がる。長い間動いてなかったせいか、足取りは重い。それでも意志の火はまだ消えてなかった。
「行くぞ。息を潜めてついてこい」
俺は崖道に身を滑らせた。波の音が近い。外の空気は冷たいが、もう慣れた。ディメンターの群れが頭上を通る。風が一瞬止まり、息を呑む。
シリウスが小声で問う。
「おい、アンタ……本当に何者なんだ?」
「ただの教師だよ。少なくとも今の肩書きはな」
「教師か……いいジョークだ」
シリウスの口元に笑みが浮かんだ。乾いた笑いだが、人間らしい音を聞いた気がした。
「チッ……やっぱり気づかれたか」
シリウスを牢の外に出した瞬間、空気が変わった。ディメンター共が一斉に呻き声を上げ、こちらを向く。あの黒いローブの群れが、腐った羽音のような低い震動を残して近づいてくる。海から吹く風が凍り、皮膚の下まで冷気が刺さるようだ。
「
シリウスの声が裏返る。喉の奥から漏れた声は怯えと警戒の混じったもので、長くここにいた者の反射的な反応なんだろう。だが、今は叫ぶな。俺は彼の肩を軽く押して壁に伏せさせた。
「ジッとしてろ」
「な、何を?」
「いいから動くな。オエッ」
俺は腹に手を当て、格納型呪霊を吐き出した。ぬるりとした影が喉を通って掌に現れ、空気が一瞬ひりつく。指先から放たれた黒い靄が地面を這い、俺の身体に絡みつく。見た目は気味が悪いが、これが俺の装備庫だ。口に手を突っ込むと、金属の冷たい感触。引き抜くとそこには鎖があった。
【特級呪具:万里ノ鎖】
鎖の末端には大きなフック。反対の端が観測されていなければ、際限なく伸び続けるという厄介な代物だ。扱いを誤れば自分の首を絞める。だが、こういう場所では都合がいい。
「これに……鉄球を付けて、と」
俺は先ほど外した鉄球をフックに繋げ、腕を軽く回した。金属音が短く響く。次の瞬間、振り抜かれた鉄球が唸りを上げて空気を裂き、前方のディメンターの腹部に直撃した。
バゴン、と乾いた音。黒いローブが裂け、奴の身体が弾ける。冷気が爆ぜ、空気が一瞬だけ霜をまとう。まるでこの世の“負の感情”そのものを叩き潰したような感触。
「な、何をしたんだ君は……!?」
シリウスが息を呑む。俺は鉄球を引き戻しながら短く答えた。
「ぶん殴っただけだ」
「殴った?……めちゃくちゃだな……」
「そうか?当たり前のことをしただけだろ」
鎖を振り回すたび、金属音が低く響く。ディメンターが数体まとめてこちらに向かってくる。奴らの動きは速くはないが、量が多い。空全体が黒く濁り、潮の匂いに混じって腐敗した冷気が漂う。
「下がってろ。すぐ片付ける」
「ま、待て!あんなもの相手に……」
シリウスの言葉が途切れるより早く、俺は次の鎖を放った。鉄球が弧を描き、左手側のディメンターの群れを薙ぎ払う。ローブが裂け、霧のような灰が飛び散った。魔法も呪文もいらねぇ。ただ、叩き潰す。それだけで十分だ。
それから俺は鎖に繋げた鉄球を振り回して叩き潰し、面を捉え空中を駆け拳や蹴りを叩き込んでディメンター共を海に落とした。
「……あれを物理で倒すなんて、ありえない……」
シリウスが呟いた。驚きよりも、混乱に近い声だ。長年この監獄に囚われてきた者からすれば、あれは絶対的な存在だ。だが、俺にとってはただの敵にすぎない。
「まぁ、俺には効かねぇし、あいつらも俺を見えねぇ」
「見えない?」
「魔力も呪力も持たねぇからな。奴らは感知できねぇ」
シリウスが一瞬、息を飲む。理解が追いついていないらしい。説明する気もない。こっちにしてみりゃ、呪力も魔力もねぇただの肉体。だがそのおかげで、こうして呪具さえあれば“死”を喰う奴らにも干渉できる。まぁディメンターには物理的な干渉ができたから呪具は必要なかったがな。
「……君、何者だ?」
「さっきも言ったろ、ただの教師だ」
「教師が、あんな怪物を……」
「教師にも色々いんだよ」
冗談めかして言っても、シリウスは笑わない。ただ黙って俺の動きを見ていた。俺が鎖を巻き取る音だけが響く。ディメンターの残滓が霧になって漂い、海の風に溶けていく。
戦闘の余韻が去ったあと、しばらく沈黙が続いた。風が吹くたびに、崖の岩が微かに軋む。どこか遠くで他の囚人の呻きが聞こえる。アズカバンという場所は、生きている人間が出す音よりも、死に損ないの気配のほうが濃い。
「本当にここから出るつもりか?」
「そのために来た。お前も一緒に出る」
「まさか……」
「さっきも言ったろ。報酬は3,000ガリオンだ。別にお前に興味があるわけじゃねぇ」
「3,000……そんな大金を?」
「俺は金で動く。目的も義理もねぇ。ただやると言われたことをやるだけだ」
シリウスは苦笑した。笑ったというより、呆れた顔に近い。だがその顔には少しだけ、かつて“人間”だった痕跡が戻っていた。
「……面白い奴だな、君は」
「よく言われる」
鎖を腰に巻き付け、俺は崖の上を見上げた。ディメンターが減った今が好機だ。嵐の風が強まり、波が岩を砕く音が響く。湿気の中に混じる鉄の匂い。アズカバンの外壁は高いが、鎖があれば十分登れる。
「行くぞ。時間をかけるとまた集まってくる」
「了解した……って言うべきか?」
「好きにしろ」
足場を確かめ、鎖を伸ばす。フックが岩に突き刺さり、確かな手応えが返ってくる。体を引き上げながら、背後でシリウスの音が続くのを確認した。
まだ互いの素性も知らねぇ。ただ、目の前の仕事を果たすだけ。そういう関係のほうが、気が楽だ。
時折シリウスを手伝いながら、俺たちはアズカバンの頂上に辿り着いた。
風が肌を裂くほど強い。雨は叩きつけるように降り、視界は白く霞んでいた。海は牙を剥いた獣みたいに荒れ狂っている。足元の岩は海水と苔で滑り、ひとつ間違えりゃそのまま転落だ。まったく、地獄みてぇな場所だな。
コイツがここに12年もいたってんだから、人間の耐久力も大したもんだ。
まともな飯も与えられず、毎日ディメンターに魂を舐められながら、それでも壊れずに立ってる。精神か肉体か、どっちが化け物なんだか分からねぇ。
そして頂上には何もねぇ。ただ風と雨、岩だけだ。空も海も灰色で、境目すらない。音だけがある。波の音と風の音。人間を狂わせるには十分な環境だ。
「さて……どうやってこの監獄から脱出するか」
「待て待て、考え無しにここまで登ったのか?」
「単純に上がどうなってるか気になった」
「めちゃくちゃだ……」
俺は肩を竦めた。シリウスの呆れ声も風に掻き消される。まぁ計画性なんて最初からねぇ。考えてから動くより、動きながら壊す方が性に合ってる。
とはいえ、ここから先が問題だ。俺ひとりなら海を走って逃げればいい。空気を踏めば、海面なんざ陸と変わらねぇ。けど、シリウス・ブラックを連れて行くとなると話は別だ。
この風、この波、この距離。普通の人間なら一歩で吹っ飛ぶ。抱えて走るにも限界がある。
一瞬、格納型呪霊の中に入れることも考えた。
だが
「そういえば、ダンブルドアがアンタのことを黒い犬って呼んでたな。なんでだ?」
「あぁ……それは私が動物もどきだからだ。犬に変身できるんだ」
「へぇ……犬にね」
なるほど、犬。
ディメンターは魂を感知して動く。つまり、魂の波が弱い生き物──犬や猫、動物にはほとんど反応しない。なら、それが“鍵”だ。
「よし、犬になれ」
「えっ……どうするつもりだ?」
「犬になったアンタを抱えて海を走る。ディメンターも気づかねぇだろ」
「ま、待て。犬になれば確かに感知されないが、海を走るって何だ、それ」
「言葉通りだ。落としたら悪いが、死ぬなよ」
雨が強まった。ディメンターどもの唸り声が遠くから聞こえる。数が増えてきてる。時間がねぇ。
「早く、犬になれ」
シリウスは小さく頷き、意識を自分に向けた。
次の瞬間、黒い煙が身体を包み、骨の軋む音が響く。肉が縮み、四つ足が地を踏む。そこにいたのは、毛並みの荒い黒犬。眼光だけが人間のままだ。
「……本当に犬になったな」
犬は短く唸り、俺を見上げた。12年分の怨嗟も哀しみも、全部その瞳の奥に沈んでる。
「大人しくしてろ。振り落とされたら助けねぇぞ」
「ウォフ」
犬が吠えた瞬間、周囲の空気が変わった。ディメンターの気配が一斉に遠のく。まるで見失ったかのように、空をさまよってやがる。魂の匂いを嗅げねぇらしい。予想通りだ。
「なるほどな。魔法生物にも“死角”があるってわけか」
俺は犬を片腕で抱き上げ、崖の縁に立った。風が唸り、潮が跳ねる。下は果てのない海だ。
「よし、行くぞ」
足に力を込め、一気に踏み出す。
空気の層を掴み、海面へと跳ぶ。足裏が水を踏む感触。反発を殺さず、そのまま前へと滑るように進む。雨が頬を裂き、風が体を叩く。
背中で犬が息を詰めているのが分かる。だが吠えない。魂を隠すためだろう。理性は残ってるらしい。
ディメンターたちは俺たちを見失い、空の彼方で旋回している。黒い影が遠ざかり、アズカバンが霞の中に沈んでいく。
「……いい判断だ、ジジイ」
ダンブルドアの声が耳に蘇る。ボーナス3,000ガリオン。
まったく、安い仕事だ。だが悪くねぇ。
雨の中、俺はひたすら走った。海を裂き、風を切りながら。
そして俺と黒い犬は、ようやく監獄の闇を抜け出した。
暫く海の上を走り続けると、ようやく陸地が見えてきた。荒れた海岸線だ。白い波が岩肌に叩きつけられ、潮の匂いが肌にまとわりつく。幸い、こんな天気じゃ人影ひとつない。
「よし、着いたな。脱獄成功だ」
息を吐くと、背中で何かが蠢いた。犬の形をしたそれがぬるりと変化し、骨が鳴るような音を立てながら人間の姿へと戻っていく。現れたのはボサボサの黒髪と鋭い眼光をした男――シリウス・ブラック。
「本当に……出られたのか、あの地獄から」
「3,000ガリオンでな」
「ハハハ、金ならいくらでも払おう……で、これからどうする?」
「お前に杖を渡す」
俺は肩に巻き付いていた呪霊のぬめる体を軽く叩いた。芋虫のようなそれが赤子の顔をもたげ、口を開く。空気が震え、次の瞬間、黒檀の杖が吐き出される。ノクターン横丁で襲ってきた阿呆から奪った代物だ。
「姿現しは使えるだろ?それでホグワーツの校長室に飛べ」
「ホグワーツに?だがホグワーツに姿現しはできないはず……」
「今は
「特別……?」
俺は肩を竦めながら、シリウスの濡れた髪を掴んで目を合わせた。
「しっかりイメージしろよ。雑にやると身体がバラける」
「わかってるさ……あんた、やはり普通じゃないな」
「よく言われる」
杖を軽く振ると、シリウスの周囲に白い風が渦を巻いた。海風が止まり、空気が一瞬ねじれる。
バシュンッ、と乾いた音が響き、視界が反転した。
視界が戻ると、そこは見慣れた石造りの部屋――ホグワーツの校長室だった。
壁にかかる肖像画たちが目を見張り、鳩のようにざわめく。
「おい、ジジイ。戻ったぞ」
「ゴフッ!昨日アズカバンに収監されて、もう出たのか? ちょっと早くないかのぉ……」
「陰気クセェ場所だったな。あんなとこ何日もいられるかよ」
「ふむ……それもそうじゃな」
ダンブルドアは机の奥に座って紅茶を飲んでいた。相変わらず呑気なジジイだ。
そして、その視線が俺の後ろ――シリウスに向いた。
「シリウス、久しいの」
「ダ、ダンブルドア先生……私は……」
「ふむ、無事で何よりじゃ。話は後にしよう。まずは身体を休めるとよい」
ダンブルドアは杖を振り、校長室の隅に柔らかな椅子を出した。シリウスが腰を下ろすと、安心したのか肩の力が抜けた。あのアズカバンで12年。無理もない。
「フシグロ君、働きぶりには感心したよ」
「で、ボーナスは?」
「ふむ、後ほど3,000ガリオンをグリンゴッツ経由で送っておこう」
「最初からそれを言え」
「しかし、本当に早かったの。まさか一晩で脱獄とはのぉ」
「人間の看守がいないってのは楽で助かったな。あんなもん呪霊に比べりゃ可愛いもんだ。ディメンターも雑魚だったな」
「はは、君がそう言うと妙に説得力がある」
ダンブルドアが笑うと、室内の空気が少し柔らいだ。
だが、シリウスはまだ現実を呑み込めていないようで、何度も自分の手を見つめていた。
「先生……私はこれから、どうすればいいんですか」
「君にはやることがある。それは後で話そう。だが、今は――」
ダンブルドアが立ち上がり、俺の方に向き直る。
「フシグロ君、夏休みの続き……といこうかね? シリウスもついてくるといい」
「金をくれりゃどこへでも行くぜ」
「な、夏休み……?」
シリウスが呆れたように目を瞬かせる。
「ふむ、ホグワーツは今夏休みじゃ。せっかくの夏じゃ、少しくらい息抜きをせねばの」
「腹減ったぜ……」
俺はため息を吐き、ジジイの肩を掴んだ。
その瞬間、ジジイがシリウスの肩に手を置く。
「では――いざ日本へ」
「え?」
シリウスの戸惑う声。
眩い光が室内を包み込む。
次の瞬間、視界が反転した。
耳に届くのは、セミの鳴き声と潮の音。
湿った夏の空気が肌を刺した。
俺たちはまた、日本に戻ってきた。
甚爾くんのお陰で普通に脱獄してますが、原作と映画のシリウスは犬に変身して泳いで逃げたんですよね?あの大しけ海のど真ん中に建てられた監獄から泳いで?ヤバくね?