ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第五話

 

 

 

 

 高尾山を降りて、最寄りの駅まで戻った。汗はもう乾いていたが、足に残る疲労がじんわりと残っている。夜の空気はまだ湿っていて、アスファルトの照り返しがじっとりと肌にまとわりつく。

 

 「おいジジイ、コンビニ行こうぜ」

 

 俺がそう言うと、ダンブルドアは長い顎髭を指先で梳いた。

 

 「ふむ、そうじゃの」

 

 シリウスは小さく首を傾げる。日本に来てまだ数時間、見るもの全てが珍しいらしい。

 

 「コ、コンビニとは?」

 

 「何でも売ってる売店だ。もう腹減ってるだろ」

 

 「なるほど……便利な国だな」

 

 「便利すぎて自堕落になるぞ。気をつけろ」

 

 「聞き捨てならない言葉じゃなフシグロ君。便利とは文明の勝利じゃ」

 

 「文明に飲まれた老害は黙ってろ」

 

 「ほっほっほ」

 

 駅前は夜でも人が多い。群れるリーマン、帰宅途中の学生、深夜の溢れかけた酔いの気配。シリウスは落ち着かないのか、視線を忙しなく動かしていた。まぁ12年も監獄にいたんだ。刺激が強いだろうな。

 

 「確か……あの辺に魔法族用のがあったはずじゃ」

 

 ダンブルドアが指したのは、駅の脇にある細い路地。観光客なら絶対に足を踏み入れない、地元民でも気づかないような狭さだ。

 

 「ここじゃな」

 

 そう言って、ダンブルドアは路地にある自販機の横に指を滑らせた。カチリと内部の機構が回り、ガコンッと鈍い音を立てて、自販機自体が横にスライドする。

 

 裏に隠されていた階段が現れる。

 

 「……お前らほんと毎回こういうことしてんのか?」

 

 「隠蔽魔法というものじゃ。マグルにはただの自販機にしか見えんよ」

 

 「それは分かってるけどよ、やれやれだ」

 

 俺とシリウスはその階段を降りた。湿った土の匂いと、少しひんやりとした空気。下へ降りるほど、外の喧騒が遠ざかる。代わりに、微かに呪力の反響が耳奥に当たる。

 

 こういう“底”のある空間は、魔法も呪術も同じだ。見えねぇものを隠すには、下に埋めるのが一番手っ取り早い。

 

 階段を降り切ると、地下街のような通りが広がっていた。明らかに日本のそれではない。建物の構造も、灯りの強さも、魔法界特有の違和感がある。

 

 「ここが日本魔法界か……」

 

 シリウスが呟く。誰も彼に視線を向けない。囚人上がりかどうかなんて、ここでは関係ない。ここはそういう奴らが平然として歩いている場所だ。

 

 その中に、妙に明るい看板が浮かんでいた。

 

 『魔法便利屋コンビニ・ゴンジ堂』

 

 「……なんだこのセンスの悪い名前」

 

 「うむ……イギリスにも同じものがあったのぉ……わしが子供の頃から変わらん」

 

 「お前子供の頃っていつだよ化石か?」

 

 「言葉が過ぎるぞフシグロ君」

 

 店に入ると、空気が少し甘い。香草か何か焚いてんのか?棚にはポーション、使い捨て魔導紙、怪しい呪符やら便利魔法具やらが並ぶ。普通のコンビニより物騒だが、魔法使いにとってはこの方が暮らしやすいんだろう。

 

 「何を買うんじゃ?」

 

 「とりあえず腹が膨れるやつだな……おいシリウス、食いてぇもんあるか?」

 

 シリウスは棚の商品をじっと見つめていた。目に映るものが新しすぎるんだろう。

 

 「……肉まん、というのは何だ?」

 

 「あぁ、それはな……」

 

 俺はショーケースから肉まんを取り出し、レジに持っていく。熱が指に伝わる。ふわふわして、柔らかい。

 

 「こうだ」

 

 俺はシリウスに肉まんを手渡した。

 

 「手でちぎって食え」

 

 シリウスは少し戸惑ってから、ゆっくりと割り、口に運んだ。

 

 次の瞬間、目を見開いた。

 

 「……温かい……うまい……」

 

 涙が、また溢れていた。

 

 「おいおいまた泣いてんのか」

 

 「ほっほっほ、感情が戻るというのは良いことじゃ」

 

 「いいから早く食え。冷めんぞ」

 

 シリウスは頷き、肉まんを一心に食った。

 

 その横で、ダンブルドアはヨーグルト味のアイスを嬉々として買っていた。

 

 「……甘いもの好きだな、ジジイ」

 

 「歳を取ると甘いものが沁みるのじゃよ」

 

 「ほんとかよ」

 

 俺は缶コーヒーを買って蓋を開ける。苦味が舌に広がる。酔えない代わりに、こういう刺激で誤魔化してる。

 

 シリウスは肉まんを食い終え、ぽつりと呟いた。

 

 「……生きてていいんだな、私は」

 

 「生きてろ。まだやることあるだろ」

 

 「……あぁ。ある」

 

 「じゃあ行くぞ。次は宿だ」

 

 「うむ、わしは温泉宿が良いのぉ」

 

 「金は全部ジジイが払うらしい」

 

 「聞いておらんぞフシグロ君」

 

 「聞け。今聞いたろ」

 

 「……ほっほっほ、まぁ良い。夏休みじゃからな」

 

 そういうわけで、俺たちはまた歩き出した。

 

 夜の日本魔法界は、少し賑やかで、少し陰気で、でも悪くなかった。

 

 俺たちは日本魔法界の地下街を抜け、しばらく街道を歩いたあと、適当な人気の少ない路地に出た。夜気は湿り気を帯び、蝉の声が時折どこからか響いてくる。舗装された道路に街灯が点々と伸び、その下を歩く俺とシリウスとジジイの影が、互いに重なったり離れたりして揺れていた。

 

 「じゃあ、この辺でいいかの」

 

 ダンブルドアが立ち止まった。ローブの裾が夜風に揺れる。

 

 「温泉宿って言ったら前行ったとこがいいだろ?というかさっき銭湯入ったばっかだけどな」

 

 俺が言うと、ジジイは鼻を鳴らして笑った。

 

 「うむ、別腹……というやつじゃよ。風呂も食も遊びも、心が望めばいくらでも入る」

 

 「ただの老害の欲望じゃねぇか」

 

 「ほっほっほ、言葉が辛辣じゃのぉ」

 

 シリウスは俺とジジイのやり取りをきょとんとした顔で見ていた。囚人上がりとは思えねぇ、どこか坊ちゃんじみた仕草が残っている。きっと十二年もの孤独は、人格を削るだけでなく、削れずに残った部分を妙に透明にする。

 

 「ではフシグロ君、シリウスよ、掴まれ」

 

 ジジイが手を伸ばした。俺はローブの裾を雑に掴み、シリウスは少しだけ迷ってから手を握った。

 

 バシュンッ。

 

 内臓がわずかに揺れる感覚。足場が一瞬消え、次の瞬間、俺たちは別の地面に立っていた。山に囲まれた夜の空気。湿った木々の匂い。虫の声が遠くで絶え間なく続いている。

 

 目の前には、木造の立派な温泉旅館があった。瓦屋根、広い玄関、暖簾に染まる店名。灯りが柔らかく、まるで静かな湖面に浮かぶ月光のようだった。

 

 「ここじゃここ!日本に来たならここの温泉は別格じゃぞ?シリウス」

 

 ダンブルドアは上機嫌に言い、暖簾を潜っていく。まるで年寄りを超えた何かだ。少なくとも“賢者”という肩書きとは程遠い。

 

 シリウスが俺に視線を寄こした。声は小さいが、感情の揺らぎが滲んでいた。

 

 「そ、そうですか……フシグロ君、先生はいつもこんな感じなのか?」

 

 「アイツ賢者でもなんでもねぇぞ、中身はギャンブラーで駄菓子好きで酒好きのジジイだ」

 

 シリウスは一度瞬きをしたあと、息を吐いた。それはため息というより、感情が胸から零れ出た音だ。

 

 「知らなかった……十二年で人は変わるんだな」

 

 「違ぇよ。アイツは昔からこうだ。変わったのはお前だ」

 

 シリウスは視線を落とした。足元には薄く敷かれた砂利道。踏むとわずかに音が鳴る。夜の空気は静かだが、妙に深い。

 

 「……私は、あの牢で何度も自分が自分じゃないように感じた。怒りと憎しみと……何も感じない時間が続いた。だけど今、こうして地面踏んで、飯を食って、風呂に入って……なんだか……怖い」

 

 「当たり前だろ。戻ってきた実感がねぇんだよ」

 

 俺は旅館を見上げた。木が凛として立ち、灯りは暖かい。人間が作った“休むための場所”の形をしている。ここは戦場でも呪いの地でもない。ただの宿。

 

 「けどな、シリウス」

 

 俺は缶コーヒーの残りを飲み干し、空を見上げた。高尾山の夜とは違う、少し湿った海風の匂いが混じった空気。

 

 「生きてるってのは、こういうどうでもいい時間のことを言うんだよ」

 

 シリウスは小さく笑った。それは泣き顔とも笑顔とも区別がつかねぇ、曖昧なやつだ。

 

 「……ありがとう」

 

 「礼はいらねぇ。3,000ガリオンの仕事だからな」

 

 「そういうところが君らしいな」

 

 ダンブルドアの声が中から聞こえた。

 

 「部屋が取れたぞー!夕食は追加料金で豪華にできるらしいぞーい!!」

 

 「ほらな。見ろよ、あのテンション」

 

 「……あぁ。あれは、どう見ても賢者ではないな」

 

 俺とシリウスは旅館の暖簾を潜った。

 

 木の温もり。畳の匂い。湯気の気配。

 

 戦場でも監獄でもねぇ。

 ただ、生きるための場所だった。

 

 そして、夏休みが続いていく。

 

 そうして俺たち3人は、まさしく「夏休み」という名の堕落と享楽に身を投じていった。温泉旅館に泊まり、朝は湯に浸かり、昼には観光地を巡り、夜はまた湯と酒と飯。その合間に競馬場へ行き、パチンコ屋に入り、競艇場のスタンドで叫び、どこにいても金が動き、飯が出てきて、笑い声が響く。異様な三人組だったが、妙に馴染んでいた。

 

 シリウスは最初こそ見慣れない日本に戸惑っていたが、慣れていくのは驚くほど早かった。特にギャンブルに関しては、俺とジジイが懇切丁寧に教えた結果、想像以上に向いてやがった。

 

 「ほう……ならここは差し切りで舟券を買えばいいのか?」

 

 「そうだ。1着が4号艇、そっから差して2着が1号艇。で、3着に6号艇を入れる。ここは外枠活きる水面だ」

 

 「ふむ……なるほど」

 

 真剣な目でレース表を見つめ、指先で舟の進路を追いながら考えるシリウス。十二年監獄にいた男が、まるでずっと賭場にいたみたいな顔しやがる。ああいう“勘”は生まれつきだ。

 

 一方で俺の方はというと——

 

 「おい……また全部外してないか?」

 

 「うるせぇ、次は当たる」

 

 「次は当たると言って当たった試しが無いぞ、フシグロ君」

 

 「ジジイ、お前黙ってろ」

 

 ……俺は負け続けていた。これに関しちゃ認めよう。俺は運というものに嫌われている。今度こそ神社にでも行ってお祓いしてもらう必要があるかもしれない。いや、マジで。

 

 だが、その分シリウスが勝ち続けるもんだから、全体としては財布は温かかった。俺の負け分を余裕で補填できる程度には、シリウスが儲けてくれたのだ。

 

 シリウスは酒にも強かった。いや、強いというより、“飲めるようになっていた”のかもしれない。十二年もの間、感情を削られ、魂を擦り切らされ、その反動で、今の彼は酒を通して“生を感じる”ことに飢えていたのだろう。

 

 「……私の家は、純血を誇る一族だった。誇り高く、そして……歪んでいた」

 

 夜。焼き鳥屋の薄暗いカウンターで、シリウスはぽつりと呟く。炭が爆ぜる音が静かに響く。

 

 「純血以外は価値がない。純血に従うことこそ正しい。我が家は、そう信じていた。私は……それに反抗した。家族そのものに背いた」

 

 「反抗か。まぁロクでもねぇ親なら背いて正解だな」

 

 「君は……そう言うのか」

 

 「当たり前だろ。血がどうとか血筋がどうとか、そういうもんで人を縛るやつは総じてクソだ。俺の家もそうだった」

 

 シリウスはしばらく黙り、酒を口に運んだ。喉を通るアルコールが、胸を温めるようにゆっくり降りていく。目が赤いのは酒のせいか、それとも別のものか。

 

 「……私は、ハリーの名付け親でもあった。ジェームズとは兄弟みたいな関係だった。あいつは、何もかも俺を信じてくれた……その信頼を、俺は守れなかった」

 

 そこまで言ってから、シリウスは唇を噛んだ。手が震えていた。感情が戻ってきた証だ。

 

 「シリウス」

 

 ジジイが、ゆっくりと盃を置いた。普段ふざけた目をしているジジイの瞳が、珍しく澄んだ色をしていた。

 

 「おぬしは、まだ終わってはおらん」

 

 「……」

 

 「過去は変えられん。じゃが、これからは変えられる。ハリーはまだ、育っておる途中じゃ」

 

 「……そう、か」

 

 静かな呼吸。夜の煙。焼き鳥の香り。店内の薄明かりが、シリウスの横顔に影を落とす。

 

 その顔は確かに、生きている人間の顔だった。

 

 俺はビールの代わりに烏龍茶を飲む。俺は酔えねぇ。身体が酔うことを許さねぇつくりをしてる。だから、こういう時はただ、周りを観察して、黙って座ってるしかない。

 

 けどそれでいい。

 

 この夏は、生き返るための夏だ。

 

 俺はそう思った。

 

 そして、夏はまだ続く。

 次にどこへ行くかなんてのは、その日の気分次第だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして8月に入り、夏休みも残り1ヶ月を切った頃。世界のどこかでの静かな揺らぎが、やがて大陸を越え、英国の魔法界全体に波紋のように広がり始めていた。それは新聞でもラジオでもなく、まずは省内の内部連絡からだった。冷たい廊下を駆ける職員の足音、忙しなく走り回るフクロウ達、その羽音に混ざって飛び交う囁き。次第に噂は形を持ち、名を持ち、そして恐怖になっていった。

 

 イギリス魔法省、長官執務室。厚い木製の扉が閉ざされた部屋の中で、大臣コーネリウス・ファッジは書類を前に顔色を悪くしていた。額に脂汗が滲み、手に持つ羽ペンは震えている。その正面には、桃色のスーツに猫のブローチをつけた女――ドローレス・アンブリッジが立っていた。彼女はいつもの笑みを浮かべている。しかしその笑みは温かさの欠片もなく、冷たい意志と自信に裏打ちされた薄い仮面だった。

 

 「アズカバンを脱獄した……?」

 

 かすれた声でファッジが呟いた。信じたくないものを口にした人間特有の声色だった。

 

 「えぇ、大臣。間違いありませんわ」

 

 アンブリッジが小さく頷いた。声は甘やかに、しかし内容は毒だった。

 

 「脱獄者は2名。1人は……先日、わたくし達が裁判で有罪判決を下した者。“伏黒甚爾”。ホグワーツ特別体育教師。殺人、暴行、各種反逆行為、そして魔法界の倫理を著しく損なう存在」

 

 「……あれほど強固な監獄だぞ!? あそこには看守すらいない! 見張っているのは――」

 

 「ディメンターですわね。えぇ。ですが、彼は“人間ではない”のでしょう?」

 

 アンブリッジはそこで意地悪く口角を上げた。思い出すのは裁判の場で見た、伏黒甚爾の目。あれは人間のものではなかった。冷たい。乾いた鋼のような光。しかし獣のように本能で敵を噛み砕く何かが宿っていた。

 

 「……もう1人は?」

 

 ファッジが震える声のまま尋ねた。

 

 「“シリウス・ブラック”ですわ」

 

 室内の空気が一瞬止まった。

 

 シリウス・ブラック。魔法界における最大級の裏切り者の名。

 かつてジェームズ・ポッターとリリー・ポッターを裏切り、ヴォルデモートに居場所を売り渡した男。

 その結果、魔法界は「死と破壊の象徴」を失った。しかし代わりに、罪はシリウス1人に集約された。

 

 「し、しし……シリウス・ブラック……!?」

 

 ファッジの声が裏返った。顔色はさらに悪化し、椅子に沈むように座り込んだ。

 

 「えぇ。12年間幽閉されていた囚人。あれほど精神を削られたはずの男が脱走した。これはただの事件ではありませんわ、大臣」

 

 アンブリッジは、まるで舞台女優のように言葉を区切ってみせる。

 

 「これは“象徴”ですの。希望と反抗の象徴。人々はこう思うでしょう。“アズカバンすら破られたのなら、何でも可能ではないか”と」

 

 「そ、そんなことが……!」

 

 「もちろん許されませんわ」

 

 アンブリッジの声音は、そこで初めて笑みを捨てた。瞳は冷え切り、爬虫類のような光が宿る。

 

 「大臣。これは魔法界全体への“統制”の問題です。今わたくし達がすべきことは明確です」

 

 「……アンブリッジ、き、君は……どうするべきだと?」

 

 「“恐怖”を広げるのです」

 

 部屋の温度が一気に何度か下がったような錯覚。

 

 「脱獄者2名は極めて危険。特に伏黒甚爾は“ディメンターすら怯ませる怪物”。シリウス・ブラックは“闇の帝王に忠誠を誓った狂犬”。そう公表します」

 

 「ま……待て……!それは――」

 

 「大臣。“都合が良い物語”は支配の基礎ですわ」

 

 アンブリッジの声は甘い砂糖のようだった。だが内側は猛毒。

 

 「人は恐怖に従います。恐怖は規律を生みます。規律は権力を支えます」

 

 ファッジは額に手を当て、震える指を止められなかった。

 アンブリッジは微笑した。

 

 「準備に取り掛かりますわ。どうぞご安心を。わたくしが必ず“正しい秩序”を取り戻してみせます」

 

 そうして、英国魔法界は静かに――しかし確実に、息が詰まる方へと傾き始めた。

 

 まだ誰も知らない。

 この脱獄が、後に世界を揺らす波の“始まり”であることを。

 

 一方その頃、アズカバンは()()()()()。いつもなら絶え間なく吹き続ける絶望の風、それは囚人たちの思考を削り、魂を摩耗させ、人間という存在をただの器へと変えていく。だが今は違った。冷え切った空気はまだ鋭いままだったが、その中にあった圧し潰すような重圧が、どこか薄れている。怨嗟も呻きもあるはずなのに、どこか空白があるような、不格好な静寂が牢獄に漂っていた。

 

 「アーハッハッハッハッハー!!こんなに過ごしやすいアズカバンは最高だねぇぇ!!!」

 

 牢の中から鉄格子に指を絡ませ、狂気そのものの笑みを浮かべながら叫んでいる女がいた。ベラトリックス・レストレンジ。かつて闇の帝王に最も忠実に仕えたとされる異常な狂信者。その双眸はまだ暗く燃えており、長き牢獄生活により痩せ細ってはいたが、精神はむしろ濃縮され研ぎ澄まされている。

 

 彼女がここまで高笑いできる理由。それは、つい先日の“異変”にあった。

 

 牢の外に知らない男が現れた。名を伏黒甚爾という。その男は鎖を引き千切り、鉄格子をひん曲げ、まるで散歩にでも来たかのような顔で死の監獄を歩き回った。しかも、ただ歩いただけではない。看守であるディメンターたちを――殴りつけ、蹴り砕き、万里ノ鎖に繋いだ鉄球を振り回して、霧散させたのだ。

 

 無数のディメンターが倒れ、砕け散り、黒い塵となって海風に溶けていった。死よりも死に近い存在が、ただの肉体を持つ“人間”に叩き落とされた。それは目撃した者すべてに“理解不能”を植え付けた。そして同時に、理解不能は恐怖よりも前に、安堵という形で現れた。

 

 魂が削られ続けていた囚人たちにとって、ディメンターの消失は、血も涙も残されていないはずの心に、かすかな暖かさを蘇らせるほどの衝撃だった。

 

 ベラトリックスは鉄格子を叩きながら体をぶるりと震わせる。

 その震えは寒さではない。昂揚だ。

 

 「来る。必ず来る。あの方は戻られる……あの男は“狼煙”だ。合図だ。呼び声だ。闇の帝王は蘇られる!」

 

 そう信じ切っていた。いや、狂信していた。

 

 他の囚人たちは違った。各牢で膝を抱え続けていた囚人たちの表情は、ほんの僅かだが柔らぎ、息をする余裕を取り戻していた。誰もが正気に戻ったわけではない。だが、魂を食われる苦痛が薄れたことで、自分という存在がまだ体に残っていることを、少しだけ思い出し始めていた。

 

 もちろん、脱獄は叶わなかった。鉄格子も崖の外も、未だ囚人を閉じ込めている。だが、状況は変わった。

 アズカバンは、完全な“絶望の監獄”ではなくなった。

 

 そしてそれは、魔法界にとって最悪の兆しだった。

 

 なぜなら――

 

 絶望を断たれた囚人は、希望を知る。

 希望を知った囚人は、再び牙を持つ。

 

 そして今この瞬間にも、ベラトリックス・レストレンジはその牙を研ぎ続けている。

 

 それが、これから訪れる“嵐”の前触れに他ならなかった。

 

 

 

 そうしてイギリス魔法界全土にアズカバンの脱獄が知られることとなった。

 

 日刊預言者新聞には大々的に報じられた。

 

 『ホグワーツ魔法魔術学校体育教師“伏黒甚爾”、闇の帝王の配下シリウス・ブラックが脱獄、全国指名手配!』

 

 一面には囚人服の伏黒甚爾のニヤリとした顔写真と、捕まった際の狂乱模様のシリウス・ブラックの動く写真が載っていた。

 

 ホグワーツに関係していた者達は、まず伏黒甚爾が捕まっていた事に驚き、アズカバンを脱獄した事については、まぁそれも当然か……あの人ならやりかねないなという至極当然の感想を抱いた。

 

 ハリー・ポッターはダーズリー家の居間のソファに座り新聞を広げ読んでいた。床ではダドリーが筋トレをしている。ハリーは夏休み期間中にダドリーに筋トレを教えていた。ブクブク太った身体が見るに堪えなかったからだ。

 

 「フシグロ先生捕まってる!?え!?脱獄!?」

 

 「ハリー?」

 

 「ううん何でもない、腕立て続けて」

 

 ロン・ウィーズリーは新聞を読んだが、今はそれどころではなかった。自分のペットであるスキャバーズから気持ち悪い気配を感じていたからだ。

 

 「兄貴、なんか気持ち悪くない?」

 

 「お前…スキャバーズが可哀想だろ」

 

 シリウス・ブラックについては12年前からの印象がまだ残っている。人々は恐れ、そしてこれから何が起こるのか不安になっていた。魔法省は臨時会合を開き、ディメンターの運用や防衛線の再構築を議題にしたが、誰も「監獄の中で何が起きたのか」を説明できないままだった。

 

 

 

 

 

 その頃日本を満喫していた伏黒甚爾、アルバス・ダンブルドア、そしてシリウス・ブラックは、同じ新聞の別の一面に載っている写真を見ていた。それはウィーズリー一家が懸賞に当たりエジプト旅行に行ったという見出しだった。

 

 ウィーズリー一家の動く集合写真が載っている。家族の肩に小さな鼠が乗り、尾を揺らすたびに画面の粒子が微かにきらめいた。

 

 「こ、これは!?」

 

 「どうしたんじゃシリウス」

 

 「この鼠だ!間違いない!」

 

 伏黒甚爾も新聞を覗き込んだ。

 

 「なんだ?鼠?あぁスキャバーズか」

 

 「奴は鼠に変身できる。見ろ!小指が欠けている!」

 

 「ほぉ……この鼠がピーターじゃと?」

 

 「確かにスキャバーズは気色悪い気配をしてたな。ガキ共が初めてホグワーツ特急に乗った時に俺もその鼠を見た。随分長生きで、獣の気配が()()鼠だったな」

 

 ダンブルドアは写真の端に杖先を寄せ、像の縮尺と角度を変えながら、かすれた影の位置を確認した。小指の欠損は確かにそこにあり、笑っていない目だけが、写真の外側を警戒していた。

 

 「証拠としては脆いが、状況証拠としては十分じゃ。少なくとも“死んだ”という前提は崩れる」

 

 「死体がねぇなら生きてる。基本だ」

 

 シリウスは喉の奥で息を呑み、指先が震えた。十二年の重さが、写真一枚で裏返る。復讐ではない。真実を取り戻す償いの道が、ようやく地図に現れた。

 

 「場所はエジプト……だが今は、英国に戻るはずだ。学期が始まる。奴は持ち主に寄生する。なら――」

 

 「――戻る先は、ウィーズリー家か、ホグワーツか」

 

 甚爾の声は低く、乾いていた。狩りの算盤を手早く弾く職業の声だった。

 

 「追い回す必要はない。次に顔を出す地点に、先に立つ」

 

 「どう動く、先生」

 

 「ふむ……表立って動けば省は騒ぐ。静かに網を張ろう。ホグワーツ特急の“出入口”、それと寮の“隙間”。鼠の通る穴は、人より低いところに開く」

 

 「穴を塞ぐより、穴の前で待つ方が早ぇ」

 

 「わしもそう思う」

 

 甚爾は新聞を二つ折りにして卓に置いた。目はもう紙面を見ていない。視線の先にあるのは、夜の駅舎、煙突網の煤、トランクの車輪の軋み、そういった音と匂いで編まれた動線だ。

 

 「……ハリーに会いたい」

 

 シリウスが小さく漏らす。声の芯は細いが、折れていない。

 

 「会わせるさ。ただ順番を守る。まずは鼠を剥がす。次に口を割らせる。最後に、あの夜の嘘を表に返す」

 

 「君はいつも、手順が残酷で優しいな、トウジ」

 

 「生き残る手順だ」

 

 外はまだ夏の湿り気が残っている。蝉の声が遠くで揺れ、どこかの路地で風鈴が鳴った。三人は立ち上がる。準備は手短に、荷は少なく。必要なのは、動ける身体と、待つ根気と、決める刃だけ。

 

 そして、夏は続いている。新聞は街角で何度も折り畳まれ、恐怖と憶測を運ぶ。だが、紙の上の騒ぎとは別に、静かな手がすでに次の場所へ伸びていた。ホグワーツ特急の出発日、駅の構内、鴉の鳴く天蓋の下――そこに、まだ“知られていない一手”が置かれようとしていた。

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