ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第五話

 

 

 

 

 

 

 ホグワーツ魔法魔術学校に赴任してから、もう1ヶ月が経っていた。

 

 明日の休息日は、給料を手にした俺が真っ先に“現実”に戻る日だ。理由は単純――競馬。

 

 ホグワーツ魔法魔術学校の事務局から渡された封筒には、2500ガリオンがしっかりと封入されている。ホグワーツ教師として1か月分の報酬だ。

 

 「……悪くねぇな」

 

 封筒の中身を確かめながら、甚爾は薄く笑った。指先で感じる金貨の重み。貨幣のサイズと手触りは、魔法界独特のものだ。金属そのものから淡く魔力が滲んでいる。

 

 もちろんこのままじゃ競馬はできない。日本の馬券売り場ではガリオンなんて通用するはずもない。

 

 「とりあえず……円に換えるか」

 

 ガリオンの価値は、魔法界の共通レートに従えば1ガリオン=約5ポンド前後。そこから為替で日本円に直す。1991年現在、1ポンドはおよそ190円前後──つまり、1ガリオン=約950円という計算になる。

 

 計算式は単純だ。

 

 2500ガリオン × 5ポンド × 190円。

 

 「……2,375,000円か」

 

 鼻で笑う。これだけあれば、余裕で競馬に突っ込める。

 

 「競馬の神様、そろそろ俺に勝たせてくれてもいいだろ」

 

 自室のベッドに腰を下ろし、煙草に火をつける。天井に吐いた煙がゆっくりと揺らいだ。

 

 魔法界から日本へ行くルートももう把握済みだ。アイツ──ルビウス・ハグリッドのバイクを借りパクして夜中に空を飛べば、数時間で日本上空だ。便利なもんだ。

 

 夜中、バイクを引っ張り出して発進。冷たい空気が頬を裂く。英国の霧が薄くなると、見慣れた夜空の星が視界に広がる。

 

 このバイク……とんでもない魔力をまとっていやがる。まるで呪具の塊だ。鉄の塊が夜空を切り裂き、風が頬を裂くように吹きつける。俺の五感には、バイクの機構の一つひとつまで伝わってきた。普通の機械じゃない。魔法で動いてる。

 

 「……便利なもんだな」

 

 バイクを走らせ、真夜中の空を渡り、日本に着いたのは夜の3時過ぎ。人気のない山の中だ。森の匂いと湿気が鼻を抜ける。

 

 「……寒ぃな」

 

 手をポケットに突っ込みながら、街の方角を確かめる。山道を下る途中、街の光が見えた。

 

 山を降りて暫く、俺は街で裏の連中が使う換金所の前に立っていた。

 

 駅から少し外れた路地裏。ビルの一階にある、看板もない古びた鉄扉。表向きは古物商だが、呪術界にも知られた“金の通り道”だ。魔法界から流れてくるガリオンも、ここを通せば現金になる。

 

 金の匂いは鼻につく。

 懐に入っているのは2500ガリオン。

 

 鉄扉を押して中に入ると、湿った冷気とタバコの臭いが混ざり合った空気が肌にまとわりついた。カウンターの奥には無精ひげを生やした中年の男。丸眼鏡越しの目が俺を見た瞬間、わずかに目が細まった。

 

 「……おやおや、こりゃまた」

 

 俺はポケットから小さな革袋を取り出し、カウンターの上に置く。袋の中で金属がこすれる音が響いた瞬間、男の口元が歪んだ。

 

 「お客さん、これ……ガリオンかい?」

 

 「あぁそうだ。イケるか?」

 

 「平気だよ、魔法界の客もたまにくるからねぇ」

 

 男は秤を引き寄せ、革袋の中を覗き込んだ。次の瞬間、彼の表情が変わる。薄い笑いが消え、目つきが鋭くなった。

 

 「……あんた、禪院の……」

 

 「もう禪院じゃねぇ。今は伏黒だ」

 

 空気がわずかに緊張する。裏稼業の連中にとって、禪院の名は厄介な響きを持つ。呪術界でも有名な名家、そして──“術師殺し”の名で知られる。

 

 「まさか、あの……術師殺しが、換金しに来るとはね」

 

 「うるせぇよ。仕事しろ」

 

 「へいへい……怖ぇなぁ」

 

 男は乾いた笑いを浮かべ、手慣れた手つきで金貨を秤に乗せていく。ガリオンを測るときのカチャカチャという音が、やけに響いた。

 

 「本物だな。状態も上物だ。……にしても、よくこんなに持ってるもんだ」

 

 「仕事の報酬だ」

 

 「殺しか……?」

 

 小さく呟いた声を、俺は聞こえないふりをした。

 

 「レートはいつも通り。1ガリオン=950円。……2500枚で2,375,000円。異論あるか?」

 

 「ねぇよ」

 

 男は金庫を開け、札束をカウンターの上にドンと置いた。輪ゴムで括られた札の束が、ずっしりと音を立てる。

 

 「数えるか?」

 

 「信じてる」

 

 指先に伝わるのは、魔力じゃなく“現金”の重み。

 俺にとってはこっちのほうがよほど現実味がある。

 

 「しかしな……あんたがここに顔出すなんてなぁ。裏の連中、震え上がるぞ?」

 

 「震えようがどうしようが関係ねぇ。賭けるだけだ」

 

 札束をジャケットの内ポケットに突っ込み、俺は踵を返した。

 

 背後で男が煙草をふかす音が聞こえる。

 

 「……相変わらず、とんでもねぇ奴だ」

 

 その呟きを無視して扉を押し開けると、夜の空気が肌を撫でた。

 

 路地裏の薄暗い街灯の下で、ポケットの中の札束がずっしりと重い。

 

 「2,375,000円……」

 

 金貨じゃねぇ、現金。これで競馬場に行けば一発勝負ができる。

 

 「勝つ。今度こそな」

 

 朝飯ならぬ昼飯を食べ、運良く通りかかったタクシーを止め、俺はいつもの目的地を告げた。

 

 「◯◯競馬場まで」

 

 「……朝から熱心だねぇ兄さん」

 

 運転手が軽口を叩いたが、無視した。こっちは真剣勝負だ。

 

 競馬場に着いたのは、レースの1時間前だった。

 

 「ふふ……完璧だな」

 

 馬の状態を観察する時間がある。賭け事に必要なのは“読み”だ。馬の筋肉、呼吸、足の踏み込み、騎手との呼吸――そういうのは呪術の戦場と似てる。

 

 俺はパドックの柵に肘をかけ、馬をじっくりと観察した。

 

 「5番……いい筋肉してるな」

 

 腰の沈み込みと脚の弾力が違う。他の馬より一段抜けている。周囲もざわついていたが、オッズはそれほど高くない。

 

 「これは勝ったな」

 

 俺は手持ちの金を、すべて単勝にぶち込んだ。機械が俺の金を飲み込んでいく。

 

 レース開始までの時間、足取りは軽かった。勝利を確信していた。

 

 「魔法も呪術も関係ねぇ。こういうのは読みと嗅覚だ」

 

 ファンファーレが鳴る。ゲートが開いた。

 

 「よし……行け、5番!」

 

 馬群が芝を蹴り、地鳴りのような音が競馬場を揺らす。最初は完璧だった。5番は好スタートを切り、先頭集団につける。

 

 「いいぞ、そのままだ」

 

 ――が、コーナーを曲がったあたりから空気が変わった。

 

 「おい……?」

 

 5番の脚がわずかに沈んだ。フォームが崩れ、外から2頭が一気に差してくる。

 

 「は?」

 

 最後の直線。必死に粘るが、伸びない。2番手、3番手、4番手……そしてズルズルと下がり、ゴールした頃には7着。

 

 「……嘘だろ」

 

 場内が歓声で沸き上がる。俺の周囲では的中馬券を握った連中が叫び、笑い、飛び跳ねている。

 

 俺は、握りしめた馬券を見下ろした。

 

 「……金が……」

 

 空気が遠のいた気がした。あれだけ完璧な馬を選んだのに。筋肉の動きも、踏み込みも、何もかもよかったはずだ。

 

 「……運、ねぇんだよな……俺」

 

 呪霊と殺しの戦場では生き残れる俺が、賭け事となるとからっきし勝てない。昔からそうだった。

 

 「クソが」

 

 馬券をくしゃりと握り潰し、投げ捨てた。

 

 「筋トレ教えて稼いだ金が一瞬で吹っ飛ぶとか、笑えねぇ……」

 

 勝ってたら倍だった。いや、もっと膨らませていくつもりだった。

 

 「ま、いい。ま、また稼ぎゃいい話だ」

 

 俺は深呼吸し、立ち上がった。競馬場特有の空気が肌を刺す。

 

 財布の中は驚くほど軽い。だが、それが今の俺の現実だ…!

 

 「次の給料日、倍にしてやる……」

 

 俺は街を見上げ、苦笑した。

 

 魔法も呪術も関係ねぇ――運には勝てねぇんだよな。

 

 「というか……バイク隠した山の中まで行く金がねぇ」

 

 競馬場を出て、街灯がぽつりぽつりと並ぶ暗い道を歩きながら、俺は低く吐き捨てた。

 

 金……全部溶けちまった。

 

 勝つ気でいた。勝てると“思ってた”じゃねぇ――勝つ“つもり”だった。パドックで見たあの馬は、間違いなく仕上がっていた。筋肉の動き、踏み込み、目の光……全部が“勝ち馬”のそれだった。

 

 なのに、結果はボロ負け。

 

 「ちっ」

 

 舌打ちが夜空に小さく響いた。

 

 頭の中で金の計算を始める。バイクを隠した山まではタクシーで1万はかかる。だが、今の俺にはその1万すらねぇ。歩いて行くには遠すぎるし、山道なんざ登ってられねぇ。

 

 「……詰んだな」

 

 足を止め、ポケットから携帯を取り出した。

 

 当時の携帯――ムーバ 。手のひらサイズとはいえ、ずしりと重い。液晶は小さく、数字だけがチカチカと光っている。通話専用、メールも何もねぇ代物だ。

 

 アンテナを引き伸ばし、ボタンを押す。ピポパという間抜けな音がやけに響いた。

 

 「……出ろよ」

 

 呼び出し音が続いたあと、眠たそうな女の声が聞こえた。

 

 『……なに、仕事中なんだけど』

 

 「あぁ、俺だ。甚爾」

 

 『あんた……!?何の用!?』

 

 「ちょっと世話してやる」

 

 『はぁ!?世話!?あんた、また金ないんでしょ!』

 

 「……まぁな」

 

 電話の向こうでため息が聞こえる。何度も繰り返したやり取りだ。あの女は俺を都合よく利用してる。俺も、都合よく利用してる。そういう関係だ。

 

 『……分かった。鍵、いつものとこ』

 

 ガチャリと電話が切れる。

 

 「……助かった」

 

 ムーバをポケットに戻し、息を吐いた。

 

 風がひんやりと頬を撫でる。ホグワーツ魔法魔術学校の空は澄んでいたが、日本の空は湿っていて生臭い。それが懐かしい。

 

 「魔法の世界で楽して稼いで、現実に戻ったらこれかよ……」

 

 ため息混じりに笑いが漏れる。あのジジイ――アルバス・ダンブルドアに、この話をしたらどういう顔をするだろうな。

 

 「ま、知るわけねぇか」

 

 アスファルトを踏む靴底の音だけが夜に響く。

 

 昔からそうだ。俺は賭け事にツキがない。勝てる時はある。だが、負けるときは決まってこうだ。全部、根こそぎ持っていかれる。

 

 「運ってのは、俺には向いてねぇんだよな」

 

 それでも賭ける。懲りねぇと、自分でも思う。だが――あのパドックで感じた“勝つ感覚”は、呪術の戦場と同じだった。相手の殺気、筋肉の流れ、勝ち筋が手に取るように見える。チクショウ、完全に勝つ気だったのによ。

 

 「……読みが完璧でも、運がなきゃ負ける」

 

 煙草をくわえ、ライターをカチリと鳴らす。火の先が小さく揺れた。

 

 「クソ……次は当ててやる」

 

 俺は空中に煙を吐き出しながら、女の家の方向へ歩き出した。

 

 この手に金はねぇが、まだ足はある。そういう生き方を、俺はずっとしてきた。

 

 暫く歩いて、ようやく女の家に辿り着いた。もう辺りは暗くなっている。

 

 3階建てのアパート。コンクリ打ちっぱなしの壁に外階段がついていて、夜の街灯に照らされた鉄骨が鈍く光っている。鍵の隠し場所は覚えている。3階へと続く階段の5段目、裏側にマグネットで貼り付けてあるはずだ。

 

 ギシギシと階段を上り、5段目の裏に手を伸ばす。冷たい鉄の感触の奥に、細い金属の鍵が触れた。

 

 「ふっ……あったあった」

 

 懐かしい感覚だ。

 

 鍵を手に取り、3階の部屋のドアに差し込む。カチリと小気味よい音が響いた。

 

 扉を開けると、薄暗い部屋の空気がふわりと流れ出してくる。

 

 「……いい匂いだ」

 

 柔軟剤と香水、それにわずかなコーヒーの残り香。整った生活をしている女の部屋特有の匂いだ。

 

 靴を脱ぎ、部屋の電気をつける。白い壁に黒い家具が並び、余計な装飾は一切ない。几帳面で、センスがいい。俺好みだ。

 

 テレビをつけ、リモコンを適当にいじってニュース番組に合わせる。1991年の夜のニュースなんて、どれも同じだ。政治家が頭を下げてるか、景気がどうとか言ってるかのどっちかだ。

 

 「相変わらずだな、日本も」

 

 腹が減っていたので、キッチンを勝手に漁る。棚の奥からカップ麺を見つけ、電気ケトルで湯を沸かす。湯気の立ち上る匂いと同時に、何となく落ち着いた気分になる。

 

 俺はこういう“ちょっと他人の家でくつろぐ”って時間が嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。

 

 この部屋の主――あの女は都心で働くキャリアウーマンだ。いつだったか、新宿のバーで出会った。グラス片手に“退屈そうに”座っていた女に声をかけて、適当に話して、あっという間にホテルに転がり込んだ。

 

 俺は顔と身体には自信がある。伊達にヒモ生活をしてきたわけじゃねぇ。女の懐に入り込むのは得意分野だ。

 

 「……ふぅ」

 

 カップ麺のふたを半分剥がし、箸を突っ込む。すすりながら、テレビの音をBGM代わりにぼんやりと天井を見上げた。

 

 「魔法の城で筋トレ教えて稼いで……結局、俺はこういうとこに戻ってくるんだよな」

 

 ホグワーツの冷えた石造りの部屋じゃなく、この生臭ぇ夜の街の空気の方がしっくりくる。魔法の世界に身を置いていても、俺の根っこはこっちにある。

 

 湯気の向こうで、時計の針がチッチと音を立てていた。

 

 しばらくすると、廊下の向こうでカツン……とヒールの音が響いた。

 

 ガチャリ、と鍵が回る音。

 

 「……帰ってきたな」

 

 俺は麺をすすりながら玄関の方に目を向けた。

 

 ドアが開き、スーツ姿の女が現れる。髪をきっちりまとめ、派手すぎないメイク。肩に黒いバッグを下げ、ヒールを脱ぐ仕草も手慣れたものだ。

 

 「……はぁ……疲れた……って……」

 

 目が俺に止まった瞬間、彼女の顔が引きつった。

 

 「……あんた、やっぱり来たのね」

 

 「世話になるぜ」

 

 「ったく……勝ったら来ないくせに、負けたときだけ現れるんだから」

 

 呆れたように言いながらも、玄関を閉めて鍵をかけた。バッグを置き、スーツのジャケットを脱ぐ。その動きが妙に板についているのが、彼女らしい。

 

 「悪いな」

 

 「悪いなんて思ってないでしょ」

 

 女はため息をつきながらキッチンに向かい、水をコップに注いだ。

 

 「お金……全部飛んだんでしょ」

 

 「……よく分かるな」

 

 「だいたい顔見れば分かるわよ。あんた、運だけはとことん無いんだから」

 

 俺は肩をすくめ、カップ麺をすすり続けた。

 

 この女とは、もう何度もこんなやり取りをしてきた。負けた夜、金がなくなった夜、俺はここに来る。そして女は文句を言いながらも、結局は俺を追い出さない。

 

 「シャワー浴びていいか?」

 

 「勝手にすれば?」

 

 呆れ顔のまま、女はコップの水を飲み干した。

 

 「次は当てる」

 

 「何十回聞いたかしら、そのセリフ」

 

 「はは、そりゃそうだな」

 

 俺は立ち上がり、シャツの裾を軽く整える。夜の街のざらついた空気が、この部屋にまでしみ込んでいるような気がした。

 

 ホグワーツでの生活とは真逆。

 冷えた石の城と、湿った夜の東京。

 

 俺の足は、結局こっちの現実に戻ってきちまうんだ。

 

 「……じゃ借りるぜ」

 

 「はいはい。あとで()あるから」

 

 「怖ぇな、おい」

 

 女の声を背に浴びながら、俺はバスルームに向かった。

 

 負けた夜の居場所としては、ここが一番落ち着く。

 それが情けねぇ話でも、事実なんだ。

 

 「おい、一緒に入るか?」

 

 シャワー室の入り口に立ち、軽く振り返りながら言ってみせると、女の顔がぱっと赤くなった。

 

 「はぁ!?……………ちょっと待って」

 

 わざとらしい抗議の声とは裏腹に、目の奥は拒絶なんてしていない。長い付き合いだ。こうなる流れは、お互いもう分かっている。

 

 「冗談じゃねぇぞ」

 

 「……バカ」

 

 わずかに目線を逸らした女が、靴下を脱ぎ捨ててゆっくりと近づいてくる。

 

 蒸気の立ちこめた浴室に、2人分の息が混じった。肩と肩が触れ、湯気の中で肌が重なる。

 夜の都会の匂い、シャンプーの匂い、湯気の熱――すべてが絡み合い、時間の感覚が鈍っていった。

 

 夜は長く、けれど、終わる時はいつも一瞬だ。

 

 

 

 朝。

 

 まだ外は薄暗く、空気に夜の冷たさが残っている。女はベッドのシーツを胸元まで引き上げ、髪を乱したまま寝息を立てていた。

 

 俺は無言で服を着込み、髪をかき上げ、タバコに火をつける。

 吐き出した煙が窓の隙間から外へ流れていく。

 

 「……悪いな」

 

 女に声をかけるわけじゃない。ただ呟いただけだった。そして財布から金を取った。

 こんな夜は何度もあった。いつも、俺は去る側だ。

 

 足早に玄関へ向かい、靴を履き、ドアノブに手をかける。

 振り返ることはない。

 

 外はまだ人通りも少ない。新聞配達のバイクの音と、車のエンジン音だけが聞こえる。冷えた空気が頬を刺す。

 

 「急がねぇとな」

 

 ポケットの中には、給料を溶かしたあとの空っぽの財布に入った女の金。だから電車じゃなくタクシーだ。急いで拾わなきゃ、時間がなくなる。

 

 通りに出て、しばらく待つと、1台のタクシーがヘッドライトをこちらに向けて停まった。

 

 「どこまで?」

 

 「山の方。○○峠の入り口まで頼む」

 

 「朝っぱらからずいぶん遠いとこ行くねぇ」

 

 「ちょっとした用事だ」

 

 背もたれに身体を預けると、昨夜の熱がまだ皮膚に残っている。妙に現実味のある温度。ホグワーツの石造りの空気では、決して感じられないものだ。

 

 しばらくしてタクシーは山の麓に到着した。支払いはギリギリ足りた。

 

 「サンキュ」

 

 運転手に軽く手を振り、タクシーを降りる。

 

 空はうっすらと明るくなり始めている。山の空気は冷たく、湿っていて、土と草の匂いが強い。

 

 「……やっぱこっちの方が落ち着くな」

 

 木々の間を抜け、バイクを隠した場所へと進む。湿った土を踏む音が静かに響く。

 

 藪の奥――そこに黒光りするあのバイクがあった。ルビウス・ハグリッドが小屋に隠していた、空飛ぶ魔法のバイク。

 

 「へへっ、よく残ってたな」

 

 軽くシートを撫で、エンジンをかける。魔力の波が空気を震わせる。呪力とは違うが、俺の五感にはハッキリと“それ”が感じ取れる。

 

 「さぁ、帰るか。魔法の城にな」

 

 夜明け前の山道を抜け、バイクは地を蹴って宙へと舞い上がった。

 

 冷たい風が顔を叩く。エンジンと魔力の唸りが混じり、夜空を突き抜けていく。

 

 街の光が遠ざかり、山の稜線の向こうには霧と雲が広がっている。

 その先にあるのは――あの石の城。

 

 「はぁ……給料全部溶かして、女の部屋で一晩過ごして、バイクでホグワーツ帰還。馬鹿みてぇな生活してんな、俺」

 

 けれど、それが俺の生き方だ。

 

 空を切る風が、全てを嘲笑うように吹き抜けた。

 

 夜明けの空を突き抜け、俺は再び魔法の世界へ戻っていった。

 

 そうしてホグワーツ魔法魔術学校へ戻れたのは、1時間目が始まる本当にギリギリの時間だった。

 

 まだ太陽は完全に昇りきっておらず、朝の空気はひんやりと肌を刺す。吐く息が白く漂い、湿った霧が中庭の芝生を薄く覆っている。バイクの魔力はまだ背中に残っていて、耳の奥でエンジン音がくぐもって響いていた。

 

 俺はルビウス・ハグリッドの小屋の近くにバイクを乗り捨て、フライトジャケットの裾を軽く整えると、即座に中庭へ向かって走り出した。

 

 「ひゅ〜……危ねぇ危ねぇ。なんとか間に合ったな」

 

 校舎の高い尖塔が朝霧の中にぼんやりと浮かんで見える。石畳を踏み鳴らす靴音が自分の心拍に重なり、全身が軽く温まる感覚があった。身体能力だけはずば抜けている俺にとって、この程度の距離は散歩みたいなもんだ。

 

 「ははっ、楽勝だな……」

 

 息はまったく上がっていない。だが胸の奥では、別の意味で冷や汗が流れていた。

 

 「……金は失ったけどな」

 

 200万。たった数分で消えた数字。数字ってのは本当に残酷だ。勝つときは軽く増えるくせに、負けるときは一瞬で消える。まるで呪霊の攻撃をまともに食らった時みたいに容赦がない。

 

 「次は当ててやる……」

 

 誰に聞かせるでもなく、ぼそりと呟いた。

 

 中庭の芝を踏みしめながら校舎を仰ぐと、生徒たちの姿がちらほらと見え始めていた。まだ授業開始の鐘は鳴っていない。だが朝食を終えた生徒たちが次の授業へと移動するため、廊下に列を作り始めている。

 

 ローブ姿のガキ共がわいわいと騒ぎながら集まる声が、霧の中で反響していた。杖をくるくると回してふざける奴、友達と大声で笑ってる奴、転びかけて騒ぐ奴――朝から元気いっぱいで何よりだ。

 

 「呑気なもんだな」

 

 ポケットに手を突っ込みながら、俺は中庭を横切った。

 

 自分でも少し笑える。数時間前、俺は日本の山の中にいて、タクシーを拾ってバイクにまたがり、魔法の城に戻ってきたばかりだってのに、この光景はまるで昨日と何も変わっちゃいない。

 

 「世界を股にかけてヒモと教師の二足のわらじって、我ながらロクでもねぇな」

 

 石造りのアーチをくぐり、校舎の中へ足を踏み入れる。廊下は薄暗く、松明の明かりが壁に淡く揺れている。ホグワーツ独特の湿った石の匂いが鼻を刺した。

 

 ――人間の生活の匂いとは違う。

 

 魔力が建物そのものに染みついていて、空気がわずかに重い。この感覚は、いくら時間が経っても慣れない。呪力と似て非なるもので、肌の表面をしっとりと撫でるように絡みついてくる。

 

 「相変わらず、気持ち悪ぃ空気だな」

 

 靴音が長い廊下に響く。教員棟に向かいながら、俺は軽く肩を回した。昨夜はバイクに長時間乗っていたせいで背中が少し張っている。

 

 すれ違った生徒たちが、俺の顔を見るなり小さく息を呑んだ。

 

 「……ひっ……」「おはようございます……!」

 

 女子は頬を赤らめて視線を逸らし、男子は俺の眼光に腰が引けている。

 

 「おいおい、そんなに怖い顔してねぇだろ」

 

 軽く笑ってみせても、彼らは余計にビクッと肩を跳ねさせるだけだった。

 

 1ヶ月もここにいるってのに、この反応は変わらねぇ。俺の顔か、それとも気配か。たぶん両方だろうな。

 

 ――教師って肩書きだけで“普通”にはなれない。

 

 元が殺し屋なんだから当然っちゃ当然だ。

 

 職員室の扉が見えてきたところで、廊下の向こうから見覚えのあるデカいシルエットが近づいてきた。

 

 「おぉ、ミスターフシグロ!」

 

 ルビウス・ハグリッドだ。あの半巨人が、満面の笑みで手を振ってきた。

 

 「……お前、声デカすぎるんだよ」

 

 「いやぁ、朝から元気がいいのはええこっちゃろ?」

 

 「うるせぇんだよ。バレるだろ」

 

 「なにが?」

 

 「……なんでもねぇ」

 

 思わず目を逸らす。まさかお前のバイクで夜中に日本へ行って女と一晩過ごしてきたとは、口が裂けても言えねぇ。

 

 「お前、なんか顔が疲れとるように見えるな?」

 

 「気のせいだ」

 

 「ほんまか?ちゃんと休んどけよ。今日は1年と4年の授業じゃろ」

 

 「分かってる」

 

 肩を軽く叩かれ、背中にずしりとした衝撃が残る。さすが半巨人、力が桁違いだ。

 

 職員室のドアを開けると、すでに何人かの教員が集まっていた。

 ミネルバが書類を抱え、スネイプが相変わらず嫌味な顔をしている。クィレルは俺を一瞬見て、びくりと肩を震わせていた。

 

 「おはようございます、フシグロ先生」

 

 ミネルバがきっちりとした口調で声をかけてくる。

 

 「あぁ」

 

 短く返すと、スネイプが冷ややかに視線を寄越した。

 

 「相変わらず……不思議な時間に現れますね」

 

 「俺は朝に強いんでな」

 

 適当な返しでやり過ごす。

 

 誰も知らない。ほんの数時間前、俺がホグワーツからはるか彼方の日本にいたことなんざ。

 

 「よし……授業、始めるか」

 

 教員席に腰を下ろしながら、小さく呟いた。

 金を失った夜の後でも、教師は教師。筋トレの時間は容赦なくやってくる。

 

 この妙な二重生活も、俺にとってはもう“いつもの日常”になりつつあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伏黒甚爾が夜空を切り裂いて日本に帰ったその日のうちに──日本のテレビと新聞では、ある映像と記事が大きく報じられていた。

 

 《夜空を飛ぶ“バイク”目撃情報続々》

 《正体不明の飛行物体 各地で目撃相次ぐ》

 

 それは東京郊外や地方都市の早朝の空で、複数の一般人が撮影した映像だった。

 

 暗い空の中を、1台の黒いバイクが高速で移動していく。

 エンジン音はほとんど聞こえず、羽もなし。滑るように移動するその姿に、誰もが息を呑んだ。

 

 ニューススタジオでは、その不気味な映像を何度もリプレイしていた。

 

 「ご覧ください、こちらが昨夜から今朝にかけて都内や千葉県などで撮影された映像です!」

 

 アナウンサーがやや興奮気味に映像を紹介する。

 

 「バイク……ですよね?完全に飛んでますよね!?」

 

 コメンテーターの芸人が声を上げる。

 

 「いやいや、バイクが空を飛ぶなんてあり得ないですよ」

 

 別の解説者が首を振る。

 

 「でも映像を見てください。羽もプロペラもなし、ライトも通常の車両とは違う配置です」

 

 画面では黒いシルエットが夜空を横切る様子が繰り返し流れている。複数の方向から同時に撮られた映像は一致しており、捏造ではないことが明らかだった。

 

 「……ひょっとして軍の実験機ですか?」

 

 「公式な発表は今のところありません」

 

 「新聞各紙でも報道されていますよね。『謎の飛行バイク』って」

 

 紙面の見出しには「未確認飛行物体」「正体不明」「目撃相次ぐ」という単語が並んでいた。

 ネットのない1991年でも、このニュースは新聞とテレビで瞬く間に全国へ広まっていった。

 

 

 

 その頃、マホウトコロ──南硫黄島の山頂にそびえる日本の魔法学校の校長室では、古びたテレビが報道番組を映していた。

 

 「ブフォッ!!」

 

 湯呑みを持っていた老婆が盛大にお茶を噴き出した。

 年齢は七十を越えているが、その背筋は真っ直ぐで、紫の和装をきっちりと着こなしている。マホウトコロ校長──日本魔法界の重鎮である。

 

 「な、なにこれ……なにこれぇぇぇ!? どう見ても……飛んでるじゃないの!」

 

 老婆の皺の刻まれた額に冷や汗が流れた。

 

 映像を凝視するまでもなく、それが“魔法具”による飛行であることは明らかだった。

 魔力の光の歪み方、空気の揺らぎ、そして推進の軌跡。どれも高度な魔法による飛行だ。

 

 「バイク……これはバイクね……でも、こんな魔法具……聞いたことない」

 

 老婆は震える指でリモコンを持ち、ボリュームを上げた。

 

 「これは航空自衛隊にも確認中で……」

 「近隣の空域を通過した形跡があり……」

 

 ニュースのテロップが次々と流れる。

 

 ──これは、魔法界にとって由々しき事態だった。

 

 日本の魔法社会はマグル(非魔法使い)との共存が比較的穏やかではあるが、だからといって魔法の露見が許されるわけではない。国際的な取り決めとして、魔法は徹底的に秘匿されねばならない。

 

 「バカな……誰が……こんな真似を……」

 

 老婆は立ち上がり、棚の奥から桐箱を取り出した。

 その中には金色の魔法具──連絡用の水晶が収められている。

 

 「これは……ただの浮遊呪文じゃない。完全に“飛行型の魔法具”だわ」

 

 老婆の声が震える。

 それは明らかに国際的な規制対象となる高等魔法具。日本の魔法界には存在しない。

 

 「まさか……国外から?」

 

 しかし、どこの国のものか見当もつかない。

 魔力の波は英連邦系に近いが、細部が微妙に違う。

 

 「……マグルに見られた。これはまずい」

 

 老婆の脳裏に、過去のある取り決めがよぎる。

 

 ──日本魔法界と呪術界との協定。

 

 長きにわたって両者は表立って関与しない形をとってきたが、外部の魔法騒ぎとなれば話は別だ。

 下手をすれば呪術師たちも巻き込む騒ぎになる。

 

 「このまま放っておけない……!」

 

 老婆は水晶に手を当て、低く呟いた。

 水晶の中に淡い光が灯り、連絡網の回線が開かれる。

 

 「……確認を急がなければ」

 

 

 

 一方その頃、ニューススタジオは完全に“この話題”一色になっていた。

 

 「映像を見た人の証言も集まっています」

 

 街頭インタビューが流れる。

 

 「バイクみたいなもんが空を走ってたんですよ! 夜の空に、ギューンって!」

 「UFOかと思った。人が乗ってたように見えたけど、あんなスピードじゃ顔なんて見えないよ!」

 「空飛ぶ円盤じゃなくて……空飛ぶバイク? 何それ……」

 

 映像の再生とともに、スタジオがざわめく。

 

 「軍も民間も“該当機なし”だそうです。現時点で正体は分かっていません」

 

 「いやぁ〜バイクって……そんなアホな」

 

 芸人のコメントに少しだけ笑いが起こるが、空気は完全に真面目だった。

 

 ──まさか、それに乗っていたのが“術師殺し”と呼ばれる男だとは、誰も想像すらしていなかった。

 

 

 

 再びマホウトコロの校長室。

 

 老婆はニュースの映像をもう一度巻き戻し、黒いシルエットをじっと見つめた。

 

 「……この気配、覚えがあるような……いや、まさか」

 

 “術師殺し”という異名は、日本でも呪術界の一部の古い記録に刻まれている。

 伏黒甚爾。

 呪術師の名家禪院家に産まれながら呪力を持たず、それゆえに呪術師を殺す存在として知られる男。天与の暴君、禪院甚爾。

 

 「……もし本当に、あの男が絡んでいるとしたら……厄介なことになる」

 

 老婆は目を細め、再び水晶に手を伸ばした。

 

 魔法具の主が誰なのか、今は分からない。

 ただ1つだけ確かなのは──

 

 「……マグルに見られた。これは……非常にヤバい」

 

 老魔女の小さな呟きが、南硫黄島の静かな校長室に沈んでいった。

 

 そして日本列島では、新聞とテレビが連日「空飛ぶバイク騒動」を報じ続けることになる。

 

 ほんの一夜の遊びが、知らず知らずのうちに──魔法社会の水面を静かに揺らしていたなんてことは、甚爾本人は知らない。




1991年と携帯を調べたらムーバというものが出てきました。カッコいいすね。
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