ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第九話

 

 

 

 

 スキャバーズにとって夜はもっとも憂鬱な時間になった。ホグワーツに戻ってからというもの、彼はずっとこの檻の中に閉じ込められていた。グリフィンドール男子寮の片隅、窓の近くに置かれた鉄製の檻。月明かりが差し込むと、格子の影が床に長く伸び、まるで逃げ場のない網が部屋中に広がっていくように見えた。

 

 ホグワーツ特急の中で一瞬の隙をついて逃げ出した。しかしすぐにロンに捕まり、以来ずっとこうだ。檻は重く、頑丈で、繋ぎ目はひとつも甘くない。ネビルが筋トレ器具を作るついでに溶接して作ったらしい。力任せに引っ掻こうが、爪を割ろうが、歯を欠けさせようが、一切びくともしない檻だった。

 

 「チュッ、チュウ……(逃げたい、逃げたい逃げたい!)」

 

 だが、逃げようと動くたびに視界に入るのは、夜ごとやってくる黒い影だった。

 

 黒い犬。シリウス・ブラック。

 

 夜になると必ず来る。音もなく、足音もなく、ただ月の光に黒い毛を光らせながら、檻の前に座り込み、動かない。瞬きすらほとんどしない。ただ、じっと、見ている。

 

 「ウォフ(逃げたらお前は終わりだ)」

 

 声には脅しの抑揚がなかった。ただ事実だけを告げる生き物の声だった。それが逆に怖かった。

 

 スキャバーズは震えた。背中から毛が抜ける音が自分の鼓膜に響いた気がした。最近は本当に毛が抜ける。食事も喉を通らない。飲み水ですらひと口飲むのに勇気がいる。

 

 「チュウ……チュゥ……(もう許してくれ……)」

 

 しかし、それ以上に怖いものがいた。

 

 伏黒甚爾。

 

 シリウスが座っている少し離れた窓辺に立つ男は、何も言わない。ただ立っているだけだ。だがその存在が檻の中の空気を締め付けていた。人間の姿でありながら、獣よりも渇き、冷え、飢えているような気配。生き物が本能で理解する種類の、絶対的な捕食者。

 

 避けられない。逃げられない。隠れられない。

 

 それを本能が知っている。

 

 「(なんで、なんで、生き延びたはずなのに……)」

 

 スキャバーズは自分の過去を思い返すことさえできない。思い返すと、胸が苦しくなった。息が詰まる。視界が狭くなる。

 

 ヴォルデモートが倒れた夜。自分が選んだ道。自分が売った仲間。自分が笑って裏切った友。

 

 すべてが焼き付いている。

 

 「(あれは正しかった……正しかったんだ……生きるために仕方なかった……!)」

 

 しかし、その言い訳は檻の中で何千回唱えても、乾いた空気に吸われ、何の意味も持たなかった。

 

 最近、夢を見るようになった。いや、夢というより、記憶の追体験だ。

 

 ジェームズの声。リリーの声。笑っていた頃。暖炉の火。スープの匂い。寒い冬の日に肩を寄せ合って笑った時間。ほんの一瞬の幸福。

 

 そのすべての後ろに、シリウスの怒りが立っていた。

 

 そして、そのさらに後ろに、伏黒甚爾の冷たい気配が立っていた。

 

 逃げろ、と心が叫ぶ。

 

 逃げられない、と体が理解する。

 

 その繰り返し。

 

 夜が来るのが怖い。陽が落ちると、自分は自分でいられなくなる。心臓が大きな音を立て、呼吸が乱れ、毛が抜ける。

 

 そしてその頃、スキャバーズを見張るもうひとりの存在がいた。

 

 ネビル・ロングボトム。

 

 彼は決してシリウスや甚爾のように脅すわけでも追い詰めるわけでもない。ただ淡々と檻を確認し、補強し、餌を替え、水を替え、時折「生きてるな」と小さく呟いて去っていく。

 

 その優しさが一番こたえた。

 

 「(やめろ……優しくするな……優しいやつほど……俺は裏切ってきたんだ……)」

 

 優しさは刃だった。逃げられない、という事実を柔らかい声で突きつけてくる。

 

 そして夜はまたやってくる。

 

 黒い犬が歩く足音。

 

 窓際に立つ男の影。

 

 その全てが、スキャバーズにとって地獄そのものだった。

 

 「チュ……チュウゥ……(助けて……誰か……)」

 

 しかし、助けなんて来ない。

 

 ここはホグワーツ。守るべきものの多い場所。

 

 裏切り者は、生きているだけで十分だった。

 

 いや、

 

 生きていることが罰だった。

 

 それでも夜は終わらない。

 

 明日もまた夜が来る。

 

 そして、その次の日も。

 

 逃げ場はない。

 

 檻は破れない。

 

 生きたまま、心がすり減っていく時間だけが続いた。

 

 

 そうしてスキャバーズはハダカデバネズミになった。

 

 「うわ!ちょっとハリー!ネビル!見てくれよ!」

 

 「なんだよロン……うわーお」

 

 「どうしたってん……すげーなオイ」

 

 ロンが朝起きてスキャバーズを確認したとき、そこにいたのは昨日までの“灰色のちょっと太った鼠”ではなかった。全身の毛という毛が抜け落ち、シミだらけのピンク色の皮膚がむき出しになり、目だけがぎょろりとこちらを見ている。普段は丸っこかった身体はすっかり痩せ細り、尾は干からびた枝のように震えていた。

 

 「夜に何かあったのか?」

 

 ハリーが近づいて覗き込む。

 

 「爆睡してて気づかなかったよ」

 

 ロンは頭を掻いた。寝相は悪いが、誰かが黙って部屋に入れば気配で起きるくらいには鍛えられている。それでも何も気づかなかった。

 

 「……俺も」

 

 ネビルも小さく言った。ネビルは寮の見回り当番を担当する日も多い。気づいていないということは、誰もこの部屋に侵入していないということだ。

 

 「ストレスってやつ?」

 

 ハーマイオニーが檻の前に立ち、じっと見つめた。彼女はいつの間にかそこにいた。本を抱え、眠っていたはずなのに、気づけばもう目を覚まし、状況を分析している。

 

 「確かに、ストレスで毛が抜けることはあるわ。でもここまで一晩で全部抜けるなんて……」

 

 「普通じゃねぇよな」

 

 「普通じゃないな」

 

 4人は無言で頷き合った。

 

 スキャバーズは小さな呼吸を繰り返している。胸がちいさく震えて、弱々しい。生きているのが不思議なくらい衰弱していた。

 

 「……ねぇ、ロン」

 

 「ん?」

 

 「これ、本当に……ただの鼠?」

 

 「ずっと言ってるじゃん……」

 

 ハリーの言葉に、ロンは唇を噛んだ。

 

 この問いは、彼の心の奥底にずっと渦巻いていたものだった。思い出すのは去年の誕生日、ハーマイオニーのペットのクルックシャンクスが執拗にスキャバーズを追いかけ回したときのこと。あれはただ本能的な猫の行動ではなかった。見つけた、という顔をしていた。

 

 「……分からない。でも、俺はずっと一緒にいたんだ。12年だぞ。こいつは気持ち悪いけど俺の家族なんだ」

 

 ロンの声は震えていた。怒りではなく、不安でもなく、ただ必死に何かを守ろうとする声。

 

 「ロン」

 

 ネビルがそっと背中を叩いた。

 

 「大丈夫。檻は大丈夫だ。俺が作った。頑丈だ」

 

 ネビルの言葉は、嘘ではない。実際、檻は強固だ。指一本通らないほどに格子は狭く、天井も床も外れない構造だ。ネビルは植物だけでなく、こういう工作や力仕事も妙に上手かった。

 

 「そうだな……ありがとう」

 

 ロンは少しだけ笑った。その笑顔は弱々しいが、それでも、前を向く意思を帯びていた。

 

 「……で、問題は授業だ」

 

 ハリーが現実に引き戻す。

 

 「今日、リーマス先生の授業だろ?防衛術」

 

 「そうだな」

 

 「スキャバーズはこれ以上揺らしたくないし……見張りは必要だ」

 

 「俺、残るよ」

 

 ネビルが即答した。

 

 「えっ、お前授業は?」

 

 「いいよ。別の日に先生に聞く。俺、こいつ見てる」

 

 ハーマイオニーが口を開きかけたが、止めた。ネビルの目は迷いがなかった。

 

 「……ありがとう。ネビル」

 

 ロンは深く頭を下げた。ネビルは照れ臭そうに頬をかき、檻の横に座った。

 

 「じゃあ……行ってくる」

 

 ハリー、ロン、ハーマイオニーはそれぞれ教科書と杖を持ち、部屋を出ていった。

 

 扉が閉まると、部屋は静かになった。

 

 ネビルは椅子に腰を下ろし、膝に両肘を置いて手を組んだ。

 

 スキャバーズは震えながらネビルを見上げる。

 

 「チュ……チュウゥ(助けて……)」

 

 声は弱く、か細い。今にも消えそうな音。

 

 ネビルはその声を理解できるわけではない。けれども、その「怯え」だけは、見れば分かった。

 

 「……大丈夫だよ。ここにいる」

 

 それは脅しでも、慰めでもなく。

 

 ただ真っ直ぐな言葉だった。

 

 スキャバーズの細い体が、ほんの少しだけ震えを弱めた。

 

 外では鐘が鳴り、授業開始の時間を告げていた。

 

 そしてこの小さな檻の前で、たった1人と1匹の静かな時間が流れていった。

 

 「あ!スキャバーズ、俺のペットと話をするか?」

 

 ネビルはぽん、と手を打つと立ち上がり、自分のベッド脇にある棚へ向かった。そこには藁が敷かれたカゴが置いてあり、上には布がかけてある。ネビルはそれを慎重に持ち上げ、足音を立てないように戻ってきた。

 

 檻のすぐ隣り、ほぼ向かい合うようにしてカゴは置かれる。ネビルは深呼吸を一つしてから、そっと蓋を開けた。

 

 「俺のペット、トレバーって言うんだ」

 

 そう言って取り出されたのは――カエル。……なのだが、明らかに普通じゃない。

 

 トレバーはカエルであるはずなのに、体は前よりひと回り以上大きく、皮膚はつややかに張り、手足には無駄のない筋肉が盛り上がっている。何より、目の上にある“太い眉毛”が主張しすぎている。目元には縦に一本、古傷のような線。腕を組めるはずもないのに、雰囲気としては完全に腕を組んでいた。

 

 スキャバーズはそれを見た瞬間、全身を震わせた。

 

 「チュウウウウウウ!?(怖いいいいいい!!!)」

 

 甲高い鳴き声が檻の中で跳ね返る。

 

 ネビルは嬉しそうに笑っていた。

 

 「夏休みの間一緒に鍛えたんだ。すげーだろ?」

 

 そう、これは夏休み中の成果だ。ネビルは学期中の鍛錬だけでなく、家に帰ってからも筋トレを続けていた。腕立て、スクワット、素振り、持久力トレーニング、そしてトレバーも横に置いて同じリズムで動かした。

 

 最初はただの応援要員だったはずなのに――気づけばトレバーも同時に成長していたらしい。

 

 「クルルル……」

 

 トレバーは低く鳴いた。威嚇ではない。呼吸だ。だが存在感だけでスキャバーズにとっては十分すぎる脅威だった。檻の中で尻尾を体に巻きつけ、完全に縮こまる。

 

 ネビルは気づかない。

 

 いや、気づいてはいるが、それを深刻に捉えていない。

 

 「大丈夫だよ。トレバーは優しいんだ。噛んだりしない」

 

 その言葉通り、トレバーはじっとしている。ただそこにいるだけだ。

 

 だがスキャバーズにとっては、それで十分だった。

 

 「チュ……チュウ……(やだ……近い……)」

 

 震えは止まらない。それでも逃げられない。檻は頑丈、ネビルはすぐ隣、そして扉の向こうにはハリー達がいるはずだ。

 

 「よし、トレバー。スキャバーズに挨拶」

 

 ネビルは優しく言う。

 

 トレバーはぴょん、と一度軽く跳ねた。

 

 たったそれだけで――空気が震えた。

 

 「チュチュチュチュチュチュ!!!(やめてやめてやめてやめて!!)」

 

 スキャバーズは檻の隅に押し付けられるようにして叫んだ。

 

 その様子を、ネビルは少し困った顔で見つめた。

 

 「……そんなに怖いかな」

 

 優しい声音だった。

 

 ネビルは本当に、純粋に、誰かの役に立ちたいだけなのだ。

 

 だからスキャバーズが怖がっていることは分かる。けれど、逃がすことはしない。それが誰かの為になると信じているから。

 

 「大丈夫。()はここにいるし、ハリー達も帰ってくるから」

 

 ネビルは静かに優しく言って、そっとスキャバーズの檻の前に座り直した。

 

 トレバーはその横で、ちょこんと正面を向いたまま動かない。筋肉の影がランプの光でくっきり浮かぶ。

 

 「チュ……チュウ……(なんなんだよコレぇ……)」

 

 スキャバーズの目が虚空を見つめ始める。

 

 伏黒甚爾の授業は、生徒だけでなく、ペットにも影響を与え始めていた。

 

 そして、この小さな寮室の中で――

 

 “追い詰められた鼠”は、静かに静かに限界へ近づいていた。

 

 その日はまだ静かだった。

 

 だが、それが長く続くことはない。

 

 

 

 

 

 闇の魔術に対する防衛術の教室に、3人――ハリー、ロン、ハーマイオニーが入ると、すでにスリザリン、レイブンクロー、ハッフルパフの3寮の生徒達が整然と並んでいた。床は磨き上げられて光り、壁には呪文の図解が整然とかかっている。だが教室中央に置かれた、大きな鏡付きの古い衣装ケースのようなものが、全員の視線を捉えていた。重く装飾のついた取っ手、変色した金具、そして微かに揺れる蓋。その中に“何か”が入っていると、誰もが分かっていた。

 

 奥の個室の扉が開き、リーマス・ルーピンが姿を現した。淡い茶色のローブに、少し疲れたような優しい顔。そしてその足元には黒い犬――シリウスが寄り添うように歩いていた。犬は気配を散らさない。まるで影のようだ。

 

 「やあ!3年生のみんな、揃ってくれたね」

 

 リーマスは声を明るくした。生徒達は一斉に姿勢を正す。視線がまっすぐに揃う。軍隊か、と誰かが心の中で思う。いや、それは事実上正しい。彼らは伏黒甚爾の“体育”を受け続けている。背筋は伸び、動きに無駄はない。

 

 「今日はね、少し趣向を変えてみるつもりだよ。真ん中にあるもの、もう気づいているよね」

 

 衣装ケースを優しく叩くと、生徒達の背筋に一瞬緊張が走る。

 

 「この中に何がいるか分かる人は?」

 

 「ボガートです!!!」

 

 教室に響く声。全員揃った返答。息も揃っている。ロンだけ「ボッ――ガート!」と一拍遅れたが、誰も突っ込まない。突っ込めば腕立てだ。ここはそういう学校だ。

 

 「すごいね。じゃあ、ボガートがどんな姿をしているか分かる人は?」

 

 「はい!!」

 

 全員が手を挙げる。リーマスは一瞬だけ感心したように目を細める。

 

 「じゃあ1番早かった……ハーマイオニー、説明してくれるかな?」

 

 ハーマイオニーは頷き、まっすぐ前を見た。

 

 「ボガートの本来の姿は謎です。形態模写妖怪で、相手が“もっとも怖れるもの”の姿に変形します。だから、観測者によって形が違います」

 

 「素晴らしい。グリフィンドールに10点」

 

 控えめな拍手が起こる。手の形、角度、音の大きさに至るまで揃っている。甚爾の授業は“秩序”を残していった。

 

 「では――実践してみよう。ボガートに対抗する呪文は“リディクラス”。恐怖を笑いに変換する魔法だ。恐怖の形を笑える形に変える。それがこの呪文の核心だよ」

 

 リーマスは衣装ケースの取っ手に手を掛ける。

 

 「ドラコ、前に」

 

 ドラコ・マルフォイは迷いなく前に歩き出た。髪は整い、顎は引かれ、目に揺れはない。だが靴音が床に響いた瞬間、空気の温度が少し沈む。ドラコは深く息を吸う。

 

 「準備はいい?」

 

 リーマスが尋ねる。

 

 ドラコは頷いた。

 

 衣装ケースが開く。

 

 空気が揺れ、影が溢れる。ドラコの目の前で形が膨らみ、捻れ、輪郭を帯びる。

 

 それは――ルシウス・マルフォイだった。父親。冷たい目、厳格な立ち姿、失望を突きつけるような眉。

 

 ドラコはほんの一瞬、喉を鳴らした。

 

 だが――それだけだった。

 

 「……リディクラス」

 

 掲げられた杖が走り、呪文が飛ぶ。

 

 父親の姿は勢いよく変形し――とても長い鼻に、バカみたいに大きなシルクハット、手には鳴り響くマラカス。陽気な酒場の道化になった。

 

 「……ぷっ……」

 

 教室に最初に漏れたのはハーマイオニーの小さな笑い。それを皮切りに、笑い声が波のように広がる。

 

 リーマスは優しく微笑んだ。

 

 「よくできたね、ドラコ。グリフィンドール……じゃなくて、スリザリンに10点」

 

 ドラコは少しだけ誇らしげに鼻を鳴らした。

 

 「次、ハリー」

 

 名前を呼ばれた瞬間、教室の空気が変わった。

 

 ハリーは立ち上がり、深い呼吸と共に前に進む。ロンとハーマイオニーは息を飲んだ。

 

 蓋が開く。

 

 影が、形を取る。

 

 教室の空気が一気に変わった。

 

 そこに現れたのは――伏黒甚爾だった。

 

 黒いシャツに白いワイドパンツ。無駄のない筋肉。静かでぞっとするような、動きの気配。授業中に見せた、あの圧。相手を見た瞬間、骨の奥が反射的に防御態勢を取る“殺気の密度”。

 

 ハリーは喉を鳴らした。

 

 「……あぁ、そっか」

 

 自分が最も恐れていたものは、闇の魔法でも死でもなかった。

 

 “理不尽な強さ”。

 

 “絶対に勝てない相手”。

 

 そして――それに向き合わされる瞬間。

 

 それは伏黒甚爾だった。

 

 教室中が息を止める。笑う者はいない。戦った者しか知らない“動けなくなる感覚”。それが空気に満ちていた。

 

 「ハリー」

 

 リーマスが小さく呼んだ。

 

 ハリーはゆっくりと杖を構えた。

 

 震えはある。だが足は前に出ている。

 

 「……リディクラス」

 

 光が走る。

 

 甚爾は――巨大な着ぐるみになった。

 

 明らかに動きづらそうな、黄色いもこもこパンダスーツ。中身の筋肉が無駄に主張しているせいで、腕と脚がぱんぱんに膨らんだ、妙に怖いのに、どうしようもなく間抜けなパンダ。

 

 「…………」

 

 最初に声を出したのはロンだった。

 

 「いや似合いすぎだろ」

 

 爆笑が起きた。

 

 ハリーは息を吐いた。

 

 リーマスは穏やかに笑った。

 

 「それでいい。恐怖は向き合えば形が変わる」

 

 黒い犬――シリウスは静かに目を細めていた。

 

 伏黒甚爾は、ここにはいない。だが彼が刻んだ“強さ”は、確かにここに残っていた。そして――この笑いの余韻が消える前に、外から冷たい風が差し込む。その風は、どこか“死の気配”を含んでいた。

 

 ホグワーツに、別の影が近づいていた。

 

 ディメンター。

 

 夜が、静かに牙を剥こうとしていた。

 

 

 少し時は遡り、イギリス魔法省大臣執務室。分厚い絨毯と無駄に大きな机が置かれた、広いがどこか圧迫感のある部屋。壁には額縁に入った魔法大臣歴代の肖像画が掛けられているが、誰一人喋らない。話すべき話題が妙に穏やかではないからだ。

 

 コーネリウス・ファッジは、羽ペンを置き、深く息を吐いた。

 

 「ホグワーツで伏黒甚爾とシリウス・ブラックが確認されました」

 

 アンブリッジが淡々と言った。声に揺れはない。だがその瞳は、獲物を真綿で絞め殺す蛇のような粘りのある光を宿していた。

 

 「なに?ホグワーツで?なぜホグワーツに?」

 

 「分かりません。しかし状況から鑑みて、ダンブルドア校長の意図的な招き入れと考えるのが妥当でしょう。伏黒甚爾が脱獄し、シリウス・ブラックも脱獄。その後どこに姿を現すか。最も安全で、魔法省の手が及ばない場所に、です」

 

 ファッジは額に汗をにじませた。

 

 「……アンブリッジ、なぜそこまで執拗なんだ?シリウス・ブラックはまだしも、伏黒甚爾は君に何もしていないだろう」

 

 アンブリッジはにっこり微笑んだ。その笑みは、菓子箱の包装紙だけ綺麗で中が腐っているみたいな、妙に不気味な笑みだった。

 

 「えぇ、そうですわねぇ。直接的には“何もされておりません”のよ?」

 

 ドス黒い甘さの声。

 

 「ですが――“存在”が許せませんの」

 

 「……存在?」

 

 「はい。魔法界とは“魔法を持つ者が優位”という秩序の上で成立しております。それを根本から破壊する人物が、伏黒甚爾なのです」

 

 アンブリッジは指先で机を軽く叩いた。

 

 「魔法を持たず、呪文も使えず、それでいて魔法使いより強い。そんな男が“教師”として存在している。それはつまり、魔法省の権威そのものに対する“侮辱”ですわ」

 

 ファッジの顔色がわずかに変わった。

 

 「しかし……だからといって、過剰に追い詰める必要は――」

 

 「あります」

 

 アンブリッジは遮った。声は柔らかい。だがその中に針が混じっていた。

 

 「伏黒甚爾がそこにいる限り、人々は疑問を抱き始めます。“魔法とは本当に必要なのか”と。“魔法省は本当に上に立つべき存在なのか”と」

 

 「……それは」

 

 「秩序は、壊れるときは一瞬ですわ」

 

 室内の空気が冷えた。暖炉の火が燃えているのに、寒い。

 

 アンブリッジは書類を一枚取り出した。

 

 「ですので――私は提案いたします」

 

 ファッジは嫌な予感を覚えながら聞いた。

 

 「ホグワーツに、ディメンターを配置しましょう」

 

 執務室の空気が、ぴしりと硬直した。

 

 「……学校に、だと?ディメンターを?正気か?」

 

 「シリウス・ブラックは確かに危険人物として扱われています。世論も納得するでしょう。そして伏黒甚爾も“脱獄犯”です。魔法省が安全のために学校を警備する――名目としては完璧です」

 

 「しかしディメンターは、生徒達に悪影響が出る!」

 

 「“副作用を最小限に抑える為の魔法的防壁を設置した”ということにしますわ」

 

 アンブリッジの声は終始柔らかい。

 

 その柔らかさは、溺れる人間に絡みつく水草のように、逃げ場がない。

 

 「ファッジ大臣。あなたは支持率を下げたくはないでしょう?」

 

 ファッジは返答に詰まった。

 

 アンブリッジはさらに畳み掛ける。

 

 「ここで“ダンブルドアに好き勝手をさせた大臣”という印象を植え付けられれば、魔法省にも、あなたにも、決して良くありませんわ。ですが、“危険な脱獄犯から子供達を守るために迅速に行動した大臣”という印象を残せば――どうでしょう」

 

 ファッジの表情に、曇りの中の光のような“迷い”が差した。

 

 そして、迷いは、弱さに変わる。

 

 「…………分かった。だが、必要以上に生徒に近づけるな。あくまで“外郭警備”という形に――」

 

 「もちろんですわ、大臣。もちろん」

 

 アンブリッジはにっこりと微笑んだ。

 

 笑みは形だけのもの。

 

 そしてその笑みの奥で、別の思考が静かにうごめいていた。

 

 (伏黒甚爾。あなたは、魔法の体系を汚す“異物”。わたくしが必ず排除しますわ)

 

 彼女は美しい紅茶の香りを纏いながら、毒を含んだ蛇の目で未来を見つめていた。

 

 それは――ホグワーツの空がまだ曇り始める前のことだった。




ポガートが伏黒甚爾に変身したら暴走するかもしれないという懸念を忘れていました。リディクラス!!!
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