ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第十話

 

 

 

 

 もうすぐ10月。ホグワーツの空はまだ秋の入り口って感じで、朝の空気はひんやりしている。湖畔には薄く霧が溜まっていて、歩くと靴底がしっとりと濡れる。

 

 俺はいつものように黒いシャツに白いワイドパンツの格好でランニングをしていた。走るとシャツが肌に張り付く。息が白くないのに、寒さは肌の奥に刺さるように来る。季節が変わる時ってのは空気が独特だな。

 

 スキャバーズの監視はシリウスに任せている。あいつは今はリーマスの“ペット”扱いで、堂々と寮に出入りしている。誰も黒い犬がシリウスだなんて疑いもしない。むしろ「ワンコかわいい」「寝る時一緒に来てくれて優しい」なんて言われてんだから笑えない。あの黒犬、犬の癖にモテすぎだ。それに満更でもない顔してるのが余計に腹立つ。

 

 とはいえ、夜はずっと檻の前に張り付いてピーターを威圧し続けてるわけだし、役には立ってる。俺は俺で身体が鈍らないように空いた時間でトレーニングってわけだ。

 

 ランニングのテンポを少し上げた時だった。空気が急に変わった。気配だ。

 

 「先生……」

 

 現れたのは俺と()()()()()格好をしたネビルだった。コイツ……やっぱりデカくなったな。以前の情けないガキの面影は消えている。肩周りの筋肉はしっかり付いて、姿勢も崩れてない。走るフォームも無駄がない。よく鍛えられてる。

 

 「やっぱりホグワーツにいたんですね」

 

 「まぁな、誰にも言うなよ。特にハリーとかロンとかハーマイオニーにはな」

 

 「ははは、分かってますよ……あの……もしかしてシリウス・ブラックもここに?アズカバンに行って一緒に脱獄したって」

 

 ネビルは小声で言ってきた。そりゃそうだ、あれだけ噂になってるんだ。俺がアズカバンに行って、シリウスと一緒に出てきたなんて、イギリス中が騒いでる。

 

 「まぁ、そうだな」

 

 「本当に……凄いです。怖いとかじゃなくて……俺、あの時の先生見てて思ったんです」

 

 「ん?」

 

 「“本物”だって」

 

 ネビルは真っ直ぐ俺を見て言い切った。声に迷いがなかった。

 

 あぁ、そうか。こいつ、変わり切ったんだな。もはや昔のネビルじゃない。

 

 「……あの、先生。シリウス・ブラックって本当に危険な人なんですか?」

 

 その質問が来ることは分かっていた。最近、生徒達の間では噂話が回っている。アズカバン、脱獄、闇、殺人者。そういうラベルだけが勝手に大きくなって歩き回る。

 

 俺は走りながら短く息を吐いた。

 

 「世間が言ってることが、全部正しいわけじゃねぇよ」

 

 「でも、怖い名前です」

 

 「名前で人を判断するな。強さも、罪も、心も、全部中身の話だ」

 

 ネビルは静かに頷いた。

 

 「俺……強くなりたいです。ただ力が欲しいとか、勝ちたいとかじゃなくて。怖くても、立っていられる強さがほしい」

 

 その言葉は、妙に真っ直ぐだった。こいつは本当に変わった。

 

 「なら毎日やれ。走って、息が切れて、身体が重くても止まらず動け。強さはそういう積み重ねだ」

 

 「はい」

 

 湖畔の空気は冷たいのに、ネビルの呼吸はあまり乱れていない。本当に鍛えてやがる。

 

 「……先生。()はまた授業、受けたいです」

 

 その言い方は真面目すぎて、ちょっと笑いそうになった。

 

 「俺は現在指名手配の脱獄犯なんだが?」

 

 「でも、先生は先生です」

 

 こんなん言われたら、断りようがねぇだろ。

 

 「ならここでやるぞ。構えろ」

 

 ネビルは即座に構えを取った。拳の位置も、足幅も、以前より格段に良い。ゆっくりと俺は踏み込んで、軽く拳をぶつけてみる。衝撃を受け止める体幹がぶれない。

 

 「……悪くねぇ」

 「ありがとうございます」

 

 朝の風が、霧を揺らしながら通り抜けていく。ホグワーツはまだ静かなままだが、確実に変わり始めている。生徒達も、空気も、そして俺も。

 

 教師じゃなくても、生徒の前に立たなくても、俺は“教える側”のままでいられるらしい。

 

 それでいい。今はそれで十分だ。

 

 ネビルに軽く稽古をつけた俺は、そのまま湖畔から校舎の裏手を抜け、ハグリッドの小屋へ向かった。

 

 朝の空気はまだ冷たいが、日が昇り始めると草むらの匂いと獣の気配が混じり合って、ホグワーツらしい空気になる。木の葉が擦れ合う音と、遠くでボートハウスの扉が閉まる音。人が起き出す少し前のこの時間帯は、やけに世界が広く感じる。

 

 俺は軽くノックして扉を開けた。

 

 「お邪魔するぜ」

 

 「うおっ!トウジか……ビックリさせねぇでくれよ」

 

 巨大な身体を揺らしながら、ハグリッドがマグカップを置いた。でかい手でカップを持つから、まるでおもちゃみたいに見える。だからって俺のことをびっくり箱扱いするんじゃねぇ。

 

 「悪いな」

 

 小屋の中はいつも通り温かくて、肉と獣毛と土の匂いが混じっていた。壁際にはエサ袋、ケージ、鳥かご、よく分からん牙のコレクション。混沌だが、ハグリッドの生活って感じだ。

 

 ちなみにだが、教職員は俺とシリウスがホグワーツにいることを既に知っている。そもそもダンブルドアの指示で動いてるわけだし、もう隠す段階は過ぎてる。ただ、生徒にはまだ言わない。言ったら騒ぎになるからな。

 

 「ハグリッド、そろそろいいだろ?空飛ぶバイク貸してくれ」

 

 「まーだ言うとるんか!?あれは貸さんと言っただろ!」

 

 「俺は聞いたぜ。あのバイクはシリウスのものなんだろ?お前は借りパクしてるわけだ」

 

 「は?な?いや、その、あれは……だな……」

 

 目が泳いだ。図星だな。

 

 「あの犬がバイクはどこにあるんだぁ?とか言う前に返しておいた方がいいと思うけどなぁ?」

 

 「うぐっ……だ、だがあれはだな!わしが整備してやっておるんじゃ!もうほとんどわしの物みたいなもんじゃ!」

 

 「はいはい。論理のすり替えお疲れさん」

 

 ハグリッドは耳まで真っ赤だ。分かりやすい男だ。

 

 「つーかさ、あのバイクは俺とシリウスの逃走手段の保険でもあるんだよ。どこかに逃げる時は空飛べた方がいいだろ?」

 

 「お前さんあんま堂々と逃げるとか言うな……」

 

 「お前の方がでけぇ声だわ」

 

 ハグリッドは大きく息を吐いた。諦めた時の呼吸だ。

 

 「……じゃあ条件だ」

 

 「ほう?」

 

 「今日の魔法生物の授業、手伝え」

 

 「あぁ?なんでだよ」

 

 「バックビークの機嫌がちょっと悪いんじゃ。夏にちょっと足痛めとってな。生徒によう接するんじゃが、どうにも気が立っとる時がある」

 

 バックビーク。ヒッポグリフか。以前よりだいぶ落ち着いた個体だが、怪我してるなら気性が尖るのも分かる。

 

 「まぁいいけどよ」

 

 「素直じゃのぉ」

 

 「バイクのためだよ」

 

 「現金なやつじゃな……」

 

 現金で何が悪い。生きるってのはそういうことだ。

 

 「でも、手伝うって何すんだ?俺は表に出れねぇぞ」

 

 「あ、そうじゃった〜……」

 

 コイツはやっぱりちょっとバカだ。秘密はペラペラ喋るし、セキュリティはガバガバだ。まぁ、悪気はないんだろうが、秘密裏に動く俺からすると喉が渇くタイプの男だ。

 

 「まあちょっとバックビークの様子を見てくれ。トウジが見れば何か分かるかもしれん」

 

 「はいはい」

 

 俺はハグリッドに案内されて裏庭に出た。バックビークは杭のそばで翼を畳み、うずくまるように休んでいた。朝日が羽毛の上で淡く反射している。いつもより静かだ。怒りでも興奮でもなく、痛みを堪えている時の沈黙。

 

 「おい、バックビーク」

 

 俺がゆっくり距離を詰めると、バックビークは俺だけをじっと見た。人間でも魔法生物でも、強い奴ほど余計な威嚇をしない。視線と呼吸だけで全部伝わる。

 

 「やっぱり足、やってんな」

 

 「分かるか?」

 

 「分かる」

 

 左の後肢、腱の付け根が少し腫れていた。歩けないほどじゃないが、負荷がかかれば痛むだろう。生徒達相手に余計な動きをしたら暴発する可能性がある。

 

 「これ、前も言ったよな。落ち着かせろ。生徒の前じゃなく、お前がまず心落ち着かせてやらねぇとダメだ」

 

 「そうなんじゃがの……わしが話しかけると、あいつ嬉しさの方が勝つんじゃ。テンションがな……」

 

 「犬かよ」

 

 「ヒッポグリフじゃ!」

 

 バックビークは鼻先で俺の肩を小さく突いた。痛くはしない。理解の合図だ。

 

 俺はゆっくりと手を伸ばし、健の付け根、痛みのあるあたりを撫でた。生き物はな、触れた時にどう反応するかで状態が全部分かる。こいつは「我慢してる」反応だ。痛みに慣れようとして、それで余計に負担がかかっている。

 

 「……無理を覚えるより、治す方がいい」

 

 「治せるのか?」

 

 「治せる。ただし条件がある」

 

 「なんじゃ?」

 

 「生徒に触らせすぎるな。お前も触るな。数日は安静だ」

 

 「授業は?」

 

 「知らねぇよ。お前がなにか別のもん見せりゃいいだろ。ユニコーンとかケンタウロスとかスライムみたいなやつとか」

 

 「お前の魔法生物の知識、偏りすぎじゃ」

 

 「お前の小屋にあるもんよりはマシだ」

 

 ハグリッドがなにか言い返そうとしたが、バックビークが低い声を鳴らした。俺が触れている場所を微かに押し返してきた。痛みを認めたんだ。強がるのをやめたってことだ。

 

 「ほら、言ったろ。バカ正直なんだよこいつは。痛い時は痛いって言っていいんだよ」

 

 「……そうじゃな」

 

 ハグリッドの声は、妙に静かだった。

 

 思えば、こいつは優しすぎるんだ。善意がそのままデカい体に入ってるもんだから、守ろうとするもの全部抱えて倒れそうになる。

 

 「ハグリッド」

 

 「なんじゃ」

 

 「一回だけ言っとく。この学校は、お前が思っているよりずっと強い。生徒も、職員も、魔法そのものも。お前が1人で背負う必要なんてねぇんだよ」

 

 ハグリッドは驚いたように俺を見た。その表情は、自分が思っていたよりずっと俺の言葉を必要としていた人間のものだった。

 

 「……お前、たまに良いこと言うな」

 

 「言うだろ」

 

 「でもそうじゃな……わし1人で抱え込んどったのは認める……ありがとうな、トウジ」

 

 「礼はいい。代わりにバイクを貸せ」

 

 「それとこれとは別じゃ!!」

 

 即答だった。まあ、分かってたけどな。

 

 だが、雰囲気は確かに少しだけ軽くなった。

 

 バックビークも落ち着いた呼吸を取り戻しつつある。少しだけ頭を下げた。それはヒッポグリフなりの敬意。

 

 「よし、治療に取りかかるか」

 

 「何するんじゃ?」

 

 「まずは……温湿布だ」

 

 「地味じゃな!」

 

 「治療ってのは地味なんだよ」

 

 俺は腰の袋から薬草を取り出し、火加減と水分を調整した。ダンブルドアに教わったやり方じゃねぇ。もっと前、まだ俺が呪術師の巣窟を食い荒らしていた頃に身に付けたやり方だ。

 

 「……しかしあれじゃな」

 

 「ん?」

 

 「おぬし、こういう時はなぜか優しいの……」

 

 「俺は基本優しいだろ」

 

 「いやそれはない」

 

 「ぶっ飛ばすぞ」

 

 ハグリッドが笑った。でっかくて、真っすぐで、気持ちの良い笑いだった。

 

 ホグワーツの朝は、そうして静かに進んでいく

 

 「なあトウジ、アズカバンはどうじゃった?」

 

 バックビークに湿布を貼り終え、俺とハグリッドは小屋の前の切り株に腰を下ろしていた。朝の空気はまだ冷えていて、火鉢の火がじんわりと手先に沁みる。森から風が通って、湿った土と草の匂いがゆっくり鼻に残る。

 

 「アズカバン?ん〜1日しかいなかったからよく分からねぇが、陰気臭いとこだったな。イカれてる奴も多かった。シリウスを探す時に何人かに声をかけたが、ベラトリックスって奴は完全にイカれてたな」

 

 「ベラトリックス……?ベラトリックス・レストレンジか?」

 

 「あぁそんな名前だったな。キーキー煩い声だった」

 

 「そいつは例のあの人の忠実な僕じゃった奴じゃ。ネビルの両親を廃人にした」

 

 「へぇ……そうだったのか」

 

 俺は火の揺らぎを見つめたまま言った。驚いたというより、腑に落ちたという感覚だ。あの狂気じみた笑い、あの目の光。人間の形をしてるだけで中身が人じゃねえ奴は確かにいる。

 

 「ネビルの両親は2人とも魔法使いだったんじゃ。立派な魔法使いじゃった。じゃが……」

 

 「拷問か?」

 

 「ああ。長い長い時間じゃ。心を壊されてしもうた。今は聖マンゴに入っとる」

 

 ハグリッドの声には、怒りと哀しみが混じっていた。俺はため息をつき、煙草を取り出そうとしてやめた。朝の空気に煙を混ぜる気分じゃなかった。

 

 ネビルは、笑う時は素直に笑える奴だ。鍛錬すればするほど伸びる、真っすぐな根っこを持ってる。強くなる理由を背負っていたのか。そう思うと、妙に納得した。

 

 「ネビルは強いぞ」

 

 「うむ。わしもそう思っとる。あやつは誰より根性がある」

 

 「俺に似たんだろ」

 

 「お前は黙っとれ」

 

 ハグリッドが笑って肩を揺らした。大きい身体が揺れると、周りの空気ごと動く。

 

 俺は斜め上を見た。ホグワーツの城の塔が霧の向こうにうっすら見える。生徒達はもうそろそろ朝食だろう。何も知らず、淡々と日常を送っている。

 

 いや、何も知らないわけじゃないか。

 

 「生徒達、俺が無実だって思ってんだってな」

 

 「お前の授業を受けた者は皆そう思っとるよ。お前は手は荒いが、嘘をつかん教師じゃった」

 

 「教師……ねぇ。俺が、か」

 

 その言葉は、どうにもまだ馴染まない。俺は元々教える側の人間じゃねえし、守るために戦うなんてもっと柄じゃねえ。だが、生徒達の動きを見りゃ分かる。俺の授業は確かに残ってる。

 

 走り方、呼吸、構え、目線。全部が繋がってる。

 

 「……まぁ、悪くはなかったけどな」

 

 「うむ、それでええ」

 

 ハグリッドは穏やかに言った。優しい声だった。

 

 その時だった。風の流れが変わった。寒気じゃない。空気が吸い込まれるような感覚。遠くの空の色が一瞬だけ濁った。

 

 「……来るな、そろそろ」

 

 「ディメンターか」

 

 ハグリッドがぼそりと呟いた。俺は立ち上がった。

 

 ディメンターの気配は独特だ。温度が下がるじゃない。思考が沈む。意識の奥に指を差し入れてくるような気配だ。

 

 シリウスの監視はまだ続いてるだろう。ハリー達はリーマスに守られてる。問題は――。

 

 「俺とシリウスだな。狙ってくるとしたら」

 

 「気をつけるんじゃぞ」

 

 「分かってる」

 

 俺は背中を鳴らした。筋肉が沈み、意識が一点に集まる。戦う時の身体だ。

 

 「バックビークの脚、明日の朝もう一度診る。お前、無茶すんなよ」

 

 「お前もじゃ」

 

 軽く拳を合わせ、俺は小屋を出た。

 

 ホグワーツの空は晴れている。だが、風の底は凍っていた。

 

 

 

 

 

 そうして夜がやってきた。授業は全て終わり、生徒達は大広間に集まっていた。天井には薄く霞がかかったような夜空の投影が広がり、星々が遠い場所からゆっくりと瞬いている。長机には温かなスープ、香草で焼いた肉、蒸した芋、根菜と雑穀のサラダ、そして必要な者にはプロテインが支給されていた。

 

 ホグワーツの食卓は2年前から変わった。以前のような菓子と油と肉だけで満たされた豪勢な“宴会”ではなく、身体を作るための“食事”へと変化した。伏黒甚爾が赴任した年、最初に変わったのは食事内容だったと言っていい。

 

 “身体は戦場で一番最初の武器だ。鍛えておけ”

 

 生徒達はその言葉を覚えている。思い出す必要もないほど、身体に染みついている。背筋はまっすぐ伸び、食事の動作に無駄がない。手首から肘、肩の付け根、骨格の使い方が整っている生徒が多いのは、明らかにここ数年の変化だ。

 

 「諸君、少し話がある」

 

 卓上のグラスが小さく鳴った。ダンブルドアが立ち上がった。老いた魔法使いの声は柔らかく、しかし大広間の最奥まで届く。

 

 「すでに気づいておる者もいるじゃろうが、ホグワーツの外周に沿う形でディメンターが配置された。これは魔法省の措置によるものじゃ」

 

 ざわり、と空気が揺れた。だが表情を崩す者はいなかった。以前のホグワーツなら、泣く者、叫ぶ者、混乱する者が出ただろう。しかし今、怯えを見せたのはまだ伏黒甚爾の授業を経験していない1年生だけだった。

 

 1年生の皿の前で、手が止まる。スプーンを握る指が震える。唇の端がかすかに引きつる。

 

 それを包むように、上級生の声が降りた。

 

 「大丈夫だよ。怖いなら一緒に練習しよう」

 

 「守護霊の呪文は慣れだからな。リーマス先生が見てくれる」

 

 「呼吸からだ。ほら、息まとめろ」

 

 その言葉には《実感》がある。上級生達は皆、伏黒甚爾に叩き込まれたのだ。立って呼吸するだけで相手に隙を見せない姿勢を。

 

 ダンブルドアは言葉を続けた。

 

 「ディメンターは、恐怖や後悔に寄り添い、それを糧とする。じゃが諸君、恐れる必要はない。心を保ち、温かな記憶を灯す術を知ることができれば、決して呑まれることはない。リーマス・ルーピン先生が“守護霊の呪文”を教えておる」

 

 視線が教職員席の端へ向かう。そこに座るリーマスは、いつもの柔らかな目で生徒達を見ていた。彼の足元には黒い犬が丸まっている。尾を床にとん、と落ち着いたリズムで叩く。

 

 その犬が、シリウス・ブラックであることを、この場で知る者はほとんどいない。

 

 「さらに、ホグワーツには《アズカバンからの脱獄囚》が潜んでいると魔法省は考えておる。シリウス・ブラック。そして……フシグロ先生じゃ」

 

 大広間に静かな圧が落ちた。

 

 それは恐れではない。思考の停止でもない。

 

 ただ、生徒達がその言葉の重さを噛み締める沈黙だった。

 

 「始業式でも言ったが、フシグロ先生は今もホグワーツの教師じゃ。そしてシリウス・ブラックが闇の魔法使いであるという世間の噂を、そのまま信じる者は此処にはおらんじゃろう」

 

 その瞬間、グリフィンドールの卓のあたりで小さく「うん」と頷く気配があった。誰かが言葉にせず、ただ信じているという気配だ。多くの者が同じ感覚を持っていた。

 

 「以上じゃ。……さて、スネイプ先生から連絡がある」

 

 呼ばれ、黒いローブを揺らしてスネイプが立ち上がる。冷たい声が大広間を滑るように流れた。

 

 「ディメンターが配置されていようと、日々の課題・試験・評価には一切の変更はない。遅れた者は置いていく」

 

 その言葉は、ある意味で安心を与えるものだった。ホグワーツの日常は揺らいでいないという証拠だった。

 

 食事が再開され、生徒達は静かに手を動かした。だがその空気には、いつもと違う緊張が、確かにあった。

 

 明日からの日常は、ほんの少しだけ形を変える。

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