ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第十五話

 

 

 

 

 12月、ホグワーツは白一色だった。尖塔の屋根にも石畳にも雪が積もり、息が白く伸びる。風は鋭いが、これはただの自然の冷たさだ。

 

 アンブリッジが勝手に外周へ配置したディメンターの“死の冷気”とはまるで違う。あれは魔力ごと魂を凍らせるような嫌な寒さだった。騒動が終わり魔法省が奴らを回収した後も、生徒達は誰一人震えてなかった。俺の授業を受けてきた連中は、そんなものでは揺らがない。

 

 12月になると3年生からホグズミードへ行けるようになる。宿屋、喫茶店、悪戯道具屋に娯楽品――小さな歓楽街みたいなもんだ。雪を蹴りながら歩くガキ共の声が、城の上まで響いてくる。

 

 俺は時計塔の上からその列を見下ろしていた。ハリー達は肩を寄せながら歩き、ロンは鼻を真っ赤にし、ハーマイオニーとネビルは雪のついた帽子を軽く叩いていた。平和な光景だ。

 

 「おやフシグロ君、ホグズミードに行かんのか?」

 

 振り向くと、ダンブルドアがローブに雪をのせて立っていた。

 

 「興味ねぇ、用もないしな」

 

 「三本の箒のバタービールは美味しいぞ?」

 

 「甘いのは苦手だ。俺はゾンコの悪戯道具店の方が気になる」

 

 「ホッホッホ、あそこは実に愉快な品が多いぞ。“永遠に止まらぬゲップ粉”などはなかなか強烈じゃった」

 

 ジジイは妙なもんを見つけるのが得意だ。だが確かにゾンコは退屈しない。

 

 「そういやハリーはよく許可もらえたな」

 

 ホグズミードへ行くには保護者の許可が必要だ。

 

 「堂々と向かっておるということは、きちんとサインをもらったのじゃろう」

 

 「ふぅん……まぁ、あのガキならなんとかするか」

 

 ダンブルドアは髭についた雪を払うと、少し声を潜めて俺を見た。

 

 「ところでフシグロ君……次の日曜日じゃが」

 

 ジジイが目尻を下げてニヤリと笑う。分かりきった話題だ。

 

 「有馬記念だな」

 

 「そうじゃ。シリウスも行きたがっておる」

 

 「来るに決まってんだろ」

 

 「うむ。もちろんじゃ」

 

 ダンブルドアは満足げに頷いた。

 

 こいつとは毎週のように日本へ競馬やら競艇に行っている。姿現しで直行するという、教師としてどうかしてる移動方法ではあるが、もう完全に日常だ。俺も当たり前のように日本の遊び場へ顔を出している。最近の騒動で行けてなかった分、勝ちたい。

 

 「で、当日も姿現しで行くんだな」

 

 「うむ。校長室からそのまま掴んで飛ぶ。朝に来てくれればよい」

 

 「了解だ。そっちの方が楽だしな」

 

 姿現しは身体が引きちぎれるような感覚がするが、もう慣れたものだ。毎週ジジイに腕を掴まれて日本へ飛んでるせいで、その辺の違和感は完全に麻痺してる。

 

 「しかし……今年は荒れそうじゃのう、有馬記念。どの馬も一長一短じゃ」

 

 「年末くらいデカいの取りてぇな」

 

 「ホッホッホ、欲を出すと負けるぞ?とはいえ、それが競馬の楽しみでもある」

 

 ダンブルドアは雪の降る景色を眺めながら、小さく息を吐いた。

 

 城の向こうで鐘の音が鳴る。ホグワーツは冬の静けさに包まれていて、生徒たちの笑い声だけが白い空に吸い込まれていく。

 

 そんな光景を見ながら、俺の中では別の熱がじわじわと高まっていた。

 年末の大勝負、有馬記念――あの喧騒と熱気が待ち遠しい。

 

 「……今年こそ当てるぞ」

 

 呟いた声は雪の中へ消えていった。

 

 

 そして日曜日、有馬記念の日がやってきた。

 

 ホグワーツは夜のうちにさらに雪が降ったらしく、朝から中庭は白い砂漠みたいになっていた。冷え込みが強く、吐く息がいつもより濃い。ガキ共が走り回る声を背に、俺は大広間で朝食をさっさと済ませて校長室へ向かった。

 

 扉を開けると、ジジイは机の前でやたら上機嫌に立っていた。ローブの袖をまくり、杖を軽く振って準備運動みたいなことまでしている。

 

 「ジジイ、準備はできてるか?」

 

 「もちのろんじゃよ」

 

 相変わらずわけのわからねぇ言葉を使いやがる。だが顔つきは真剣そのものだった。俺と同じで、競馬に関してはスイッチが入るらしい。

 

 「じゃあ日本の競馬場近くの拠点に飛んで、まずは情報収集からだな」

 

 「うむ、あちらでシリウスも待っておる。早く馬を見たいのぉ」

 

 ジジイが俺の腕を掴んだ。

 次の瞬間、胸の奥が裏返るような強い引き込みが走り、視界がぐるりと歪む。全身がねじ切られそうな感覚だが、もう慣れたもんだ。毎週これで日本に行ってんだからな。

 

 数秒後、足元の感覚が戻り、冷たい空気が肺に入り込んだ。

 そこは中山競馬場の最寄りの商店街にある、例の安ホテル。昭和の匂いしかしない木造の廊下、薄暗い蛍光灯、年季の入った階段。だがジジイの拠点としては妙に落ち着く場所だ。

 

 部屋の扉を開けると――すでにシリウスがいた。

 真っ黒なコートに身を包み、ソファに脚を組んで座っている。普通にしていれば貴族みたいな見た目だが、目の奥は相変わらず野良犬みてぇな鋭さがある。

 

 「よう、早いな。シリウス」

 

 「トウジ、お前こそ。今日は走る前の馬を全部見たいんだ。情報収集は抜かりなくいかないと」

 

 「はっ、真面目かよ。ギャンブルに真面目ってのは一番危ねぇぞ」

 

 「私はデータ派なんだ。感覚で賭ける君と一緒にするな」

 

 「データは裏切るが、感覚は身体に染みつくもんだ」

 

 そんなくだらねぇ言い争いをしていると、ダンブルドアが咳払い一つ。

 

 「さて、両名とも落ち着けい。まずは馬を見る前に……腹は減っとらんか?」

 

 「ジジイ、まだ朝食ったばっかだろ」

 

 「競馬場で食べ歩くための“別腹”じゃよ」

 

 まるで遠足に来たジジイみてぇだ。だがシリウスはまんざらでもなさそうに頷いてやがる。

 

 「確かに……日本の競馬場は食事がやたら充実しているからな。牛串、ラーメン、焼きそば……全部興味がある」

 

 「犬のくせに味にうるせぇな」

 

 「誰が犬だ!」

 

 シリウスが噛みつきそうな顔をしたところで、ジジイが割って入った。

 

 「よし、まずは歩いて競馬場へ向かうぞ。途中で気になる屋台があれば寄ればよい。勝負前に腹を満たすのは重要じゃ」

 

 「そんな理屈初めて聞いたわ」

 

 だが、ジジイの歩幅は妙に早い。まるで馬のパドックへ向かう騎手みたいだ。俺もシリウスも、その勢いに押されるように続いた。

 

 商店街を抜け、坂を上ると、冬の空気を震わせるような大歓声が遠くから聞こえてきた。

 人の群れ、売店の匂い、紙券の擦れる音――あれが競馬場特有の空気だ。

 

 「ふぉっふぉっふぉ……この匂い、この熱気……たまらんのぉ」

 

 「ジジイ、口元ゆるみすぎ」

 

 「よし、まずはパドックじゃな。馬の気配をしっかり見るのじゃ」

 

 シリウスが俺の肩を小突いた。

 

 「トウジ、今日は当てるぞ。……本気で狙う」

 

 「当たり前だ。こっちも“人生変える金”を取りに来てるんだよ」

 

 冬の冷たい風が吹き抜けたが、俺の体の芯はすでに熱を帯びていた。

 ホグワーツの雪よりも、魔法よりも、今はこの“勝負の空気”が心臓を鳴らしている。

 

 そして俺たちはついに、スタンドへ続く階段を上り始めた。

 

 パドックに着くと、俺たちはすぐに馬の観察を始めた。

 

 ここが勝負の大半を決める場所だと、俺はずっと思っている。新聞でも雑誌でも、どれだけ綺麗に整えられたデータでも、生で見る馬には敵わねぇ。

 

 馬の汗のかき方、筋肉の張り、脚の運び、耳の向き、気性の強さ、落ち着き、騎手との呼吸――全部だ。これ何度目だ?と自分でも思うが、何度繰り返しても真理ってのは変わらねぇ。結局、生で見た馬の気配ほど信用できる情報はない。

 

 パドックの外周には人の波ができていた。寒いはずなのに、やたら熱気がある。馬の蹄鉄がコツコツと地面を叩く音が響き、そのたび観客がざわついた。馬の体温が空気を少しだけ温める感じがして、それがまた不思議と人を惹きつける。

 

 「おいトウジ、あの馬……脚を痛めているように見える」

 

 シリウスが顎で示したのは、黒鹿毛の大型馬だった。

 たしかに右前脚の出が少し固い。歩幅も揃ってねぇ。

 

 「アイツは1番人気だ。去年はG1で勝ってる馬だな」

 

 「人気馬が調子崩してる……これは波乱じゃないか?」

 

 「落ち着け。人気なんてのは“人”が作るもんだ。馬の調子は馬が決める」

 

 シリウスは真剣に頷いた。去年一緒に見たレースで痛い目を見たからか、妙に学習が早い。

 

 「ホッホッホ、馬は良いのぉ……美しい。この歩き、この筋肉……見事じゃ」

 

 ダンブルドアは相変わらずだ。

 

 ローブをひらめかせながら柵に寄りかかり、まるで美術館で絵画でも眺めているみたいな顔だ。だが意外にも、このジジイの“馬の勘”は妙に当たる。理由は知らん。魔法かもしれねぇ。

 

 「トウジ、あれはどうだ?」

 

 シリウスが次に示したのは、青鹿毛の馬。

 

 キビキビと歩いていて、体の張りも悪くない。冬毛が残っているのが少し気になるが、腹の締まりはいい。

 

 「悪くねぇな。仕上がってきてる。前走から馬体増えてるが、太りすぎじゃねぇ。調教が効いてる」

 

 「ふむ……これは買いか?」

 

 「買っていい馬だ。ただ、勝ち切るかどうかはまた別だな」

 

 「むぅ……難しい世界だ」

 

 「当たり前だ。だから面白ぇ」

 

 そう言いながら、次に歩いてきた栗毛の馬に目を奪われた。

 軽やかな脚取り。柔らかぇ歩幅。尾の揺れ方も力強い。馬体に無駄がねぇ。

 

 「……こいつは良いな」

 

 思わず呟いた。シリウスも同時に目を細めていた。

 

 「トウジ、お前もそう思うか?私も今、ゾクリとした」

 

 「馬がいい時は、素人でも“今の瞬間”で分かるんだよ」

 

 「ということは……?」

 

 「大本命じゃねぇが、穴で狙うならコイツだ」

 

 シリウスの表情が引き締まる。ジジイも珍しく頷いた。

 

 「うむ……この馬、気配が良い。脚の運びに力みがない。わしのひいき目を抜きにしても、これは走るぞ」

 

 「おいジジイ、お前が褒めると逆に不安になるんだが」

 

 「失礼な。わしは競馬歴だけは長いのじゃぞ」

 

 「嘘つくな、一昨年初めてやっただろうが」

 

 そんなやり取りをしていると、周りの観客の声が一段と大きくなった。

 いよいよ“主役”が歩いてくる時間だ。

 

 トウカイテイオー

 1年以上走っていない、絶望的なブランクを抱えた馬。

 だが伝説の名馬だ。

 

 パドックの角を曲がって現れた瞬間、空気が変わった。

 

 茶色の馬体が雪の光を受けて淡く輝く。

 脚取りは軽く、無駄な力が抜けている。

 首も柔らかく使っていて、気配に乱れがない。

 

 「……おい、待て。こいつ……良すぎねぇか?」

 

 「…………」

 

 シリウスは言葉を失っていた。

 ダンブルドアは髭を撫でながら、ゆっくりと口を開いた。

 

 「フシグロ君、これは……復活する馬の歩きじゃよ」

 

 「いやいや、1年ぶりだぞ。普通は走れねぇ」

 

 「だが馬は魔法とは違う。“心”で走ることがあるのじゃ」

 

 ジジイが真顔で言うと不思議と説得力があるから困る。

 

 それにしても……本当に良い馬だ。

 

 筋肉は引き締まり、脚の伸びも理想的。冬毛が少し残っているが、それを補って余りある気迫があった。

 

 「トウジ……これ、勝つぞ」

 

 シリウスが呟いた。その声は震えていたが、目は確信していた。

 

 「……ああ。ヤバい馬を見た時の匂いがする」

 

 俺は指先に力が入った。

 

 今年こそ大勝ちしてやる。そう腹の底で思った。

 

 「よし、一通り見たな。腹拵えしようぜ」

 

 パドックでの観察を終え、俺たちは競馬場の外へ向かった。レースまではまだ1時間ちょっとある。人混みの熱気から少し離れ、商店街で腹を満たしておくにはちょうどいい時間だ。

 

 「ジジイ、何食いたい?」

 

 「ふむ……寒いからのぉ……ラーメンも良いが立ち食い蕎麦も捨てがたい」

 

 ジジイが腕を組み、冬空を眺めながら言った。鼻先にかかった吐息が白く散っていく。

 シリウスもローブの襟を立てながら同じ方向を見た。

 

 「蕎麦か……」

 

 「蕎麦……」

 

 こうして悩むふりをしているが、ジジイの“蕎麦”という一言でほぼ決まりだ。

 というわけで俺たちは競馬場近くの立ち食い蕎麦屋――【そばよし】へ向かった。地元の作業着姿のオッサン達が吸い込まれていく人気店だ。

 

 暖簾をくぐると、出汁の濃い香りが一気に鼻へ流れ込んできた。

 ザラついた床、年季の入ったカウンター、店主の無駄のない動き。立ち食い蕎麦屋特有のせわしない空気が逆に心地いい。

 

 「ふむ、良い香りじゃ」

 

 「確かにたまんねぇな」

 

 ジジイは鼻をひくひくさせながら、メニュー表をじっくり見つめていた。

 シリウスはというと、まるで魔法薬の素材を吟味するみたいな真剣な顔で厨房を見ている。

 

 「トウジ、これは……何の匂いだ?スープのような、魚のような……」

 

 「カツオと昆布の出汁だ。魔法界にはねぇだろ」

 

 「出汁……。なるほど、興味深いな」

 

 シリウスが感心している間に、ジジイが注文を決めた。

 

 「わしはかき揚げ蕎麦じゃ。麺は硬めで頼む」

 

 「相変わらず無駄に細けぇ味の好みしてんな」

 

 「フシグロ君は?」

 

 「俺は肉そばだ」

 

 「私は……うむ、トウジと同じ物を食べてみよう」

 

 そんな感じでそれぞれが注文し、店主の素早い手つきを眺めながら待っていると、次々と丼が出てくる。

 

 湯気と一緒に立ち上るつゆの香りが腹の底を刺激した。

 

 「おお……これは美しいな」

 

 ジジイが丼を見て目を輝かせている。長寿の魔法使いが蕎麦で喜んでんだから世の中よく分からねぇ。

 

 「よし、食うか」

 

 ズズッ、と啜った瞬間、口いっぱいに広がる甘辛い出汁の香り。

 硬めの麺はコシが強く、噛むたびに蕎麦の香りがわずかに立った。

 

 「……うめぇな、これ」

 

 思わず漏れた感想に、ジジイが満足げに頷く。

 

 「こういうのは魔法では作れんのじゃ。鍋の前に立ち、手を動かしてこそ生まれる味じゃよ」

 

 「やっぱ魔法界は便利すぎんだよ。飯くらいは手間かけた方が美味ぇ」

 

 隣でシリウスも夢中で麺を啜っていた。頬を赤くし、息を弾ませながら言う。

 

 「トウジ……これは……温かい……!なんというか……生き返る味だ!」

 

 「犬みてぇなコメントしやがって」

 

 「犬じゃない!」

 

 シリウスが眉を吊り上げると、ジジイが笑った。

 

 「まぁまぁ。シリウス君、その調子なら今日のレースも冷静に見られそうじゃ」

 

 「もちろんだ。さっきの栗毛の馬……あれは来る」

 

 「私もそう思う」

 

 蕎麦の湯気の向こうで、ジジイが両手を合わせて満足げに言った。

 

 「ふむ……身体も温まったし、そろそろ戻るとするかの」

 

 俺たちは丼を返し、外へ出た。

 商店街には競馬場へ向かう人の流れができていて、ざわめきと寒風が混ざり合っていた。

 

 「よし、帰るぞ。パドックの最終周も見る」

 

 「うむ、行くのじゃ」

 

 「シリウス、遅れんなよ」

 

 「任せろ。今日の私は冴えてる」

 

 そうして俺たちは冬の冷えた空気を裂くように歩き始めた。

 腹も満たし、判断も冴えている。

 あとは――勝負を当てるだけだ。

 

 腹拵えを終えて最終パドックを見に行った。冬の冷え込みはさらに強まっていたが、馬の体温と観客の熱気が渦巻き、パドックの空気は朝よりも濃密になっている。馬たちの吐息が白く浮かび、そのたびに群衆のざわつきが波打つように広がっていく。

 

 「やはり……トウカイテイオーか?」

 

 シリウスが腕を組み、真剣な目つきで栗毛の馬を見つめていた。

 

 まったく、普段のあいつからは想像できねぇくらい鋭い。長期休養明けだというのに、トウカイテイオーの肌艶も筋肉の張りも異様に良い。歩様も軽く、気配の揺らぎがない。

 

 「人気は低いが……馬の状態はかなり良いのぉ」

 

 ジジイも髭をつまみながら唸った。

 だが、俺の天与呪縛が選んだのは別の馬だ。筋肉の張り、呼吸のテンポ、脚の運び……総合的に見て俺の感覚が導いたのは、あの青鹿毛の馬だった。

 

 「うむ……では買いにいくか」

 

 ジジイの合図で、俺たちは競馬場の中へ移動した。

 売り場は人で溢れ、紙券の匂いと体温が混じり合っている。歓声、ざわめき、券売機の音が折り重なり、戦場みたいな空気だ。

 

 前に並ぶジジイの背中に声をかけた。

 

 「どういう買い方をする?」

 

 「わしはいつも通り3連単一発勝負じゃ。……そう羽虫が囁いておる」

 

 「また羽虫かよ。お前の羽虫はどこに止まってんだ?」

 

 「さぁな。だが今朝からずっと“あの馬”に誘われるように飛んでおる」

 

 ジジイは自信満々だ。

 後ろではシリウスが妙に気取った声を出した。

 

 「私は単勝。何を買うかは秘密にしておこう。ふふ……」

 

 「なるほどね。勝手にしろ」

 

 本当はシリウスの顔が少しニヤけているのが気になったが、俺は口に出さなかった。

 

 俺は3連単。しかもジジイの予想にもシリウスの予想にも乗らない。

 

 (天与呪縛で研ぎ澄まされた感覚……勝ち馬は分かってる。今日は勝つ)

 

 そう確信しながら馬券を握りしめた。

 

 そして――ついにレースが始まった。

 

 実況の声がスピーカーから響く。

 スタンドからは地鳴りのような歓声が巻き起こる。ゲートに収まる馬たちの緊張した気配が、こちらまで伝わるようだ。

 

 『スタートしました!!』

 

 金属が跳ねる音。

 馬が一斉に飛び出す。

 芝を削る音が耳を打ち、風が一瞬でかき乱される。

 

 俺の本命馬は好位に取りつき、手応えも悪くない。

 

 「コイツはイケる!!」

 

 思わず叫んだ。

 横でシリウスも上擦った声を出す。

 

 「フシグロ君!これはすごい!」

 

 ジジイは杖を握りながら興奮していた。

 

 「うおお!!トウカイテイオー!!良い脚じゃ!!」

 

 最終コーナーに差し掛かる。

 俺の馬は前を捉えられそうな位置にいる。

 

 だが――

 外から“あの栗毛”が舞い込んできた。

 

 「いや待て……なんだと!?」

 

 トウカイテイオー。

 まるで風を纏っているみてぇな、異様な伸び。

 1年ぶりの実戦とは思えねぇ、いや、普通じゃない脚色だ。

 

 『トウカイテイオー伸びる伸びる!!完全に前を捕らえた!!』

 

 実況が絶叫する。

 

 シリウスは半分泣いて叫んだ。

 

 「いけぇぇぇ!!テイオー!!」

 

 ジジイは両手を上げて跳ねていた。

 

 「美しい!!復活の脚じゃ!!」

 

 トウカイテイオーは、俺の馬も含めて全馬を置き去りにした。

 

 「……負けた?……だと……?」

 

 俺の3連単の中心だった馬は、力尽きたように沈んでいった。

 

 ジジイは馬券を見せつけながら誇らしげに言った。

 

 「やはりわしの予想通り……羽虫が留まったあの馬が勝ったのぉ……」

 

 シリウスも満面の笑みで頷いた。

 

 「トウジ!私の“秘密の単勝”も……テイオーだったんだ!」

 

 俺は、しわくちゃになった馬券を見下ろした。

 

 ……ちくしょう。

 

 風が冷たく吹き抜けた。俺の財布は空っぽになった。

 

 そうして俺は2人の換金の様子を黙って見つめていた。払戻窓口の奥で紙幣が機械に吸い込まれ、次の瞬間に整えられた札束がカウンターへ滑り出てくる。その音は、さっきまで俺の胸の中に溜まっていた敗北のざらつきをさらにえぐるようで、冷えた指先の内側だけがなぜか熱を帯びていた。

 

 「早くしてくれ……」

 

 俺がぼそりと呟くと、ジジイはのんびり笑った。

 

 「まあまあ待つのじゃ。前にも言ったじゃろ?札束がドバッと出てくる瞬間こそ最上の愉しみじゃ。ホッホッホ」

 

 この老人は本当に性格が悪い。勝った上でこの余裕だ。後ろで並んでいる客が少し苛立って足を鳴らしているのが聞こえる。それでもジジイは涼しい顔のまま、ゆっくりと受け取った封筒を指で撫で、札の角を丁寧に確かめていた。まるで宝石を鑑定する職人みたいな所作に、俺はため息が出そうになる。

 

 「トウジ、負け惜しみはよくないぞ」

 

 横でシリウスが封筒を揺らしながら言った。軽く笑っているが、瞳の奥には“よっしゃ当てた”という興奮が隠しきれていない。

 

 「うるせぇ……!」

 

 返しながら、自分の内側で渦巻く悔しさを抑え込んだ。天与呪縛が選んだ馬でも、競馬は外れる時は外れる。百も承知だが、今日の外れ方は胸に残る。俺はある意味、馬より自分に賭けたんだ。それが裏切られた気がして、胃の奥がぐっと重くなる。

 

 ジジイは封筒を懐にしまい、満足げに息をついた。

 

 「さて、わしの勝ち分も揃ったしの。ではこの稼いだお金で、うんと美味しいものでも食べに行こうかの?」

 

 「勝手に決めんな。俺の分は?」

 

 「軍資金を溶かした男に取り分があると思うておるのか?」

 

 ジジイが鼻で笑って肩をすくめた。そのやり方が絶妙に癇に障る。

 

 「トウジ」

 

 シリウスが俺を呼んだ。振り向く間もなく、封筒から抜いた数枚の札を俺の胸ポケットへ押し込んできた。

 

 「……なんだお前」

 

 「今日は私と校長の勝利を祝う日だろう?そこに負け犬を一人くらい混ぜた方が、宴というのは締まるものだ」

 

 「喧嘩売ってんのか?」

 

 「褒めているんだ。自分の感覚で勝負して外すのは、誰かに乗って当てるよりよほど潔い」

 

 その言葉に、胸の奥で固まっていた悔しさが少しだけ揺らいだ。

 シリウスは半分ふざけているくせに、たまにこういう本気の言葉を出してくる。

 

 「……そうじゃ。賭け事は勝ち負けだけではない。どう賭けたかもまたひとつの道理じゃ。フシグロ君は己の目で選び、己の負けを受け止めた。それで良い。ま、いつも負けておるがの」

 

 「殺すぞ」

 

 ジジイまでそんなことを言う。

 俺は視線を落とし、胸ポケットの厚みを指先で確かめた。ほんの数枚の札なのに、さっきまでの空っぽに比べれば、妙に重く感じる。

 

 換金ブースを離れると、場内のざわめきが再び全身にまとわりついた。あちこちでトウカイテイオーの名前が叫ばれ、紙くずになった馬券が地面に散っている。勝者の笑い声と敗者のうめき声が同じ場所で混ざり合うこの空気は、戦場に似ていた。

 

 「……にしても、テイオーは強かったな」

 

 俺はつい口にしていた。

 

 最終直線であいつが見せた脚は、戦いで何度も死線を越えた俺でも鳥肌が立つほどの迫力だった。脚が地面を掴む瞬間の沈み込みと反発、胴全体がしなる強さ、馬体から散った汗の匂い――どれもが生き物そのものの力を見せつけていた。

 

 「うむ……あれは復活の走りじゃった。魔法でも作れぬ奇跡とはああいうものを言う」

 

 ジジイの声は穏やかだった。

 シリウスも深く頷いた。

 

 「私も……あいつが伸び始めた瞬間、背筋が震えたよ。ああいう走りを見ると、生きてるって実感するな」

 

 「お前らは今日勝ったから余計に美化してんだろ」

 

 そう言いながらも、俺の胸には妙な温かさが残っていた。

 負けは負けだが、価値のある負けってやつは確かにある。

 

 「で、どこ行くんだ?」

 

 俺が問うと、ジジイは嬉々として言った。

 

 「まずは焼肉じゃ。そして酒、そして締めにラーメン。この順番が最も心地よい」

 

 「相変わらず食いすぎなんだよ」

 

 「今日は特別じゃろう。テイオーの復活を祝う大切な宴じゃ」

 

 シリウスも頬を緩める。

 

 「トウジ、お前も来い。どうせ帰りは私たちが連れて帰るんだ。だったら腹いっぱい食っておけ」

 

 「言い方よ」

 

 それでも足は自然と出口へ向かっていた。

 

 冬の夕暮れが競馬場の看板を赤く照らし、群衆の影が長く伸びている。

 

 熱気と寒気が入り混じるこの場所から離れ、温かい煙と肉の匂いが漂う通りへ歩き出す俺たちの影は、競馬場のざわめきの中でゆっくりと溶けていった。




アズカバン囚人編の最高潮のシーンですね。
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