ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
第一の課題が終わった。火竜どもの吐いた炎の残り香がまだ鼻の奥にこびりついているような気がする。セドリック、フラー、クラム、そしてハリー──あの4人は思っていた以上に粘り強く、そして冷静だった。岩場を蹴る音、火炎が爆ぜる轟音、観客の喚声が空気を震わせ、その中で奴らは迷わず進み金の卵を掴み取った。あれだけの死地を潜ってなお立って帰ってきたのは、単に運がいいからだけじゃねぇ。日頃の鍛えが骨の芯まで染みついてんだ。
金の卵には次の課題のヒントが詰まっているらしい。だが、そいつを聞き出すためには別の“仕掛け”がある。卵をただ開くのではなく、自分の感覚そのものを捻じ曲げる必要があるらしい。まぁ、あいつらならどうにでもするだろう。特にハリーは妙に肝が据わってる。湖だろうが海の底だろうが、死にかけても戻ってくるタイプだ。そういう奴は時々、とんでもない化け方をする。
次の課題“湖の奪還”は年明けだ。それまでの間は平穏……かと思いきや、ホグワーツには相変わらず妙な行事が多い。剣呑な事件が続いたかと思えば、急に華やかな催し物をぶっこんでくるあたり、この学校はつくづく落ち着きがねぇ。
そんな中、マクゴナガルに「授業を手伝って下さい」と言われた。断る気満々だったが、既に俺の腕を掴んで引きずる勢いだったので仕方なく変身術の教室へ来た。石造りの壁の冷気と、夕方の弱い日差しが混じり合っている。生徒たちはグリフィンドールの4年から6年が揃い、妙に浮ついた視線を交わし合って落ち着きがない。
「なにも三大魔法学校対抗試合は戦いだけではありません。三校の交流を目的としたイベントもあります」
マクゴナガルが教室中央に立ち、鋼のように伸びた背筋で生徒たちを一望する。反対側ではフィルチが古びたレコードと格闘しており、針を滑らせるたびギギギ……と耳障りな音が鳴った。埃の匂いと油の臭気が漂ってくる。
「三大魔法学校対抗試合の伝統としてクリスマスに舞踏会が開催されます。クリスマスイブにお客様共々、大広間で楽しい一夜を
舞踏会?そんなものまでやるとは知らなかった。というか、なんで俺はここに呼ばれた?まさかとは思うが、嫌な汗が背中をつうっと流れた。
「試合開催校として一人一人が自覚を持ち、リード役を果たすように、文字通り“リード”が大切です。舞踏会で何より肝心なのはダンスなのです」
ダンス。そんな言葉を聞いた瞬間、教室全体の緊張が変な方向に弾けた。ガキどもはソワソワし、女子は妙に頬を赤くし、男子は不安と期待で無駄に胸を張っている。
「静かに!」
マクゴナガルの一喝で空気が止まる。
「いいですか? グリフィンドール寮の名声は千年もの間輝き続けています。その名を一夜で汚してはいけません。サル山のサルのように騒ぐのではありません。ダンスは体をのびのびと解き放つもの。女の子の中の優雅な白鳥が飛び立つのを待っています。男の子の中には雄々しいライオンが……。ではフシグロ先生、生徒達に見本を見せるので私とダンスをします」
「きゃあー!!フシグロ先生ー!!」
「フシグロ先生がダンス!?すげぇもん見れるぜ!」
あぁ、やっぱりこういうことか。生徒の目が一斉に俺へ突き刺さり、期待だか悪ふざけだか分からん熱が湧き上がる。逃げ場はねぇ。
俺は観念し、マクゴナガルに近づいてその手を取った。細いが芯の通った手だ。教師としての誇りが掌から伝わってくるようだった。
「私をリードして下さい。フィルチさん!音楽を!」
フィルチがガリガリとレコードを回し、古臭いワルツが鳴り始めた。重く渋い音色が教室に流れ、床の木材がわずかに震える。マクゴナガルの顔には覚悟と期待が入り混じった色が浮かび、教室の空気は息を呑んだように静かになった。
……くそ、呪詛師よりよっぽどやりづれぇ。だが、ここで逃げたら負けだ。
俺は一歩踏み出し、マクゴナガルの腰を支え、音楽の流れを読みながら身体を動かした。慣れねぇ動きだが、相手の呼吸のタイミングを読むのは戦いで散々やってきたことだ。足の裏に伝わる床の感触、マクゴナガルの体温、針の震える音──全部が一つに溶けて、奇妙にリズムが合ってきた。
教室がざわっと揺れた。
「え、意外と上手くねぇ?」
「先生すげぇ……!」
「ライオンどころか、なんか大型猫科の動きしてる!」
「それライオンだろ」
……うるせぇ。
ターンのたびにマクゴナガルのローブがふわりと揺れ、俺の動きに追従してくる。生徒達は口を開けて見ており、フィルチでさえ動きを止めていた。
音楽が終わった瞬間、教室中から拍手が起きた。
俺は深く息を吐いた。
「……もう十分だろ。これ以上は他の教師に頼め」
「いえ、完璧でしたわよ。フシグロ先生」
「黙れ」
頬が熱い。
こんな恥ずかしい思いをする日が来るとは思わなかった。
「ではあなた達もダンスの練習ですよ!」
マクゴナガルが手を叩くと、教室の空気が一気に沸き立った。木の床を椅子が引きずられる音がざりざりと走り、女子も男子も一斉に立ち上がる。緊張と期待が入り混じった空気が、肌を撫でてゆくように流れ込んできた。
「え、やる?」「誰と?」「ちょ、待てよお前背伸びすんな!」
あちこちでぎゃあぎゃあと声が上がり、それでも全員が見よう見まねで相手を見つけ、ぎこちなくもステップを踏み始める。笑い声、足音、レコードの針が撫でるように奏でるワルツ──やかましいが、こういう賑やかさは嫌いじゃない。
問題は俺自身だ。
どうやら、さっきまで恥ずかしがっていたのは俺だけらしい。生徒どもは思い切りがいい。十代の勢いか、若さか、それとも単純に俺がこういう場に慣れてなさすぎるだけか。
悪かったな、ジジイもガキ共も。日本じゃダンスなんざ習わねぇ。俺は呪詛師や呪霊の喉笛を狩って生きてたんだ。誰も俺に優雅に回れだの、笑えだの、手を添えろだの言わなかった。
「先生?」
不意に裾がつままれた。振り向くと、5年の女子が遠慮がちに手を上げていた。頬が赤く、指先が細かく震えている。あの手の震えは、戦いじゃなく期待の震えだ。
「わたし、組む人いなくて……」
続けて別の女子が飛び込んできた。
「あの!私も……!先生と踊ってみたいです!」
さらにその後ろから、まるで喧嘩を売るような声。
「ちょっと!抜け駆けは許さないわよ!」
おい、なんだこの状況は。なぜ俺の前に列ができてんだ。戦いの前線ならまだしも、ダンスの相手に殺到されるなんざ予想外もいいとこだ。
「待て待て待て」
俺は思わず額に指を当てた。マクゴナガルは遠くで腕を組み、なんとも言えない笑みを浮かべている。あのババア、確信犯だな。
「お前らと踊るのは
言い終えると同時に、女子らが一斉に「えぇぇぇっ!?」と声を上げた。
教室が揺れるほどの不満の声だが、そこに俺は動じねぇ。
俺はまだ現役で呪霊とやり合ってた頃の勘が身体に残っている。ガキの視線の熱っぽさなんざ、呪霊の殺意に比べりゃ屁でもない。だが、これは別の意味で危険だ。生徒達の純粋な好奇心は、時に刃物より鋭い。
「先生、ちょっとくらい……!」
「だーめだ。腰が据わってねぇ。今のうちに基礎だけ叩き込んでおけ」
「せめて手だけでも!」
「おい聞け、俺と踊るなら最低でも成人してからだ。それまでに転んで足折ってたら話にならねぇぞ」
「む、むりですぅ……」
女子達は肩を落としつつも、どこか嬉しそうに笑った。
どうせまた数日後に同じことを言いにくるんだろう。
俺はため息をつきながら生徒たちのステップを見渡した。ローブの裾が揺れ、足音が交差し、小刻みに床板を震わせる。その中にはハーマイオニーが真剣にステップを踏む姿や、明らかに足を踏まれたロンの情けない声、ネビルの妙に安定した動きなど、妙な味の光景が広がっていた。
その横顔。肩の上下。恥ずかしがりながらも頑張る姿。
思わず口が緩んだ。
……悪くねぇじゃんか、こういう平和な空気も。
ただし。
「先生ー!こっち見てー!」
「あ、先生!次わたしの番です!」
……やっぱり勘弁してくれ。
マクゴナガルがこちらをちらりと見て、微妙に口角を上げた。完全に俺を使い倒す気だ。くそ、あのババアめ。
とはいえ、ガキ共が楽しそうなら、それでいい。せめて今この瞬間だけでも、外の暗雲から目を逸らしていられるなら……。
俺は背筋を伸ばし、腕を組んだ。
「ほら、お前ら。姿勢が悪い。胸張って足を真っ直ぐ出せ。倒れた時に受け身取れねぇ動きすんな。……あとそこのお前、踏むんじゃねぇ、引きずれ」
「え、え? フシグロ式ダンス指導ですか!?」
「黙れ。俺流の方が覚えやすいだろ」
笑い声が起き、音楽が再び流れた。
……まぁ、こういうのも悪くねぇ。
舞踏会の練習授業があった夜、いつもの4人は談話室の暖炉前に集まっていた。火の粉が時折弾けて橙色の光を散らし、石造りの壁や置かれた椅子の影を大きく伸ばして揺らす。昼間の喧騒が嘘のように静かで、暖炉の前に陣取った4人の表情にはどこか疲れと安堵が混じっていた。
「いやぁ舞踏会か〜……なぁハーマイオニー、俺と踊らね?」
ロンが巨大なシェイカーに入ったプロテインを飲み干し、喉をごくりと鳴らしてから言った。筋肉の仕上がり具合を確かめるように肘を曲げて腕を見せつけさえするその余裕に、ハーマイオニーは思わず目を細めた。
「えぇ〜……まぁいいけど」
「なんでそんな嫌そうに言うんですかね」
「嫌じゃないわよ。でもロン、あなた踊るの下手くそでしょう?フシグロ先生みたいにリードしてくれる?」
「……ッ!」
ロンの表情が一瞬で固まった。ついさっきまでの余裕が吹き飛び、暖炉の火に照らされて険しい顔になっていく。ハーマイオニーの言葉は事実であり、そこに悪気がないのが余計に堪えるのだろう。
「あ、あのな……!フシグロ先生は反則なんだよ!あの動き……なんなんだよ……ダンスじゃなくて戦闘だろあれ!」
昼間の授業で見せた甚爾のダンスは、なめらかというより、“獲物を仕留める直前”のような隙のなさだった。生徒全員が黙って見惚れたほどで、比べられたロンが噛みつきたくなる気持ちも無理はない。
ハーマイオニーはそんなロンの肩に手を置き、困ったように微笑んだ。
「だから練習するのよ、ロン。あなた努力すれば必ず伸びるわ」
「う……努力とか言うなよ……弱いんだよ俺は……!」
「知ってるわ」
ロンはむくれたまま頬を赤らめ、その様子にハーマイオニーは思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
一方、暖炉の影で筋肉の影を濃く浮かび上がらせていたネビルが、静かにソファ背にもたれて腕を組んだ。大柄な体躯になったせいで、ソファが小さく見える。
「ダンスか……」
「ネビルは誰を誘うの?」
「まだ決めてない。でも……俺の体重で足踏んだら潰れちまうよな……」
ネビルは真顔で言った。本気で気にしているらしく、卓上に置かれたマグカップをぎゅっと握りしめる。
「ネビル……あなた、最近足音だけで床揺れるものね……」
「やめろハーマイオニー!俺ほんと気にしてるんだから!」
ネビルが赤面するのを見て、ハリーは声を押し殺しながら笑い、フォローするように言った。
「だったら尚更、丁寧に踊ればいいんだ。フシグロ先生、言ってたじゃないか。“倒れたら受け身取れねぇ踊りすんな”って」
「あれダンスのアドバイスじゃねぇだろ!!」
ロンが叫び、談話室に笑いが広がった。
薪が爆ぜ、橙色の光が4人の影を揺らす。その揺らめきの中で、ハリーがふと小さく言葉を落とした。
「でもさ……ちょっと楽しみでもあるんだ」
「え?」
「こういう“普通の学校”らしいイベント。僕たち、最近ずっと戦いと訓練ばっかりだったから……。誰かと踊ったり、綺麗な服を着たり……そういうの、悪くないよ」
その言葉に、3人はしばし黙り、それから穏やかな笑みで頷いた。
「……そうね。ハリーの言う通りだわ」
「よし!舞踏会当日までに絶対踊れるようになってやる!」
「俺も……誰か誘えるくらいには上手くなりてぇな」
「俺たちらしく、頑張ろうぜ」
暖炉の火がまたひときわ大きく爆ぜ、4人の表情を柔らかく照らした。
冬の夜には不釣り合いなほど、温かい光だった。
翌日、ハリー達は金の卵を開けることにした。談話室の空気は朝から落ち着かず、暖炉の火が静かに揺れているというのに、生徒達の熱気だけはまるで真夏のように濃かった。
「みんなー!ハリーが開けるぞ!」
「うおお!!」
「準備できてるわよぉ!!」
グリフィンドールの談話室には学年関係なく生徒達が押し寄せ、ハリーを完全に包囲していた。赤と金の装飾が揺れる度に歓声が反響し、床の絨毯まで震えるほどだった。第一の課題を突破した夜も同じようにここで騒ぎ、金の卵を開けたが、中から飛び出してきたのは耳を裂くような悲鳴のような音のみで、結局何も分からず仕舞い。その悔しさが今日さらに生徒達を昂らせていた。
ちなみに金の卵は本来であれば耳を塞いでうずくまりたくなるほど凶悪な音を響かせる。だが伏黒甚爾の授業で鼓膜ごと叩かれる怒号に慣れたグリフィンドール生にとっては、そんな音など軽い準備運動程度の刺激でしかない。数名はむしろ「フシグロ先生より優しい音かもな」と笑っているほどだった。
「じゃあ……開けるよ!」
ハリーが金の卵を両手で持ち上げ、上部の取っ手をゆっくり回した。内部の隙間が開き、鈍い金色の光がこぼれ出す。次の瞬間、談話室全体に耳障りな、だがどこか一定のリズムを持った強烈な音が叩きつけるように広がった。
「うぉ!うるせぇぇ!!」
「なんだこれ全然意味わかんねぇ!」
「音の洪水ってこういうのを言うのね……!!」
生徒達は顔をしかめ耳を澄ませようとするが、音は波のように重なり、伸び、歪んでいくばかりで言語として聞き取るのは不可能だった。ハリーも眉間に皺を寄せ、卵の内部を凝視しながら耐えている。暖炉の火さえもびりびり震えるような錯覚を覚えた。
「閉めるよ!」
バタン、と卵が閉じられた瞬間、騒音が嘘のように止み、談話室は一気に静寂へと戻った。熱気だけが残り、皆が肩で息をしている。
「どうするよ?」
ロンが両耳を擦りながら言う。赤毛は汗で少し濡れ、肩も上下している。
「音……どうにか変換できれば……」
ハーマイオニーは顎に細い指を当て、目を細めて考え込む。彼女の頭の中で可能性がいくつも走っているのが表情から伝わった。
「水に包めばいいんじゃねーか?」
ネビルが両手に巨大なダンベルを持ち上げながら何気なく言った。筋肉がきしむ低い音が聞こえる。
「ネビル!それよ!」
ハーマイオニーの声が弾けた。ネビルは驚きつつも胸を張る。
「金の卵の音があんなに歪んでいるのは、空気中では本来の音が崩れて聞こえるからよ。つまり、本来の環境に近い状態にすれば“意味”として受け取れるはず。水中なら……!」
ハーマイオニーは杖を抜き、金の卵に向けて構えた。談話室にいた全員が一斉に息をのむ。
「ハリー、あなたが卵を開けた瞬間、私が水を出すわ。あなたはその中に顔を入れて音を聞くの。いい?」
「えっ!?か、顔を……!?お、おけ……分かった……!」
ハリーは頬をひきつらせながらも頷く。ロンは「大丈夫か!?」と肩を掴むが、ハリーは軽く笑い返した。勇気よりも覚悟の色が強かった。
ハーマイオニーが深呼吸し、杖をしっかり握り直す。
「準備はいい?」
「うん……開けるよ」
ハリーが卵の取っ手を再びひねった。その瞬間、ハーマイオニーが鋭く声を放つ。
「アグアメンディ!」
杖先から清らかな水が勢いよく溢れ、金の卵を包むように渦を巻く。光を反射して揺れる水膜は、魔法と魔力が複雑に混じり合い、淡い青色の膜を作り上げた。談話室の空気がひやりと冷え、耳障りな音は水膜越しに形を変えて響き始めた。
ハリーは息を吸い込み、水の中へそっと顔を沈めた。
次の瞬間、彼の表情が変わった。
『探しにおいで、声を頼りに。地上じゃ歌は歌えない、探す時間は1時間、取り返すべし大切なもの』
金の卵から流れ出る水音のような歌声は、ハリーが顔を水に沈めたわずかな数秒の間で、その意味を確かに形にした。暖炉が淡く揺れ、濡れた前髪から滴り落ちる水がじん、と冷えて皮膚に残る。談話室の空気は、歓声と興奮で熱を帯びているのに、耳の奥にはいまだに水の圧力の残滓がまとわりつくような感覚があった。
「プハッ!」
ハリーが息を吐き出すと、ロンが慌ててタオルを差し出す。濡れた髪が額にはりつく感触が妙に生々しく、卵から聞こえた歌の響きと重なって、ハリーは知らぬ間に肩へ力が入っているのを自覚した。
「どうだハリー?聞こえたか?」
「うん、聞こえた。僕の
言いながらも胸の奥では、ひどく現実的な重みが沈んでいた。相手は水中の住人、息が続くか、視界が効くか、魔法がまともに使えるか——どれも保証がない。黒い湖の底は冷たい泥の匂いと魔力の膜が重なり合うあの独特の空気、何度も湖畔でトレーニングしてきたとはいえ、水中は別物だ。
「でも、なんで水中人なんだ?」
ロンが眉をひそめる。暖炉の前でも、話題に出るだけで水中の冷たさが迫ってくるようだった。
「卵の音が水の中でしか聞こえないってことと、『地上じゃ歌えない』って卵が歌ってた。それが決め手だと思う」
「ハリーの大切なものって何かしら?」
ハーマイオニーがやや真剣な眼差しで問う。
「シェイカーとか?」
ネビルがダンベルを持ち上げながら口にすると、筋肉の伸縮に合わせて微かに床が軋んだ。
「それは確かに大事だけど……それだと簡単すぎないか?」
ロンが苦笑しながら言うと、ハーマイオニーが鋭く言葉を継いだ。
「他の選手も同じ条件なら、きっと【人】よ」
談話室の空気が小さく揺れた。火の粉がぱちりと弾け、わずかな沈黙が落ちる。人——奪われるのは、大切な誰か。
ハリーは無意識に息をついた。胸の奥で何かが緊張の糸をきつく結び直す。誰が奪われる?ロンか、ハーマイオニーか、ネビルか。誰であれ、時間はたったの1時間。湖の冷たさ、暗さ、魔力の重圧——魔法ではどうにもならない制限が重なる中、戻れなければ終わる。
ふと、ハリーの視界の端で卵の金色が揺れた。水に濡れた殻は暖炉の光を吸いこむように鈍く光り、その内側にまだ歌が渦巻いている気がして、背中にひやりとした汗が流れた。水の中で聞いた声は優しげな旋律なのに、内容はあまりに容赦がない。それが逆に不気味だった。
「大切な人……誰が出されるかな……絶対、取り返さねぇとな」
ネビルが重たい息を吐いた。彼の大きく鍛えられた肩がわずかに震えている。トレーニングで幾度も湖の縁を走り、冷たい風を浴びて鍛えた身体なのに、“奪われる”という言葉は身体とは別の場所に影を落とすようだった。
「ねぇハリー、もし本当に湖の底だとしたら……どうやって行く?水中呼吸の呪文?それとも薬?」
ハーマイオニーが続けて問う。真面目な声なのに、わずかに不安の揺れが混じっていた。
「……水中呼吸は理論上はできる。でも湖の魔力が強すぎるんだ。普通の魔法はたぶん長く続かない。薬も……効果が乱れるかもしれない」
湖の底。ハリーは何度も岸辺に立った記憶を呼び起こした。水面に漂う独特の気配、冷たさを含む魔力の膜、深部に沈む闇。あの水を覗いたとき、肌に感じた圧力は、ただの自然の冷たさではなく、古い魔法そのものに触れた時の“重さ”だった。
「でも大丈夫よ、ハリー。あなたは準備してきた。あとはその情報をどう使うかだけ」
ハーマイオニーの言葉にロンも大きく頷く。
「そうだぜ。俺たちで何度も作戦会議したろ?あれは全部無駄じゃねぇ」
「……ありがとう」
ハリーは小さく笑った。胸にあった圧力が、少しだけ形を変える。湖の底へ潜る恐怖は確かにある。それでも、支えてくれる仲間がいるという事実は、重さの中でわずかな浮力になった。
「だけどさ、ハリー。お前の
ロンがぽつりと聞いた。
ハリーは答えなかった。答えられなかった。考えるだけで胸がざわつき、足の裏が冷たくなる。誰が奪われても困る。誰も失いたくない。
その沈黙を破ったのは、ネビルだった。
「でもよ、誰が来ても、俺たちがやったトレーニングからして、絶対取り返せるように仕上がってんだろ?」
ネビルの声は低く、重く、揺らがない。その言葉が、卵の金色よりも強く光を放った。彼が伏黒甚爾の授業で培った筋力と胆力は、ただの強さではない。仲間を守るという意志の強度だ。
「……そうだね。絶対に取り返す」
ハリーは拳を握った。濡れた手がわずかにきしり、体温が戻っていく。自分の身体に流れる魔力が、静かに巡る。湖の底で待ち受けているのが何であれ、1時間しかないとしても、必ず取り返す。それだけは揺らがなかった。
暖炉がまたぱちりと弾けた。その音に導かれるように、ハリーは金の卵を再び見つめた。その奥で歌う声は今も水の底で揺れている。次の課題はもう始まっているのだと、卵が告げているようだった。
そして、静かに決意は固まった。
——黒い湖が相手でも、奪わせはしない。必ず、取り返す。