ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
とある日の夕刻、湿った風が森の奥から流れてきていた。ホグワーツの城壁に沿って伸びる小径は冬の入り口特有の冷気を含み、鼻腔にかすかな湿土の匂いを運んでくる。俺はその匂いの変化を敏感に拾いながら、ハグリッドの小屋へと向かっていた。
理由は単純だ。ダンブルドアに“しばらく競馬は禁止じゃ”と釘を刺された以上、正面から突破はできない。だからこそ裏道を探らざるをえないのだ。裏道というのは、つまり——ハグリッドが持つ空飛ぶバイクを借りる、という安直だが実用的な手だ。
もちろん、あの
小屋まであと数歩というところで、中からぬるい空気の揺れが漏れ出した。人間の体温が混じった湿気だ。それが夜の冷気とぶつかり、かすかに甘い匂いを帯びて鼻に触れた瞬間、俺は足を止めた。そして、すぐに音が続いた。
「ハ……ハグリッド……」
「うほぉ!マクシーム……」
(チッ……グロいな)
一拍置いて舌打ちが喉の奥で弾けた。やれやれ、としか言いようがない。
巨人の血を引く者同士が惹かれ合うというのは別に構わない。構わないのだが、よりにもよって俺がバイクを借りに来た時に限ってこの調子だ。声の震え方、呼吸の深さ、床板のきしむ周期——全部が“イチャついてる最中”と告げていやがる。
どうせなら邪魔してやるか?と一瞬だけ考えたが、すぐに却下した。こんなところで巨人2人の恋路を潰したところで俺に得はない。むしろハグリッドに泣かれて余計面倒なことになりかねない。
「こりゃ邪魔しちゃ悪いな」
声には出さずに呟いたが、内心の温度は少しだけ下がった。こういう“無駄足”ほど腹立たしいものはねぇ。ギャンブルの神が俺に“競馬を辞めろ”とでも言っているんだろうか。だが、そんな神がいたらとっくの昔に俺を止めていたはずだ。それこそ初めて俺が競馬で勝ったあの日に……そんなものがいるとも思っちゃいない。
「はぁ……」
深い溜息が勝手に漏れた。吐いた息が冬の気配をふくんで白く濁り、すぐに夜の闇へ溶けていく。肩の力を抜き、踵を返した。足裏に伝わる土の硬さが妙に冷たくて、感触が普段より鮮明に感じられた。無駄足を踏まされて引き返す時の空気の重さは、禪院家で嫌というほど味わった昔の感覚に似ている。
城へ戻る途中、魔力の流れが揺らぐのを感じた。湖の方向から吹いてくる風が含む魔力の粒子が、いつもより不穏にざわついている。こういうのは大抵、何かが起きる前触れだ。俺の身体が勝手に反応し、気配を探る為に呼吸が浅くなる。筋肉がわずかに硬くなるのを感じた。
「嫌な流れだな」
俺は低く呟いた。ハリー達が第二の課題の準備を進めている今、湖の魔力が荒れる理由はだいたい想像がつく。水中人の動きか、ドラゴンの残り香か、それともクラウチ・ジュニアの匂いが湖まで漂ってきたか。どれにせよロクでもねぇ。
こういう時、最悪のパターンはいくつかある。
ひとつ、クラウチ・ジュニアが早めに動き始め、ハリーに何か仕掛ける。
ふたつ、水中人の縄張り意識が強くなり、課題前に湖で事故が起きる。
みっつ、ハグリッドのせいでまた何か“飼ってはいけないもの”が逃げ出す。
どれでも面倒くさい。だが放置するほど馬鹿じゃない。
「……このまま巡回に入るか」
独り言のように呟いて、俺は城へ向かう足を少しだけ速めた。夜のホグワーツは昼とは別の生き物のように息づいている。廊下には古い魔力が染みつき、壁の石材は何百年分の魔力を吸い込んでまだ飽和していない。そこを歩くと、空気の層そのものが微かに浮き沈みする。
俺はその全てを肌で感じながら進む。気配、匂い、空気の振動。魂の輪郭を捉えるほどに鍛えた感覚は、こういうときには役に立つ。
城の奥の方で誰かの焦った呼吸が混じった。階段を降りる足音が妙に軽くて、おそらく1年か2年の生徒だろう。寮を抜け出したのか、恋文でも渡しに行く途中か——どうでもいい。
重要なのは、湖から漂ってきた魔力の乱れがまだ収まらないという点だ。
「面倒な夜になりそうだな」
そう呟いて、俺は夜間巡回に身を滑らせた。競馬のことは後回しだ。どうせギャンブルの神に祟られてんだ、今日は馬に関わらねぇ方がいい。
夜の廊下は思った以上に静かだ。石造りの壁が夜気を吸い込み、冷えきった空気が肌にまとわりつく。耳を澄ませば、遠くで風が窓枠を叩く微かな音と、城の奥に沈殿した古い魔力がゆっくり軋む気配が重なり合っている。夜間巡回なんざ何度目か分からねぇが、こういう重苦しい空気は嫌いじゃない。余計な声がなく、余計な視線もない。ただ気配だけを拾って歩く時間は、呪霊が徘徊する日本の裏通りに似ていて落ち着く。
ホグワーツに赴任してすぐ、ジジイ──ダンブルドアに頼まれた“城の夜の見回り”は、もう3年ほど続いている。あの爺は俺を教師として雇ったのか、用心棒として雇ったのか、いまだに分からん。もっとも、どっちでも構わない。日本にいた頃、禪院家と関わらねばならない面倒に比べたら、ここの夜間巡回は静かで、敵の匂いも薄い。
「ん?」
廊下の先、曲がり角の向こうで灯りが揺れた。誰かが歩いているにしては遅すぎる時間だ。生徒ならもう寝ている。抜け出すにしても、こんな深夜に動くガキはそう多くない。あの揺れ方は、油が古くなったランプの光……教師の誰かか、あるいは——
「……あそこは物置だったな」
記憶を辿る。あの部屋は掃除用具と壊れた机、それから学年別に余った椅子などを詰め込んだだけの、何もない小部屋だ。生徒が来る理由はないし、教師が集まる理由もねぇ。だが、灯りは確かにそこにある。
俺は足音を完全に殺し、廊下の影の中に溶け込むように進む。夜の城は魔力の流れが緩やかに循環していて、俺が動くたびにその流れが微かに揺れるが、敵意のある者でなければ気づきもしない。壁に背を預け、呼吸を浅く落として薄く開いた扉の隙間から覗いた。
中にはスネイプとイゴール・カルカロフ。光の中心に立つ2人の気配が、部屋の冷えた空気に妙な緊張を流し込んでいた。スネイプはいつものように黒い影のまま感情を押し殺し、カルカロフは落ち着きを失った獣のように肩で息をしている。
カルカロフは腕の裾を乱暴に捲り、手首に刻まれた黒い紋様をスネイプに見せつけていた。それは闇の印。クィディッチワールドカップの夜、空に投影されたあの醜悪な印と同じ形だ。
「“あのお方”が動いているぞ! 貴様、分かっているのか!? 分かっているのか、スネイプ!」
「……」
スネイプは表情ひとつ変えない。怒りとも焦りともつかないカルカロフの気配が部屋の中で跳ね回っているのに、あいつは微動だにせず受け流している。相変わらず心臓が石みたいな男だ。
カルカロフの焦り具合と“あのお方”という言い方で察した。ヴォルデモートの気配が何かしら動いたのは確かだ。クラウチ・ジュニアと内通してる可能性は高い。全体の流れから見ても、ジュニアの動きとあの手首の闇の印の濃度が上がっていることは繋がっている。
「し、印が……濃くなっている……これは奴が……!」
カルカロフの声は震え、その震えは単なる恐怖ではなく、生き延びたいという焦燥の臭いを帯びていた。汗の匂いが、薄い扉越しにも分かる。
スネイプは、腕を組んだまま低く言う。
「……落ち着け。吾輩に言う必要はない」
「私は逃げねばならん……! ここにいては危険だ。奴が完全に戻った時、我々は——」
“我々”、自分とスネイプを並べているつもりだ。
スネイプの表情がわずかに歪んだ。苛立ちとも侮蔑ともつかないが、俺には分かる。あれは“勝手に同列に並べるな”という感情だ。
「……吾輩は動かん。貴様の事情など知らん」
カルカロフはスネイプの冷たい拒絶に息を呑んだ。足元の板がきしむ。逃げたいという気配が全身に溢れ、蛇のように落ち着かない動きが目立つ。だが、スネイプは一歩たりとも退かない。
ここで俺は状況を整理する。
ヴォルデモート復活の兆候は確実。
カルカロフは逃げようとしている。
スネイプは動じていない。むしろ“知っている”側の態度だ。
ジュニアの存在はこの件と繋がりすぎている。
最悪のパターンは、カルカロフが逃げ出したあと、その混乱に乗じてジュニアが何か仕掛けることだ。ハリーに直接か、それとも湖の課題に合わせて何かを起こすか。どのみち放置すべきじゃない。
俺は扉から離れ、気配を消して廊下の影に戻った。スネイプが俺の存在に気づいているのは分かっていたが、あいつは俺が盗み聞きしていたところで何も言わないだろう。信頼というより、互いに“必要なものは分かっている”という無駄のない共通理解だ。
「……さて」
静かに息を吐き、魔力の流れを読む。カルカロフの焦燥が生んだ乱れは残っているが、スネイプの冷静さがそれを打ち消していた。こういう時、俺がすべきことはひとつだ。
ジジイに報告し、次に“何をどう壊すべきか”を決める。
日本でやってきたことと変わらねぇ。敵の匂いがしたら、前に出て、必要な部分だけ叩き折る。
ホグワーツの静かな夜気の中を歩きながら、俺は次に動くべき手を計算し始めた。
俺はそのままジジイのいる校長室に向かった。夜の城は湿った魔力が床石の下をうねるように流れ、歩くたびに靴底と石の間に薄い抵抗を生む。鼻を抜ける冷えた空気には、魔法薬の残り香、古い羊皮紙、密かに燃え続ける暖炉の微量な煤が混ざっている。こういう“人の気配が抜けた時間帯”は、どうしても五感が敏感になりすぎる。どこかで羽虫が動いた程度でも目がそちらに向く。
そのせいか、さっきのイゴール・カルカロフの臭いがまだ鼻の奥に残っていた。焦りと汗の酸っぱい匂い、それを無理に香水で押し潰した汚い混ざり方。服だけは上等な布を使っているくせに、手入れを怠った髭と歯糞だらけの口……ああいう“上辺だけ飾り立てる奴”の匂いは妙に忘れにくい。
階段を上る前、不死鳥の像を小突く。石が音もなく動き、螺旋階段が生まれる。魔力の流れが形を変え、俺の足元にゆっくりと沈むように広がっていく。この瞬間だけは、ホグワーツという城そのものがジジイに従って呼吸しているように感じる。
校長室に入ると、案の定ジジイは上機嫌だった。机の端には皺だらけの紙片と、片付けているのか散らかしているのか分からない山。隣ではコーネリウス・ファッジがワンカップ大関を片手にぐでっとしている。
「ジジイ、報告がある」
俺が言うと、ジジイは湯気の立つ紅茶を置き、目だけをこちらに向けた。あの目は歳を食っても全く濁らねぇ。何かを見抜く光がどこか冷静で、だからこそこの爺は嫌いになれない。
「ほぉ、何か異常があったかね?」
「うぇっぷ……伏黒甚爾〜」
コーネリウス、完全に酔ってるな。声を出した瞬間、酒臭い魔力の揺れが飛んできた。酒に弱いくせに飲む量だけは若造みたいに多い。俺は酔っ払いを無視してジジイに続けた。
「ダームストラングのイゴールとスネイプが密会してた。イゴールが“あのお方”が動いてるってよ」
ジジイの瞳が一瞬だけ細くなる。あれは驚きじゃない、確認だ。既にどこかで兆候を掴んでいたのだろう。
「ふむ……カルカロフは元死喰い人、セブルスもそうじゃ」
「ん? スネイプも死喰い人だったのか?」
正直、初耳だった。だが妙に納得もする。あいつの動きからは“躊躇と恐怖”だけが完全に抜け落ちている。死線の踏み方を知ってる奴の歩き方だ。
ジジイは紅茶の湯気を眺めながら淡々と続ける。
「フシグロ君には言っておらんがの、かつてはヴォルデモートの側近じゃった」
「へぇ……今は?」
「
その言い方は妙に落ち着いていた。ジジイはスネイプの“過去”ではなく“今”を重視してる。だからこそ俺にも黙っていたのだろう。
俺にとっちゃどうでもいい。スネイプは根暗で陰湿だが、やるべきことは確実にやる。それに、あいつの授業態度を見りゃ分かる。俺の授業方針に文句も言わず、むしろ加速させるように毒舌を吐く。信頼しろと言われれば、まぁ悪くない相棒だ。
ジジイは少し身を乗り出してきた。
「カルカロフはの、あれで繊細な男じゃ。闇の印が濃くなるたびに震えておる。動き出すやもしれん」
「逃げるってことか?」
「その可能性も高い。逃げるならまだ良いが……もし正気を失い、何かに縋りつけば厄介じゃ」
俺は肩を回し、張りつめた空気を僅かに吐き出す。夜の巡回の冷気がまだ背中に残っているせいで、身体の奥がゆっくりと熱を帯び始めていた。
「クラウチ・ジュニアの動きと繋がっている可能性は?」
「あるじゃろうな。あの子は……危険なほど忠実じゃ」
“あの子”。ジジイがそう呼ぶときは、“殺す価値もある”という意味に聞こえる。
「で? ジジイはどう動く?」
「フシグロ君、お主には
ジジイは俺を信じている。競馬に連れていく時のような気楽な信頼じゃなく、“最悪の場面で正しい手を打つ”という信頼だ。
俺は短く頷いた。
「ついでね……ま、逃げられたら面倒だ。あいつの焦りは本物だった。何かやらかす前に掴んでおく」
「頼もしいのぉ」
ジジイは嬉しそうに笑い、コーネリウスの空いたワンカップを取り上げて蓋を閉めた。
「この酔っ払いは心配いらん。気づいたら寝ておる」
確かに、コーネリウスはもう椅子にもたれて口を開けて寝息を立てていた。酒と無能はよく混ざるもんだ。
俺は踵を返す。
「じゃあ、動くわ。カルカロフが暴れたら面倒だ」
「フシグロ君」
「なんだ?」
「……今度、日本で競馬に行く日取り、空けておるぞい」
ジジイのその一言で、夜の校長室の空気がわずかに軽くなった。こういう調子で、人を油断させるんだよこの爺は。
「なら、仕事を終わらせてからだな」
ジジイが笑う。
俺も口元だけ、ほんの僅かに動かして応えた。
「ところでフシグロ君、舞踏会では誰と踊るのかね?」
ジジイがよっちゃんイカの封を破りながら言った。酸味の強い匂いが一気に校長室に広がる。湿った木材と古い羊皮紙の匂いに混ざり、妙に鼻に刺さる。近くの止まり木ではフォークスが羽で顔を覆い、明らかに嫌そうに首を逸らした。火の粉を散らすあの不死鳥でさえ耐えられねぇなら、相当だ。
「あ? 俺は踊らなくていいだろ」
「いやいや、これは全員参加じゃよ」
ジジイは当然のように言う。机の上でよっちゃんイカの袋がくしゃりと鳴り、酸っぱい香りがさらに濃くなる。俺は眉間の奥が少しだけ痛むのを感じながら、紅茶を啜るジジイを見た。
「ジジイは誰と踊んだよ」
「わしはミネルバとじゃ。もちろん、わしから誘ったぞい」
マジか。
あの厳格なマクゴナガルを誘ったのか? しかもジジイから? どうやったんだあの鉄面皮を口説くような真似を。いや、真似というより、今の言い方では完全に既に了承をもらっているのが分かる。あいつのことだから断る時は一切の妥協なく断るはずだ。つまり……本気で楽しみにしているということだろう。
「……絶対参加か?」
「ホッホッホ、絶対じゃ」
ジジイは紅茶を啜りながら笑う。フォークスはまだ顔を隠している。よっちゃんイカの匂いを嫌がっているだけじゃなく、ジジイの妙に浮かれた空気を察しているのかもしれない。
いや、参加しろって言われても、だ。
誰と踊るんだよ。俺にそんな相手がいるのか――そう思った瞬間、ジジイがまた余計なことを付け加えた。
「ちなみにイゴールは妻を招待しておる」
「妻……」
イゴールにも妻がいるのか。あの清潔感ゼロの男でも結婚できるんだな、というどうでもいい感想が浮かんだあとで、言葉が胸の奥に引っかかった。
妻。そういや俺にもいたな、と。
日本にいる。
俺がただ1人愛した女。もう1人の伏黒。
あいつの顔を思い出すと、胸の奥に微かな重さが生まれる。普段なら一切の感傷を切り捨てて動く俺でも、あいつのことだけはどうしても“別枠”だ。こっちに来てからどれだけ時間が経った? 手紙は何度も送ったが、直接声を聞くでも、顔を見るでもない。距離があるというのは、戦場での危険よりよっぽど厄介だ。最後に会ったのは……確かホグワーツに来た最初の年、初任給を競馬で全部失くした日か……
「日本にいる」
俺は短く言った。
必要以上の説明はしない。ジジイには伝わる。
案の定、ジジイは深く頷いた。
「ふむ……舞踏会の前日に迎えに行けばよい。わしが姿現しで連れて行こう」
ジジイは軽い調子で言うが、姿現しは高難度魔法だ。こっちの魔力環境と日本の呪力環境は“似て非なるもの”で、本来は精密な調整が必要だ。だがこの爺は平然とやってのける。俺と一緒に日本へ行くたび、競馬場に直行するためだけに何度も使ってきたからな。慣れきっている。
「……いいのか?」
思わず確認するような問いが口から出た。俺が誰かを呼ぶなんて前例はなかったからだ。
ジジイはよっちゃんイカをちぎり、口に放り込みながら微笑んだ。
「もちろんじゃとも。お主が大切に思う相手なら、わしも歓迎する。それに――舞踏会は
フォークスがその言葉に反応したように翼を震わせ、細かい火の粉が舞った。ジジイの言葉の裏に、深い理解があるのが分かる。俺がこの世界にいながら、唯一繋がっている“外側”の存在。それを大切に思うことを、ジジイは責めたりしない。
「ただし」
ジジイは袋を片手に持ちながら、わざとらしく咳払いをした。
「競馬は無しじゃよ?」
その瞬間、俺の全身の筋肉がごく僅かに強張った。
思わず拳が握りしめられ、指の関節がぽきりと鳴る。ジジイはその音に気づきながらも知らぬ顔でよっちゃんイカを啜っている。
「……なんでだよ」
「この時期にまた競馬へ行ったら、アルバス・ダンブルドアの名誉に関わるのじゃ。生徒達の前で“節度ある大人”を演じねばならんでのぉ」
節度? こいつが?
つい鼻で笑いそうになるのを堪えた。
「まあ、舞踏会……いや対抗試合が終われば……好きにすればよい。シリウスも誘っておるからの、お主とわしとシリウスでまた日本へ行こう。焼肉もじゃ」
それを聞いて、ようやく俺の身体の強張りが解けた。
焼肉なら悪くない。あいつも喜ぶだろうし、何より日本の飯が恋しくなっていた。
「……分かった。じゃあ、迎えに行く準備でもしておく」
「うむ。お主の“もう1人の伏黒”にもよろしく伝えておくれ」
ジジイは穏やかに笑った。
俺は軽く手を挙げ、校長室を出た。
――舞踏会か。
未知の面倒ごとだが、あいつが隣にいるなら、悪くねぇかもしれない。
時計塔の石段を登りながら、俺は胸の奥にまとわりつくような冷気をゆっくり吐き出した。夜のホグワーツは魔力が濃いぶん、空気が妙に重い。肌の下を流れるような微かな振動が絶えず続き、耳を澄ませば湖から吹く風が塔の縁を削るように鳴っていた。子ども達の喧騒が完全に消えた深夜の校舎には、魔力そのものが呼吸しているみてぇな静けさがある。俺はその気配を自然に受け流しながら、最上部の踊り場に出た。
塔の上は風が強い。乾いた冷気が頬を撫で、コートの隙間から入り込んで背中を這い上がる。遠くに黒い湖が凪ぎ、その表面に曇った月の光が細く滲み、森の影が揺らめいていた。何度見ても妙に落ち着く風景だ。だが今日は景色を眺めに来たわけじゃねぇ。ポケットから携帯を取り出す。
普通の携帯がこんな場所で使えるわけもねぇが、これはダンブルドアが作った特製のやつだ。魔力の干渉を弾くよう細工されてるから、ホグワーツでも通話くらいはできる。画面の光が夜風に揺れ、石畳に淡い反射を落とした。
俺は短くため息をつき、番号を押す。
呼び出し音が三度鳴り――
「『ちょっとアンタ!何よこんな時間に!』」
高ぇ声が耳をつんざいた。思わず携帯を少し離す。久しぶりの声だ。
新宿で働くキャリアウーマン。気が強くて口が悪くて、だけど妙なところで情が深い。
俺が金欠でどうしようもなくなると、ふらりと転がり込んでた相手でもある。結婚してんのに、たまに会って飯を食い、酒を飲んで、互いに何も聞かずに一緒に過ごして、そしてまた離れる。そんな関係。
「あぁ……悪りぃな。なぁ、お前踊れるか?」
そう訊いた瞬間、電話の向こうで絶句した気配がした。
「『はぁ?』」
呆れとも怒りともつかない声音だ。
「イギリス旅行に行きたいだろ?」
風が塔を吹き抜け、携帯越しの沈黙と重なって妙に寒さが増した。向こうは完全に置いてけぼりだろう。
「『な、なんて?ちょっと何言ってるか分かんないんだけど!?』」
半分怒鳴るような声。
だが、この調子なら断りはしねぇ。こいつはそういう女だ。
「クリスマス前に迎えにいく。空けとけよ」
短くそう言って俺は通話を切った。
夜風が一段と強く吹き込み、コートの裾がばさりと揺れた。ふと見下ろすと、湖面に細く霧が立ち込めていた。気温が一気に落ちてきている。魔力の流れもさっきより濃い。どうやらまた雪が降るかもしれねぇ。
塔の縁に片手を置くと、ひやりとした石の冷たさが掌から腕に抜けていった。遠くでフクロウが鳴く。夜の匂いの中にほんの僅かに湿った金属の臭い――スリザリンの地下に漂うような古い土の気配――が混じっている。いつもより魔力の渦が荒れているのは、校内で誰かが妙な企みを巡らせているせいかもしれねぇ。
だが、それはそれとして。
やることはやるだけだ。
女を迎える。
ダンブルドアのジジイは姿現しで連れていくと言ったが、あのジジイの魔法は乗り物並みに荒っぽいから油断ならねぇ。こっちが落ち着いて立ってられねぇほど揺れることもある。日本から迎えるなら、俺が同行するしかねぇだろ。
それに――。
舞踏会なんざ興味ねぇ。
だが、誰と踊るかと問われれば、他に選択肢はなかった。
風が一瞬止んだ。
塔の上の空気が、まるで息を潜めるように静まり返る。
その胸の奥に、ごく僅かに温かいものが灯る。
面倒で、煩わしくて、関わりたくねぇと思うことも多いが、それでも縁が切れちまうと妙に落ち着かねぇ相手。
俺が唯一“女”として長く接してきた存在。
「……踊る、ね」
思わず独りごちた声が夜の闇に吸い込まれた。自分でも意外なくらい淡い響きだった。夜空には雲が流れ、月が一瞬だけ顔を覗かせる。その光が俺の影を長く落とした。
階段を降りながら、俺は頭の中でぼんやり考えていた。
日本に迎えに行くのはクリスマスの前日。
あの女は騒ぐだろうが、準備さえさせりゃ問題はない。
ドレスのことは……ホグワーツに準備させりゃ問題ない。
問題はジジイが言っていた競馬禁止だ。
「……競馬無し、ねぇ」
口の端で薄く笑った。
ジジイは俺を止められると思っている。だが競馬も競艇も、俺にとっては日常の延長に過ぎねぇ。やるなと言われて素直に従うほど、大人しく生きてきたわけじゃない。
階段の途中でふと足を止め、夜気を吸い込んだ。魔力が肺の奥に冷たく触れる。遠くから微かに聞こえる生徒の寝息、動物の気配、城の軋む音。どれも俺がここで過ごす“日常”の一部だ。
「さて……」
ポケットに携帯を戻しながら、俺は歩き出した。迎えに行く準備は近いうちに必要だ。その前に、やるべき仕事が山ほどある。
夜間巡回も、暗躍するクラウチ・ジュニアの始末も、第二の課題の裏で動く連中の監視も――全部まとめて俺の役目だ。
風がまた強く吹き、廊下の燭台の火が揺れた。
俺は静かに歩き続けた。
やることは変わらねぇ。
ただ淡々と最適な手を打つだけだ。
クリスマスまで、あとわずかだ。
第二の課題前で既に15話、これ炎のゴブレット編あと15話くらい続くか?
ママ黒の姓を伏黒にします。名前は出てきません。
呪術原作ではママ黒が恵を産んだ後死去して、その後再婚して伏黒姓になってましたが、この世界ではママ黒と結婚して伏黒姓になります。ややこしいですがよろしくお願いします。完全ににわかでした……