ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

77 / 113
いつもありがとうございます!!


第十九話

 

 

 

 

 1995年3月15日。三大魔法学校対抗試合、第二の課題の当日がついに訪れた。朝の湖畔には冬の名残りがまだ薄く残り、吐く息が白く滲んで空に消えていく。湖の中央には特設会場が浮かび、魔法省とホグワーツの魔法で湖面に大きな円形の足場が作られている。その足場の周囲には各国の旗が揺れており、水面に反射する色彩がゆらゆらと歪んでいた。空気は冷たいが、どこか緊張と期待の熱を孕んで重く、湖の奥深くから水中人たちの歌のような響きが微かに伝わってくる。

 

 岸辺では生徒たちが舟に乗り込む準備をしていた。舟は1人乗りのものと4人乗りのものが混ざっており、それぞれ魔法で湖上の会場まで運ばれる。揺れる板の感覚、湖の湿った匂い、魔法で温められた手すりから微かに漂う熱――生徒たちは皆、胸の奥にざわつく期待と不安を抱えて足場へと向かっていた。

 

 その中で、ハリー・ポッターはネビルと並んで立っていた。ネビルは以前とは比べものにならないほど身体が鍛え上げられ、冬休み明けから着実に“伏黒式”の稽古の成果が表れており、肩幅も広がり落ち着いた雰囲気を纏うようになっていた。ハリーの横顔を覗き込むようにしながら、ネビルが言った。

 

 「結局、大切なものってなんなんだろうな?」

 

 ハリーは肩をすくめ、ほんの少し眉を寄せた。冬休み前から“奪われる”と予告されていたにも関わらず、ハリーの周囲にはそれらしい気配は一切なかった。むしろハリーにとって優先されたのは、ヴォルデモートからの干渉を防ぐための“閉心術”――伏黒甚爾とダンブルドアが交互にみっちり叩き込んだあの訓練だった。魔力の流れを遮断し、意識の奥に侵入する視線を拒絶し、外部からの精神的干渉を弾き返す。夜遅くまで何度も反復し、最近になってようやくダンブルドアの評価も「合格に近い」と言われるほどになっていた。

 

 「そういやさっきさ、ハリーのダンスの相手だったエロイーズと、セドリックの相手のチョウと、フラーの妹とクラムの相手のハンナがいねぇって、女子が騒いでたぞ」

 

 ネビルがぽつりと言った瞬間、ハリーは振り返った。

 

 「えっ、マジ?昨日の授業は普通にいたよね?」

 

 「あぁ。俺が見た時は特に変わった様子は無かった。多分だけど……夜中に攫われたんだろうな」

 

 「攫われた……?」

 

 言葉を飲み込むようにハリーは小さく呟いた。胸の奥がざわりと揺れ、冷たい風がローブの隙間から流れ込んでくる。魔力の流れが一瞬乱れ、心臓の鼓動がわずかに早くなった。

 

 「全然気づかなかったよ」

 

 ネビルは肩を竦めて言った。

 

 「俺もだ」

 

 ネビルも相当鍛えられているが、背後から忍び寄る“何か”には気づかなかったということだ。つまり――これは相当な技量を持つ者の仕業であることを意味している。ネビルの瞳には怒りに似た感情が浮かんでいた。友人であるハンナがいなくなったこと、それに気づけなかった自分への苛立ちだ。

 

 湖の中心に浮かぶ特設会場からは、まだ開会を告げる声が響いてこない。だが選手たちは既に集合しつつあり、セドリック、フラー、クラム、それぞれが静かに気配を整えているのが遠目にも分かる。セドリックは唇を結び、まるで何かを悟ったように落ち着いていた。フラーは寒さを寄せつけない気品のある立ち姿で湖を見つめ、クラムはじっと水面を睨んで自分の呼吸を整えている。

 

 ハリーの胸の奥で、閉心術の訓練で教え込まれた“内側の静寂”がゆっくりと広がり始めた。焦りを飲み込み、外界の雑音を遠ざけ、心を沈める。それでも、エロイーズの不在は否応なく心を揺らす。

 

 「ハリー、考えすぎるな。誰が攫われようと、課題のための()()()なんだろ。たぶん大丈夫だ」

 

 「……そうだといいけど」

 

 ネビルの声は穏やかだったが、握り締める拳には微かに力が入っていた。湖から吹き付ける風が2人のローブを揺らし、遠くで舟の底が水を叩く音がした。

 

 やがて、湖中央から魔法で増幅された声が響いた。

 

 『まもなく第二の課題を開始する。選手は舟に乗り、中央の足場へ向かうように』

 

 その声が湖面を渡り、観客席に集まった生徒たちが一斉にざわめいた。旗がはためき、魔力の流れが一瞬強く渦を巻く。

 

 ネビルが背中を叩いた。

 

 「行けよ、ハリー」

 

 「うん」

 

 ハリーは深く息を吸い込むと、閉心術で整えた心の“静けさ”を胸に抱き、舟へと足を運んだ。湖面は鏡のように冷たく、しかしその底には“奪われたもの”が確かに沈んでいる。

 

 第二の課題が、今まさに始まろうとしていた。

 

 会場に到着したハリー・ポッターは、舟から降りるとすぐに選手が集まるスタート地点へ向かった。湖上に組まれた足場は魔力で安定させられているものの、足を踏み出すと板がわずかに沈み、冷たい水気が靴底から伝わってくる。湖から吹く風は鋭く、頬を刺すような冷たさがあったが、それがかえって胸の奥の緊張を引き締める。周囲には観客席のざわめきがこだまし、魔力が空気を震わせている。

 

 スタート地点には既に4人の大人が立っていた。ダンブルドア、クラウチ・シニア、そして伏黒甚爾とアラスター・ムーディ。冬の空気の中でもダンブルドアの装う銀糸混じりのローブは落ち着いた光を放っており、クラウチ・シニアはきっちりと整えた髪のまま不自然なほど硬い表情で立ち続けている。そして伏黒甚爾は変わらず静かにそこに立ち、目だけが鋭く選手たちを追っていた。ムーディは義足で足場を鳴らしながら歩き、いつも通り怪しげな体勢で周囲を見回していた。

 

 ハリーはその中でも一瞬だけムーディを鋭く見た。だがすぐにセドリックの横へ向かい、深く息を吸った。

 

 「ポッター、お互い頑張ろう」

 

 「はい」

 

 セドリックは軽く笑みを浮かべたが、その仕草とは裏腹に鳩尾を何度も摩っていた。ハリーは不思議そうに眉を寄せた。

 

 (痛いのかな?)

 

 もちろん、昨日深夜にセドリックが伏黒甚爾に腹へ一撃を叩き込まれ、声もなく気絶したことなど知る由もない。

 

 そんなことを思案していた時、壇上のダンブルドアがゆっくり立ち上がり、魔法で声を大きく響かせた。

 

 「『諸君!いよいよ第二の課題じゃ。昨夜4人の代表選手の“大切なもの”が盗み出され——今その4つの“宝”は湖の底で眠っておる。その宝を見つけて持ち帰った者が、今回の勝者じゃ』」

 

 静まりかえった空気の中、フラー、クラム、セドリック、ハリーが前に出る。湖面は冬の日差しを受けて白く光り、時折吹く風でさざ波が立っては崩れていく。そのたびに魔力の薄膜がわずかに揺れ、光の屈折が水面に淡い乱れを起こしていた。

 

 「『時間の制限があるぞ。1時間きりじゃ。1時間を過ぎたら魔法は効かぬ……つまり大変なことになろう。大砲の音がスタートの合図じゃ』」

 

 観客席の生徒たちが息を呑み、湖の向こうから吹く風がひゅうと鳴った。ハリーは水面を眺め、心の底に沈めていた魔力の流れを静かに呼び起こした。伏黒甚爾が鍛えた魔力による肉体強化。それを施した時、体内の血流が熱を帯び、筋肉がわずかに膨張するような感覚がある。足裏にかかる重心が定まり、肺が冷気を吸い込むたびに焦点が鋭く研ぎ澄まされていった。

 

 セドリックも同じように体勢を整えている。クラムは大きく前傾し、獲物を前にした獣のような気配を漂わせていた。フラーは呼吸を整えながら湖面をじっと見つめ、その髪が風に舞うたび光を孕んで揺れた。

 

 ドォン!

 

 大砲の音が湖を震わせた。

 

 次の瞬間、選手たちはほぼ同時に水へ飛び込んだ。冷たい湖水が一気に身体を包み込み、ハリーは瞬時に意識を切り替えた。手早くポケットに手を入れ、エラ昆布を取り出す。ネビルから渡されたもので、食べれば両側の首筋にエラが生え、指の間に水掻きができる。

 

 ハリーは迷わずそれを飲み込んだ。数秒のうちに首筋が熱を帯び、皮膚が引き攣れる。ひやりとした水が首筋に触れた途端、一気に呼吸が楽になった。肺に水が流れ込んでも苦しくない。身体が水中に適応していくのを感じながら、強く水を蹴った。

 

 横目を見ると、セドリックは杖先から泡玉を口元に貼りつける魔法を使っていた。白い泡が彼の顔を覆い、気泡が一定のリズムで震えている。フラーも同じ魔法を使い、水中での呼吸を確保していた。

 

 そしてさらに深く潜ると、クラムの姿が目に入った。彼は既に頭部だけが巨大なサメの姿に変化しており、顎が鋭く裂け、鰭を震わせるたびに水が勢いよく押し出される。水流の痕跡が残像として揺れ、クラムはほとんど視界から消えるほどの速さで底へ向かっていた。

 

 ハリーは水を切り裂きながらさらに潜った。湖の底にかけて光は弱まり、青と黒の混じる世界へ変わっていく。水圧が耳を押し、魔力の流れと肉体の反応が一体になる。

 

 (エロイーズ……今助けに行く)

 

 胸の奥で言葉が熱を帯び、湖の冷たさを押し返すように力へと変わっていった。湖の底はまだ遥か先に広がり、その向こうに“奪われたもの”がある――選手たちは皆、その一点へ向かって加速していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は腕を組み、湖へ飛び込んだ4人のガキ共の背中を見送った。朝の冷えた空気の中に、湖面から立ちのぼる白い靄がゆっくり広がっていく。その薄い膜を通して感じる魔力の揺らぎは、冬の名残の冷たさと混じり合いながら、じわりと皮膚に沁み込んでくるようだった。水中での戦闘や奪還は地上とは全く違う負荷がかかるが、あいつらの動き方を見てりゃ多少は戦えているのが分かる。

 

 「フシグロ君」

 

 人混みを分けて近づいてきたダンブルドアの声は、穏やかだが芯がある。俺は目だけを動かしてジジイを見る。

 

 「どうしたジジイ」

 

 「ハリーはどうかね?」

 

 「ガキか?……まぁよくやってる。最近は閉心術も形になってきたし、身体の動かし方も悪くねぇ。セドリックも負けちゃいねぇがな」

 

 「やはりセドリックが優勢かの」

 

 優勢かどうかは知らねぇが、あいつの体格と筋肉量を見りゃ判断は簡単だ。ハリーがそこに食らいついてるだけ大したもんだ。俺とジジイが日本で散々遊んでいるあいだも、ガキ共はこうして毎日生き延びるための鍛錬をしている。まぁ遊んでいると言っても、競馬だ競艇だ焼肉だと、俺達が手を抜く場所はひとつもねぇが。

 

 「で、本題はなんだ」

 

 俺は声の高さを落とし、周囲に届かないように言った。

 

 「ふむ」

 

 ダンブルドアが軽く顎を動かす。その指し示す先にいるのは、柱に背中を預け湖面を睨むアラスター・ムーディ——に化けたジュニアだ。マジックアイは不規則に揺れ、脂汗がこめかみから伝っている。落ち着きなく靴先が床を叩いているのが、耳を澄まさずとも分かった。

 

 「焦ってるな、そろそろ動き出すぞ」

 

 「うむ、限界が近いのじゃろう」

 

 俺とジジイ、そしてスネイプは1週間前から素材庫から“ポリジュース薬の材料だけ”を抜き取り、隠していた。尤も、他の薬品はそのまま置いてあるから一見すると盗難には見えねぇ。ジュニアは素材庫で材料が減るのを誤魔化しながらポリジュースを作ってきたが、自前の材料はとっくに底をつき、ここ数日は完全に素材庫頼りだった。つまり今日か明日には偽アラスターの衣を脱ぐ羽目になる。

 

 「まぁ、まだ泳がしてていいだろ」

 

 「そうじゃな。下手に追い詰めれば湖の安全管理どころじゃなくなる」

 

 俺は肩を軽く回し、再び湖へ目を戻した。水面の下から微かな震動が伝わる。重い魔力が押し上げてくるようだった。どうやらガキ共は水中で何かしでかしてるらしい。

 

 「なぁジジイ、対抗試合に賭けはないのか?」

 

 「ホッホッホ、フレッドとジョージが個人的にやっておるな。まあ……刺激が少々足りんがの」

 

 「だろうな」

 

 俺達が日本で楽しんでいる競馬や競艇に比べりゃ、ガキ同士の勝負はまだ軽い。だが、この場の空気は嫌いじゃない。冷たさの中に潜む緊張、魔力のかすかな粒立ち、観客のざわめきが波紋のように身体へ入り込んでくる。こういう場所は、戦いに慣れた奴ほど落ち着ける。

 

 水中での気配の読みづらさは地上の比じゃねぇが、魔力の焦げるような匂いは水を通しても分かる。ひときわ強く魔力が弾けた。あれはハリーか、それともクラムか。セドリックの魔力は太く強いが、繊細な動きはまだ水に馴染んでいない。フラーは水中人の歌に引きずられたりしなければそこそこ戦える。まぁ全員生きて帰ってくりゃそれで十分だ。

 

 「……ジュニアはどこまで粘るかの」

 

 ダンブルドアが呟いた。その横顔には薄い笑みが浮かんでいるが、瞳は冷えている。俺も同じだ。狩りの最中に笑う奴は多いが、俺は違う。ただ淡々と、最適な瞬間を待つだけだ。

 

 湖面に再び細かい波紋が走った。底で何かが揺れた。ガキが動いたというより、誰かが“誰かを見つけた”時の揺れだ。

 

 「……さて、どっちが先に上がってくるか」

 

 俺は腕を組み直し、湖の中心を静かに見据えた。

 

 「フシグロ君や」

 

 ジジイが湖を見たまま、俺にだけ届く低い声で呟いた。早朝の冷気は湖全体に薄く霧を敷き詰め、魔力の粒が白い光を帯びて漂っている。風が止まるたび、空気そのものが呼吸を忘れたみてぇに固まる。その静寂の断面に、ジジイの声だけが深く刺さった。

 

 「そろそろ“詰め方”を考えておくべきかもしれんの」

 

 「まだいい。泳がせるって言っただろ。どうせ捕まえるなら、後ろにいる奴ごとまとめてだ」

 

 「“後ろ”か……」

 

 ジジイの声色に、わずかな重みが混じった。普段は競馬場や競艇場でくだらねぇ冗談を言い合ってるくせに、こういう時のこいつは、アズカバンに立ち込める霧と同じ匂いを纏う。俺はその変化を敏感に感じ取る。戦場に立つ時は、軽口を捨てた顔の方がジジイには似合っている。

 

 観客席を見やると、カルカロフはマントの裾を握りしめ落ち着きを失っている。時折背後を見て怯えたように肩を震わせるその様は、追われる獣そのものだ。マクシームは腕を組み、唇を細く結びながら湖面を睨んでいる。クラウチ・シニアは石像のように動かねぇが、魂の輪郭が所々で薄く欠けて揺れているのが俺には分かる。

 

 「クラウチもそろそろだな」

 

 俺の独り言に、ジジイはゆっくり頷き、寒風に揺れる髭を軽く押さえた。

 

 「いずれにせよ、今日の課題が終われば、盤面はひとつ動くじゃろう。ジュニアも、ヴォルデモートも、そして魔法省も」

 

 「賭けるなら、どのタイミングだ」

 

 「そうさな……クラウチ・シニアが“盤面から落ちた時”かの」

 

 ジジイは懐からココアシガレットの箱を取り出し、一本咥えた。タバコじゃねぇ癖にやたら様になるのが腹立つ。日本の競馬場で、シリウスと揃って妙に楽しげに同じ真似をしてた姿を思い出し、俺は鼻で笑った。

 

 視線を湖へ戻す。水面の下では魔力の揺れが拡がり、濃度の高い魔力の奔流が触手のように水を撫で回している。あれは水中人の集落あたりだ。人間の魔力とは質がまるで違い、冷たく深く、湖そのものの重さをまとっている。そこに4つの光点──チョウ、ガブリエル、ハンナ、エロイーズ──俺が運んで沈めた“宝”の反応が絡み合っていた。

 

 「……クソみてぇな課題だよな、これ」

 

 誰にも聞こえないほどの小さな声で吐き捨てる。人の“大切なもの”を奪い、湖の底に沈め、それを取り返させる。残酷な遊びだ。だが、俺の仕事は昔からこういうもんだ。依頼を受けてやるべきことをやるだけだ。感傷に浸る暇があれば、次の動きを読む。

 

 「フシグロ君?」

 

 「なんでもねぇよ」

 

 湖面の一角が微かに泡立った。水中で誰かが魔力をぶつけた時特有の揺れだ。ハリーか、セドリックか、クラムか、それともフラーか。まだ判別はつかないが、上がってくる瞬間の魔力の“重さ”で誰かは分かる。セドリックの魔力は太く強い。クラムは荒々しく尖っている。フラーは一定のリズムで揺れる。ハリーのは──未熟だが澄んでいる。

 

 「なぁジジイ」

 

 俺はダンブルドアを横目で見た。

 

 「もしここでヴォルデモートが一手打ってきたら、ジジイはどこに賭ける?」

 

 「決まっておろう。ハリーと……“わしら”じゃよ」

 

 ジジイは喉の奥で小さく笑い、その音が氷を割るみてぇに静寂に溶けた。俺は無意識に拳を握り、骨格が軋む感覚を確かめる。冷えた空気が指先の皮膚を刺し、筋肉が緩やかに熱を帯びる。

 

 湖から吹く風がローブを揺らし、足元の草が擦れ合う音が耳に触れた。水中では、ガキどもが今まさに“奪われたもの”を掴もうとしている。地上では、偽アラスターが必死に平静を保ち、クラウチ・シニアの魂は崩れ落ちる寸前だ。

 

 そして俺とジジイは、その崩れ始めた盤面の中心で、次の手を待っていた。

 

 静かに──だが、確実に、傾いていく方向を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハリーは水中を突き進み、水草のジャングルの中を泳いでいた。冷たい湖水が制服の隙間から入り込み、皮膚にまとわりつくような重さで身体を包み込むが、首元に生えたエラが規則正しく水を吸い込み吐き出すたび、胸の奥は妙に静かで、鼓動の音だけがやけに大きく耳の内側で響いていた。

 

 近くには、同じタイミングで潜ったフラーがいた。競技用に整えられたローブが水の抵抗を削ぎ、白金色の髪が水中に尾のように伸びて揺れている。彼女の肩から滲む魔力は、緊張と焦りのせいか細かく震え、周囲の水草の影をざわつかせていた。

 

 周囲を見渡すと、水中人たちが槍を携えて泳ぎながら、一定の距離を保ってこちらを監視しているのが分かる。黄色がかった瞳がじっと選手たちをなぞり、その動きに合わせて隊列を変えていく様は、まるで湖そのものに目が生えたようだった。

 

 しかし、ハリーは水中人とは違う気配も感じ取っていた。視界の端を、何か小さく素早い影が横切る。水草の陰と陰の間を、ぬるりと滑るように移動していく。

 

 (水魔だ)

 

 よく目を凝らすと、それが蛸のような細い腕を何本も伸ばし、骨ばった指で水草を掴みながら移動するグリンデローだと分かった。1匹見えたかと思えばその背後に2匹、3匹と続き、暗がりの中でじわじわと輪を狭めてくる。

 

 「『フラーさん、落ち着いて下さい』」

 

 ハリーは水中でも届くように、腹の底から声を押し出す。エラ昆布のおかげで言葉は泡混じりに水へ溶けていくが、フラーには十分伝わったらしい。彼女の肩越しに見える魔力の揺れが、先程よりもわずかに落ち着きを取り戻した。

 

 フラーもグリンデローに気づいているのか、目を大きく見開き、時おり杖を握る手に力を込めては水中に火花のような光を散らしている。

 

 ハリーはフラーの手をぐいと引き寄せ、水草のジャングルの中を突き進んだ。足に絡みつこうとする長い水草を、身体強化で強めた脚力で蹴り払い、腕の一振りごとに水を裂いて前へ出る。耳の横を流れる水の音が、心臓の鼓動と混ざって奇妙なリズムを刻んでいた。

 

 やがて水草の密林を抜けると、視界が一気に開けた。そこには石造りの遺跡のようなものが沈んでいた。柱は半ば崩れ、蔦の代わりに水草が絡みつき、苔と貝殻が外壁を覆っている。

 

 遺跡の中央部分に、4つの影が浮かんでいるのが見えた。湖底から伸びる水草の縄が足首に巻き付き、ちょうど一定の深さで静かに揺れている。

 

 ハリーは腕を止め、手首に巻いた防水仕様の時計を覗き込んだ。針は30分を指している。

 

 「『フラーさん、あそこに“宝”があります』」

 

 ハリーが顎で指すと、フラーもすぐに気づいた。彼女の目が大きく見開かれ、揺らいでいた魔力が一瞬だけ鋭く集中する。

 

 2人は一息で距離を詰めた。近づいてみれば、そこに浮かんでいるのがエロイーズ、チョウ、ガブリエル、ハンナであることがはっきりと分かった。全員が死んだように眠り、閉じた瞼の縁から時折小さな泡がこぼれ、それが頬を撫でながら上へ上へと昇っていく。

 

 ハリーは脛に固定していたホルダーから杖を抜き、水草の縄に向けて振るった。水の抵抗を押し退けて走る光の筋が水草を焼き切り、焦げた植物の匂いが水中にもかすかに広がる。

 

 フラーも遅れず杖を振るい、ガブリエルの足に絡みつく水草を片端から焼き切っていった。妹の身体を腕に抱き寄せた瞬間、彼女の魔力の揺れは恐怖から守る者のそれへと変わり、その変化は離れた位置にいるハリーにも伝わるほどだった。

 

 そこへ、後方から強い水流がぶつかってきた。誰かが水を蹴り上げて近づいてくる気配。ハリーが振り返ると、泡の輪をまとったセドリックがこちらへと泳いできていた。口元には魔法で作った空気の泡が張り付き、灰色の瞳が真剣に“宝”の列を見据えている。

 

 「『ポッター!』」

 

 セドリックが短く呼びかける。声は水に溶けて掠れるが、その意図ははっきりしていた。彼はチョウの方に目を向け、水草の縄を指さしてから、自分の胸を親指で指し示す。

 

 (チョウはセドリックの“大切なもの”……そういうことか)

 

 理解したハリーは頷き、エロイーズの足に絡みついた縄へと再び杖を向けた。光がほとばしり、水草が弾けて千切れる。エロイーズの身体がわずかに揺れ、髪が水中でふわりと広がった。

 

 遅れて、さらに強い魔力のうねりが近づいてくる。今度は粗削りで、獣のような鋭さを持った気配だ。クラムだ。彼は半ばサメと化した頭で水を裂きながら、真っ直ぐハンナの方へ突き進んでくる。その背後には、水中人の一団が距離を保ちながら付き従い、細長い槍の穂先をわずかに揺らしていた。

 

 4人分の“宝”が揃い、4人の選手がそれぞれの相手に向かって集まりつつある。その中心に、ハリーはエロイーズの手首をそっと握りながら浮かび、胸の内でただひとつのことだけを繰り返し誓っていた。

 

 (絶対に、誰も沈ませない)

 

 4人がそれぞれ1人を抱え浮上を始めた。

 

 水中人はそれをただ見守る。しかし、湖にはまだ水魔がいる。

 

 「『ギャピッー!!』」

 「『ギャギャ!!』」

 「『ギャイーン!!』」

 「『アッー!!』」

 

 水魔の大群が底から現れ4人目掛け飛ぶように向かった。

 

 ハリーとセドリック、そしてクラムが直ぐにそれを察知した。

 

 ハリーとセドリックは杖を抜き、クラムは我先にと浮上を始め、フラーは少し焦ったのか泳ぎがおぼつかない。

 

 「『ステューピファイ!!』」

 「『イモビラス!』」

 

 ハリーは麻痺の呪文、セドリックは停止の呪文を唱えた。

 

 閃光が迸り、グリンデローの大群に直撃する。

 

 しかし別方向から違う群れが現れた。それがフラーとガブリエルに絡み付く。

 

 「『セドリックさん!僕が助けます!早く上がって下さい!』」

 「『すまない!!!分かった!!!』」

 

 水中で交差した視線に、余計な言葉は要らなかった。セドリックは一度だけ強く頷くとチョウを抱えたまま踵を返し、その動きで生じた水流がハリーの背を押した。

 

 ハリーはエロイーズの腕をしっかりと抱え直し、自由になった片手に杖を握った。水圧が重くなっていく。湖の底に近いこの場所は光も届きづらく、周囲は緑がかった闇に沈んでいるが、彼の視線はグリンデローの細い腕と鋭い指先の動きを正確になぞっていた。

 

 フラーが悲鳴とも泡ともつかない声を上げる。ガブリエルの足に絡み付いた水魔が、そのまま引きずり込もうとする。フラーは妹を庇うように抱き締めながら杖を振るうが、焦りで呪文が上擦り、閃光は水中に散って届かない。

 

 「『フッ!!!』」

 

 ハリーの杖先から放たれた光が、フラーとガブリエルに群がっていたグリンデローの群れの中心を貫いた。水中に振動が広がり、水魔の身体がひしゃげて弾き飛ばされる。骨の軋む感触が水越しに腕へと伝わり、ハリーの指先が一瞬だけ痺れた。

 

 水魔たちはなおも執拗に絡み付こうとするが、そのたびにハリーの杖が閃き、魔力の衝撃が水を押し退けていく。伏黒甚爾の授業で叩き込まれた、無駄な力を削ぎ落とした動作と、狙った一点だけを破壊する感覚が、水の抵抗があるこの環境でも身体に染み付いている。

 

 「『フラーさん、上へ!今のうちです!』」

 

 ハリーは空いた手でフラーの肩をぐいと押し上げた。フラーは一瞬だけ戸惑った顔をしたが、すぐに頷き、ガブリエルを抱え直して浮上を開始する。その背中から立ち上る魔力の揺らぎが、迷いから決意へと変わっていくのを、ハリーは肌で感じていた。

 

 その隙を埋めるように、別方向からまた新たなグリンデローの群れが迫る。今度の狙いはハリーとエロイーズだ。細い腕が幾本も伸び、エロイーズの足首と、ハリーのローブの裾を掴もうとする。

 

 「『触るな!』」

 

 ハリーはほとんど反射で呪文を放った。水中を走る光の刃が水魔の腕だけを正確に切り裂き、ぶよぶよとした肉片が水中を漂う。切断された腕から滲んだ黒い血が周囲を曇らせ、その中をくぐり抜けるたび、冷たい粘り気が肌にまとわりつき、背筋に寒気が走る。

 

 だが、その気持ち悪さよりも強いのは、腕の中で微かに体温を保っているエロイーズの重みだった。彼女の髪が水中で揺れるたび、ハリーはその顔を守るように自分の身体を盾にして水魔の方向へと向ける。

 

 横合いから、轟くような水のうねりが押し寄せた。サメ頭のクラムが、ハンナを片腕に抱えたまま強烈な蹴りで水を裂き、グリンデローの群れに体当たりしていったのだ。衝突の衝撃で水魔たちが四方に散り、泡の渦が上へと昇っていく。

 

 その様子を遠巻きに見ていた水中人たちも、ついに動いた。長い槍を構えた列が滑るように進み、刃がグリンデローの身体を串刺しにし、殻を砕く鈍い音が水を通して響く。

 

 ハリーはその一瞬の隙を逃さなかった。身体強化の魔力を全身に巡らせ、足で水を蹴る。エラに取り込まれる水の量を意識的に増やし、肺の動きと合わせてリズムを作ることで、浮上速度をわずかに上げる。

 

 腕の中のエロイーズが、夢の中で何かを見るようにわずかに眉をひそめた。ハリーはその表情を見て、舞踏会の夜に手を取ってフロアを回った時の感触を思い出す。ぎこちなくも必死にステップを踏んでいた自分と、それを支えるように微笑んでくれた顔が、今の重さと重なった。

 

 湖面はまだ遠く、上から差し込む光は細い筋となって届いているだけだ。それでも、確実に近づいているのが分かる。耳の奥で大砲の音が反響しているような錯覚を振り払い、ハリーはただひたすらに上を目指した。

 

 やがて水の重さがわずかに軽くなり、代わりにぼんやりとした歓声のざわめきが上から落ちてきた。湖面の向こう側で見守る群衆の気配だ。

 

 ハリーは最後にもう一度だけ、エロイーズを抱き締め直した。そして、揺れる光の幕を突き破るようにして、湖面へと飛び出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。