ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
俺がこんな長い間ギャンブルをしなかったのは、ギャンブルを始めてから初めてかもしれない。
三大魔法学校対抗試合、通称トライウィザードトーナメントは“永遠の栄光”とやらを手に入れる為にガキ共が競い合うイベントだ。ギャンブルできないのは全部コイツのせいだ――そう思いながら、黒い湖越しに組み上がった巨大迷路を見下ろす。夜明け前の冷たい空気が肺に入り、金属の味を含んだ湿り気が舌に触れた。迷路に満ちた魔力はさっきから渦を巻き、風の流れすら捻じ曲げている。
ホグワーツの教師になったばかりに、あれやこれやと手伝わされ、ギャンブルすら禁止されちまった。まぁ給金が貯まる一方だから、それは嬉しいと言えば嘘じゃない。だが、身体の奥で疼く“賭け勘”だけは誤魔化せない。俺の指は落ち着きなく震え、脈が僅かに早まる。迷路の向こうでうごめく罠の気配を、まるで次のレースの出走馬を見る時みたいに読み取っていた。
1995年6月18日。これから始まる第三の課題は、黒い湖の上に築かれた巨大迷路を踏破し、最初に優勝杯へ辿り着いた者が覇者になる。優勝賞金は1,000ガリオン。俺の今の1ヶ月の給料――3,500ガリオンほど――より低い。ガキ共には夢みてぇな額でも、俺からしたら端金だ。だが、ハリーやセドリックは目の色を変えて挑んでくるだろう。命懸けの戦いは、金の額とはまた別の“熱”を生む。
湖から吹く風に混じって、迷路の草の匂いが運ばれてくる。濃い魔力に焼かれた青草の匂い、魔法生物の皮膚を通った体温の残滓、闇に潜む“何か”の呼吸。それらが混ざり合い、普通の迷宮とは違う“生きている”感触を作り出していた。迷路全体が巨大な生き物みてぇに鼓動している。外周の空気は妙に重く、湿気の中に鉄の味があった。血の匂いが、すでに薄く漂っている。
第二の課題が終わった直後、“本物”のアラスターは救助された。今は何食わぬ顔で教職に就いてるが、授業の仕方はジュニアが化けていた時と殆ど同じだった。杖の構え、間合いの読み方、そして生徒への余計な脅し文句までそっくりだ。ジュニアもジュニアで、割と優秀だったのかもしれねぇな。
だがそっち側の話はもう終わった。あの男はクラウチ・シニアによってアズカバンに再収監され、そこでディメンターに魂を喰われて死んだ。死の接吻。肉体は残り、魂だけが奪われる。実際に見たわけじゃないが、あれを受けた奴の“空虚な匂い”は知っている。昔、呪詛師狩りをやっていた頃にも似た匂いを嗅いだ。生きているのに、生き物じゃなくなった臭気。あれを想像するだけで背骨に冷たいものが走る。
「フシグロ君、準備はできておるかね?」
背後からジジイ――アルバス・ダンブルドアの声がした。
振り返ると、ジジイはいつもの青いローブを揺らしながら立っていた。湖面から跳ね返る光が顎髭を照らし、まるで天気占いの時みたいに目を細めている。
「ガキの見送りならもう慣れた」
俺は淡々と答えた。内心では、これから始まる“仕掛け”に合わせた動きを組み立てながら。
優勝杯にはすでに細工が入っている。ジュニアが仕込んだポートキーの術式。それ自体は完成しているが、向こうの座標がどれほど安全か、罠だらけなのは確実か、そこまで全部分かった上で“行かせる”という選択を取るあたり、やっぱりジジイは肝が据わっている。
「フシグロ君、君はハリーの後衛に回るのじゃ。迷路の中には“制御が難しい”連中もおるでな」
「魔法生物か、呪具か、あるいは両方か」
「その全てじゃよ」
ジジイの言葉に、迷路の奥でうごめく魔力がさらに強まった気がした。筋肉が自然と締まり、呼吸が静かに深くなる。戦闘の前に身体が勝手に整い始めるいつもの感覚だ。視界の端で草が揺れ、その揺れの“遅れ”から内部に複数の魔法結界が重なっているのが分かる。あれを突破するなら、ガキどもより先に俺が通ったほうが早いくらいだ。
「しかし……フシグロ君」
ジジイがふと声を落とした。
「この賭けはの、わしらが勝つのはもちろんじゃが……ハリーにとっては“初めての大勝負”でもあるんじゃよ」
その言葉に、俺は僅かに顎をしゃくった。
「大勝負なら、日本で散々やったろ。競馬も競艇もな」
「ホッホッホ。だが今回は、命が賭け金じゃ」
湖面に映った迷路が風に揺れ、全体が歪んで見えた。
ガキの命を賭けに使うつもりはねぇ。だが、ハリー自身が選んで迷路に入るのなら、その背中を押すのも俺の役目だ。
「……分かったよ。どうせ最後に勝つのは、俺かガキだ」
「それでよい。それでこそ、わしらの“旅仲間”じゃ」
ジジイが笑う横で、俺は迷路の中央に据えられた優勝杯を睨んだ。あの光の奥には罠があり、死があり、そして――ヴォルデモートがいる。
風が一段強く吹き、迷路全体が唸り声をあげた。筋肉がじわりと熱を帯び、俺の中で戦闘のスイッチが静かに入った。
いよいよ、賭けの最終局面だ。
ジジイの姿現しで迷路から離れ、ホグワーツに戻った。そしてスタート地点に作られた特設会場に向かった俺とジジイは、湖から吹き上げる冷たい風を正面から受けながら、石畳を踏むたびに足裏から伝わる微かな震えで、すでに迷路全体に魔力が満ち、今にも牙を剥こうとしているのを感じていた。
「もしハリー以外の奴が優勝杯を取ったらどうする?」
俺は歩きながらダンブルドアに聞いた。ジジイは指にはめた古い指輪を親指で撫でながら、少しだけ顎を上げて迷路の黒いシルエットを見やり、低く笑った。
「そこもまた一つの賭けじゃ、誰にでも可能性はある。セドリックは文武両道、フラーは知恵と策謀、クラムは芯の強さ、そしてハリーは…決して諦めない心」
「……賭けね」
そう口では言いながら、俺は自分の脳内で勝手にオッズを弾き出していた。体格、精神、魔力量、俺の授業にどれだけ食らいついてきたか、実戦の場数、全部を数字と感覚に変換して、迷路の構造と罠の配置、優勝杯までの距離とリスクを頭の中で並べ替える。単純な走力だけならクラム、総合値ならセドリック、状況対応力と運ならハリー、そして策を練るのはフラー。どいつが先に辿り着いてもおかしくねぇ盤面で、なおかつ“優勝杯が罠だ”って前提を知ってるのは、こっち側だけだ。
ジジイと話しながら歩いていると、会場に着いた。観客の歓声が石壁に反響して、腹の奥にまで響いてくる。人いきれと興奮の匂い、香水とインクと古いローブの埃、遠くで焼かれている肉の匂いまで混ざり合い、戦場とは違うが、別種の“血の匂い”を感じさせる空気だ。
「じゃ、手筈通りに」
「うむ、頼むぞい」
俺はダンブルドアと別れ、観客席に向かった。ジジイはこれから演説だ。喉に杖を当て、声を拡張してガキ共とその親玉どもに夢と興奮と、少しの恐怖をばら撒く係。俺はその裏で、別の意味での“興奮”を抑え込みながら、階段を登った。
観客席に近づくほど、魔力の流れが複雑になる。歓声に伴う感情の波が揺れて、それに共鳴するように杖や指輪や呪具が微かに鳴いている。そういう“音”は普通の人間には聞こえないが、俺にはちゃんと届く。右側からは興奮と欲望のざわめき、左からは恐怖と不安のざらつき、上段には魔法省の連中の打算と疑心暗鬼が重く溜まっていた。
指定されていた席に向かうと、そこには先にシリウスが座っていた。髪を無造作に掻き上げ、足を投げ出しているが、目だけは迷路の入口から離れていない。
「よぉ甚爾、やっと帰ってきたか。お前がいない間に有志で賭けをやろうとしたら、マクゴナガルに全員怒鳴られたよ」
「そりゃ正しい判断だな。在校生と卒業生が率先して校内賭場ってのもどうかと思うが」
そう言いながらシリウスの横に腰を下ろす。木のベンチが俺の体重を受けて軋み、冬の名残の冷気が板を通して伝わってきた。迷路の上空には雲が薄く広がり、日差しはあるが光は鈍い。妙に“葬式向き”な空だ。
「で、オッズはどうだ、プロの目から見て」
シリウスが身を乗り出してくる。こいつはこいつで、賭けられないなら話だけでも楽しみたいって魂胆だ。日本で一緒に競艇場に通った時と全く同じ顔をしている。
「そうだな……純粋な勝率ならセドリックとハリーが同列、クラムとフラーがその少し後ろ。だが“優勝杯に触れた瞬間に地獄行き”ってルールを知ってるか知らねぇかまで入れると、評価はガラッと変わる」
「聞こうじゃないか、先生」
「ハリーが最有力だ。あいつは“怪しいものには手を出すな”って、俺とジジイに骨の髄まで叩き込まれてる。優勝杯に違和感を覚えた時、真っ先に躊躇うのはあいつだろうな。そこからが本当の勝負だ」
シリウスが眉をひそめた。
「つまり、あの子は勝たないほうがいいってことか?」
「勝つさ。ただし、“普通の意味ではない”勝ち方になる」
俺は顎で迷路の入口を指した。そこにはすでに4人の代表選手が並んでいる。セドリックは肩の力を抜きながらも腰の落とし方がいい。足裏にしっかり体重を乗せて立っていて、何かあれば即座に動ける構えだ。クラムは獲物を前にした狩人みてぇに目を細め、周囲の雑音を全て切り捨てている。フラーは一見優雅に髪を整えているが、その指先が魔力を微細に練り続けていて、事前に想定していた呪文のパターンを何度もなぞっていた。
ハリーは――少しだけ、肩が強張っている。だが、それは単なる恐怖じゃない。胸の奥に魔力を集め、それを全身に薄く流しながら、呼吸と鼓動を一定に保とうとしている。俺が冬休みからずっと叩き込んできた“身体の整え方”と“心を閉ざす感覚”を、拙いながらもちゃんとやれていた。
「……悪くねぇな、ガキ」
思わずそんな言葉が口から漏れる。ハリーの頭の中では、今も閉心術の訓練で使ったイメージ――荒れた海を凍らせるように静かに鎮めていく映像が繰り返されているはずだ。ヴォルデモートが夢を通じて侵入してきた時、その海の底に沈めて閉じ込める為の訓練。第三の課題の緊張も、同じやり方で押し流すことができる。
観客席の反対側には、カルカロフとマクシームが並んで座っていた。カルカロフはマントの内側で手を握りしめ、時折首の後ろを撫でる。刻まれた闇の印の疼きが、奴の心臓を掴んでいるのが気配で分かる。マクシームは腕を組み、顎を前に突き出して迷路を睨みつけていた。その目には“自分の生徒をここに送り出した責任”と、“結果を掴んでこいという期待”が絡み合っていた。
その上段、魔法省の席では、ファッジが取り巻きに囲まれて笑っていた。笑い声は軽いが、そこに混ざる魔力の匂いは嫌な酸味がある。何かを見て見ぬふりをしている奴の、あの鈍い臭いだ。クラウチ・シニアの席は空いている。名札だけがそこにあり、椅子には誰も座っていない。その“空白”が、逆に視界の中でやけに目立っていた。
ジジイの声が拡張されて迷路の上に降り注ぐ。開会の言葉、栄光がどうとか、歴史がどうとか、そういうのは正直どうでもいい。ただ、その声が合図になって、迷路の魔力が一段階ギアを上げたのだけははっきり分かった。空気が一気に重くなり、観客席とスタート地点を隔てる見えない壁が厚みを増す。
「……さて」
俺は腕を組み、迷路の入口の先を見据えた。優勝杯は迷路の中央付近、巨大な茂みの切れ目の上に浮かんでいる。そこまでのルートはいくつもあるが、“死なないルート”はそう多くない。ポートキーの術式はすでに確認済みだ。優勝杯に触れた瞬間、触れた人間とその“隣接している者”が引きずられるタイプだ。
だからこそ――俺は計算していた。もしハリー以外が杯に先に辿り着いた時、どれだけの距離からなら俺が割って入り、“隣接者”として一緒に飛べるか。観客席から迷路外周へ飛び降り、結界の上を走り、強引にこじ開けて中央に辿り着くまでの時間。筋肉に蓄えた力と、地面を砕いて踏み込む時に生まれる反動、風圧、衝撃波。それらを具体的な数字じゃなく、身体の感覚で積み上げていく。
「甚爾?」
隣のシリウスが怪訝そうに俺を見る。
「いや、もしもの時の“単勝ぶっこみ”のタイミングを考えてただけだ」
「お前の“ぶっこみ”は、だいたい誰かの骨が折れるんだよな……」
シリウスが顔をしかめる。俺は肩をすくめた。
迷路の入口へ向けて、4人が歩き出す。足音は聞こえないが、地面に伝わる微かな振動と、魔力の波の揺らぎで、その一歩一歩が分かる。ハリーの背中は細い。だが、その細い背骨に、今は“覚悟”が一本通っていた。
この賭けは、俺とジジイとシリウスが日本でやってきたどんな勝負よりも、遥かに分の悪い勝負だ。だが――だからこそ、勝った時の“リターン”はデカい。
俺は静かに息を吐き、指先まで血を巡らせた。迷路の中で何が起ころうと、優勝杯に誰が手を伸ばそうと、その瞬間に割って入る準備だけは、もう出来ている。
選手4人が迷宮の入り口に立った。黒い湖の上に組まれた巨大な生け垣は、間近で見ると城の塔よりも高く、葉の一枚一枚にまで魔力のざらついた気配がこびりついている。4人ともそれぞれ違う入り口に割り振られ、互いの姿は辛うじて横目に捉えられる程度だったが、それで十分だった。今の順位は全員同列、持ち点も同じ、だからハンデもなく全員同時にスタートすることが決まっている。
ハリー・ポッターの側にはムーディが付いていた。湖から吹く冷たい風が男のボロマントを煽り、金属でできた脚が石畳をコツコツと叩く音が、やけに乾いた響きで耳に残る。
「ポッター、やることをやれ。以上だ」
「わかりました。先生」
短いやり取りだったが、ハリーにはそれで十分だった。すでにムーディが“本物”に戻っていることは知っている。明らかに気配が違うし、マジックアイの奥に、冷たさとは別種の、人間らしい温度を持った優しさが見えたからだ。以前の“ムーディ”の視線は獲物を見る死喰い人のそれだったが、今隣にいるこの男は、戦場を知りながらも生徒を前に突き落としはしない、そんな重さを纏っていた。
ハリーは肩で一度息をしてから、観客席を見上げた。眩しい照明と夕暮れの光が入り混じる上段で、ロン、ハーマイオニー、ネビルが全力で手を振っている。ロンは口を大きく開けて何か叫んでいたが、声は届かない、代わりに魔力の揺れだけが興奮と不安を伝えてきた。他の同級生達も旗やマフラーを振り、グリフィンドール色が波のように揺れる。その中に混ざるスリザリンの緑も見えた。ドラコの甲高い声もかすかに聞こえる。
「ポッター、派手に転べよー!」とでも言っているのだろう。けれど、その魔力には侮辱だけではない、わずかな期待と敵愾心の入り混じった熱があった。
教員席と来賓席には伏黒甚爾とシリウスが並んで座り、こちらを見ていた。甚爾は腕を組み、迷路と優勝杯の位置を測るように視線を流している。シリウスは椅子の背にもたれながらも身を乗り出し、今にもスタート地点まで駆け寄ってきそうなほど前のめりだった。ハリーがシリウスに向かって小さく手を振ると、黒犬のような笑顔が返ってくる。胸の奥に溜まっていた緊張が、ほんの少しだけ軽くなった。
「『諸君!静まれい!』」
ダンブルドアの声が会場に響いた。杖先から放たれた拡声の魔法が空気を震わせ、音楽と歓声が一気に押し流される。立ち上がっていた生徒達も、ざわめきながら席に腰を下ろした。空気の層が一枚、静寂で塗り替えられた。
「『今朝、フシグロ先生が優勝杯を先生だけが知る迷路の奥深くに隠した。現在、選手4人はほぼ同列、誰が優勝してもおかしくはない。じゃが……この第三の課題で迷宮を踏破し、優勝杯を最初に手にした者が優勝じゃ!!』」
「うおおおお!!!」
「ふぉー!!」
歓声が爆ぜるように広がり、迷路の生け垣がその声を呑み込んで低く唸ったように揺れた。観客の魔力が波紋となって湖の上を走り、その震えが足裏を通じて選手達の身体にまで届いてくる。
「『先生方が周辺を見張っておる。試合を放棄したい場合は、杖を使い赤い花火を打ち上げるがよい。命より重い競技など、この世にひとつもないのじゃ。では選手諸君!わしの周りに』」
ダンブルドアが壇上から降りて選手に近づき、選手もダンブルドアに近づいた。4人が輪のように老校長を取り囲む形になる。間近で見ると、誰もが額に薄く汗を滲ませている。湿った風と緊張が皮膚に張り付き、ローブの内側に熱がこもる。
ダンブルドアは、先ほどまでの張りのある声とは打って変わり、4人だけに届く低い声で静かに言った。
「よいか?迷路にはドラゴンも水魔もおらんじゃろうが……もっと厳しい試練が待っておる。迷路の中では
その言葉に、ハリーの背筋を冷たいものが撫でていった。閉心術の訓練で、心の中の“扉”を固く閉ざす感覚を何度も叩き込まれてきた記憶が蘇る。ヴォルデモートの影が夢に踏み込んできた夜、伏黒甚爾の拳が鳩尾に叩き込まれ、「余計なもんを入れるな、閉めろ」と淡々と言われた痛みと共に思い出された。
セドリックは真っ直ぐにダンブルドアを見つめ、その言葉を一言一句飲み込むように頷いた。クラムは顎を引き、目を閉じて一瞬だけ呼吸を整える。フラーは顔を上げ、視線を迷路の上にやりながらも、指先で自分の胸元をそっと押さえた。そこには家族と母校の誇りが詰まっている。
ダンブルドアは4人の表情を順番に確認し、わずかに口元を緩めると、選手達から離れて再び杖を喉元に当て、声を張った。
「『では諸君!位置について』」
4人がそれぞれの入り口へ戻る。生け垣の門は巨大な顎のように口を開けたまま、内側は闇に沈んでいて何も見えない。そこから吹き出してくる空気は冷たく湿っているのに、底の方には熱を帯びた魔力の渦が潜んでいるのが分かる。人を惑わせ、狂わせる類の“試練”の匂いだった。
ハリーは深く息を吸った。肺に入り込む湿った空気が、さっきまでの歓声の名残と、剪定されたばかりの生け垣の青臭い匂いを運んでくる。胸の奥で鼓動が高鳴るたびに、魔力が全身の血管を通って流れ、指先と足先の感覚が鋭くなっていく。
遠く、教員席で腕を組む伏黒甚爾の視線が、迷路の入り口越しにハリーの背中を射抜いていた。気配だけで分かる、あれは勝負の瞬間を測る目だ。日本の競馬場でオッズ表を眺める時も、敵の急所を見極める時も、きっと同じ目をしているのだろう。
ハリーはほんのわずかに顎を引いた。それだけで十分だった。迷路の向こうに、優勝杯と、危険へと続く罠と、その先で待つ何かがあることを知りながら、それでも前に進むしかないという事実を、静かに受け入れる仕草だった。
「『では……スタートじゃ』」
ダンブルドアが杖を空高く掲げた瞬間、湖上の空気が一段重く沈み、その先端から放たれた光と共に大砲のような爆音が夜気を裂いた。腹の底に響く低い衝撃が桟橋を伝い、観客席の板を震わせ、次の瞬間には4人の代表選手が迷路の入り口へと一斉に駆け出していく。
生垣に穿たれた4つの黒い口が選手達を飲み込んで閉じると、そこにはもう人影ひとつ見えない。ただ、草と土と魔力が入り混じった匂いだけが濃く残り、観客席からの歓声が遠く反響していた。
ダンブルドアは選手達の背が完全に緑の壁に消えたのを確認し、そっと観客席へ視線を向けた。普段ならば伏黒甚爾が肘をついて退屈そうに眺めているはずの席はぽっかりと空いており、そこにはあたたかな気配すら残っていない。その隣でシリウスだけが腕を組み、黒い瞳を細めながら迷路を見下ろしていた。
「さて……どう転ぶか」
ダンブルドアは誰にも聞こえぬ声量で呟くと、長い髭を撫でながら湖の向こうに広がる巨大な迷路を見据えた。迷路全体を覆う魔力の流れが微かに揺れ、ひんやりとした風がローブの裾を撫でる。
一方、迷路の中では、ハリー・ポッターが生垣の通路を慎重に進んでいた。
杖を低く構えた右手、反対の左手はいつでも拳を固められる位置にあり、膝はわずかに曲げられている。伏黒甚爾に叩き込まれた「いつでも殴れる構え」を、ハリーは魔法使いなりに自分の身体に馴染ませていた。
左右を覆う生垣は背丈の倍以上あり、枝と枝が重なり合ってほとんど隙間がない。上から降りてくる風も、生垣の葉で一度跳ね返されてから通路に落ちてくるせいで流れがねじれ、前方から吹いているのか横から吹いているのか判然としない。その歪んだ風の中に、しかしハリーはわずかな“違和感”を探っていた。
土の匂い、湿った草の青臭さ、遠くで別の何かが焼ける匂い。足裏に伝わる振動は細く、まだ何か大きな魔法が放たれた気配はないが、迷路全体に仕込まれた魔術がうごめくように、通路の空気は絶えずざわついている。
(右の先は重い……左は風が抜けてる。なら、こっちだ)
ハリーは鼻腔を抜ける空気の温度と、耳の奥で震えるかすかな音の反響を頼りに進路を選んでいく。正面からかすかに漂ってくるのは、人の汗に近い塩気と、獣のような鋭い匂いが混ざったものだった。伏黒甚爾が「敵の匂いだ」と言った時と同じ匂い。
角を曲がった瞬間、その源が視界に飛び込んできた。
ビクトール・クラム。
広い背中、がっしりとした肩。だが、その硬い筋肉の上に宿る気配は普段の彼のものではなかった。うつろな目、焦点の定まらない視線、顔の筋肉が不自然に強張り、肩を上下させる呼吸のリズムもどこかぎこちない。
「クラム?」
ハリーが問いかけるより早く、クラムの身体が痙攣するように動いた。
振り向きざま、ほとんど反射の速さで杖がハリーへ向けられる。その仕草は、誰かに糸で操られている木偶人形のようでありながら、一撃の速度と軌道だけは一流のシーカーそのものだった。
「ステューピファイ!!」
空気を裂く鋭い声と共に、青白い光が放たれた。
魔力が収束する瞬間の嫌な圧が、通路全体を一瞬だけ押し潰す。光弾が疾走する軌跡に沿って、空気が焦げたような匂いが生まれ、葉の表面がざわりと逆立つ。
ハリーは言葉を挟まず、訓練で擦り切れるほど繰り返した動きをなぞるように杖を振った。
「プロテゴ!」
だが、彼の防御は“壁”ではなく“刃”として放たれる。前へ押し出すのではなく、斜めに叩きつけるように。迫る光弾の側面に魔力を滑り込ませ、軌道ごとこじ開ける。
青白い光は生垣の方へと逸れ、葉を焼き、枝を抉り、焦げた穴を穿った。破片が通路に降り注ぎ、まだ燃え残った葉がじりじりと燻る臭いが鼻を刺した。
その煙を肺に吸い込みながら、ハリーはすでに次の行動へ移っていた。
「エクスペリアームス!!」
赤い閃光が杖先から放たれる。魔力を一点に収束させたそれは、空気の抵抗をほとんど感じさせず一直線に飛び、瞬きの合間にクラムの胸元へ叩き込まれた。
鈍い衝突音と共に、衝撃波が生垣へぶつかる。葉が一斉に震え、通路の両側の壁が揺れるほどの圧力だった。
クラムの身体が後方へ弾き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられる。湿った土が抉れ、靴の跡と衝撃の溝が泥の筋となって残った。肺にたまっていた空気が一気に吐き出されたのか、クラムの口から濁った息が漏れる。
「グフッ……」
しかし、クラムは倒れたままではいなかった。
腕を地面につき、筋肉が盛り上がるほど力を込めて、ゆっくりと上半身を押し上げる。唇の端から流れた血を乱暴に手の甲で拭い、その瞳がようやくハリーを捉えた。
「……ハリー・ポッター、中々やるな」
その声は低くしわがれ、どこか遠くから響いてくるようだったが、言葉の内容だけはクラム本人のものに聞こえた。だからこそ、その目の奥に灯る光の無さが不気味だった。
次の瞬間、クラムは言葉を切り捨てるように前へ踏み込んだ。
「フッ!」
短い息と共に杖先が閃く。呪文名を口にせずとも、杖から迸る魔力は鋭い礫となってハリーの胸へ迫る。空気が一点に収束し、弾丸のような圧が正面からぶつかってくる。
ハリーは身体を半身に捻り、杖でその軌道を弾く。
「っ……!」
魔力の礫が杖に触れた瞬間、骨にまで響く衝撃が腕を通って肩に抜けた。手のひらがしびれ、指先が一瞬だけその感覚を失う。だがハリーは左足を踏み込み、地面から伝わる反発力を腰へ通し、しびれた右腕ごと強引に振り切って呪文を逸らした。
伏黒甚爾の声が脳裏に蘇る。
(距離があれば撃ってりゃいい、だが近けりゃ“殴った方が早い”。杖を振る前に、拳を叩き込め)
クラムとの距離は、すでに2歩分もない。
ハリーはそこで迷うことをやめた。
左足で地を強く踏みしめる。靴底が湿った土を押し潰し、筋肉に魔力が流れ込む。ふくらはぎから太もも、腰、背中、肩、肘、握りしめた拳へ、ひとつの線として力が繋がっていく。迷路の冷たい空気が、体内の熱で一瞬だけ押し返されたかのように周囲で揺らいだ。
クラムの杖先が再び上がる。
しかしそれより早く、ハリーの身体が前へ飛んだ。
「……ッ!」
息を短く吐き、狙いを鳩尾一点に絞る。クラムの胸板の硬さ、腹筋の厚み、それらを貫くのに必要な角度と深さを、甚爾の訓練で叩き込まれた感覚に任せて決める。
拳が布を押し潰し、さらにその下の肉と筋肉の層を押し込んでいく。
「グボハッ!!」
肺から無理矢理空気を搾り出されたような声がクラムの口から漏れ、目がひん剥かれた。
衝撃はクラムの背骨を通って地面へと抜け、生垣の葉がまた揺れる。拳に伝わる反動は鈍く重いが、骨が砕けるような嫌な感触はない。ただ、中身をひっくり返されかけたような不快な震えがクラムの身体全体を走った。
クラムの手から杖がこぼれ、土の上を転がる。
ハリーはすぐに距離を取り、深く息を吸った。湿った空気に混じるのは、土と汗と、微かに鉄錆を思わせる血の匂い。胸の鼓動は速いが、視界は明瞭だった。
(ごめん、クラム。でも――進まないと)
迷路の奥から、まだ見ぬ試練と、歪んだ魔力の匂いが、濃く、重く、吹き寄せてきていた。
呪術界にはとある現象がある。
その名は【黒閃】
呪力を用いた戦闘において、ごく稀に発生する現象のことだ。打撃との誤差0.000001秒以内に呪力が衝突した瞬間、空間がきしむように歪み、黒く光った呪力が稲妻の如く奔る。それはただの会心の一撃などという生易しいものではなく、平均で通常の2.5乗という暴力的な威力を生み出し、骨も肉も臓腑もまとめて粉砕し尽くす、呪力の核心に触れた者だけが踏み込める一線だと言われている。
黒閃を経験した者とそうでない者とでは、呪力という曖昧なエネルギーの輪郭がまるで違う。前者には重さと温度と手触りがあり、後者にはただ「あるらしい」という観念だけがある。天と地ほどの差、と呪術師たちは口を揃える。
その呪術界と似て非なる場所が、今ハリー・ポッターが走っている迷路の向こう側に広がる魔法界だ。
ここではつい最近まで、魔力を肉体に練り込み拳や脚で叩き込むような真似をする魔法使いなど、
その空気を変えたのが、《天与の暴君》伏黒甚爾という異物だった。
体育教師としてホグワーツに赴任してからの数年間、彼はひたすらに同じことを繰り返し教え込んできた。魔力を筋肉に循環させろ、骨に通せ、血管の内側を魔力でこすり上げろ、そうすれば身体そのものが呪文になる、と。呪力も魔力も持たない癖に、呪術の理屈だけは誰よりも深く理解している男の言葉は、最初こそ半信半疑で受け止められたが、やがて生徒たちの肉体に刻み込まれていった。
ハリー・ポッターもその1人だった。
小柄な身体に見合わない膂力、転んでも折れない芯の強さ、それに何より「殴られても立ち上がる」しつこさを気に入られたハリーは、他の生徒以上に甚爾の訓練に付き合わされてきた。魔力を纏う感覚、骨の中に熱が流れ込む感覚を、何度も何度も叩き込まれてきたのだ。
そして今、クラムの鳩尾に叩き込まれた一撃の、その瞬間。
打撃と魔力の衝突が、偶然にも誤差0.000001秒以内で重なった。
ハリーの拳とクラムの腹の間、ほんのわずかな空隙に、音のないひび割れが走る。黒い稲妻ではない。色を持たない亀裂が空間に刻まれ、周囲の空気が一拍遅れて震えた。生垣の葉が風もないのに裏返り、土の中の小石がかすかに跳ねる。
その歪みは一瞬で消えた。ハリーもクラムも、それを視覚として捉えることはできない。ただ拳に伝わった反動の重さが、これまでのどの打撃とも違うことだけが、皮膚と骨に焼き付いた。
クラムの身体が吹き飛び、地面に叩きつけられたとき、迷路の一角にだけ濃い沈黙が落ちた。遠くの観客席から届く歓声や悲鳴は、厚い布越しに聞く音のように鈍く、ハリーの耳には自分の鼓動と呼吸の音しか届いてこない。
「……はぁ、はぁ……」
ハリーは胸を上下させながら拳を開いた。指の関節がじんじんと痺れ、手首から肘にかけて鈍い熱がこびりついている。しかしその痛みは心地良くすらあった。魔力がまだ筋肉の中で暴れ、骨を内側から叩いている。
世界の輪郭がいつもより鮮明に見えた。生垣の枝や葉脈、土の上に落ちた小さな砂粒の影。その全てがくっきりと目に飛び込んでくる。遠くの通路の先を走る風の流れさえ、皮膚の表面で撫でられるようにはっきりと感じられた。
ハリーは自分が何をやったのか知らない。ただ「今なら何でもできる」と、根拠のない全能感が胸の奥に渦巻いているだけだ。
「フッ!!」
一歩、前に踏み出した。
湿った土が足裏の重さに耐えきれず、蜘蛛の巣のようなひび割れを広げる。土の中に潜んでいた細い根がぷつりと千切れ、その反動で通路の脇に生えた蔓がわずかに持ち上がった。
迷路はそれを「侵入者」として認識したのか、生垣の奥から蔓がうねるように伸び、ハリーの足首を絡め取ろうと襲いかかった。
だが、魔力を通されたハリーの身体は、すでに通常の少年のそれではない。
「どけっ!」
叫びと共に振り払われた脚の動きだけで、蔓が内側から弾け飛ぶ。繊維が裂ける生々しい音と共に、千切れた蔓が通路に叩きつけられ、葉と汁が飛び散る。緑の液体が頬にかかり、草と鉄の中間のような青臭い匂いが一気に濃くなった。
ハリーは額の汗を袖で乱暴に拭い、そのまま通路を駆け出した。
一歩ごとに地面が沈み、踏みしめた場所に小さな窪みが残る。魔力が筋肉を膨らませ、膝のバネを倍加させ、前方への推進力に変わっていく。風が顔に叩きつけられる感覚が鋭くなり、目尻に涙が滲むほどの速度になっても、身体のどこにも「苦しい」という信号は上がってこない。
その異様な走りを、別の通路からふと顔を出したフラー・デラクールが目撃した。
金糸のような髪が迷路の陰から覗き、彼女の青い瞳が、一瞬だけハリーの背中を捉える。少年の輪郭はほとんど残像だった。風圧で生垣の葉が押し倒され、彼が通った後には細い溝のような足跡が連なっている。
「あれが……」
フラーは思わず呟き、胸の奥に小さな戦慄を覚えた。
自分もまたホグワーツにやってきてから魔力による肉体強化を学んできた。判断力と狡猾さには自信がある。だが今、目の前を駆け抜けていった背中は、それらをすべて追い越していく「暴力としての成長」の象徴だった。
「私じゃ勝てない……」
喉から零れた言葉は、水に落ちた小石のように静かに消えた。
魔力で発生した黒閃は魔閃?