ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
スタートの合図が鳴った瞬間、観客席全体が波のように揺れた。だが俺は座っていられなかった。
「行くのか」
隣のシリウスが、視線をハリーに向けたまま低く言った。声は冷静だが、手に握られた杖がわずかに震えている。獣が檻の中で牙を噛み鳴らすような緊張感があった。
「あぁ、ちょっと仕事がな」
「……あの子を頼む」
「分かってるさ」
それだけ残して席を立つ。観客の熱狂の裏を抜け、迷宮の裏手へと向かった。光と音が背後で弾けても、俺の歩みは一定のままだ。こういうとき、身体は無駄に騒がねぇ。静かすぎるほど冷えてる。
迷宮の入口に着くと、ひと息吐いて生垣の上に跳び乗る。枝が折れる音ひとつしない。生垣の中に満ちる魔力の流れが足の裏をくすぐったが、俺には何の影響もねぇ。呪力のない俺は、この手の結界や幻覚には干渉されない。あいつらが迷ってる間に、俺は上を走る。
風が頬を削る。湿った空気が流れ込み、土の匂いが強い。遠くの観客席の喧騒が霞み、足音と風の擦れる音だけが耳に残る。
優勝杯は迷宮の最奥――つまり俺が置いた場所だ。だから道順を覚える必要もねぇ。
跳びながら、目に映る景色を確認する。どの道がどこに繋がってるか、風の流れで大体分かる。空気が重くよどんでる方が罠、軽い方が通路だ。
途中、下の通路から激しい衝突音が響いた。空気が震え、魔力が一瞬で膨張したのが分かる。
「……やってんな」
生垣の上で気配を殺し、覗き込む。ハリーとクラムがいた。互いに杖を構えているが、どうも様子がおかしい。クラムの瞳孔が開ききってやがる。呼吸が不規則、手の震えもねぇ。完全に操られてる。服従の呪文ってやつか。
「イゴールはそこまで勝ちたいのか」
口に出して笑いそうになった。だが興味はすぐ薄れる。どうでもいい。
ハリーの動きが変わったのはその直後だった。
腰を落とし、左足を軸に地を踏み割る。その瞬間、魔力が筋肉に流れる音がした。呼吸、心拍、すべてが戦闘用に整っている。あのガキ、ちゃんと覚えてやがる。
「プロテゴ」でも「エクスペリアームス」でもねぇ。あいつが選んだのは、拳だった。
次の瞬間、鳩尾へ叩き込まれた拳の衝突と同時に、空間に「ひび」が走った。目に見えない割れ目が瞬間的に広がり、空気が裏返るような圧を生む。
「……アレは」
黒閃。打撃と呪力の誤差が0.000001秒以内のときに起きる現象。俺には呪力が見えねぇが、あの空間の歪み方は間違いねぇ。黒く光る代わりに、魔力が無色透明な裂け目を作ったんだ。
稲妻みてぇな音もなく、ただ空気が破裂した。
ハリーの拳から伝わる衝撃が地面に抜け、生垣が波のように揺れる。足元の枝葉が震え、湿った土の粒が浮いた。クラムの身体が宙を跳ね、背中から叩きつけられる。肺から吐き出された空気が濁った音を立てた。
「やるじゃねぇか」
俺は思わず呟いていた。
黒閃を経験した奴は、一時的に感覚が覚醒する。呪力を完全に支配した状態――呪術師ならそう呼ぶが、ハリーのは魔力だ。似て非なるもの。だが、結果は同じだろう。
奴の動きが速くなった。視界に残像を引く。魔力が血流を焼くみてぇに全身を巡り、肉体の密度を上げていく。
「……副作用も出るな、こりゃ」
黒閃の副作用は、脳の過負荷だ。全能感、神経の過覚醒、痛覚の鈍化。理性より先に身体が動く。訓練された術師でも長くは保たねぇ。ましてガキじゃなおさらだ。
クラムが起き上がろうとしたが、膝が笑ってる。ハリーは一瞬だけそれを見た。ためらいのない目をしてた。
「終わりだな」
俺は小さく吐き捨てた。
次の瞬間、ハリーが足を踏み込み、通路の土が破裂した。巻き上がった砂が頬に当たる。風圧が生垣をしならせ、葉が音を立てて舞った。
地面に叩きつけられたクラムの身体は、もう反応しない。操りの魔力がぷつりと切れ、周囲の空気が軽くなっている。
ハリーは息を荒げながらも前を向いた。目が研ぎ澄まされている。まるで“獣”だ。あれはもう、ガキの目じゃねぇ。
「……ふん」
立ち上がる気配のないクラムを一瞥して、俺は再び跳躍した。
迷宮の風が冷たい。魔力の濃度が上がってきた。中心が近い証拠だ。そこにあるのは、優勝杯――そして罠。
上空から見下ろす迷路の形は、複雑な紋章みたいに見える。中央の一点だけが異様に光っていた。
「さて、賭けの続きといくか」
唇の端を吊り上げ、俺はその光の方へ跳んだ。
そうして優勝杯の近くの生垣の上で待機した。
あと数分もすれば誰かがやってくるだろう。ハリーのガキかセドリックか、それともフラーかクラムか……迷宮全体に満ちている魔力の流れは、さっき黒閃を決めたハリーのせいで一度大きくうねり、その余韻がまだ空気の底に沈んでいる。
この辺りは特に魔法が濃い。優勝杯を守る防護と、観客に被害がいかねぇようにする外壁、その気配が幾重にも重なっているせいで、風の通りが悪く、湿った熱と緊張だけがじっとりと肌に張り付いてくる。俺は膝を折り、生垣の枝に体重を預けながら、魔力のうねりがどの方向から近づいてくるかだけに意識を絞った。
「ん?」
空気がひりつき、次の瞬間、赤い光が迷宮のどこかから真上へと打ち上がった。救難信号、棄権の合図だ。魔力の柱が一度だけ膨らんで、すぐに霧のように散っていく。フラーか、あるいはクラムか、どっちにしろここまで辿り着くのは1人だけで十分だ。
赤い光に呼応するように、生垣の通路が蠢き始めた。足元の土が低く唸り、根を軋ませながら壁がじわじわと押し寄せていく。上から見ている俺には迷路全体が息を吸い込むみたいに縮んでいくのが分かるが、中にいるガキ共からすりゃ、四方から生垣が迫ってくる悪夢にしか見えねぇだろう。実際、道も組み替わっている。ここまで来て方向感覚を狂わされたら、その瞬間に勝負から落ちる。
「おっと」
優勝杯へ通じる通路のほうから、鋭い魔力の矢が飛んできた。狙いは俺じゃない。だがこのまま放っておきゃ、杯の台座にめり込んで余計なことになる。俺は腕を軽く振り抜き、飛んできた呪文の芯だけを殴りつける。見えない衝撃が魔力を砕き、青白い光の残骸が霧みたいに弾けて消えた。
続けざまに、今度は明確な声が届く。
「インカーセラス!!」
「デパルソ!!」
セドリックとハリーの声だ。呪文名に乗った呼気の重さ、魔力の質、どっちも聞き慣れたもんだ。ロープが生垣を這い、何かを絡め取ろうと伸び、それを吹き飛ばす衝撃波がぶつかり合って迷宮全体を震わせる。
やがて、俺が陣取っている開けた円形の空間へ向かって、2つの魔力の塊が真っ直ぐ近づいてきた。どちらも疲労で揺れながらも、芯だけは折れていない。通路の先で生垣が左右に割れ、その隙間から、泥と草の匂いを纏った2人のガキが転がり込むように飛び出してきた。
「はぁ……はぁ……」
「ふぅー……」
セドリックとハリーが、優勝杯を挟んで向かい合う位置までよろめきながら歩み寄る。額には汗、頬には小さな切り傷、ローブは埃と草の汁でまだらに汚れている。それでも2人とも、まだ戦う気配を失っていない。セドリックは杖を高く構え、重心をわずかに後ろへ引き、いつでも呪文を連射できる姿勢を取る。対してハリーは杖をやや低く構え、空いている片手を軽く握り、肩口と腰の筋肉に魔力を流し込んでいた。
風が一瞬止んだ。迷宮全体がこの空間を中心に静まり返ったかのように、遠くの物音が薄くなる。優勝杯からは冷たく澄んだ魔力の光がじわじわと滲み出ていて、それが2人の影を長く地面に引き伸ばしていた。
「僕が勝つ」
先に口を開いたのはセドリックだった。息は荒いが、声にはまだ余裕がある。ホグワーツきっての優等生らしい真っ直ぐさで、杖先に込めた魔力がぶれることなく輝いている。
「僕が勝つ」
ハリーが同じ言葉を、しかし少しだけ低い声で重ねた。さっき黒閃を起こしたせいで、体の内側の感覚がいつもと違っているはずだが、その目には浮ついた光はなかった。ぎりぎりのところで、あいつは自分の足元を見失っていない。
2つの声が重なり、空気の真ん中でぶつかって弾ける。どちらの魔力も優勝杯へ向かって真っ直ぐ伸びていて、僅かでも気を抜いた側がその瞬間に置いて行かれる。俺は生垣の上からその光景を見下ろしながら、無意識に指先を鳴らした。
「さて……どっちに賭けるかね」
ダンブルドアと日本で競馬場に通った時のことを、ふと思い出す。ジジイは穴狙いで大きく賭け、俺は堅いところを拾った。儲けが大きかったのはだいたい俺のほうだったが、ジジイは外れても全く懲りねぇ顔で馬券を眺めていた。
今回はどうだ。セドリックに賭けるなら“栄光”の絵面は美しい。だがハリーに賭ければ、この先の戦いで使える札が増える。どちらに転んでも、俺達は盤面を動かせる準備を終えている。
ただひとつ分かっているのは、この瞬間だけは、俺が何も手を出さねぇという事だけだ。これはガキ共の勝負であり、ホグワーツの物語だ。優勝杯の向こう側に待っている地獄については、終わったあとでいくらでも口を出してやればいい。
「さあ、来いよ」
俺は胸の内でそう呟き、2人が同時に地面を蹴る気配に全身の感覚を研ぎ澄ませた。次の一撃が、すべてを決める。
少し時は遡る。
クラムを下し、通路を突き進んだハリーは、優勝杯の青白い光がかすかに見える区画でセドリックと鉢合わせた。
「ポッター!」
「セドリック!」
学友としてではなく、1人の選手として向かい合う2人だった。湿った土と生垣の青臭い匂いがむわりと立ちこめる中、どちらの額にも汗が滲み、泥に汚れたローブの裾が風もないのに微かに揺れているのは、全身を巡る魔力の流れがそれだけ激しくなっている証拠だった。
2人とも伏黒甚爾の授業で叩き込まれた魔力による肉体強化を施し、日頃続けてきた走り込みや素振り、筋力訓練の成果で体格は以前より一回り大きくなり、杖を握る指先にも少年らしい細さより戦士の硬さが勝るようになっていたが、とりわけ今のハリーはさきほどクラムに決めた現象【魔閃】によって魔力の核心に触れかけ、身体の内側から噴き上がる全能感と共に、気配そのものが別人のように研ぎ澄まされていた。
ハリーの放つ魔力の密度の違いにいち早く気づいたセドリックが、目を細めて言う。
「ポッター、さっきまでと雰囲気が違うな……何かを掴んだのか?」
「分からないです。ただ……凄く調子がいい」
短く答えたハリーの瞳には、迷いよりも確信が勝っていた。その様子にセドリックは一瞬だけ口元を上げると、次の瞬間には真剣な顔に戻り、杖を翻した。
「そうか。なら——やりがいはあるな!」
言葉の終わりとほぼ同時、上級生らしい無言呪文が放たれた。言葉を伴わない純然たる魔力の弾丸が、赤い閃光となってハリーの胸元を正確に撃ち抜かんと迫る。空気が焼けるような音を立て、生垣の影がその光に照らされてゆらりと揺れた。
「フッ!」
ハリーは短く息を吐き、半身に身体をずらして鋭く踏み込む。魔力で補強された足裏が土を抉り、踏み出した足元から蜘蛛の巣状のひび割れが四方へ走る。かすった閃光が背後の生垣を抉り、焦げた葉の匂いと破裂音が遅れて耳に届いた。
当然ながら魔力による肉体強化はセドリックも同様だ。セドリックは即座に距離を取り直しながら、別の方向へ杖を向ける。
「コンフリンゴ!」
炸裂の呪文が生垣の地面すれすれを走り、土を巻き上げながらハリーの足元を狙う。しかしハリーはそれすらも前へ出るための踏み台に変えた。膝に込めた魔力を一気に解放し、爆ぜた土煙の中から飛ぶように躍り出ると、杖先で爆風をいなしながら、空いている拳をセドリックの懐へ滑り込ませる。
「——ッ!」
セドリックは反射的に腕で受けるが、拳が触れた瞬間、骨と筋肉を通して魔力がぶつかり合い、鈍い衝撃が走った。空間がわずかに歪みかける感触があったが、魔閃に至るにはほんの少しだけタイミングが足りず、亀裂は生まれない。それでも衝撃は十分で、セドリックの身体が半歩ほど後退する。
「やるな、本当に4年か?」
「先生の地獄みたいな授業のせいです」
短い会話の裏で、2人の魔力はさらに膨れ上がっていく。セドリックはハリーの間合いの取り方が、すでにホグワーツの辺境で伏黒甚爾と殴り合っている生徒のそれだと理解していたし、ハリーはハリーで、セドリックの呪文の切り替えが一切淀まず、攻撃と防御、牽制と本命の境目が分かりにくくなっていることに舌を巻いていた。
「グリフィンドールとハッフルパフ、どっちが本当に強いか……ここで決めよう」
セドリックの声には不思議な清々しさがあった。優勝杯はすぐそこ、だが彼の視線はポッターという1人のライバルだけを射抜いている。それは、ダンブルドアや伏黒甚爾が言っていた“迷路の中で人が変わる”という言葉の、別の意味での現れにも思えた。
「はい。僕も、それがいいと思います」
ハリーも頷く。魔力による強化で鼓動は速まっているが、呼吸は乱れていない。全身を駆け巡る熱は、恐怖ではなく高揚から来るものだった。
2人は同時に地面を蹴った。最短距離で互いの間合いに踏み込み、杖と拳、呪文と体術が交錯する。赤や青の閃光が咲き、土が抉れ、葉が飛び散り、狭い通路がたった2人の少年のための戦場へと変わっていく。遠くで鳴る観客の歓声も、迷宮のうめき声も、今の2人には届いていなかった。あるのはただ、自分と目の前の相手、そしてすぐ先に置かれた優勝杯だけだった。
やがて、互いの肩が上下し始めても歩みは止まらない。腕に走る痺れ、指先の震え、肺を焼くような冷たい夜気、そのすべてを魔力で無理やり押さえ込みながら、2人は一瞬でも気を抜けば優勝杯どころか命さえ落としかねないと本能で理解していたが、それでも誰1人として退くという選択肢を思い浮かべはしなかった。
そうして2人は再び走り、互いの間合いへと吸い寄せられるように踏み込み、そして真正面からぶつかった。湿った土を踏み砕く音と同時に、呪文の閃光と肉体の衝突音が重なり、生垣で囲まれた空間の空気が一瞬で張り詰める。夜の冷気に混じるのは、焦げた葉の匂いと、汗と土が入り混じった生々しい匂いだった。
セドリックが杖を振るい、無言の呪文が鋭い刃のように走る。
ハリーはそれを半歩横に避け、同時に踏み込みの勢いを殺さぬまま拳を伸ばした。魔力で強化された筋繊維が収縮し、足裏から地面へと衝撃が伝わり、その反動が腰、背中、肩、そして拳へと連なっていく。拳が空を切った次の瞬間、セドリックの返した蹴りがハリーの脇腹を掠めた。衝撃と同時に肺の空気が一瞬だけ押し出され、短く息が漏れる。
「ッ……!」
ハリーは歯を食いしばり、すぐに体勢を立て直す。セドリックの頬にも浅く拳がかすり、赤い線が走ったが、それでも彼は構えを崩さない。両者の呼吸音が荒くなり、熱を帯びた吐息が白く夜気に溶けていく。
2人は同時に踏み込んだ。杖と腕が正面からぶつかった瞬間、空気がひしゃげるような衝撃波が生じ、生垣が大きく揺れ、無数の葉がばさりと音を立てて散る。互いに弾き飛ばされることはなく、むしろ距離を潰すように次の動作へと移行した。
「エクスペリアームス!」
セドリックの声と共に放たれた赤い閃光に、ハリーは自らの杖を斜めに振り下ろして逸らす。逸れた呪文が地面に突き刺さり、土と小石を巻き上げる。その土煙の中へ、ハリーは迷いなく突っ込んだ。視界が遮られる瞬間のわずかな隙を狙い、魔力を両脚に集中させて一気に距離を詰める。
セドリックは音と風圧で接近を察知し、反射的に肘を打ち出した。重なり合う肉体同士がぶつかり、骨と筋肉が軋む鈍い音が響く。衝撃はそのまま2人の身体を貫き、内臓を揺さぶり、足元の土をえぐり取った。ハリーの口の中に金属のような味が広がり、セドリックの喉からは短い呻きが漏れる。
それでも2人は退かない。後退する代わりに、さらに踏み込んで間合いを詰め、至近距離で呪文と拳を繰り返し叩きつけ合う。杖の先から放たれる魔力の熱、拳が肉を打つ感触、衝突のたびに走る痛みと痺れ、そのすべてを承知の上で、2人は動きを止めなかった。
やがて視界の先、生垣が途切れた場所に、淡く青い光が浮かび上がる。優勝杯が安置された小さな広場だった。湿った地面の中央、台座の上で、静かに揺れるその光は、不思議なほど穏やかで、今ここで繰り広げられている激しい衝突とはまるで別の世界のもののように見えた。
「……見えたな」
セドリックが息を整えながら呟く。
「はい……」
ハリーも荒い呼吸の合間に短く応じる。互いに視線を外すことなく、しかし確かにその奥で、同じ目的地を捉えていた。
「「僕が勝つ」」
2つの声がほぼ同時に重なり、空気の中心でぶつかって弾けるように響いた。その瞬間、2人は残った力をすべて叩き込む覚悟で同時に動く。土を蹴り、杖を振り、拳を引き絞り、次の衝突へと身を預ける。
杖と腕が再び激突した瞬間、先ほどよりも重い衝撃波が生まれ、広場の生垣が大きくうねり、葉と枝が雪崩のように降り注いだ。空気が震え、耳鳴りのような音が残響として広がる中で、ハリーとセドリックはなおも距離を詰め、再び拳と呪文を交差させる。
2人は何度もぶつかり合い、何度も弾かれ、そして再び踏み込み続けた。筋肉は悲鳴を上げ、魔力は急速に削られていく。それでも優勝杯へと至る最後の数歩を、どちらも譲ろうとしなかった。夜の迷宮の中で、ただ2人の少年の衝突だけが、激しく、執拗に、音と光と衝撃となって鳴り響き続けていた。
だが命運を分けたのは、やはり魔閃を経験していたハリーだった。踏み込みの速さ、呼吸の深さ、魔力の巡り、そのすべてがセドリックを僅かに、しかし決定的に上回っていた。セドリックの右ストレートが唸りを上げて迫る刹那、ハリーは半身をずらし、前腕でそれを弾き落とす。肉と骨がぶつかる鈍い音と同時に、ハリーの腰が沈み、全身の力が一点へと収束した。
「グフッ!!!」
次の瞬間、ハリーの拳がセドリックの腹に深々と突き刺さった。空気が押し潰されるような衝撃音。セドリックの身体はくの字に折れ、一瞬だけ宙に浮かび上がる。吹き飛ばなかったのは、これまで積み重ねてきた鍛錬と、魔力による肉体強化で辛うじて衝撃を殺せたからに過ぎない。だが内臓を直接殴り抜かれた衝撃は、確実に肺と胃を揺さぶり、息を根こそぎ奪っていた。
よろめくセドリックの目前で、ハリーの瞳が鋭く光る。勝敗を確定させるための判断に、迷いは無い。至近距離、ほとんどゼロ距離からハリーは杖を突き出した。
「デパルソ!」
先ほど拳を叩き込んだその一点へ、追い討ちのように魔力の奔流が直撃する。
「ウッ!!!」
衝撃が衝撃を呼び、セドリックの身体はそのまま生垣を突き破って吹き飛ばされた。枝が裂け、葉が舞い、土煙が夜気に溶ける。重く地面に叩きつけられたセドリックは、もはや起き上がる力を残していなかった。
「か、勝った……!」
ハリーはその場に膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。全身から汗が噴き出し、指先まで震えが走っていた。心臓が胸の内側から肋骨を叩くように脈打つ。もし先ほどの一撃が無ければ、もし魔閃を掴んでいなければ、この結果は違っていたかもしれない。
「僕が……優勝……」
呆然と呟きながら、ハリーはふらつく足で立ち上がり、淡く青い光を放つ優勝杯へと歩み寄った。湿った空気、崩れた生垣の匂い、遠くで揺れる魔力の残滓。そのすべてが現実感を伴ってハリーの感覚に流れ込む。
「ん? ……なんか、違和感が……」
魔閃の影響で研ぎ澄まされた感覚が、優勝杯の周囲に張り付く異質な魔力の歪みを捉えかける。だが疲労と高揚が、その僅かな警告を押し流した。ハリーはゆっくりと手を伸ばす。
そして持ち手に触れた瞬間、景色が歪み、足元が消えた。渦に引きずり込まれるように、ハリーの身体は一瞬で掻き消える。
その消失とほぼ同時、誰の目にも映らぬ速さで影が渦へと滑り込んだ。
伏黒甚爾である。
音も気配も置き去りにし、迷いなく渦へと手を差し入れ、そのまま飲み込まれていった。
次の瞬間、ハリーは固い地面を転がり、咳き込みながら起き上がった。冷たい空気、重苦しい闇、鼻腔を刺す湿った土と朽ちた草の匂い。
「あれ……スタート地点じゃない? どこだ? ここ……いや……ここ、見覚えがある……」
月明かりに照らされたのは、無数の墓石が並ぶ墓地だった。悪夢の中で幾度も見た光景と寸分違わぬ場所。大きな鎌を持つ死神のような石像が屹立し、その根元の石碑にははっきりと刻まれている。
【トム・リドル】
「なんでここに……優勝杯が、ポートキーだったのか……?」
一方その頃、伏黒甚爾は既に墓地の影へと溶け込み、息遣い一つ立てずに状況を観察していた。
「ここが……例の場所か……」
低く呟いたその直後、墓地の奥の闇が静かに揺れ、人影が一つ、ゆっくりと姿を現す。
ハリーは無意識に額の稲妻状の傷を押さえ、杖を正面に構えた。
「ピーター!!!」
現れた男の腕には、赤子のようでいて、決して赤子ではない異様な存在が抱えられていた。空気そのものが重く沈み、墓地全体が不吉な鼓動を打ち始めていた。