ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第二十四話

 

 

 

 

 「フシグロ君、あちらで何があったか教えてくれるかの?」

 

 「あぁ」

 

 短く答え、椅子を少しだけ軋ませて腰を掛け直した。股関節の奥に湿った冷気がまだ残っている気がする。ついさっきまで踏みしめていた墓地の土の感触、腐葉土と古い石に染みついた水気、そこに混じる血の生温い匂いが、鼻の奥に薄くこびりついたままだ。校長室の空気は暖炉の熱で乾いているのに、俺の呼気だけがどこか湿って重い。

 

 俺は小さく息を吐いた。視界の正面にはダンブルドア、その左右にシリウス、マクゴナガル、スネイプ、アラスター、そして端っこで赤ら顔の魔法省大臣コーネリウスがワンカップ大関を握りしめている。アルコールの甘ったるい揮発臭が、羊皮紙と煤の匂いに混じって漂っていた。緊張で張り詰めているはずの空間に、どうにも場違いな匂いだ。

 

 俺とハリーが墓場から戻ってきた直後、予定されていた閉会式は即座に延期された。ハリーは医務室へ直行、俺たち大人はこの校長室に集められた。というかコーネリウスがどう見ても酒臭い。こんな場面でまたワンカップか、と内心呆れつつ、表情には出さない。

 

 「優勝杯はジュニアの情報通り墓場に通じてた。トム・リドル・シニアの墓と、後は知らねえ奴らの墓が何本も並んでた。そこにピーターとヴォルデモートが現れた」

 

 「奴はどんな感じだった?」

 

 アラスターが大杖の柄を撫でながら言った。青白く光るマジックアイが、俺の顔を貫くように据えられている。この男の視線は、いつだって生き残る前提で物を見る。

 

 「()()は小さい醜い赤ん坊だった。骨と皮だけの、まともな呼吸もしてねぇ塊だ。ピーターがハリーに磔の呪文を放って死神の像に縛り付けると、そのまま儀式を始めた」

 

 「まさか闇の帝王が生きていたのか……?」

 

 コーネリウスが声を裏返した。握っていたワンカップが震え、いまにも床に落ちそうになる。

 

 「コーネリウスよ、少し黙っておれ」

 

 ダンブルドアが静かに窘める。柔らかい口調だが、魔力の圧がわずかに強まったのを、俺は皮膚で感じ取った。コーネリウスは肩をすくめて黙る。こいつ、本格的にアル中だな。ジジイが安酒を教えたばっかりに。

 

 「儀式か……」

 

 スネイプが低く呟いた。腕を組み、目は閉じたまま。だが魔力の流れは微細に揺れている。あいつは俺の話を一言一句逃さず噛み砕いている。

 

 「そう儀式だ。詠唱ははっきり覚えてる。ビビりのスキャ……ピーターがな、ちゃんと手順通りやってた。見事なくらいにな」

 

 「どんな儀式だったのかね?」

 

 ダンブルドアが促す。

 

 「詠唱はこうだ。『父親の骨、知らぬ間に与えられん。父親は息子を蘇らせん』『下僕の肉、喜んで差し出されん。下僕はご主人様を蘇らせん』『敵の血、力ずくで奪われん。汝は敵を蘇らせん』……骨は墓から引きずり出され、ピーターは自分の腕を切り落として大釜に放り込み、最後にハリーの腕をナイフで抉って血を大釜に注ぎ込んだ。泡が立って、肉が形を持ち始めて……はい復活、だ」

 

 言葉にすると簡単だが、あの場の空気はそんな軽いもんじゃなかった。大釜から立ち上った血と骨の湯気は甘く鉄臭く、喉の奥を灼くようにまとわりつき、地面に伏せるハリーの呼吸音とピーターの荒い息遣いが不規則に重なっていた。大釜の表面で泡が弾けるたび、まるで肉が内側から叩いているような鈍い音がしていたのを、俺は今でもはっきり覚えている。

 

 「なんと悍ましい」

 

 マクゴナガルが口元を押さえて言った。指先が白くなるほど力が入っている。

 

 「呪胎にそっくりだった。世界が悲鳴をあげるような、そんな様子だったな」

 

 俺は一瞬だけ視線を外し、過去の記憶に重ねる。日本で何度か見た、呪霊が呪胎から孵る瞬間。俺は呪霊そのものは視えねぇが、魂の輪郭だけは捉えられる。あの時の空気の重さ、圧、皮膚の内側を撫でる不快な震え――ヴォルデモートの復活は、あれと酷似していた。

 

 呪霊は呪胎という繭を経て特級呪霊へ変態する。闇の感情が積み重なり、形を持つ瞬間だ。ヴォルデモートの復活も、それと同質の歪みを孕んでいた。

 

 「完全に復活したのじゃな?それにハリーの血を取り込んだのかね?」

 

 ダンブルドアが静かに確認する。

 

 「あぁ、間違いねぇ。ドバドバ入れてたぞ」

 

 俺の即答に、室内の空気が一段重く沈んだ。

 

 「そうかそうか、ホッホッホッホッホ!!」

 

 その沈黙を破ったのは、ジジイの爆笑だった。場違いなくらいに明るい声。まるで勝ち誇ったような響きだ。全員の視線が一斉にダンブルドアへ向かう。俺も眉をひそめる。

 

 ……何を掴んだ、ジジイ。

 

 「アルバス!笑ってる場合ですか!()()()()()が復活したのですよ!」

 

 マクゴナガルの声が鋭く室内を切った。あの女が感情を露わにするのは珍しい。だが無理もねぇ。死んだはずの呪いの権化が、墓の底からぞろりと這い出てきた直後だ。

 

 「ま、確かにジジイが笑ってる理由は分からねぇ」

 

 俺は椅子の背にもたれ、脚を組み替えながら呟いた。暖炉の火がぱちりと爆ぜ、焦げた木の匂いと一緒に、さっきまで嗅いでいた血と湿土の臭気が鼻の奥でぶつかる。ハリーの血を復活の材料に使った事が、そんなに可笑しい話か?俺にはそうは思えなかった。

 

 「わかっておるともミネルバ、ことの重大さはの。しかしわしの“予想”通りであれば、ヴォルデモートを完全に滅ぼすことも可能やもしれん」

 

 ダンブルドアは杖を指先で軽く叩き、穏やかな声でそう言った。その余裕がかえって不気味だ。

 

 「銃で頭を撃って死ななかった奴をか?」

 

 俺の言葉に一瞬、空気が硬直した。生き物で脳を破壊され、心臓を潰されて生きている奴なんて()()はいねぇ。呪術界でも魔法界でも同じだ。どんな化け物だろうが急所を破壊すりゃ終わる。呪霊なら呪具で祓う、生物なら弾丸一発で殺せる。それがこの世界の基本ルールだ。

 

 だがアイツはどうだ。頭に数発、心臓にも数発ぶち込んだのに、普通に起き上がってきやがった。反転術式ならまだ理屈は通る。だがあの蛇野郎は呪術師じゃねぇ、魔法使いだ。

 

 「ん?フシグロ君、奴の頭を撃ったのかね?銃で?」

 

 ダンブルドアが、まるで散歩の話でも聞くような調子で聞いてきた。

 

 「あ?あぁそうだ。隙だらけだったんでな、額に一発、その後も心臓に何発か入れた。だけど普通に起きやがったぞ」

 

 思い出すだけで、指先に反動の痺れが蘇る。引き金の重さも、骨に弾丸が当たった感触も、今もはっきり残っている。

 

 「ほぉ……興味深いのぉ」

 

 「何が言いたいんだ?」

 

 「ヴォルデモートはの、恐らく【分霊箱】(ホークラックス)という闇の魔術を使っておる」

 

 分霊箱……一瞬、脳裏に引っかかる文字が浮かんだ。ホグワーツの禁書棚を適当に読み漁っていた時に、確かに一度だけ見た単語だ。本の片隅に、まるで呪いのように刻まれていた一文。

 

 《魔法の中で最も邪悪な発明。人はそれを説きもせず語りもしない》

 

 中身は黒塗り同然で、詳細はほとんど書かれていなかった。つまりろくでもない代物だという事だけは分かっていた。

 

 「ダンブルドア…!その魔法は口にしてはいけない!禁忌の魔法だぞ!」

 

 さっきまで酔っていたはずのコーネリウスが、急に正気に戻った顔で叫んだ。脂汗がこめかみを伝っている。

 

 「コーネリウスよ、そうも言っておれんのじゃ。ヴォルデモートは復活した。これまでの話が全て嘘だと思うのかね?フシグロ君は此処に嘘を語りにきたのではないのじゃよ」

 

 ダンブルドアの声に、静かな圧が混じる。室内の魔力が一斉に膨らみ、波打つのを皮膚が捉えた。シリウスが肩を強張らせ、マクゴナガルの背筋がぴんと伸びる。スネイプだけは平然と俺の横に立ち、視線を微動だにさせない。競馬場で焼肉を焼いていた時の能天気なジジイとは別人だな。

 

 「で、分霊箱ってのはなんだ?ジジイ」

 

 俺は本題だけを切り出した。感情論はどうでもいい。

 

 「ふむ、分霊箱というのはの。古代の闇の魔法使い【腐ったハーポ】という者が産み出した魔法じゃ」

 

 そうしてジジイは語り始めた。魂を引き裂き、器に封じ、不死を得るための外法。人一人を殺すたびに魂は裂けやすくなり、それを利用して己の魂を切り分ける。分けた魂は器が壊れぬ限り滅びず、本体がどれほど損壊しようと、完全な死には至らない。

 

 ……なるほどな。だから何発撃ち込んでも死なねぇわけだ。

 

 「つまりだ」

 

 俺はジジイの話を遮って口を開いた。

 

 「アイツは自分の魂を多分何個にも分けて、そこら中に埋めてやがる。俺が撃ち殺したのは“本体”じゃねぇ。“入れ物”の一部に過ぎねぇ……そういう話か」

 

 ダンブルドアは静かに頷いた。

 

 「その通りじゃ、フシグロ君」

 

 校長室の空気が、さらに重く沈んだ。だが俺の中では、歯車がかみ合う音がしていた。殺せない理由が分かった以上、やるべき事は単純だ。

 

 「じゃあ分霊箱を全部壊しゃ、次は確実に殺せるって訳だな」

 

 「理屈の上ではの」

 

 俺は小さく鼻で笑った。シリアスな話のはずなのに、背後でコーネリウスがワンカップをひっくり返す音がして、全員が一斉にそちらを見る。

 

 「す、すまん……手が滑った……」

 

 緊張で震える手元。場違いな間の抜け方に、思わず口角がわずかに上がった。

 

 「ダンブルドアよ。話の腰を折って悪いが、その理屈だとフシグロがヴォルデモートを撃ち殺し、その後起き上がった理由にはならない。分霊箱とはわしの知る限りでは“現世に魂を縛る”ことだろう。肉体が死ねば魂のまま現世を彷徨うことになる。13年前と同じようにな」

 

 アラスターが大杖を床に軽く突き、静かながらも一点の曇りもない声で言い切った。その隻眼が俺とジジイを交互に射抜き、部屋の空気が一段重く沈む。暖炉の火の爆ぜる音がやけに遠く聞こえ、灰の匂いと血の記憶が鼻の奥で絡み合った。

 

 確かに、今まで聞いた分霊箱の性質がその通りなら、魂を器に縛りつけることで“死ねなくなる”。正確には、肉体が壊れた時点で魂は肉を失い、現世に留まる不完全な存在になるはずだ。13年前、あの蛇野郎がそうなったように。だが今回、俺が見たのは魂だけの亡霊じゃない。確かに肉があり、血が流れ、骨が砕けたはずの“生きた死体”だった。

 

 「そうじゃ、わしもそこは気になった。フシグロ君がヴォルデモートの頭を撃ち抜き殺し、肉体の死を迎えた筈のヴォルデモートが再び起き上がった。これは通常であるならばありえない事象じゃ」

 

 ダンブルドアが顎髭を撫で、視線を宙に泳がせながら言う。その姿だけ見れば賢者然としているが、脳裏には日本で競馬新聞を広げて一喜一憂していたこの男の姿が浮かぶ。生粋のギャンブラーが、今は世界の命運を賭けた賽を転がしているわけだ。洒落にならねぇ。

 

 「血だらけで俺に杖を向けてたぞ、アイツ」

 

 俺の声は、思ったよりも低く、乾いていた。記憶の底から引きずり出される墓地の光景。湿った土を踏みしめた瞬間の足裏の感触、腐臭と血臭に混じる薬品じみた甘い匂い、そして撃発の反動が腕から肩、鎖骨へと走ったあの一瞬。

 

 ヴォルデモートが起き上がった瞬間は、今でも嫌というほど鮮明だ。頭蓋と顔は弾丸でひしゃげ、皮膚の内側で骨が砕ける音を確かに聞いた。胸からは血が噴き出し、肋骨の隙間から肺胞が泡を吹いていた。それでもあいつは、まるで何事もなかったかのように、ゆっくりと上体を起こし、揺れる視界の中で俺を正確に捉え、震える指で杖をこちらへ向けていた。呼吸音は濡れた鞴のように擦れ、体表からは死臭と新しい血の匂いが同時に立ち上っていたのに、それでも“生きている”としか言いようのない圧を放っていた。

 

 「ふむ……儀式直後で、蘇生の為のエネルギーが残っていたのやも……分からんの」

 

 ジジイはそう言って肩を竦めた。その仕草だけ見れば、とぼけた老人そのものだ。だが俺には分かる。こいつは分からないのではない。まだ“賭けの目”が揃っていないだけだ。

 

 「ジジイでも分からねぇのか」

 

 俺は小さく息を吐いた。室内の魔力の流れが、じわじわと渦を巻くように動いているのが皮膚で分かる。スネイプの感情は冷え切った刃のように静まり、シリウスの呼吸は荒く、マクゴナガルは唇を噛みしめて沈黙を守っている。誰もが同じ結論に辿り着きつつある――分霊箱だけでは説明がつかない、という事実に。

 

 俺の頭は既に別の計算に入っていた。最悪のパターンを片っ端から並べる。分霊箱とは別の術式が重ねられている可能性。肉体そのものを“死ねない構造”に変える歪んだ魔法。あるいは、あの儀式そのものが一度きりの完全蘇生だった場合――そのどれに転んでも、次に相対する時は今以上に厄介になる。

 

 ……やれやれだ。弾が効かない蛇は、さすがに飼い慣らす気もしねぇ。

 

 「結論から言えばだ」

 

 俺は椅子の背から身体を起こし、全員を一度見回した。

 

 「分霊箱を壊すだけじゃ足りねぇ可能性がある。次にやる時は、“肉体が起き上がる理由ごと”潰す必要がある。じゃなきゃ、何回撃っても同じ事を繰り返すだけだ」

 

 重い沈黙の中、どこからかコーネリウスのひっくり返した酒瓶の音が転がってきた。緊張と間の抜けた音が同時に部屋を満たし、思わず鼻で笑いそうになる。だが、その笑いが喉まで上がったところで、俺はそれを飲み込んだ。

 

 まだ、この話は始まったばかりだからな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 話を終え、校長室に残ったのはダンブルドアただ一人だった。さきほどまで満ちていた人の気配が嘘のように引き、暖炉の火がぱちりと乾いた音を立てる。魔力の余韻だけが薄く漂い、重たい沈黙が石造りの壁に染み込んでいった。ダンブルドアはしばし椅子に深く腰を沈めたまま、瞼を伏せ、先ほどまで交わされていた言葉と、フシグロの報告の端々をゆっくりと反芻していた。

 

 やがて彼は静かに立ち上がり、書斎へと足を向けた。背後でローブが床を擦る微かな音がする。棚に並ぶ無数の背表紙の前で立ち止まり、ため息ともつかぬ小さな息を吐いてから、目的の一冊へと手を伸ばした。

 

 抜き取られたそれは、名も記されていない黒い皮の本だった。表紙には鋭利な刃物で深く突き刺された痕が幾筋も残り、そこから滲んだかのような黒いインクが、乾いた血のようにこびりついている。それはかつて秘密の部屋の事件で、ハリーがゴドリック・グリフィンドールの剣を突き立て、命そのものを断ち切ったトム・リドルの日記――分霊箱の一つだった。

 

 ダンブルドアはそれを机の上にそっと置き、白い指先で表紙を撫でた。冷たい感触と共に、もはや闇の魔力も、禍々しい残滓も感じられない。ただの“空の器”となった皮と紙の質感だけが、現実の重さとして伝わってくる。

 

 「分霊箱……やはりこの日記も、か」

 

 低く抑えた声が室内に落ちた。その響きは静寂の中でひどく重く、同時にどこか皮肉めいた調子を帯びていた。不在となったトム・リドルの気配を想起するように、彼は一瞬だけ目を細める。

 

 ハリーがこの日記に剣を突き立てたあの日の光景が、脳裏を過ぎる。怯えと勇気がないまぜになった少年の表情。銀の剣に貫かれた日記から噴き出した黒い液体。そして、闇の魔力が崩れ落ちていくあの瞬間。あれは確かに、魂のひとかけらが滅びる音だった。

 

 だが、それで終わりではなかった。

 

 ダンブルドアは椅子に腰を下ろし、指を組んだまま、暖炉の揺れる火を見つめる。揺らめく赤橙色の光が、深く刻まれた皺と長い白髭に影を落とした。

 

 「問題は、トムが幾つ魂を裂いたか……」

 

 ぽつりと呟いた声には、老賢者らしからぬ疲労の色が混じる。魂を裂くなどという禁忌を、あの男が一度で止めるはずがない。己の不死に執着し、死を恐怖し、そして支配を求め続けた存在だ。日記が一つであるはずがないという結論は、希望的観測を差し引いても揺るがなかった。

 

 「これは中々、骨が折れるの」

 

 軽く肩をすくめるその仕草は、まるで厄介な書類整理でも任されたかのような気楽さを装っている。だが、その内側でどれほどの計算と覚悟が渦巻いているかを、知る者は少ない。人知れず、彼はすでに“賭け”の盤面を思い描いていた。いくつ存在する分霊箱を、どの順で破壊し、どの段階でヴォルデモート本体を追い詰めるか。そのすべてが、未来の無数の分岐として頭の中に並べられていく。

 

 暖炉の火が一瞬だけ強く弾け、火の粉が小さく舞った。ダンブルドアはその様子をぼんやりと眺めながら、どこか場違いに、かつて日本でフシグロと共に焼肉を囲み、他愛もないことで笑い合った夜のことを思い出していた。鉄板の上で脂が弾ける音と、煙と肉の匂い。あの平穏な熱気と、今、目の前にあるこの黒い日記との落差に、わずかな苦笑が浮かぶ。

 

 だが次の瞬間、その笑みは消えた。

 

 机の上に置かれた黒い日記へと、再び鋭い視線が注がれる。

 

 「さて……どこから手をつけるべきか」

 

 それは独り言とも、世界への宣戦布告ともつかない低い声だった。闇はまだ深く、そして、長い夜はこれからだ。

 

 

 ダンブルドアが静かに決意を固め始めているその頃、例の墓地――ヴォルデモートが復活した呪われた場所の空気は、依然として湿った血と土の匂いを引きずっていた。夜気は冷たく、月明かりが墓標の影を長く歪め、死者の列が地上を這っているかのような錯覚を与える。その墓地からほど近い、崩れかけた古い屋敷の中で、ヴォルデモートは闇に身を沈めていた。

 

 朽ちた梁から水滴が落ち、床に鈍い音を立てる。蝋燭の炎が不規則に揺れ、そのたびに白く引き延ばされた異形の顔が壁に映し出された。

 

 「伏黒甚爾……まさか、あの場にいるとはな。魔力も気配も、何ひとつ感じなかったというのに」

 

 低く擦れる声が闇に溶ける。怒りというよりも、理解できぬものに触れた戸惑いが、その声音にわずかに混じっていた。ヴォルデモートは玉座代わりの石に身を預け、自らの胸に走る鈍痛を確かめるように、細長い指を肋に沿わせた。すでに血は止まっているが、弾丸が貫いた瞬間の衝撃は、肉体の深部に焼き付いたままだ。

 

 伏黒甚爾。天与呪縛のフィジカルギフテッド。呪力も魔力も持たず、それらの理から完全に脱却した異端の存在。代わりに与えられたのは、常軌を逸した膂力と、獣のような感覚。文献の中でしか語られぬ、半ば神話の存在。

 

 「天与呪縛……ククク……文献でしか知らぬ存在が、まさか現実に牙を剥くとはな。危うく、また身体を失うところであったわ」

 

 笑みは浮かべているが、そこに余裕はない。ヴォルデモートは確かに伏黒甚爾に撃たれた。脳髄をぶち撒け、心臓を穿たれ、肉体は完全な“死”の形を取った。通常の魔法使いであれば、否、通常の生物であれば、そこで終わりだったはずだ。

 

 もし儀式が完了していなければ、自分は間違いなく塵になっていた。そう考えるだけで、背筋に冷たいものが走る。

 

 だが運は、再びヴォルデモートを選んだ。完全蘇生の儀式。三つの供物。父の骨、下僕の肉、そして最も大きなエネルギーを宿す“敵の血”。敵の血とは、ハリー・ポッターの血。リリー・ポッターの犠牲の魔法が宿った、あの忌まわしい血だ。

 

 「皮肉なものよ……あの忌まわしい血が、俺様の命を繋ぎ止めるとはな。“愛”だとかいう、虫唾の走る護りが……」

 

 吐き捨てるように呟いた言葉とは裏腹に、ヴォルデモートは自らの血管を流れる力の異質さを、はっきりと自覚していた。暗く淀んだ魔力の流れの奥底に、焼け付くような、しかし確かに“拒絶する力”が混ざっている。自分のものではない感触。それは、守るために存在する力だった。

 

 リリー・ポッターが命を犠牲にし、ハリーに施した古の護り。

 

 それが今、ヴォルデモートの身体の中にも流れている。

 

 この事実の滑稽さに、ヴォルデモートは思わず低い笑いを漏らした。守るための魔法が、守られるべきでない者の中で脈打っている。その歪んだ構図が愉快でならなかった。

 

 だが、その愉快さの裏側で、理屈では割り切れぬ違和感が燻っている。

 

 自分は今、確かに“死ねない”。だが同時に、それは完全な不死とは違う感触だった。魂は分霊箱によって繋ぎ止められている。しかし肉体は、本来なら滅びていたはずの損傷を受けてなお、強引に現世へ引き戻された。その“無理”の帳尻を、何か別の力で合わせられている気配がある。

 

 ヴォルデモートは無意識のうちに、胸の中心に指先を押し当てた。脈打つ鼓動の奥で、別の鼓動が重なっているような錯覚がある。遠く、しかし異様に近い脈動。

 

 ハリー・ポッター。

 

 あの少年が今どこで、どのような状態にあるのかは知らない。だが、確かに“繋がっている”。それは理屈ではなく、肉体が告げる違和感だった。

 

 ヴォルデモートも、ハリーも、まだ気づいていない。

 

 自分たちが、想定外の形で絡み合ってしまったことに。

 

 どちらかが生きている限り、どちらも死なない。

 

 その事実が意味するのは、単なる“生存”ではない。殺し合う運命にある二つの存在が、互いを縛り合う鎖となったという、最悪の皮肉だ。

 

 ヴォルデモートはゆっくりと立ち上がり、割れた鏡の前に立つ。映るのは、歪んだ肉体と蛇のような目。仮初めの命。未完成の完全体。

 

 「フ……暫し待て、伏黒甚爾。ポッター。次は“殺せない”戦いになる」

 

 屋敷の外で、風が墓標を鳴らした。死人の合唱のような音を背に、闇は再び静かに、そして確実に蠢き始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は自室でタバコを吸っていた。窓の外は夜の湿気を含んだ霧が漂い、ホグワーツの石壁にまとわりついている。指先で火を弾くと、乾いた音とともに先端が赤く灯り、煙が肺の奥まで沈んでいく。さっきまで校長室に満ちていた重たい魔力の流れと、老獪な思惑の匂いが、まだ鼻腔にこびりついたままだ。

 

 「魂ねぇ……」

 

 吐き出した煙が天井に薄く広がる。分霊箱。魂を裂いて分割し、それを器に封印して保存しておく魔法。死んでも死ななくなる魔法。理屈だけ聞けば単純だが、やっていることは生き物としての構造そのものを破壊する外道の所業だ。呪術界でも魂を弄る術は禁忌中の禁忌だが、魔法界のそれはまた別の質感を持っている。

 

 「そういやハリーから感じたあの不気味な気配……」

 

 灰皿に灰を落としながら、あのガキの額に手を伸ばした時の感触を思い出す。皮膚の下、魂の輪郭に薄く張り付くようにくっついてた()()()()の魂。あれは呪いでも、単なる残滓でもねぇ。意志を持った異物だった。そして、墓地で対峙したヴォルデモートの魂の輪郭の特徴。歪み方、ざらつき、冷えた感触。あれと、ハリーに張り付いていたそれは、同じ形をしていた。

 

 「ハッ……なるほどね」

 

 思考が一気に一本の線で繋がる。ヴォルデモートが分霊箱を何個作ったかは分からねぇ。だが少なくとも、俺が現場で確信できた分だけで1()()()()()()()。ガキの中に入り込んだ、あれがそうだ。だから奴は、頭を撃ち抜かれても、心臓を抉られても、そこから()()()()()。魂の一部が、あの場に完全に属していなかったからだ。

 

 そして、ヴォルデモートがなぜ()()()()()()死ななかったのか……考えれば考えるほど、胸の奥がざらつく。

 

 「ガキの母親の護り、そして分霊箱……まぁ今はいいか。ジジイもその内気づく……いや、もう気づいてるかもしれねぇ」

 

 思い返すだけで、ダンブルドアのあの顔が浮かぶ。俺が血をドバドバ入れてたと言った瞬間、腹を抱えて爆笑してやがった。あの笑いは、ただの余裕や楽天じゃねぇ。あれは賭けに勝つと分かっている、ギャンブラーの目だ。競馬場で何度も見た。大穴を掴んだ時の、あの嫌らしい目。

 

 「……まったく、あのジジイは」

 

 呆れと苦笑が同時に喉に引っかかる。とはいえ、あいつが勝ちを確信したということは、少なくとも()()()()()()()()()ということだ。ハリーが分霊箱だという最悪の可能性も、既に視野に入れているだろう。そうでなければ、あんな笑い方はしねぇ。

 

 タバコを灰皿に押し付けて消す。肺の奥に残った煙と一緒に、さっきまで張り付いていた重たい思考も一度吐き出した。今すぐ俺が動いたところで、分霊箱の在処も数も分からねぇ。だったら今は、余計なことを考えるよりも、俺が“やるべきこと”をやるだけだ。

 

 「まぁ……今はそんなことよりも、やっと競馬ができる」

 

 思わず口元が緩む。緊張の糸が一気に緩んだ反動で、どうでもいい現実的な欲が頭をもたげる。墓地だの魂だの不死身だのと、湿っぽい話は一旦お預けだ。俺はベッド脇の空間に向かって声を投げた。

 

 「ドビー!」

 

 次の瞬間、部屋の空気が一瞬だけ縮み、バシュンッと乾いた破裂音とともに屋敷しもべ妖精が現れた。大きな目を潤ませ、耳をぱたぱたと揺らしている。

 

 「はいぃ!フシグロ様ぁ!」

 

 この温度差がたまらねぇ。さっきまで世界の存亡を左右する話をしていたのが嘘みたいだ。

 

 「レースの情報を集めてこい。それと雑誌と新聞も頼む。忙しくなるぞ」

 

 淡々と言ったが、内心は久しぶりの娯楽に少し浮いている。日本の競馬場の土の匂いや、走り抜ける馬の蹄音が脳裏に蘇った。あのジジイとまた焼肉を囲みながら、オッズを睨んで唸れる日も、そう遠くねぇのかもしれない。

 

 「承知しましたぁ!!!!」

 

 ドビーは大きく一礼すると、再びバシュンッと音を立てて消えた。部屋に残ったのは、微かな硝煙めいた魔力の匂いと、夜の湿った空気だけだ。

 

 俺は椅子にもたれ、天井を見上げる。魂が裂けていようが、世界がどう転ぼうが、俺にできることは結局ひとつしかねぇ。目の前の敵を見据えて、最適な距離から、最適な一手で潰す。それだけだ。

 

 「とっておきの呪具、出す時がきたかもなぁ……」

 

 呟きは誰に聞かれるでもなく、静かに夜へ溶けていった。

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