ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第二十五話

 

 

 そうして1年が終わった。200年振りに開催された三大魔法学校対抗試合は、最後まで混乱と歓声を呼びながらもハリー・ポッターの優勝で幕を閉じた。3校の生徒たちは互いの肩を叩き、別れを惜しみ、やがてホグワーツは約2ヶ月の夏休みに入った。しかし世界は休まない。魔法界に走った冷たい報せは、夏の空気を瞬時に凍らせるほど強烈だった。

 

 魔法省大臣コーネリウス・ファッジ本人が、記者の前で()()()()を抑えながら読み上げた公式声明——

 

 『例のあの人、復活』

 

 さらに追撃のように、

 

 『闇の帝王によりアズカバン崩壊、多数の死喰い人が逃亡』

 

 新聞、ふくろう便、魔法通信……あらゆる媒体を通して広まり、魔法界のあちこちで悲鳴と戸締まりの音が重なった。杖を手放せなくなる者、国外へ逃げる準備を始める者、子供を抱きしめ震える者——再び来た“闇の時代”を誰もが確信していた。

 

 だがイギリス魔法界が騒いでいる間、例の4()()はもう魔法界にはいなかった。

 

 伏黒甚爾、アルバス・ダンブルドア、シリウス・ブラック。そして“おまけ”として連れて来られたファッジの4人は、毎年夏に恒例となった“賭博遠征ツアー”に向かった。

 

 4名は、ダンブルドアが事前に“姿現し”専用に作った魔法陣を踏み、イギリスから一気に日本へ移動した。

 

 着地したのは新宿駅から徒歩圏内にある、甚爾とダンブルドアが共同で確保している拠点。呪術界とも魔法界とも関係のない、ただの雑居ビルの一室だが、異常なまでに防音と結界が施されている。

 

 「おおっ……湿気がある。日本に戻ってきた感じじゃのぉ」

 

 ダンブルドアが大きく深呼吸し、鼻で空気の変化を楽しんでいる。

 

 「私はもう慣れましたよ。去年ほぼ全部ここで過ごしたし」

 

 シリウスは窓から見える雑多な街並みに懐かしげに目を細めた。電光看板、道路を走るタクシー、ビル風。まだ日本語表記に戸惑っていた最初の頃から比べると、完全に馴染んでいる。むしろ今では甚爾より新宿の土地勘があるかもしれない。

 

 「コーネリウス、立ってねぇで荷物どけろよ。そこ俺の座布団」

 

 甚爾が淡々と言うと、ファッジは完全に観光客の顔でキョロキョロしている。

 

 「こ、ここが……あのニホン……!!異国情緒が——わ、わしは荷物など……あ、あった……」

 

 ファッジはワンカップ大関を握りしめたまま、そろそろと座布団から離れた。去年シリウスがやらかした「呑みすぎて甚爾の座布団にゲロ吐く」という事件から甚爾は敏感になっていた。

 

 「さて……フシグロ君、ホテルへ向かおうかの。予約はしておる」

 

 ダンブルドアが指を軽く弾くと、杖先から淡い光が現れ、全員の荷物をコンパクトに収納する。拠点を出て数分、4人はタクシーに分乗して高級ホテルへ向かった。

 

 ホテルのロビーは落ち着いた黄金色の照明に照らされ、静かなピアノ曲が流れていた。シリウスは「ここは去年よりランクが高いな」と呟き、ファッジは豪奢なシャンデリアを見上げ口を開けっぱなしにする。

 

 「コーネリウス、口開けて歩くな。虫入るぞ」

 

 甚爾の言葉にシリウスが吹き出した。

 

 「うむ……わしは異国の文化を……味わっておる……!」

 

 「味わいすぎだ。ほら鍵もらうぞ」

 

 ダンブルドアがフロントで流暢すぎる日本語を披露し、スタッフに深く頭を下げられていた。(※1991年から何百回も来ているだけあって、発音もほぼ完璧になっている)

 

 部屋に荷物を置き、軽く身支度を整えた4人は、夕暮れの街へ出た。

 目的地は——もちろん毎年恒例の娯楽だ。

 

 今日はパチンコ。

 

 新宿駅の近くにある大型店の自動ドアが開いた瞬間、鼓膜を揺さぶる電子音と熱気が一気に押し寄せた。金属と煙草が混ざった匂い、無数の台から放たれる光の脈動、人々のざわつき。甚爾はその全てが肌に馴染んでいるように、無表情で受け入れる。

 

 「おおお……!!ここが……あの……ニホンの……!」

 

 ファッジは完全に子供のように目を輝かせていた。

 通りすがる若者に二度見されていたが、本人はまったく気づいていない。

 

 「シリウス、お前台は決めてるのか?」

 

 甚爾が尋ねると、シリウスは頷いた。

 

 「もちろんさ。この店は去年の後半ずっと通っていたからね。奥の列が甘いんだ。出玉の流れが分かる」

 

 「お前……そこまで日本に馴染むなよ」

 

 甚爾が呆れたように言うと、ダンブルドアが笑った。

 

 「シリウスは日本が気に入ったのじゃよ。わしも同じじゃがな!」

 

 その後ろでファッジだけが必死にドル箱の使い方を甚爾に聞いていた。

 

 「ええと……この箱に玉が溜まる……のか? わしの国には無い文化でのぉ……!」

 

 「黙って座れコーネリウス。あとで教えてやる」

 

 甚爾はため息をつきながらも、きちんと空いている台へ案内してやった。

 さっそくファッジが座ると、台が派手な光を放ち始める。

 

 「うわぁぁあ!!ピカピカ光っとる!!これは……当たりか!?当たりなんじゃな!?」

 

 「騒ぐな。とにかく打て」

 

 甚爾は淡々と台の説明をするが、シリウスとダンブルドアは後ろで腹を抱えて笑っている。

 

 こうして、魔法界が騒然としている裏で——

 4人の夏休みは、いつもと変わらない“日本のギャンブル旅”として幕を開けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 「うお!うお!また光ったぞ!ダンブルドア!」

 

 コーネリウスが目の前でギラギラ光る台を見ながら奇声を上げている。新宿のパチンコ屋は今日も眩しいほどの光と電子音で溢れ返り、魔法省大臣がワンカップ片手に台をぶん殴ってる光景は、どう見ても絵面として終わっていた。

 

 「ホッホッホ、コーネリウスよ。それは大当たりじゃよ。ほれ、図柄が揃っとるじゃろう」

 

 ジジイは完全に観光老人の顔だ。ホグワーツで見せる賢者じみた表情の影も形もねぇ。まぁ、毎年この季節の恒例行事みたいなもんだし、こいつが楽しそうならどうでもいい。

 

 シリウスが隣で苦笑して俺の肩を軽く小突いた。

 

 「甚爾、大丈夫か?全然揃ってないぞ、お前の台」

 

 「うるせぇ、待ってりゃその内当たる」

 

 「その“待ってりゃ”で当たったのを私は見たことがないんだが」

 

 反論の余地がねぇのが痛い。かれこれ1時間ほど回し続けて、もう3万円ほど飲まれてる。金の消える速度は呪術界の呪霊よりよっぽど凶悪だ。

 

 「ちょっと外の空気吸ってくるわ」

 

 「私も行こう。やはりどうもタバコの臭いが苦手でな」

 

 シリウスと一緒に店を出る。湿気を含んだ都会の空気が肌にまとわりつくが、店内の煙草の匂いに比べりゃ遥かにマシだ。自販機でコーヒーを買い、裏路地に入る。

 

 「ほらよ」

 

 「ありがとう」

 

 シリウスに缶コーヒーを放ると、器用に受け取りプルタブを開ける。その横顔は去年とは比べ物にならないほど健康的になっていた。日本食と自由の効果ってやつか。まぁ、慣れすぎてスーパーで刺身買って帰るくらいには現地民してるが。

 

 缶を開け、苦味を喉に流し込んだ瞬間——

 

 「フシグロ様ぁ!!」

 

 バシュンッと空気を弾く音と共に、ドビーが出現した。音もなく背後に回られるよりはマシだが、コーヒーを飲みかけてたシリウスが咳き込みかけてる。

 

 「なんだドビー、何かあったか?」

 

 「日刊預言者新聞でございますぅ!」

 

 いつもの調子で震えながら新聞を差し出してきた。受け取って頭を軽く撫でてやると、ドビーは「ふおぉぉ……!」と変な声を出しながら消えた。あいつはあれで幸せらしい。

 

 シリウスが覗き込む。

 

 「何が書いてある?」

 

 俺は一面を開いた。魔法使いが見ても心臓が止まりそうな内容なのに、写真に映るファッジの震えは完全に“酒が足りない奴の震え”だ。職務を忘れてパチ屋で叫んでる時点で察してたが。

 

 「ん〜っと……」

 

 『例のあの人、復活』

 『闇の帝王によりアズカバン崩壊!死喰い人が逃亡!』

 

 シリウスが低く息を吸った。

 

 「……」

 

 「まぁ、あの蛇野郎はしぶとさだけは天下一品だからな。頭撃っても心臓撃っても生きてるんだ、今さら驚くほどじゃねぇ」

 

 俺の声は自然と低くなる。東京の雑踏の向こうから聞こえる救急車のサイレンが、妙に遠く感じた。

 

 ヴォルデモートの魂、その断片。

 ハリーに張り付いていた“もう一つ”の気配。

 そして復活の儀式で流れ込んだ血の力。

 

 全部が一本の線で繋がり始めていた。

 

 シリウスが新聞をじっと見つめ、口を引き結ぶ。

 

 「ホグワーツは……どうなる?」

 

 「どうもならねぇよ。ジジイがいる限りはな」

 

 俺が言うと、シリウスの口元がわずかに緩んだ。頼りないようで一番頼れる老人——それがアルバス・ダンブルドアだ。

 

 「戻るか。ファッジが台を破壊してなきゃいいけどな」

 

 「あり得るから怖いんだが」

 

 俺たちは缶をゴミ箱に投げ入れ、パチンコ屋の入り口へ戻る。光と音の洪水が再び押し寄せ、日常と非日常の境界が曖昧になっていく。

 

 ヴォルデモート復活?

 アズカバン崩壊?

 

 ——今はそれより、まず俺の台が当たるかどうかだ。日本の夏は長い。勝負はまだ始まったばかりだ。

 

 中に戻ると、さっき俺が打っていた台の周囲だけ、妙に賑やかな空気が漂っていた。パチ屋独特の刺激臭――煙草、金属、汗、化粧の匂いが渦を巻く中で、ダンブルドアとコーネリウスの打っている島だけが別の世界みてぇに光り輝いてやがる。ドル箱が何段にも積み上がり、店員が露骨に苦笑してるのが遠目にも分かった。あれは確実に“やべぇ客が来た”と悟った顔だ。そろそろ出禁の相談でも裏で始まってんだろう。

 

 「おぉぉぉ!!!光った光った!!!」

 

 「わしもじゃ!!コーネリウス!!」

 

 ジジイとコーネリウスの声が店に響く。台が同時にフィーバーを起こし、周囲の客が振り返る。まったく、どこに行っても注目を集めるのは才能なのか。羨ましいような、迷惑なような。

 

 派手に光る盤面を横目に、俺は席に腰を下ろした。だが、妙に冷めた視線が自分の台に向いてしまう。隣は万発。左も万発。で、俺の台は死んだ魚のような目をしている。どうしてこうなる。

 

 「甚爾、私はとりあえず換金しにいく」

 

 「ん、もうやめんのか?」

 

 「あぁ、ここで運を使い果たすわけにはいかないからな」

 

 シリウスが淡々と言って席を立つ。去年から日本に入り浸ってるせいか、立ち振る舞いも妙に板についている。換金所の位置も完全に覚えてやがる。魔法使いらしからぬ順応力だ。

 

 俺はシリウスの背を見送りながら缶コーヒーの残り香を思い出し、軽く息を吐いた。夏休みの初日、まだまだ賭け事三昧の旅行は始まったばかりだ。気を張る必要もねぇし、焦る理由もない。だが――。

 

 台のボタンを押す指先に、ほんのわずかだが嫌な感覚が乗った。魔力でも呪力でもねぇ、もっと薄い、空気の濁りみたいなものだ。それは殺気でも敵意でもない。だが、長年の勘が“本能的な警戒”だけは起動させる。

 

 俺は眉を僅かに寄せ、周囲の気配をさらう。店の入り口、喫煙所、島の奥、天井の換気口。どこにも怪しい奴はいねぇ。ただの客とただの店員。魔法使いも呪術師もいねぇ。じゃあ、なんだ?

 

 「気のせい……か?」

 

 呟いた瞬間、右の台がまた爆音と共に光った。

 

 「わぁぁぁ!!またじゃ!!信じられん!!」

 

 コーネリウスが子供みたいに跳ねてる。魔法省大臣とは何だったのか。隣でダンブルドアが「ホッホッホ」と笑ってるが、あの笑顔の裏で何を考えてるのかは分からない。ジジイは基本、脳内で複数の思考を同時に走らせてるタイプだ。競馬の予想と、ホグワーツの運営と、ヴォルデモートの対処と、さらに“次に勝つ台はどれか”まで計算してそうだ。

 

 その時、俺の台が――ほんの一瞬だけだが、明滅した。

 

 「……お?」

 

 一拍置いて、画面が固まるような、揺れるような、奇妙な挙動を見せた。鼓動がひとつ跳ねる。だがすぐに元に戻り、何事もなかったかのように静かになった。

 

 「なんだ今の……バグか?」

 

 いや、違う。回転する図柄の裏側、電子基板の奥、その“向こう側”に微量の気配が混ざっていた。生き物の気配でも、闇の魔法の残滓でもねぇ。もっと曖昧で、雑音みたいな混ざり物。俺の勘は間違えない。

 

 店の空気が、わずかに重い。

 

 湿度が増したような、温度が変わったような、説明のつかない圧が肩に乗った。

 

 「甚爾、戻ったぞ。……どうした、顔が少し険しいな」

 

 シリウスが換金所から戻ってきて声をかける。

 

 「いや……」

 

 言いかけて、やめた。言うほどの確証はねぇ。人混みの中に紛れた些細な違和感だけだ。敵意は感じない。殺意もない。気にしすぎだと言われりゃそれまでだ。

 

 「ちょっと台の調子が悪いだけだ」

 

 俺がそう言うと、シリウスは笑って肩をすくめた。

 

 「それはお前の引きの問題だろう」

 

 「……反論できねぇのが悔しい」

 

 パチ屋の天井に響く爆音、ダンブルドアたちの騒ぎ声、店員のため息。さっき感じた重さは、音の奔流に飲まれ薄れていく。

 

 だが、心の奥底で“何かが始まりかけている”という薄い影だけは、確かに残った。

 

 夏休み初日。

 日本の新宿。

 パチンコ屋の喧騒の中で、俺だけが微かに別の空気を嗅ぎ取っていた。

 

 それから俺は惰性のように台に向かって指を動かし続けた。盤面の光は相変わらずチカチカしているくせに、中身は完全に死んでやがる。回っているのは図柄じゃなくて、ただの時間の浪費だ。店内の熱気と煙草の匂いが肌にまとわりつく。心臓の鼓動と電子音が混ざって妙に重く感じるのは、さっき一瞬だけ感じた違和感がまだどこか身体の奥に引っ掛かっているせいかもしれねぇ。

 

 「ダメだ。やめだやめやめ」

 

 立ち上がりざまに、台を軽く睨みつけた。反応するでもなく、変わらず空虚な図柄が流れていく。このクソ台、結局1回も当たりを寄越さなかった。さっきの気配の揺らぎ――あれが“何か”だったのかどうか、分からねぇままだが、こうも当たらねぇなら原因は一つだ。設定が腐ってやがる。いや、絶対そうだ。人間ってのは負けが続くと疑心暗鬼になるが、今回は違う。確信だ。

 

 「ではいこうかの」

 

 「いやぁ、パチンコ。いいですなぁ〜……うっぷ」

 

 振り返ると、ダンブルドアが山ほど積んだドル箱のカートを悠々と押している。コーネリウスも同じくだ。どいつもこいつも、店員に嫌われるタイプの引きをしてやがる。

 

 「バカだろお前ら」

 

 「フシグロ君、負け惜しみかね?玉が欲しいのかの?」

 

 「一箱くらいならやってもいいぞ!くっひ!」

 

 こいつら、完全に調子に乗ってやがる。まぁいい。人間、勝ってる時はなんでも気前が良くなる。どうせ後で金を落とす羽目になるんだから、その前に少し搾ってやればいい。

 

 「さっさと換金しにいけ」

 

 「うむ、札束がドバッと!楽しみじゃな」

 

 「楽しみですなぁ!」

 

 店の出入口に向かって行く2人の背中を見ながら、俺は隣のシリウスに視線を移した。こいつは勝ってはいるが、浮かれきってるわけでもない。まだ“ギャンブルの魔力”に飲み込まれていない証拠だ。良く言えば冷静、悪く言えばつまらん。まぁ、そういう奴のほうが早死にしない。

 

 そうして換金を済ませた。俺はもちろん0円。財布の軽さに風が通り抜ける気がした。

 

 「いくら勝った?」

 

 「わしは56万」

 

 「私は37万」

 

 「チクショイめ、シリウスは」

 

 「すまんな、25万だ」

 

 「飯奢れ」

 

 勝者には勝者の義務ってもんがある。シリウスは少し肩をすくめたが、結局頷いた。こいつは根っこの部分が妙に律儀だ。12年も牢にぶち込まれて頭がおかしくなってても不思議じゃねぇのに、こういう時だけきっちりしてやがる。

 

 その後、4人でいつもの焼肉屋へ向かった。夜の新宿は湿気と熱気を孕んだ空気が路地に渦巻いていて、吐き出された酒の匂いと油の匂いが混ざっている。街全体が巨大な胃袋みたいに蠢いているのを感じるのは、俺が気配に敏感なせいかもしれねぇ。だが嫌いじゃない。この街の雑味は戦場のそれとも、ホグワーツの冷えた石壁とも違う、生命の腐るような、しかし妙に温い匂いがする。

 

 「ユウゲンテイ!1年ぶりじゃのぉ。去年は対抗試合のせいで全く日本に行けなかったから……たらふく食うぞい!」

 

 ジジイが店の看板を見て満面の笑みを浮かべる。暖簾に染みついた煙の匂いが鼻を刺し、鉄板の焦げた匂いが腹を刺激する。コーネリウスは入口のメニュー表を見て「ひぃぃ……値段が高い……」と青ざめていたが、今日の勝ち額を思い出した途端、顔がニヤついた。なんて分かりやすい男だ。

 

 俺は店に入る前に、ほんの一瞬だけ振り返った。新宿の雑踏の中、あのパチ屋のほうを。

 ――やはり、さっきの違和感はまだ薄く残っていた。

 風向きでも、気温の揺らぎでもない。“気配”の痕跡。誰かが見ていたような、あるいは通り過ぎただけのような、曖昧で薄い残り香。

 

 だが敵意はない。少なくとも今のところは。

 

 なら、今考える必要はねぇ。

 

 「ほらジジイ、さっさと入れ。腹減った」

 

 「ホッホッホ、待ちきれんわい!」

 

 新宿の夜風を背に受けながら、俺たちは焼肉屋へ踏み入った。

 騒がしい夜の始まりと、わずかに混じった不穏な予兆を胸に抱えながら。

 

 

 游玄亭。

 

 いつもと同じ暖簾、同じ匂い。焼けた脂の香りが鼻腔をくすぐり、鉄板の熱気が店内の空気をわずかに震わせている。この街の雑味混じりの夜気から一歩入るだけで、空気の密度が変わる。肉の甘い脂、炭の匂い、奥の厨房で刻まれる野菜の湿り気まで、俺の感覚に全部触れてくる。

 

 俺たちは馴染みの店員に迎えられた。

 

 「お久しぶりでございます。こちらへどうぞ」

 

 「うむ」

 

 いつもの個室に通される。テーブルの上にはまだ誰も触っていない綺麗な鉄板。表面に落ちる照明の反射が鈍く輝く。長年通ってるせいか、この空間は戦場より落ち着く。座布団に腰を落ち着けた瞬間、身体の緊張がゆっくりと抜けていく。

 

 「何を頼む?」

 

 ジジイ――ダンブルドアがメニューを開きながら嬉しそうに目を細める。

 

 「やはり牛タン塩じゃな。それにキムチの盛り合わせと白米も頼むかの」

 

 「私もそれでいい」

 

 シリウスはもう日本食に慣れきっている。去年から日本に入り浸ってるだけあって、店員への会釈も板についてきた。

 

 「コーネリウスはどうする?」

 

 視線を向けると、大臣はメニューを持ったままあたふたしている。魔法省で偉そうにふんぞり返っている姿とはかけ離れすぎていて笑える。

 

 「コーネリウスよ。ここの肉は美味いぞい。初めてフシグロ君に連れてきてもらった時を今でも覚えておるわい。あれは91年の有馬記念じゃったかのぉ……」

 

 ジジイが懐かしげに語りだした瞬間、俺の胃が一瞬だけ重くなる。

 ――嫌な記憶を蘇らせるな。

 あの日は俺が大外し、ジジイは大当たり。店で会計の時、ジジイの懐から札束が溢れてた。その勢いで游玄亭に来たんだった。思い出すだけで腹が痛い。

 

 「おいコーネリウス。ここにはワンカップ大関よりも美味い酒があるぞ。ジジイの奢りだから何でも飲め」

 

 「ほ、ほぉ……ではこの獺祭というやつを……」

 

 「良いチョイスじゃ」

 

 ジジイが満足げに頷く。

 俺は酒の味なんて知らん。天与呪縛のせいで酔えねぇ身体だ。酒はただの苦い液体でしかない。ただ、コーネリウスが獺祭を選んだことだけは認めてやる。アレは酒飲みが喜ぶやつだ。

 

 店員が注文を取りに下がると、室内の空気がやや落ち着いた。不思議なもんだ。肉の焼ける匂いがまだしていないのに、もう腹が鳴りかけている。隣を見ると、シリウスも少し腹を押さえていた。

 

 「まさかここまで混むとはな。外、すごかったぞ」

 

 「まぁ夏だしな。観光客も多い」

 

 俺が言うとシリウスは笑った。

 「もう慣れたが、最初は日本の街の“匂い”が強すぎて驚いたな。ホグワーツの石と埃の匂いが恋しくなるくらいだった」

 

 「人混みの熱と湿気が混ざってるからな。まぁ……嫌いじゃねぇ」

 

 俺は椅子に背を預け、わずかに目を閉じた。

 

 先刻パチンコ屋を出る時に感じた“違和感”が、まだ胸の奥に残っていた。明確な敵意ではない。匂いも気配も薄い。ただ、空気の流れが一瞬だけ逆流したような感覚。

 

 日本でも魔法でも呪術でも、妙な揺らぎは時々起きる。だが今日のそれは、なぜか“人の気配”のような温度をしていた。敵ならとっくに仕掛けてきている。あの程度の気配で俺の背を取れる存在なんざ、そうはいねぇ。

 

 しばらくして、店員が鉄板に火を入れに来た。青白い炎が走り、鉄板の下に熱が満ちていく。金属が鳴る低い音が耳に心地よい。

 

 「おまたせいたしました。まずは牛タン塩でございます」

 

 皿がテーブルに置かれた瞬間、分厚いタンの表面から冷たい脂の香りが立ち上る。火に乗せれば一瞬で弾けて旨味が溢れるだろう。肉の繊維の張り具合までわかる。

 

 「よし、焼くぞい!」

 

 ジジイがトングを握り、まるで魔法を使う時のような真剣さで肉を並べ始めた。

 隣でコーネリウスが「す、すごい……」と呟いている。何がそんなにすごいのかは知らねぇが、顔を見れば全部分かる。完全に観光客だ。

 

 シリウスは静かに笑いながら俺に囁く。

 

 「こうして4人で食うのも、今年は特に楽しみだった。去年はお前も忙しかったからな」

 

 「あぁ。まぁ……今年は死ぬほど遊ぶぞ」

 

 鉄板の上でタンが音を立て、脂が弾ける香りが一気に広がった。

 この瞬間、人は戦いも仕事も全部忘れる。

 焼肉ってのは、ある意味で最強の魔法みたいなもんだ。




この話で炎のゴブレット編終了です。コーネリウスにやっとパチンコさせることができました。コーネリウスはワンカップの魔力に篭絡されアルコールの手下になり、パチンカスになりました。

次話から不死鳥に騎士団編スタートします。
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