ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
ドローレス・アンブリッジは燃えていた。肥え太った肉体ではなく、その内側、胸腔の奥にこびり付いた澱のような怨念が、常に熱を帯びて煮え返っていた。かつて魔法省大臣上級次官という立派な肩書きを誇り、魔法界の秩序と自らが信じる“規律”の象徴として君臨していた彼女は、伏黒甚爾が巻き起こした一連の事件──甚爾の冤罪、シリウス・ブラックの脱獄と逃亡劇、さらにその後の判断の失策──によって、あっけなく地位を失った。
彼女が飛ばされた先は、魔法省の中でも誰もが嫌がる陰鬱な部署、ビル建物管理署だった。魔法省の庁舎やその他の行政施設の補修、清掃、魔法的結界のメンテナンスなど、誰も進んでやりたがらない仕事ばかりが押し付けられる部署である。そして皮肉にも、そこはアンブリッジの父──すでに故人となった、彼女が愚かだと軽蔑していた男が生前に勤務していた場所だった。
父と同じ場所に落ちた。それだけで彼女の自尊心は地に叩き落とされたが、アンブリッジはそこで潰れるほど柔な女ではなかった。いや、むしろそこからが彼女の本領だった。復讐心は彼女の心を焼き焦がしながらも、同時に彼女の脚を前に進ませた。自分を貶めた者たち──甚爾、シリウス、そして魔法省内部の面々──を見返すためにも、ここで終わるわけにはいかなかった。
彼女は眠りを削り、魔法省に誰よりも早く出勤し、誰よりも遅くまで働いた。望んでもいない部署の雑務であっても、完璧にやり遂げた。埃にまみれた廊下の清掃も、結界の微細な魔力調整も、古い魔法文書の整理も、魔法生物の糞の後始末すら、彼女は一切の妥協なくこなした。職務に染み付いた執念深さは、むしろこの部署でこそ最大限に生かされた。
その間、コーネリウス・ファッジは度々休暇を取り、安酒に散財し、酒に溺れて昼夜を潰していた。アンブリッジはそれを知っていたが、怒りを覚えることすら無駄だと考え、ただ黙々と階段を駆け上がるように職務に没頭した。誰かに媚びる必要も、取り繕う必要もなかった。ただ結果だけを積み重ねた。
その努力は想像以上に速く実を結んだ。
ビル管理部に左遷されてからわずか数年──アンブリッジは破竹の勢いで成果を上げ、いつしか魔法省内部で「戻すべきだ」という声が高まっていた。魔法省の結界安定率は数十年ぶりの高水準に達し、過去に問題となっていた魔法災害の頻度も劇的に低下した。誰の目にも、アンブリッジの働きは明白だった。
そしてついに、彼女は上級次官の職に返り咲いた。
コーネリウスが日本で賭博に興じている間に、彼女は淡々と旧来の権力を取り戻したのだ。大臣が戻ってきて驚く顔を思い浮かべ、アンブリッジは薄ら笑いを浮かべることすらあったが、それも一瞬の愉悦にすぎない。彼女の内に燃え続ける火は、大臣の驚愕では消えない。もっと大きな、もっと重い復讐を果たさなければ、心は満たされない。
そして復職して間もなく、彼女の前に一人の男が現れた。
黒いローブの端をわずかに揺らし、石造りの廊下を歩くその男は、魔法省の中でも一部の者しか顔を知るはずがない。魔力の匂いが濃い。空気が微かにざわつく。アンブリッジですら、本能で彼が尋常ではない存在であることを悟った。
コーバン・ヤックスリー。
ヴォルデモートの
ヤックスリーは、静かに、しかし迷いのない足取りでアンブリッジに近づいた。
「……あなたがドローレス・アンブリッジですな」
低い声は冷気のようで、耳の奥を刺す。アンブリッジは背筋を正しながらも、表情には僅かな笑みを浮かべた。彼女は権威に弱いが、それ以上に“自分を正当に評価する相手”には敏感だった。
「えぇ、私ですが……どなたでしょう?貴方のような方がここに来る理由は?」
ヤックスリーは周囲に気配を探り、誰もいないことを確認すると、ゆっくりと口元を歪めた。
それは笑みではなく、闇が形を取ったような、ねじれた表情だった。
「あなたに……手を貸してほしい人物がいる」
「手を……?一体、どなたに?」
ヤックスリーは低く囁いた。
「我らが闇の君──ヴォルデモート卿だ」
その名が落ちた瞬間、アンブリッジの心の奥で燃えていた復讐の炎が、音を立てて膨れ上がった。
そして──
彼女の“復活”は、魔法省ではなく闇の底から始まろうとしていたかに思えた。
アンブリッジには、ヴォルデモートからの誘いよりも優先すべきことがあった。燃え上がる復讐心をまず満たす。そのためには、闇の帝王すら利用し、踏み台にする覚悟を既に固めていた。彼女にとって“闇の君”とは恐怖の象徴ではなく、使い勝手の良い強大な道具の一つにすぎなかった。自分こそ正義であり、自分こそ魔法界の秩序を取り戻す中心人物だと信じて疑わなかった。
復職したアンブリッジが最初に手を付けたのは、ハリー・ポッターという少年だった。彼は魔法界の象徴であり、同時に伏黒甚爾とシリウス・ブラック──彼女が憎んでやまない二人の“庇護下”にある存在だ。ならば少年を利用すればいい。未成年であるハリーが外で魔法を使えば、それは明確な法令違反となる。幸いにもアズカバン崩壊の際に逃げたディメンターがヴォルデモートに協力し、ハリーを襲っていた。そしてそこにつけ込めば、甚爾もシリウスもまとめて失脚させられる。自分を追いやった者たちを同時に地獄へ叩き落とせると、彼女は本気で考えていた。
その考えは恐ろしく短絡的で、筋道すら立っていなかったが、アンブリッジにとっては論理などどうでもよかった。彼女の行動原理は常に、胸の奥に渦巻く偏見と選民思想、そして自らが抱く“嫌悪感”に忠実だった。大人しく職務に邁進していれば、魔法省内で安定した人生を送れたはずの女は、己の心に巣食う醜悪な感情に飲まれて道を踏み外していた。
アンブリッジは極秘裏にウィゼンガモットへ根回しをし、ハリーの尋問の手続きを加速させた。表向きは法令遵守のため、魔法界の秩序維持のためと主張したが、実際のところ彼女の目的はただ一つ──少年を利用して伏黒甚爾とシリウスを追い詰めることだった。
そして彼女は確信していた。
コーネリウス・ファッジならば、自分に賛同してくれる。
自分を理解し、支えてくれる。
自分は大臣にとって“必要な存在”なのだ、と。
だが彼女は、現実を何も知らなかった。
コーネリウスはもはや政治家ではなく、酒精とギャンブルに飲まれ、頭の中では「いかに安全に休暇を満喫し、酒を飲み、パチンコができるか」しか考えていない。ウィゼンガモットの判断など興味もなく、自分の地位が揺らがない限りは細部などどうでもよかった。
その事実をアンブリッジが知ったのは、復職して数日後のある朝だった。
「アンブリッジ!これはどういうことなんだ!?」
怒号とともに、コーネリウスが彼女の執務室へ飛び込んできた。朝だというのに顔は赤く、酒臭い息を撒き散らしている。昨日も深夜まで飲んでいたことは一目でわかった。肥えた腹を上下させながら、震える指で彼は一通の書類を突きつけた。それは“ハリー・ポッター尋問決定通知”だった。
アンブリッジは、驚きの色を浮かべるどころか、頬を引き上げて満面の笑みに近い表情を作った。
彼女にとって大臣の怒鳴り声など気にも留める価値はなかった。むしろ、計画が順調に進んでいる証拠として誇らしくすらあった。
「大臣、全ては魔法界の為ですの」
アンブリッジはゆったりと椅子から立ち上がり、わざと大臣の正面に歩み寄りながら、頬に手を添えて優雅な仕草を見せた。
「魔法界の秩序は乱れつつあります。あの少年は危険なのですわ。未成年でありながら、外で高度な魔法を使用した。放置すれば、魔法使い全体の品格にかかわる問題です。ですから──」
「誰が少年の退学を決めろと言ったんだ!!」
コーネリウスの叫びが部屋を震わせた。怒りと恐怖が入り混じった声だった。
アンブリッジは内心で舌打ちしながらも、表面上の笑顔を崩さない。
「大臣……ご安心くださいませ。これはあなたの威厳を示す良い機会に──」
「違う!!私は……私はただ……!」
コーネリウスは言葉を詰まらせ、額から汗を噴き出させながら、椅子に崩れるように腰を下ろした。情けないほどに肩が震えている。
「……私は、面倒事は嫌なんだ……アンブリッジ……これは……これは大ごとになるぞ。闇祓い、ウィゼンガモット、魔法省、ホグワーツ……全部巻き込むことになる……!」
アンブリッジはその言葉を聞き、確信した。
この男は、もう自分が知っていた“大臣”ではない。
ただの臆病なアル中であり、責任を恐れるだけの老人だった。
だが、それでいい。
この男は操りやすい。
自分の計画を止める力など、とうの昔に失っている。
「大臣、全ては──あなたの名誉のためですのよ」
アンブリッジの声は甘く、しかし底冷えするほど残酷だった。
そして彼女は微笑んだまま、次の復讐の段階へと進み始めた。
ハリー・ポッターの尋問、そして──伏黒甚爾への宣戦布告となる第一歩を。
シリウスに肩を掴まれ、姿現しで一気にロンドン郊外まで飛ばされた。空気がねじれ、視界の端が黒い帯になって揺らぎ、重力の向きが一瞬分からなくなる。俺の身体は呪力と魔力が全くない分、こういった魔法は干渉を受けやすく、こういう移動は何度やっても好きになれねぇ。足元が定まった時には、そこが静かな住宅街の真ん中だった。整った家並みに街灯の薄い光、路上に停まった車の匂いが鼻に刺さる。
「着いたぞ、甚爾。ここが本部だ」
シリウスがそう言って前に立つ。目の前には古いアパートが並び、どれも似たような外観をしていた。けれど、シリウスは躊躇なくその中央の建物へ向かって腕を払った。
ゴゴゴ、と重い岩盤が動くような音が響いたかと思うと、アパートの一棟が横へ押し広がるみたいにズレ、黒い空間が口を開けた。建物の中にいたはずのマグルどもは、自分たちの住処が動いたことすら気づいていない。認識阻害か、隠匿の呪文か、その両方か。魔法界は時々こういう力技を平然とやってのけるから面白い。
「へぇ……面白い隠し方だな」
「だろ? ブラック家の十八番さ」
シリウスが笑い、俺たちはその暗い隙間へ入っていく。光が吸い込まれるような通路を抜けた先に、古い家の内部が広がっていた。埃の匂いと古木の軋む香り、わずかに血と薬草の残り香もする。つまり、魔法使いがまともに長年生きてきた家の匂いだ。
「アラスター」
「フシグロ」
真っ先に声をかけてきたのはアラスター・ムーディだった。相変わらず片目は動きっぱなしで落ち着かねぇ。戦闘前の獣みたいな気配を常に放っているのは好感が持てる。俺の視線が僅かに殺気を返したのか、アラスターの肩が微かに揺れた。こっちを警戒してやがる。まぁそのくらいの方が丁度いい。
リビングには見知らぬ女、ウィーズリー家のガキ共、ハーマイオニー、そして俺が鍛えたネビルがいた。ネビルは去年よりさらに体格がよくなっていて、肩回りの筋肉がシャツを押し広げている。俺の鍛錬を真面目に続けている証拠だ。
「おぉ! 先生! なんでここに!?」
「やべぇよ俺たちがサボってるのバレちまう」
「サボってんのはロンだけでしょ!」
相変わらずうるせぇガキどもだ。だが声の張り方で理解した。ウィーズリーの双子も、ネビルも、ハーマイオニーも、夏の間にきっちり鍛えている。身体の芯が強くなってる奴の声ってのは響き方が違う。ロンだけ明らかに湿っぽい。こいつは本当にサボってやがる。
そんなことを考えていると、見知らぬ女が俺の前に歩み寄ってきた。腰のあたりで黄色い髪が揺れ、その髪が次の瞬間にはピンクに変わった。皮膚の色、瞳の形、匂いまでもが瞬きするほどの速さでわずかに変動している。
「あなたが噂のホグワーツの体育教師ね? ワタシはニンファドーラ・トンクス。トンクスって呼んで」
「トンクスね」
近くで見ると魂の輪郭がゆらゆら揺れている。普通の魔法使いとは違う。呪術式とは別系統の力で、自分の肉体を“変更”している。変身系統の呪文って枠じゃ収まりきらねぇ性質をしていた。
「甚爾、彼女は新人の闇祓いでな、不死鳥の騎士団の新人でもあり私の親戚でもある」
シリウスが補足した。
「肩書きが多すぎるな」
「ハハッ、違いないわね!」
トンクスは笑って肩を揺らした。明るい性格だが、笑い声の奥に鋭い気配が少しある。場の空気を読みつつも、いつでも動ける重心の取り方をしている。新人にしては悪くない。
しかし今は挨拶をしている余裕などなかった。ハリーがディメンターに遭遇し、ウィゼンガモットで尋問が行われる。あのガキの精神状態がどれほど揺れているかを考えると時間が惜しい。最悪のパターンを常に想像しておくのが癖になっている俺にとって、今の状況は落ち着けるものではなかった。
シリウスが振り返る。
「じゃあ私たちはハリーを迎えに行ってくる。また後で」
「しっかりな」
短く返す。雰囲気が一瞬で締まった。さっきまでの軽い空気が嘘みてぇに消えて、騎士団が“戦闘前”の静けさに入ったのが分かった。
「甚爾、お前もすぐ動けるようにしておいてくれ」
「あぁ」
それだけ返しながら、俺は周囲の気配をもう一度読み取った。家の奥で誰かが荷物をまとめている音、階段を軋ませる魔法使いの重心、外の風がわずかに湿り気を帯びている。魔力が空気の中で荒れている。嫌な予兆だ。
ハリーを狙ったのは偶然じゃねぇ。確実に“意図”がある。
そして、俺たちはその矢面に立つことになる。そんな確信が胸の奥でじわじわと形を成していった。
「いやまさか夏休み中に先生に会えるなんてなぁ!」
ロンが俺のところへ駆け寄ってきて、嬉しさと興奮が混ざった顔で、無駄に距離を詰めながら腕をバシバシ叩いてきた。汗の匂いと湿った布の生温い臭気が混ざり合って鼻につくほど近く、思わず眉が寄った。こいつのこういう無防備な距離感のなさは、ホグワーツでも日本でも変わらないらしい。
「なんだ? 会いたくなかったのか?」
俺はロンの頭を片手で鷲掴みにして、骨に触る程度の力で押しつけた。指の腹に伝わる頭皮の動きだけで、あいつの悲鳴が先読みできる。
「グギッ! そ、そんなわけないっすよぉ〜!」
情けない声が漏れた瞬間、ロンの足元がわずかに震えた。反応の鈍さ、体幹の甘さ、どれをとっても“サボっていた奴の身体”だ。
「お前やっぱサボってんな」
そう言うと、ロンは分かりやすいほど視線を泳がせ後ずさった。肩の線が抜け、慌てて誤魔化そうとするその挙動は、昔俺が禪院家の雑魚を締め上げたときの反応に似ていた。
だが、周りの連中は対照的だった。双子は面白がって笑っていたし、ネビルは太い腕を組み、あの巨大な胸板を揺らしながら深く頷いていた。ハーマイオニーは鍛えた太ももと腕を惜しげもなく見せつけ、ジニーに至っては本当にバーベルを肩に担いでいる。こいつら、夏休みの間どれだけ地獄を自分に課したんだ。
「ロン、毎日言われたメニューやらなかったわね」
ハーマイオニーの呆れ声が飛ぶ。真面目というか、融通が利かないというか……まぁ、あれくらい徹底してる方が伸びるのは事実だ。
「やっ……やったよ!? たまには!? ちょっとだけ!」
ロンが言い訳を並べた直後、俺の耳が外からの足音と風圧を拾った。空気が一瞬沈み、魔力の残滓が擦れるような音を立てる。
——戻ってきたか、思ったより早い。
敵意はないが、緊張を帯びた気配。階段下の空間が微かに軋む。次の瞬間、ドアが勢いよく開き、濡れたローブを揺らしながらシリウス、アラスター、トンクスが入ってきた。
「戻ったぞ。ハリーを連れてきた」
シリウスの声は普段より低い。濡れた犬の匂いと魔力が混じり合った空気が部屋に流れ込む。トンクスは表情を崩さないままローブを脱ぎ、アラスターはいつも通り全方位に警戒を向けている。あの視線、何度見ても落ち着かねぇ。
そして遅れて姿を見せたハリーは、意外にも落ち着きを保っていた。ただ瞳の奥は違う。深いところで怒りと恐怖が渦を巻き、押し殺した呼吸が胸で跳ねている。身体の動きが以前より洗練されているのも見逃さなかった。こいつもこいつでちゃんと鍛えてたらしい。
「先生……来てたんですね」
「あぁ、お前の裁判の件でな」
そう言って俺たちは奥のリビングへ移動し、長机に着いた。モリーが運んできた料理の匂いが広がり、全員が席につく。だが和やかさとは程遠い。誰も笑わず、ただ状況を飲み込もうとしている。
「で、何があった?」
俺が切り出すと、ハリーは息を整えながら答えた。
「ダドリーと家に帰る途中でディメンターが現れたんです。それを守護霊の呪文で撃退しました」
「至極真っ当な対応だな」
対面のアーサーが言った。静かな声だが、その奥に怒りがうっすら混じっている。
「だが外の街でディメンターが出るのがそもそもおかしい。やはりヴォルデモートの仕業か?」
アラスターがポタージュを掬いながら唸る。あいつの周囲だけ温度が違う気がするのは、多分気のせいじゃない。
「アズカバンは崩壊したっていうし、それもあるだろう。だが魔法省がそれでハリーを巻き込む理由が分からない。それに……」
アーサーの言葉が途切れる。
「それに?」
俺が促すと、アーサーは深刻な顔で言った。
「ヴォルデモートが“何か”を探してるらしい」
“何か”。そんな曖昧な情報でこちらに対処しろって方が無茶だ。だが、胸の奥の嫌な予感は、確かにその言葉に反応していた。空気がひやりと冷え、部屋の温度が急に一段下がったように感じる。
ハリーの拳が震え、爪が手のひらに食い込む。俺の皮膚にもその緊張が伝わる。
面倒な流れになりそうだ。
「ん」
俺の耳の奥に違和感が刺さった。空気の揺れ方がさっきと違う。扉の向こうから微かな金属音と、靴底が床を圧する乾いた足音、そして……狼の匂いが混ざって流れ込んできた。
「どうした?甚爾」
シリウスが隣で小声を落とす。俺は視線だけ向けて短く答えた。
「誰か入ってきた」
ちょうどその瞬間、扉がゆっくりと開いた。湿った風が室内に入り、床板がわずかに軋む。
「やあ、少し遅れた」
「リーマス!」
ハリーが弾かれたように立ち上がった。そこに立っていたのは灰色のローブを羽織ったリーマス・ルーピン、久しぶりに見る顔だ。最後に見たのは1年以上前か。痩せた頬はそのままだが、目の奥の静けさは変わっていない。
「リーマス、元気そうだな。復帰か?」
俺が言うと、リーマスは薄く笑った。
「はは、フシグロ先生。久しぶり。元気だけどホグワーツは
復帰できない?
あのジジイが許可しなかったわけではなさそうだ。別の理由か。
「え〜!リーマス先生の授業楽しみだったなぁ〜」
ロンが情けない声を出す。珍しく心底がっかりした顔だ。
「ふふ、ありがとう。僕も復帰したい気は勿論あるんだけどね。魔法省の許可取りが中々できなくて、最近やけに厳しいんだ」
魔法省か。どうせロクなことはやってねぇ。
「また魔法省か」
俺が呟くと、シリウスがチラとこちらを見た。目線だけで会話が成立する。
(私は何も知らんぞ)
(そうだよな)
当たり前だ。俺とシリウスとジジイとコーネリウスは日本で賭博旅行してたんだ。パチンコ、競艇、競馬……あのアル中の大臣が省内の状況を把握してるわけがねぇ。というか、把握できる状態じゃねぇ。
リーマスは椅子に腰を下ろすと、声を落とした。
「それに魔法省に行った時に嫌な噂を聞いたよ」
「へぇ……なんだ?」
俺が切り込むと、リーマスは真剣な表情で続けた。
「魔法省の裏で闇の帝王が動いてて、密かに手下を集めてる……それと“ある物”を求めてる」
「“ある物”?さっきアーサーもヴォルデモートが“何か”を探してるって言ってたな」
空気が一段階冷えた気がした。ハリーの肩がわずかに強張り、ネビルの太い腕が音を立てて組まれ直される。アラスターのマジックアイがギョロリと動き、室内の魔力の流れがざわついた。
“何か”
“ある物”
その曖昧さが逆に気味が悪い。俺が知る呪霊や呪物に照らしても、こういう言い方をするときは大抵ロクでもないモンだ。魂、肉体、呪具、記憶、封印……何にでも当てはまる。
「ねぇ!もうそんな話はやめましょう!」
突然、モリーの声が鋭く響いた。鍋を持つ腕が震えている。家族を守ろうとする母親の気配だ。魔法よりよほど強いときがある。
「今はご飯の時間です!」
「そうだな!飯だ飯!」
アーサーが勢いよく言って場を切った。緊張が少しだけ解けて、みんながふっと息を吐いた。
俺も席に戻り、目の前のステーキに齧りついた。肉汁の熱が舌に弾け、油の香りが鼻腔を抜ける。こういう瞬間だけは、戦場より平和な場所にいる実感がわずかに湧く。
だが、考えは止まらない。
“何か”
“ある物”
ヴォルデモートが探している正体不明の何か。
もし本当に危険な代物なら、その動きの余波がホグワーツにも日本の呪術界にも飛び火してくる。あの蛇野郎のやることはいつも余計だ。俺の仕事が増える。ま、金さえ貰えれば何だってやるが。
ステーキを噛み切りながら、ふと思った。
——転がっていったパチンコ玉でも探してんのか?
まさかとは思うが、あの外れ台の玉ならいくつか俺も失ったままだ。取り返せるなら取り返したいが……多分違うな。いや絶対違う。
何にせよ、動かざるを得ねぇ。
飯を飲み込みながら、俺は静かに次の一手を考えていた。
アンブリッジさんが再登場、額に縫い跡は勿論ありません。