ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
1995年8月12日、朝の空気は湿り気を帯びて肌にまとわりつくようだった。俺とアーサー、そしてハリーの3人はブラック邸を出て、魔法省へ向かうためロンドンの街を歩いていた。空気には魔力の流れがまったく感じられず、マグル特有の鈍い匂いと車の排気の匂いだけが鼻を掠めていく。
「アーサー、本当に電車で行くのか?」
「勿論だとも!マグルの生活をたまには体験しないとな!」
こいつは本気で言ってる。目がキラキラしてやがる。魔法省行きの道中で浮かれてる場合じゃねぇのに。
「まぁ俺は別にいいんだけどよ……ハリーもいいのか?」
「僕は構いません」
「そうかよ」
ハリーは表情こそ落ち着いてるが、足元の重さで緊張してるのが分かる。電車の振動や人混みのざわつきをまだ経験し慣れていないんだろう。魔法界のガキにはこういう空気は読みにくい。
しかし、一番かったるいのは俺だ。姿現しでも煙突飛行でも、魔法で一瞬だというのに、よりによって徒歩と電車移動とはな。アーサーの「マグル文化の理解が大切なんだ!」という熱弁を聞いた俺の敗北である。
ブラック邸からバス停までは5分ほど。バスは古臭い車体で、排気の匂いと油の焦げた匂いが混ざり、車内は汗と湿気の匂いが充満していた。俺としては不快というほどではないが、気になる。アーサーは景色を楽しむ余裕があるらしく、柄にもなくずっと外を眺めている。
バスを降り、地下鉄の駅に向かった。駅に近づくほど人の気配が濃くなる。誰もが急ぎ足で、靴音が硬い床に規則的な衝撃を重ねていく。
改札前に大波のような人混みがうねり、その中に魔力はほとんど混じっていない。マグルの空間は「静か」だ。音はうるせぇのに、魔力の流れは沈黙している。妙な感覚だ。
「えーっと、切符はこれで買うんだよ、ハリー!」
アーサーが得意げに券売機へ向かった。慣れない手つきでタッチパネルを叩いている。
「アーサー、そこ押しても意味ねぇぞ。ほら、ここだ」
「おぉ、すまんすまん!」
こいつ、ほんとにマグルが好きなんだな。見てるだけで疲れる。
切符を買い、改札を通る。アーサーは初めて知った機械に触れている子供みたいに感動していた。
「すごいなぁ……魔法じゃないのに扉が開くんだ」
「……そんな驚くほどじゃねぇだろ」
ハリーはアーサーのはしゃぎを少し不安そうに見つめている。そりゃそうだ。今日これから尋問されるってのに“観光気分”の大人が横にいるんだからな。まあ、アーサーはアーサーで必死にハリーをリラックスさせようとしてるんだろう。悪気はねぇ。
構内に入った瞬間、湿度が一段階上がった。地下の閉じた空気が肌に張り付き、金属の匂いが鼻の奥を刺す。電車が通過する風がトンネルから吹き上がり、熱気と油の匂いを含んだ風が頬を打った。
朝のラッシュなのか、構内は人だらけだった。
「押される……!」
ハリーが小声で言う。肩にぶつかる他人の体温に少し戸惑っている。
「落ち着け。人混みは別に襲ってこねぇ。視界だけ確保しとけ」
「はい」
俺は気配で全体の流れを把握しながら歩いた。真正面から歩いてくるやつ、足音の乱れ、カバンを振り回すやつ、全部耳と動きで分かる。魔力のない空間でも、こういうのは得意だ。
「おいハリー、尋問の時間は何時だ?」
「11時ですね」
「……まぁ、なんとか間に合うか」
俺は頭上の路線図を見上げた。複雑な色の線が張り巡らされている。そこに「現在地」の表示があり、魔法省の入り口があるロンドン中心部までは……。
「7駅!?結構あるなおい」
アーサーは妙に楽しげに頷いた。
「車内ではマグルの新聞も読めるし素晴らしいぞ!」
「そんな悠長に……」
「フフ」
ハリーは小さく笑ったが、目の奥の濁った緊張は消えない。無理もない。魔法省の尋問、ウィゼンガモット、退学の可能性……ガキの肩に背負わせるには重すぎる。
だからこそ、俺が連れてきた。
あの連中が何を企んでいようと、俺はハリーを護衛する依頼を受けて動いてる。金が動いてるならしっかりするしかねぇ。
電車がホームに滑り込み、鉄の車輪が軋む。風圧と騒音が一気に押し寄せ、ハリーの髪が押し上げられた。
扉が開き、群れのように人が押し寄せる。俺はハリーの肩を軽く押して先に入らせた。ほんのわずかの力で足場を確保できる。
「すごい……人がこんなに」
「慣れりゃどうってことねぇよ」
吊り革の揺れ、床の微振動、金属の軋み、前に立つ男の体温、全てが混ざって空気が重い。ハリーの呼吸が少し早くなる。
「緊張してんのか?」
「……少しだけ。初めての裁判だから」
「ビビるのは悪くねぇ。でも呑まれんなよ。相手が何言おうが、お前がやったことは正当だ。俺みたいにはいポンポンとアズカバンに送られることもねぇよ」
ハリーはゆっくり頷いた。
アーサーは新聞を読みながら「ほうほう!」と感心している。こいつは本当に平常心というより、ただのマグルオタクだ。
電車は揺れながら、次の駅、また次の駅へと進んでいく。俺はその度にハリーの呼吸と視線を確認していた。
緊張、恐怖、覚悟。
その全部が混じっているが、折れてはいない。
あのガキも少しは強くなった。
そして、ロンドン中心部が近づくにつれ、周囲の空気が微かにざわつき始めた。マグルではない気配が遠くに混じる。魔力の擦れ合う音のようなものが、街の雑踏にほのかに重なる。
魔法省が近い。
俺は吊り革を放し、軽く肩を回した。
「あと数駅だ。行くぞ、ハリー」
「……はい」
こうして俺たちは、魔法省の最寄り駅に着いた。地上に出た瞬間、湿った風が頬を掠め、街の騒音が耳に入り込んでくる。この辺を歩くのは2回目だ。確か前はジジイと歩いた。嫌でも思い出す。あの時はウェゼンガモットで尋問され、あのピンクのクソ女——ドローレス・アンブリッジにアズカバン送りにされたんだ。
アンブリッジか……俺の冤罪、ホグワーツへのディメンター配備、そして左遷。表向きは失脚したと聞いていたが、今も魔法省に居座ってるのかは知らん。知りたくもないが、ああいうタイプはしぶとく這い上がってくる。まあ、今の俺にはどうでもいい。
「アーサー、魔法省へはどうやって入るつもりだ?」
「勿論、公衆電話からだ!」
「……あ〜、あれか」
前もジジイと2人で公衆電話に押し込まれたっけな。狭い、暗い、息苦しい。しかも今回は3人だ。どう考えても無理がある。
「一応聞くが、アレだよな?」
俺は路地裏の壁際にポツンと置かれた古いボックスを指差した。人通りがないせいで余計に怪しい。
「おぉ!そうそうあれだあれだ!来客用の入り口!」
「やっぱりあれで行くのか……」
アーサーは妙な冒険心を燃やして勢いよくボックスに入った。まるで初めて遊園地に来たガキだ。
「さぁ!早く早く!」
……仕方ねぇ。
ハリーを押し込み、俺も続いて中へ入った。3人分の体温と汗の匂いが狭い空間に籠もり、肩と肩がぶつかる。俺の肘がアーサーの背中を押し、ハリーは俺の胸の前で縮こまる。まるで人間水餃子だ。
「えーっと、お金を入れてっと……」
コインの落ちる軽い音と同時に、ボックス全体が低く唸り始めた。
ガコンッ!
足元から強い浮遊感。地面ごと落ちるようにボックスが沈んでいく。狭い空間の中、鉄板の振動が足の裏に響き、気圧の変化で耳が少し痛くなる。
「うわーお!」
アーサーは目を輝かせて感動している。やっぱりこいつ、魔法使いって自覚が薄いんじゃねぇか?
やがて振動が収まり、重たい金属音とともに扉が開いた。
目の前には見慣れた、だがどこか前よりも張りつめた空気を纏った魔法省のロビーが広がっていた。魔法の灯りが天井を照らし、冷たい白光が床に反射して眩しい。行き交う魔法使いたちのローブが擦れ、魔力の流れが空気の層を微かに震わせている。
「よし、尋問は神秘部だよな?」
「そうとも! フシグロ先生は一度行ったことがあるものな!」
「まあな。行きたくもなかったけどよ」
アーサーの後ろで、ハリーが不安を飲み込むように頷いた。顔は落ち着いているが、肩の力は微かに強張っている。視線の揺れで緊張が分かる。
「ハリー!はぐれるなよ〜」
「はい!」
そう返事したハリーの声には、決意と恐れが半々に混ざっていた。闇祓いの連中や役人の冷ややかな視線が、まるで金属片のように空気の中を飛び交っている。初めて入った時と違い、今回は俺も妙に胸の奥に鈍い圧力を感じた。
エレベーターへ向かう通路は、片側がガラス張りになっていて、上階や下階が歪んだ角度で見える。魔法省特有の“構造の狂い”が空間を満たしていて、魔力に敏感なハリーは無意識に眉間を寄せていた。
「大丈夫だ、別に襲ってくるわけじゃねぇ」
「はい……」
エレベーターに乗り込むと、天井から伸びた無数の紙片がひらひらと舞い、それぞれが階層番号を喋り始めた。
「魔法事故処理部! 第四階!」
「魔法生物管理部! 第二階!」
「闇祓い本部! 第一階!」
そのたびに金属の軋む音と振動が足元に伝わり、エレベーターの中の空気が揺らぐ。
「神秘部へ行くぞ!」
アーサーが軽快に言うと、エレベーターが急角度で横へ滑った。普通の感覚なら転びそうになるが、俺とハリーは何とか姿勢を保つ。アーサーは大はしゃぎだった。
「これがマグルには理解できん仕組みなんだ!素晴らしいだろ!」
「お前……本当に魔法使いか?」
「ははは!」
ハリーは少し笑ったが、その目の奥の緊張は完全には消えない。
裁判……ウィゼンガモット……退学の危機。
あのピンクのクソ女の顔が、頭の中にちらつく。
エレベーターがついに最深部へ降りていき、冷たい風が吹き込んだ。壁の魔力の密度が明らかに違う。重く、冷たく、粘りつくようだ。
神秘部はもうすぐだ。
「行くぞ、ハリー」
「……はい」
俺たちは扉が開くのを待ち、冷気のその先へと足を踏み出した。
エレベーターを降りると、視界の大半を真っ黒なタイルが占めた。光を吸い込むような質感で、足音が沈む。ここが神秘部だ。魔力そのものが壁に染みついているみたいで、皮膚にじりじりした刺激が走る。空気の重さも地上とはまるで違う。生温いのに冷たいという矛盾した感触が肌にまとわりつく。
法廷のある部屋へ向かう途中、視界の端にファッジがいた。そういやアイツがハリーの尋問を担当するだっけか、見知らぬ男と寄り添って話している。
「誰だアイツは」
アーサーも顔を向け、男の輪郭を見た途端、手をポンと叩いた。
「コーバン・ヤックスリーだ。魔法省の重鎮の1人だな。なぜ大臣と……」
言いかけた瞬間、俺の耳は勝手にそいつらの声を拾っていた。天与呪縛で強化された聴覚と神秘部に満ちる魔力が音を増幅しているのか、やけに聞こえる。
『ハリー・ポッターが有罪になる可能性は?』
ヤックスリーの低く濁った声。獲物の生死を確認する狩人のそれだ。
ファッジは赤ら顔で、しかし妙に作った威厳を保った声で答えた。近くで見なくても分かる。手が震えてる。あいつ、酒が足りてねぇ。
『わぁかりませぇんなぁ……では私は仕事があるので』
……酔ってんだか、真面目ぶってんだか分からないなアイツ。まぁいい。
そのまま通路を進むと、一際重厚な扉が見えた。まるで生き物みたいに魔力が脈打っている。
「ハリー、私とフシグロ先生はこの先から行けない。中に入ると椅子がある筈だからそこに座るんだ。ダンブルドアが弁護人をしてくれる。ハリーは聞かれたことを正直に答えるだけでいいからな」
「わかりました」
わずかに震える声でそう言い、ハリーは扉の向こうに消えていった。扉が閉じると同時に、遠くでざわつく魔力の流れが一段と強くなった気がした。
「よしじゃあ私たちは帰ろ……」
「俺はここを少し探索する。先帰っていいぞ」
アーサーが固まった。
「え?探索!?いやいや勝手にそんなことしちゃマズいぞ」
「ダンブルドアのジジイの依頼だ」
「ダンブルドアの?ん〜……」
アーサーは腕を組み、シャツ越しに弛んだ胸筋が動く。悩んでるのはわかるが、こいつは根が真面目すぎる。
「分かった……行こう。ただ此処は絶対に入っちゃいけない部屋もある。そこだけはダメだぞ。帰ってこれない可能性がある」
「へぇ……そんな部屋があんのか」
「あるとも。時間に触れる部屋、記憶の海、未来が渦巻く場所、そして死の入り口……神秘部は魔法省の中でも完全に独立した管理下でな、ここに置かれてる物の意味は誰も全部を理解しちゃいない」
そりゃそうだ。こういう得体の知れない空気は、呪術でも見てきた。
「ジジイが言ってたのは“予言”だとかだ。それを見つけて持ってこいとよ」
「予言?そうか予言か〜……」
アーサーの声に妙な重みが乗った。なんだ?何かあるのか?
「予言は部外者には手に入れられない。自分に関する予言しか取り出せない仕組みだ。他人のは探しても無駄だぞ?絶対に見つからない」
「まぁものは試しってやつだ」
「いや試すなよ……」
アーサーの弱い抗議を無視して、俺たちは神秘部の奥へ向かった。
通路は異様に静かだった。足音が吸われていく。空気がねっとりと重く、呼吸するたびに肺に魔力が擦れる感覚がある。壁一枚越しに強い魔力の波がうねっている。部屋の並びは全て同じように見えるのに、そこから漏れ出る気配だけは全く違う。何が入ってるのか想像したくもない。
「ここだ。予言保管室……の入り口だが、鍵が……あれ?」
アーサーが扉に触れた瞬間、表面がぼんやり光った。
そして——
ガチャリ、と音を立てて開いた。
「あれ、お、おかしいぞ……誰もここを開ける許可なんて——」
「開いたんだから入るぞ」
「お、おい!」
中は果てしない棚の海だった。冷たい霧のような魔力が漂い、無数のガラス球が淡く光を放っている。どれも魂の残滓みたいな震え方をしていて、近付くほど皮膚がざわつく。
「番号……だな。どう並んでんだこれは……」
奥へ歩くにつれ、棚と棚の隙間に低い風が流れた。魔力の圧が変わる。何かに呼ばれてるような妙な感覚。目に見えないものが背後をついてくる気配さえあった。
ハリーの裁判とは別に、やるべきことがある気がする。
「アーサー、どの辺りにハリーの予言がある?」
「わ、分からん!そもそも探すこと自体間違ってるんだ!予言は——」
そこでアーサーが言葉を止めた。俺の後ろの棚が、ほんのわずかに揺れたのだ。棚の上段のガラス球が青白く脈動し、まるで呼吸しているみたいに光を明滅させている。
「……あれか」
「ま、待て!本当に触れたらダメなんだって!」
アーサーの声が震えていたが、俺の足はもう動いていた。
背後の空気がひやりと冷える。予言の部屋全体がこちらを見ている——そんな目に見えない圧迫感が、ゆっくりと近づいてくる。
どうやら、本当に“何か”がここにあるらしい。
棚の奥で淡く脈打つ球体に手を伸ばした。野球ボールほどの水晶だ。触れた瞬間、表面の温度は妙に生々しく、体温とも違う微かな脈動が掌に伝わってくる。中では白い靄が渦を巻き、光が呼吸するように明滅していた。何の仕掛けもないのに、不気味なほど軽い。
「お?」
思わず声が漏れた。重量がほとんどない。魔力の殻だけが形になってるみたいだ。
「いや、待て待て。他人の予言を勝手に触るなって!え?なんだ?」
アーサーが混乱して周りを見回している。分かるが、騒ぐと余計ややこしくなる。俺は水晶を軽く持ち直した。その瞬間だ。
「《闇の帝王を破る力を持つ者が現れる。両者は互角なれど——その者は帝王の知らぬ力を持つ。一方が生きる限り他方は生きられぬ。そして因果に縛られぬ者が一方に与する時——運命が変わる》」
水晶がいきなり喋りやがった。湿った声で、インチキ占い師みたいな抑揚だ。神秘部全体に反響するわけでもなく、本当に手の中から直接響いてくる。
「えぇ!?なんで!?…………そそそれは間違いなくハリーの予言だ……それも私たちが知らない内容だ。フシグロ先生が取れたのはよく分からないが……」
アーサーが水晶に目を奪われながら言った。緊張で喉が鳴る音まで聞こえる。
「お前らが知ってる予言って?」
俺は水晶玉を軽く上に投げ、掌で受け止めながら聞いた。ちょうど投げやすい大きさだ。中の靄が揺れるたび、光が俺の指先に薄くまとわりつく。
「私たちが知っていたのは『闇の帝王を打ち破る力を持った者が近づいている。七つ目の月が死ぬとき、帝王に三度抗った者たちに生まれる』だ。13年前にこれを聞いたヴォルデモートは7月に生まれたハリーを狙ったんだ。そして……」
「リリー・ポッターの護りでバイバイキーンしたわけだ」
「バイバイ?そ、そうだ」
アーサーは変な言葉に引っ掛かっていたが、すぐ真顔に戻る。視線は水晶から離れない。
俺の頭の中には別の感覚が浮かんでいた。さっきの予言の中にあった“因果に縛られぬ者”ってやつだ。あの声は、まるで俺の存在を知っていたみたいな言い方をした。気のせいかもしれないが、予感というより、魔力の流れがそう言ってる感じがした。アーサーは気づいていないが、俺がこの玉を取れたのは偶々ではなく、俺が予言に関係するものだからじゃねぇか?
「へぇ……なるほどね。あ、やべ」
水晶をもう一度上に放ったとき、指先が汗で滑った。よりによって神秘部のど真ん中で、嫌な音が脳裏をかすめる。
「あ!フシグロ君!!!」
アーサーの叫びと同時に、水晶は空中で回転しながら落下した。俺は反射的に手を伸ばしたが、わずかに届かない。
パリーン。
静かなはずの部屋に、ガラスが割れる乾いた音が響いた。白い靄が床に散り、光の粒がふわりと舞い上がったかと思うと、すぐ霧散して消えた。魔力の渦がしゅん、と沈む。まるで最初から何もなかったみたいだ。
床に残ったのは細かい破片だけだ。
「あ〜……まぁ見なかった事にしてくれ」
「いやこれはちゃんとダンブルドアに報告するぞ!」
アーサーは青ざめていた。額に汗がにじみ、声が裏返っている。
「別にいいだろ、どうせ昔の音声データみたいなもんなんだからよ。割れたところで未来が変わるわけじゃねぇ」
「いやいやいや!予言は本来、本人しか触れないんだ!それをフシグロ先生が取れた時点で異常なんだよ!それに破壊となれば……」
アーサーは頭を抱えた。確かにこいつの言うことも分かる。俺が触れたことそのものが例外らしい上に、よりによって割ったときた。
だが不思議と、胸の奥に重さはない。あの予言の内容は、既に俺が踏み込んでいる“道筋”みたいなものだ。今さら変わるようなものじゃない。むしろ俺がここに来たことで、避けられない方向がはっきりしただけだろう。
「とにかく戻ろう!これ以上は危険だ!」
アーサーが俺の袖を掴んで引っ張る。通路の向こうでは、別の棚がざわりと揺れた。気のせいではない。割れた水晶の余波で魔力の流れが変わったのか、奥の部屋の扉が微かに鳴っている。
「おいアーサー、急がねぇと変なもの出てこねぇか?」
「だから言ってるだろ!!ここは帰ってこれない部屋があるんだ!!」
アーサーの焦りを背に感じつつ、俺は棚の影から漂う気配にもう一度耳を澄ませた。さっきの水晶が語った“互角”“知らぬ力”“運命が変わる”……この世界は思っている以上に綱渡りらしい。
だが、そんなものはどうでもいい。必要なら切り拓くだけだ。
「ほら、行くぞアーサー。裁判が終わる前に戻らねぇと、ジジイが面倒臭ぇ」
俺が歩き出すと、アーサーは安堵の息を漏らしながら後を追った。
割れた予言の破片が、背後でひっそりと光を失っていった。
甚爾とアーサーが神秘部の奥へと潜り込み、予言の保管室で白い靄が揺れる水晶を調べていたその同じ頃——ウィゼンガモット法廷では、全く別種の緊張が静かに積み上がっていた。
ハリー・ポッターは円形の巨大な法廷の中央に置かれた椅子に座り、冷たい石の感触を背に受けながら尋問の開始を待っていた。椅子の周囲を取り巻くように円形の陪審員席が段々と積み重なり、その最上段からはわずかに押し込められた息遣いのようなざわめきが落ちてくる。上方へと視線を向ければ、吹き抜けになった暗がりに複数体のディメンターが浮かんでいた。霧のような体から滴る冷気が、こちら側へは届かない。守護霊の魔力によって隔たれているためだが、それは職員の判断ひとつで解除でき、即死刑の場合はあの幕が開き“死のキス”が落とされる。冷静に考えれば、ここはいつでも地獄に転げ落ちる可能性を孕んだ場所だった。
ハリーの正面、見上げる位置には魔法省大臣コーネリウス・ファッジが座っている。赤ら顔でありながら、妙に澄ました態度を保とうとしているのが見えた。時折まぶたが重そうに瞬き、酔っているのか緊張しているのか判別がつかない。だが、その不安定な気配が余計に場の空気を張り詰めさせた。
しばらくして、コーネリウスが咳払いをし、声を発した。
「え〜では懲戒尋問、8月12日。被告人ハリー・ポッター。住所リトル・ウィンジング・プリベット通り。尋問官はコーネリウス・ファッジが担当する」
声が石の壁に反射して重く響く。
「被告側証人はわしじゃ」
その瞬間、法廷の扉が開き、温度差を生むほど確かな存在感をまとった声が流れ込んだ。
「アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアじゃ」
ざわめきが一瞬で静まった。彼が歩み寄るだけで魔力の流れが一定に整えられていくような錯覚がある。ダンブルドアはハリーの側に立ち、陪審員席の面々を視線でゆっくりと掃いた。
その時、彼の瞳が一人の魔女の前で止まった。
ドローレス・アンブリッジ。
淡いピンクの服に丸っこい指、作り物のような笑み。その裏にある粘りつく悪意は、彼女が姿を見せただけで空気に混ざって広がる。ダンブルドアは表情を変えなかったが、内心では確信していた。彼女は今回の尋問に深く関わっている、と。
そんな緊張の底で、コーネリウスが再び口を開いた。
「え〜“被告人は違法だと認識していながら、マグルの前で守護霊の呪文を行使した”間違いないかぁね?」
帰りたての酔いが残っているのか、語尾がやや不安定だ。ハリーは一瞬だけ視線を下げ、それからはっきりと答えた。
「間違いありません」
「うむ、それは何故だ?」
「ディメンターが現れたからです」
その言葉が放たれた瞬間、陪審員席に小さなざわめきが走った。空気が揺れた。魔法省の敷地外、しかもマグルの街でディメンターが出現する——それ自体が魔法省の統制が崩れている証拠であり、極めて重大な事件だったからだ。
だがコーネリウスは、その事実に触れようとしない。
「ほぉ……ディメンターが外におったと、そう言うわけかね?」
「はい。僕とダドリーの目の前に1体。守護霊を使わなければダドリーは……死んでいました」
ハリーの声は震えていない。だが言葉の奥に残る恐怖の影は、嘘ではないと誰もが理解できるものだった。
それを、アンブリッジだけが嫌らしい笑みで受け止めていた。彼女の指先が膝の上でゆっくりと動く。その仕草は、まるで“予定通り”と言わんばかりだ。
ダンブルドアはそこで前に出た。
「事実を確認したい。魔法省が派遣したディメンターが、マグルの町に現れたと?」
「派遣などするわけがないだぁろぉ!」
コーネリウスが反射的に怒鳴り返す。だが声はどこか揺れていた。
「では、ディメンターは魔法省の管理を離れ勝手に動いたと?それとも……誰かが命じたと?」
「そ、それは……!」
法廷に沈黙が落ちた。アンブリッジの笑みだけが浮き上がる。
ハリーは、静かにダンブルドアの背中を見つめていた。
あの背中が揺らがない限り、自分は守られる——そんな確信のような感情が胸に灯った。
そして尋問は、さらに深い闇へ踏み込んでいくことになる。
ダンブルドアは杖を持たぬ手を背に回し、法廷の中央に据えられたハリーの椅子ではなく、その正面に座るコーネリウス・ファッジを真っ直ぐに見据えた。老魔法使いの視線は柔らかいが、その奥にある光は鋭く、逃げ場を与えない種類のものだった。
「コーネリウス、わしは裏で糸を引いている人物がいると睨んでおる。アズカバンの崩壊……そしてヴォルデモートの復活」
法廷の空気がわずかに軋む。陪審員席に座る魔法使いたちが、無意識に背筋を正した。ヴォルデモートという名は、いまだ口にするだけで温度を下げ、記憶の底から恐怖を引きずり出す力を持っている。
「う、うむ……」
コーネリウスは喉を鳴らし、椅子の肘掛けに置いた指を意味もなく動かした。酒の抜けきらない赤い顔に、冷や汗が混じる。否定したいが、否定できない。その逡巡が、彼の沈黙を長引かせた。
ダンブルドアは続ける。声は低く、しかし法廷の隅々まで届くように調整されていた。
「それに
陪審員席に小さなどよめきが走る。理屈として、あまりにも筋が通っていた。ディメンターという存在は恐怖を煽るための道具であり、出現した時点で対抗手段は限られる。守護霊の呪文以外に、確実な防御はない。
ハリーは椅子の上で、無意識に拳を握り締めていた。冷たい木の感触が掌に食い込み、現実を引き戻す。彼はただ生き残るために、教えられた通りの行動を取っただけだ。それが罪になるのなら、この世界の方が間違っている。
コーネリウスは視線を泳がせ、陪審員席を一瞥した。その中に、にこやかな笑みを浮かべるドローレス・アンブリッジの姿がある。彼女は小さく頷き、無言で圧をかけていた。
「そ、それは……推測に過ぎんのではないかね、ダンブルドア」
ようやく絞り出した声は弱々しい。だが、その瞬間、ダンブルドアの瞳がわずかに細まった。
「推測ではない。可能性の話をしておる。魔法省がディメンターを完全に統制できていると言い切れるのなら、この件はそもそも起きておらん。違うかの?」
沈黙が落ちる。天井近くを漂うディメンターたちが、わずかに身じろぎしたように見えた。聖なる結界が軋み、冷気が一段強まる。
アンブリッジは、その空気を楽しむかのように、唇の端を吊り上げた。彼女にとって、この法廷は復讐の舞台であり、同時に己の存在を誇示する場所でもある。
ハリーはその視線に気づき、背筋に嫌な寒気を覚えた。敵意というより、獲物を見る目だ。だが同時に、ダンブルドアが前に立っている限り、簡単には踏み込めないことも理解している。
「コーネリウス」
ダンブルドアは最後に、静かに名を呼んだ。
「わしは、この尋問が正義のために行われていると信じたい。だがもし違うのなら……その責任は、ここにいる全員が負うことになる」
法廷は、重い沈黙に包まれた。
そして、その沈黙こそが、次に起きる波乱の前触れであるかのように、長く、深く、続いていた。
「お言葉ですが!」
甲高く、耳に粘つくような声が法廷に響いた。甘ったるさの奥に、爪で引っ掻くような悪意を隠したその声の主は、陪審員席の一角から立ち上がっていた。
ドローレス・アンブリッジである。
淡い桃色のローブに身を包み、丸みを帯びた顔には作り物めいた微笑を貼り付けているが、その小さな瞳の奥では、確かな敵意と歓喜が渦巻いていた。自分の出番が来たとでも言わんばかりに、胸を張って一歩前に出る。
「魔法省を疑っておられるのですか?アルバス・ダンブルドア」
その問いかけは疑問の形をしていながら、断罪の響きを孕んでいた。陪審員席の何人かが息を呑み、ハリーは思わず背筋を強張らせる。
ダンブルドアは即座には答えなかった。ハリーの椅子の周囲を、ゆっくりと円を描くように歩きながら、床に敷かれた石材の感触を確かめるように足を運ぶ。その動きには焦りがなく、老獪さと余裕が滲んでいた。
「ふむ、アンブリッジ嬢……久しぶりじゃの」
穏やかな声だった。
「最近、大抜擢の躍進で上級次官に復職したと聞いたが……そうじゃな、わしは魔法省を疑っておる」
その一言が落ちた瞬間、法廷の空気が張り詰めた。アンブリッジの笑みが一瞬だけ引き攣り、すぐにまた貼り付け直される。
ダンブルドアは歩みを止め、ハリーの背後に立つ。その位置から、さりげなくコーネリウス・ファッジへ視線を投げた。
——落ち着きがない。
指先が肘掛けを叩き、脚は微妙に揺れている。目は法廷ではなく、ここにはない何かを追っている。パチンコの玉が弾く音、安酒の匂い、休暇中のだらけた空気。ダンブルドアは即座に理解した。
(……まったく、分かりやすい男じゃ)
アンブリッジはその視線のやり取りを見逃さず、声をさらに甘く、しかし鋭く尖らせた。
「それは重大な発言ですわ。魔法省は法と秩序の守護者。未成年魔法使いが違法行為を行ったなら、尋問するのは当然ではありませんこと?」
「当然じゃな」
ダンブルドアは即座に頷いた。
「だが、その前提が崩れておる。未成年が魔法を使わざるを得ない状況を、誰が作ったのか、という話じゃ」
アンブリッジの眉がわずかに跳ねる。
「被告人は自らの意思で呪文を行使したのでしょう?」
「意思、とな」
ダンブルドアは首を傾げ、陪審員席を一望した。
「ディメンターに遭遇した人間が、恐怖に飲み込まれず冷静でいられると、本気で思っておるのかの?大人であっても難しい。それを、まだ成長途中の少年に求めるのは、酷というものじゃ」
陪審員の中から、小さく同意のざわめきが起きる。
アンブリッジはすぐに声を重ねた。
「しかし、ディメンターの配置は魔法省の正式な命令によるものではありません!」
「ほう?」
ダンブルドアの口角が、わずかに上がった。
「では聞こう。魔法省の管理下にある存在が、命令もなく、マグル居住区に現れた。その責任は、誰が負うのかの?」
「それは……」
一瞬、アンブリッジは言葉に詰まった。だがすぐに立て直す。
「調査中ですわ。ですが、それと被告人の違法行為は別問題です」
「別ではない」
ダンブルドアの声が、初めてはっきりと強まった。
「原因と結果は切り離せん。原因を作った側が責任を問われず、結果に対処した者だけが罰せられる。そんな理屈が、正義だと言えるかの?」
アンブリッジの頬がわずかに紅潮する。だが彼女は笑みを崩さない。
「理想論ですわ、ダンブルドア。法とは感情で動くものではありませんの」
「感情ではない。論理じゃ」
ダンブルドアは静かに言った。
「そして論理に基づけば、この件で最も疑われるべきは、被告人ではなく——」
視線が、ゆっくりとアンブリッジに向けられる。
「——この状況を利用し、誰かを貶めようとした者じゃろう」
法廷が凍りついた。
アンブリッジの笑みが、ついにひび割れる。だが彼女はすぐに背筋を伸ばし、声を張り上げた。
「名誉毀損ですわ!」
「いいや、推論じゃ」
ダンブルドアは穏やかに言い切った。
「そして魔法省は、その推論を検証する義務がある。さもなくば——」
一拍置いて、言葉を落とす。
「——正義を語る資格はない」
沈黙。
コーネリウス・ファッジは額の汗を拭い、椅子の上で身じろぎした。視線は泳ぎ、早くこの場が終わらないかと願っているのが、誰の目にも明らかだった。
ハリーは、背後に立つダンブルドアの存在を、これまでになく強く感じていた。
法廷は、もはやアンブリッジの思い通りに動く場所ではなくなっていた。
そしてこの瞬間、形勢は静かに、しかし確実に、ダンブルドアの側へと傾き始めていた。
「では多数決を取る」
コーネリウス・ファッジの声が、石造りの法廷に間延びして響いた。先ほどまでの緊張感を引きずったまま、陪審員席に座る魔法使いたちは互いの顔色を窺い、重たい沈黙の中で背筋を伸ばす。
「ハリー・ポッターが有罪だと思う者、手を挙げよ」
一瞬の間。
そして、ためらいなく一本の手が上がった。ドローレス・アンブリッジである。桃色のローブの袖が揺れ、白い指がぴんと伸びる。その顔には、まだ勝てると信じて疑わない、粘ついた期待の色が浮かんでいた。
続いて、周囲を気にするようにして、数名が恐る恐る手を挙げる。ほんの一部だ。全体から見れば、あまりにも少数だった。
アンブリッジはそれを見て、唇の端をわずかに吊り上げる。自分は孤立していない。そう言い聞かせるように。
「……では」
コーネリウスは一拍置き、喉を鳴らした。視線がふらりと泳ぎ、天井のディメンターに一瞬だけ向けられる。黒い影は変わらず静止している。
「無罪だと思う者」
その言葉が落ちた瞬間だった。
一斉に、音を立てるように手が挙がった。
迷いはない。先ほどまで沈黙していた者たちが、まるで堰を切ったかのように腕を伸ばす。白い袖、黒いローブ、年季の入った手、若い指――それらが一斉に掲げられ、法廷の空気を塗り替えていく。
コーネリウス自身も、少し遅れてから、慌てたように手を挙げた。
その光景を見た瞬間、勝負は決していた。
「ふむ……」
アルバス・ダンブルドアは静かに頷いた。長い白髭を指で撫で、陪審員席をゆっくりと見渡す。
(
その一言は声に出さずとも、場にいる誰もが理解した。
アンブリッジの表情が、はっきりと歪む。挙げたままの腕が震え、周囲を見回すが、もはや味方はほとんどいない。小さく引き攣った笑みが、張り付いたまま固まっていた。
「……じゃあ!」
コーネリウスは勢いよく立ち上がった。椅子が軋み、法廷に乾いた音が響く。
「ハリー・ポッターは無罪!以上終了!閉廷!解散!」
言い切ると同時に、逃げるような速さで席を離れ、数歩進んだところでふと振り返る。
ダンブルドアを見つけると、妙に親しげな笑顔を浮かべ、両手で空中にスロットを回す仕草をした。パチスロの動作だ。場違いにも程があるが、本人は大真面目だった。
ダンブルドアは一瞬だけ目を細め、苦笑とも諦観ともつかない表情を浮かべる。
「……まったく」
その小さな呟きは、誰にも聞こえなかった。
ハリーは椅子に座ったまま、しばらく動けずにいた。張り詰めていた糸が、ようやく切れたように、肩の力が抜けていく。無罪。その言葉が、遅れて胸に落ちてきた。
陪審員たちは立ち上がり、三々五々、出口へ向かって歩き出す。法廷の緊張は、潮が引くように消えていった。
ただ一人、アンブリッジだけが席に残り、爪を立てるように肘掛けを握り締めていた。
その目は、ハリーでもダンブルドアでもなく、もっと先――自分の復讐が成就するはずだった未来を、睨みつけていた。
そうして、ウィゼンガモット法廷での尋問は幕を閉じた。
だが、この一件がすべての終わりではないことを、この場にいる誰もが、薄々感じていた。