ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第四話

 

 

 

 

 予言保管部屋から出た俺とアーサーは、そのまま足を止めることなく法廷の出口へ向かった。神秘部特有の冷たい空気が背中から抜けていき、代わりに人の気配と魔力の渦が混じった魔法省の雑多な匂いが戻ってくる。歩くたびに靴底が石床を打ち、微妙に反響する音がやけに現実的だった。さっきまで触れていた水晶の感触が、まだ指先に残っている気がする。

 

 「おうジジイ」

 

 出口付近で待っていたダンブルドアに声をかける。

 

 「フシグロ君」

 

 その隣にはハリーがいた。肩の力が抜け、呼吸も落ち着いている。顔色を見れば一目瞭然だ。どうやら最悪の事態は避けられたらしい。法廷の重苦しい空気をくぐり抜けた直後の人間特有の、張り詰めた糸が切れたような匂いが微かに漂っていた。

 

 「聞くまでもねぇが、結果はどうだった?」

 

 俺がそう聞くと、ダンブルドアは例の調子で口元を緩め、白い顎鬚を指で軽く撫でた。

 

 「ホッホッホ、フシグロ君の予想通りじゃよ。ハリーは無罪、ホグワーツ退学も無しじゃ。そして件の首謀者は……やはりアンブリッジ嬢が絡んでおった」

 

 「やっぱりか」

 

 短く返す。あの女の顔が脳裏に浮かぶだけで、胸の奥に不快な澱が溜まる感覚がした。

 

 「えっ、彼女が……?」

 

 横で聞いていたアーサーが目を見開く。

 

 ドローレス・アンブリッジ。一昨年、俺に冤罪を被せ、アズカバン送りにした張本人だ。左遷されたと聞いていたが、どうやら大人しく反省する性格ではなかったらしい。しぶとさだけは一級品だ。正直、関わるだけで胃が重くなる。

 

 「アンブリッジさんは仕事熱心で、また自力で上級次官に返り咲いたって魔法省内では評判だったんだが……」

 

 アーサーは顎に手を当て、複雑そうな表情で言う。善良な人間ほど、ああいう女の危うさに気づくのが遅い。

 

 「アーサーよ」

 

 ダンブルドアが静かに言葉を挟む。

 

 「彼女は確かに仕事はできる。だが思想が歪んでおる。秩序を守るという名目で、何でも踏み潰す危険な考え方じゃ」

 

 「思想ですか……」

 

 アーサーは納得しきれない様子で呟いた。

 

 正直、魔法省の内情なんてどうでもいい。ハリーが無罪ならそれでいいし、あとは面倒が増えなければ十分だ。俺は肩を回しながら、話の流れを変える。

 

 「なぁジジイ、もう日本に戻らねぇか?まだ夏休みは残ってんだろ。競馬も焼肉も途中だ」

 

 「こらフシグロ先生」

 

 すかさずアーサーが口を挟んだ。

 

 「さっきの件は報告しなくていいのか?」

 

 余計なこと言うな。俺は内心で舌打ちした。黙っていれば誰にも気づかれない話だ。

 

 「ん?さっきの事?」

 

 ダンブルドアが眉を上げる。

 

 「フシグロ君、まさか……」

 

 観念して溜息をついた。

 

 「はぁ……ジジイに言われてた予言の件だ。ちゃんと見つけた」

 

 「ほぉ!持っているのかね?」

 

 期待に満ちた声が返ってくる。

 

 「いや」

 

 一拍置いてから言う。

 

 「割った」

 

 「割った……?」

 

 ダンブルドアとアーサーが同時に固まった。ハリーも一瞬、目を瞬かせている。

 

 「不可抗力だ。床が硬かった」

 

 嘘は言ってない。結果だけ見ればそうなる。

 

 「……中身は?」

 

 ダンブルドアが真剣な目で聞いてきた。

 

 俺は予言の内容を簡潔に伝えた。帝王、互角、生き残れぬ二人、そして因果に縛られぬ者。その言葉を口にするたび、さっき割れた水晶の感触が鮮明によみがえる。

 

 「なるほどの……」

 

 ダンブルドアは深く息を吐いた。

 

 「壊れたのは残念じゃが、聞けただけでも大きな収穫じゃ」

 

 「ならいいだろ」

 

 俺はそう言って歩き出す。

 

 法廷の扉が背後で閉じ、魔法省のざわめきが再び遠のいていく。そして、この夏休みはまだ終わっちゃいない。そうして俺たちは、それぞれの思惑を胸に、次の場所へ向かうのだった。

 

 

 シリウスの家へは、電車を乗り継ぎ、さらにバスに揺られ、最後は歩きという妙に回りくどい行程で戻ってきた。魔法で一瞬の距離を、わざわざ人混みと排気ガスと汗の匂いにまみれて移動するのは相変わらず性に合わないが、ハリーの表情が少しずつ軽くなっていくのを見ると、まぁ無駄でもなかったと思えてくる。玄関前に立った瞬間、建物そのものが古い生き物みたいに軋み、長年染みついた埃と薬草と獣臭が混ざった空気が鼻を刺した。

 

 「ハリー!」

 

 「大丈夫だったかー!?」

 

 「……顔見りゃ分かるな」

 

 中へ入るなり、ハーマイオニー、ロン、ネビルが一斉に声を上げて駆け寄ってきた。騒がしい。だがその声の調子は軽く、余計な恐怖や不安を引きずっていない。もう5年生、15歳だ。ガキではあるが、守られるだけの存在でもなくなりつつある。ネビルの肩幅と腕の太さを一瞬で測り、ロンの呼吸の浅さから相変わらずのサボり癖を察し、ハーマイオニーの姿勢の良さにだけは内心で頷いた。

 

 「みんな心配しすぎだよ」

 

 ハリーが苦笑しながら言う。その声は震えていない。

 

 ガキ共に囲まれて奥へ消えていくハリーの背中を見送り、代わりに現れたのがシリウスだった。無精髭は相変わらずだが、目の奥の張りは以前よりずっと落ち着いている。

 

 「ダンブルドア、甚爾、アーサー。付き添いありがとう」

 

 そう言って軽く頭を下げる。その仕草に無駄がない。

 

 「シリウス」

 

 ダンブルドアが応じ、杖を握る手にわずかに力を込めた。

 

 「ハリーはホグワーツを退学せずにすんだ。まぁ、わしが校長である限り、それは許さんがの。とはいえ、今回の騒動はかなりここに来ておる」

 

 そう言ってこめかみを指でトントンと叩く。普段は底の知れない余裕を纏った老人が、はっきり苛立ちを滲ませている。夏休みを邪魔された怒りだけじゃない。魔法省の動きそのものへの警戒だ。

 

 「アンブリッジはどうする?」

 

 俺は壁にもたれ、腕を組んだまま言った。

 

 「このまま放っておいても構わねぇが、鬱陶しいなら金さえ出りゃ、静かに片付ける方法はいくらでもあるぞ」

 

 殺気は乗せていない。ただの事実だ。

 

 「フシグロ君」

 

 ダンブルドアは小さく首を振った。

 

 「流石にそれはせんよ。ただし……痛い目には遭ってもらいたいのぉ」

 

 ホッホッホ、と笑っているが、瞳は笑っていない。冷えて、深く、底が見えない。シリウスも同じように腕を組み、低い声で続ける。

 

 「聞いたこともないような、妙に理不尽なバチが当たってほしいな」

 

 「あ、あの……?」

 

 そこでようやく、アーサーが遠慮がちに口を挟んだ。

 

 「お三方、さっきから会話の方向が少し危険な気がするんだが……」

 

 「安心しろ」

 

 俺は即座に言った。

 

 「少なくとも今は誰も殴らねぇし、殺しもしねぇ」

 

 「今は、じゃなくて常にだよ!」

 

 アーサーが慌てて声を張る。シリウスが吹き出し、ダンブルドアも肩を揺らした。

 

 重かった空気が、ほんの少しだけ緩む。

 

 そのとき、廊下の奥からハリーの笑い声が聞こえた。仲間に囲まれ、無罪を知り、今夜だけは安心して眠れる声だ。俺はその音を背中で聞きながら、次に来る面倒の匂いを嗅ぎ取っていた。アンブリッジは終わっていない。魔法省も、闇の帝王も、全部が静かに次の手を探している。

 

 そして、それに巻き込まれるのはいつもガキ共だ。

 

 だからこそ、俺はここにいる。

 

 夜は、表向きには何事もなかったように、騒がしく、少しだけ穏やかに更けていった。

 

 そんで夜中に会議だってことで、長机のある部屋に大人が集められた。俺、ダンブルドア、シリウス、アーサーとモリー、リーマス、トンクス、アラスター。壁際には古い肖像画が並び、寝ぼけた顔でこちらを眺めている。窓の外は完全な闇で、風が建物の隙間を舐めるたび、軋んだ音が低く鳴った。俺以外の連中は、不死鳥の騎士団とかいう、剣じゃなく杖を持った集団に属しているらしい。ヴォルデモートが復活し、また表に出始めたという現実が、空気を重くしていた。

 

 長机の上には湯気を立てる湯呑みが等間隔に並んでいる。中身は緑茶だ。やけに熱い。魔法使いどもは猫舌じゃないのかと思いながら、俺は一口だけ啜り、舌を火傷しそうになって顔をしかめた。

 

 ダンブルドアが机に両肘をつき、顎を手に乗せて口を開いた。

 

 「ではフシグロ君、もう一度予言の内容を教えてくれるかの?」

 

 「あぁ」

 

 俺は椅子にもたれたまま、記憶の中に残っている言葉を一字一句、余計な感情を挟まずに吐き出した。

 

 《闇の帝王を破る力を持つ者が現れる。両者は互角なれど——その者は帝王の知らぬ力を持つ。一方が生きる限り他方は生きられぬ。そして因果に縛られぬ者が一方に与する時——運命が変わる》

 

 言葉が部屋に落ち、しばらく誰も口を開かなかった。緑茶の湯気が揺れ、時計の針の音だけがやけに大きく響く。

 

 「ふむ……ありがとう」

 

 ダンブルドアが静かに言った。

 

 「それと、その“予言”は既に破壊されておるという認識で間違いないかの?」

 

 「あぁ、間違いねぇ」

 

 俺が即答すると、隣でアーサーが勢いよく立ち上がりそうになった。

 

 「フ、フシグロ君が落として割ってしまいました……!」

 

 「お前、余計なこと言うなよバカ」

 

 低く睨むと、アーサーは慌てて口を噤んだ。

 

 「ホッホッホ」

 

 ダンブルドアは気にした様子もなく笑った。

 

 「まぁよい。あちらの手に渡る可能性を潰せたのであれば、僥倖というやつじゃ」

 

 笑ってはいるが、目は鋭い。あの水晶が敵の手に渡った場合の最悪を、何通りも計算している目だ。

 

 「……これからどうしますか?」

 

 シリウスが湯呑みを口元に運びながら尋ねた。蒸気でかけていた眼鏡が曇り、指でそれを拭う仕草がやけに落ち着いている。

 

 「ふむ。夏休みが終われば、これまで通りホグワーツは新学期を始める」

 

 「蛇野郎は?」

 

 俺が短く聞くと、部屋の空気が一段重くなった。

 

 「復活は既に魔法界に知れ渡っておる」

 

 ダンブルドアは淡々と続ける。

 

 「リーマスや、魔法省で働くアーサーの情報によれば、密かに奴は仲間を集めておる。その中には……ドローレス・アンブリッジもおるじゃろう」

 

 へぇ、あの女が、か。

 

 ディメンターがハリーを襲ったのが偶然じゃないって線が、ここで一本に繋がった。

 

 「コーバン・ヤックスリーが、色々な者に声をかけています」

 

 そう言ったのはアーサーだ。神秘部で、コーネリウスと話していた男の名前。

 

 「コーネリウスも、奴から執拗にハリーが有罪かどうか聞かれたと言っておった。随分と困っておったよ」

 

 「困るくらいなら、最初から酒減らせって話だな」

 

 俺が鼻で笑うと、トンクスが吹き出し、モリーが肘で軽く叩いた。

 

 「冗談はさておきだ」

 

 アラスターが低い声で割って入る。

 

 「魔法省の中にも、もう安全な場所は少ない。子供達をどう守るか、それを決めねばならん」

 

 その言葉に、全員が黙った。ハリー、そしてホグワーツに集う子供たちの顔が、それぞれの頭に浮かんだはずだ。

 

 「だからこそ」

 

 ダンブルドアがゆっくりと背筋を伸ばした。

 

 「フシグロ君、君の存在が必要なのじゃよ」

 

 視線が俺に集まる。期待、警戒、信頼、色々混じった視線だ。

 

 「……面倒だな」

 

 俺はそう言いながら、湯呑みの残りを一気に飲み干した。喉が焼ける。

 

 「だが……金さえ払ってくれれば、それくらいは付き合ってやる」

 

 「ホッホ、相変わらずじゃな」

 

 そうして会議は、夜が白み始めるまで続いた。次の一手を探る、静かで重い時間が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方その頃――

 

 復活を遂げたヴォルデモートは、表舞台から完全に姿を消しながら、闇の中で静かに、しかし着実に手を進めていた。人里離れた荒野に建つ古い屋敷は、長年放置されていたにも関わらず、内部には奇妙な秩序と緊張が保たれている。石壁には湿気と古い魔力が染み込み、空気は重く冷たい。蝋燭の炎が不規則に揺れ、その度に壁に刻まれた影が歪み、まるで屋敷そのものが息をしているかのようだった。

 

 広間の中央、古びた椅子に腰掛けているのはヴォルデモートだった。豪奢とは程遠いその椅子は、玉座というより処刑台のような冷たさを纏っている。細長い指が肘掛けに置かれ、爪先が微かに木を擦る音だけが、沈黙を引き裂いていた。

 

 「ヤックスリー」

 

 低く、乾いた声が広間に響く。

 

 「首尾はどうだ」

 

 正面に立つコーバン・ヤックスリーは、即座に背筋を伸ばし、深く頭を垂れた。視線は床に固定され、決して主の赤い瞳を直視しない。

 

 「我が君。こちら側に付く者は確実に増えております。魔法省内部では、ドローレス・アンブリッジを中心に、数名の職員が既に我らに協力的です」

 

 ヴォルデモートの口元が、僅かに歪む。

 

 「そうか……あの女が」

 

 甘い声と歪んだ忠誠心。利用価値は高いが、信用に足る存在ではない。それでも、腐臭は拡がりやすい。

 

 「では、コーネリウス・ファッジはどうした」

 

 その名が出た瞬間、空気が一段張り詰める。

 

 ヤックスリーは言葉を選びながら続けた。

 

 「……不可解な状況です。我が君。コーネリウスは魔法省にほとんど姿を見せておらず、現在は事実上の行方不明となっております」

 

 「ほぉ?」

 

 ヴォルデモートの指が止まる。

 

 「逃げたか。それとも隠れているのか」

 

 「いずれとも断定できません。ただ、魔法省内では“大臣不在”が既成事実になりつつあります。職員の間では、酒に溺れているという噂が立っておりますが……」

 

 「使えぬな」

 

 ヴォルデモートは吐き捨てるように言った。

 

 「権力を持つ器ですら、自身を律することもできぬとは」

 

 支配する価値すらない。操る以前の問題だ。

 

 「では――予言はどうした」

 

 その一言で、広間の温度がさらに下がる。

 

 ヤックスリーは喉を鳴らし、深く頭を下げた。

 

 「未だ発見には至っておりません。神秘部に保管されていることは間違いありませんが、予言は関係者以外が触れれば暴発するか、取り出せない仕組みになっております。部下を使い幾度も試みましたが、成果はありません」

 

 ヴォルデモートはしばらく黙り込んだ。

 

 予言がある。

 だが内容は掴めない。

 魔法省は内部から腐り始めている。

 大臣は姿を消した。

 

 盤面は整いつつあるが、決定打がない。

 

 「……ならば」

 

 ヴォルデモートはゆっくりと椅子から立ち上がった。ローブの裾が床を擦り、乾いた音が広間に響く。立ち上がったその姿から放たれる圧は、魔力というよりも、純粋な殺意と意志の塊だった。

 

 「俺様が直接、魔法省へ行く」

 

 ヤックスリーが息を呑む。

 

 「我が君、それは――」

 

 「隠れ家の裏で探り合いをする段階は終わりだ。予言が拒むなら、拒ませる仕組みごと踏み潰すまで」

 

 赤い瞳が、冷たく光る。

 

 「魔法省は既に脆い。大臣は不在、内部は疑心暗鬼。ならば――中心から叩く」

 

 ヴォルデモートはゆっくりと笑った。

 

 「恐怖は、直接見せた方が早い」

 

 その言葉と共に、広間の蝋燭が一斉に揺れ、影が壁を這うように伸びる。

 

 闇は、静かに、しかし確実に――

 魔法省そのものへと、手を伸ばし始めていた。

 

 「では私はこれで……」

 

 「行け」

 

 短い命令に従い、コーバン・ヤックスリーは深く頭を垂れ、その身を闇へ溶かすように消した。転移の残滓すら残らず、広間には再び静寂だけが落ちる。蝋燭の炎が揺れ、石壁に伸びた影がゆっくりと縮んでいった。

 

 その中央に、ヴォルデモートは一人立っていた。

 

 「……グボォッ」

 

 突如として喉が焼け、彼は前屈みになって黒い血を吐き出した。床に落ちたそれは粘つき、まるで意思を持つかのように蠢いてから動きを止める。血の臭いが空気に混じり、古い屋敷に不快な温度をもたらした。

 

 「おのれ……伏黒、甚爾……」

 

 呪詛のように吐き出されたその名は、憎悪と痛みの塊だった。

 

 復活直後、ハリー・ポッターとの決闘の最中に割り込んできた“異物”。伏黒甚爾という存在は、ヴォルデモートの想定を根底から破壊した。杖も呪文も用いず、ただ金属と火薬の武器で、彼の頭部を撃ち抜いたのだ。意識は一瞬で刈り取られ、闇に沈んだ。その後も容赦はなかった。頭にさらに二発、心臓に二発。魔法使いの戦いではあり得ぬ、しかし極めて合理的な殺し。

 

 だが肉体の死は蘇生魔術が拒み、魂の終焉は分霊箱が拒んだ。

 

 それでも――肉体に刻まれた破壊の痕跡は完全には消えなかった。

 

 ヴォルデモートは歯を食いしばり、震える手で杖を自身に向ける。魔力が逆流し、血管の内側を焼くような感覚が走った。

 

 「ヴァルネラサネントゥール(傷よ癒えよ)

 

 治癒の呪文が放たれ、砕かれた脳、穿たれた心臓、歪んだ神経が無理矢理に縫い合わされていく。魔力の圧で肉が盛り上がり、血が押し戻される。だが完全ではない。

 

 完全な回復を拒む、ただ純粋な破壊。

 

 そのときだった。

 

 ヴォルデモートの背筋を、冷たい何かが撫でた。魔力ではない。呪文の残滓でもない。だが確実に、そこに“在る”。

 

 空気が歪み、音が消える。

 

 「……誰だ」

 

 低く問うと、闇が一歩前へ進んだ。

 

 蝋燭の光が届かない影の中から、男が現れる。ローブではない服装。杖も持たない。だが、その存在感は並の魔法使いとは次元が違った。肉体が空間を圧し、床が微かに軋む。

 

 「やあ」

 

 男は軽い口調で言った。

 

 「君が闇の帝王、ヴォルデモート卿だね」

 

 ヴォルデモートは即座に杖を構えた。だが男は一切動じず、むしろ興味深そうに彼の身体を眺めている。

 

 「その傷……なるほど。蘇っても、()()じゃない」

 

 「名を名乗れ」

 

 殺気が滲む。

 

 男は小さく笑い、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。

 

 「名前か。今はまだ、いいだろう」

 

 そう言って、男は一歩踏み出した。魔力ではない力が揺れ、ヴォルデモートの治癒魔法が一瞬、軋む。

 

 「その代わり、質問を一つ」

 

 男の声は、ヴォルデモートの耳元だけに直接届いた。

 

 「“呪力”という力を、知っているかい?」

 

 その言葉が放たれた瞬間、ヴォルデモートは理解した。

 

 この男は、伏黒甚爾と同じ“系統”の存在だと。

 

 魔法でも、呪文でもない。

 因果の外側から、世界を殴る者。

 

 闇の帝王の赤い瞳が、初めて警戒の色を帯びた。

 

 新たな“異物”が、静かに魔法界へ踏み込んできたことを――

 ヴォルデモートは、本能で悟っていた。




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