ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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感想欄がメロンパンだらけで草。



第五話

 

 

 

 

  というわけで、残りの夏休みを日本で過ごすため、俺たちは姿現しで飛ぶことになった。行き先はいつもの日本の拠点だ。メンバーは俺、ジジイことダンブルドア、シリウス、そして今朝ひょっこり合流してきたコーネリウス。ガキ共はグリモールド・プレイスでお留守番。ハリーは裁判の後で流石に疲れていたし、ロンやフレッド、ジョージは目を輝かせてこちらを見ていたが、あいつらにはまだ早い。教師と校長と貴族と魔法省大臣が、揃いも揃って賭博旅行に行くなんて知ったら、幻滅するか余計な憧れを持つかのどっちかだろう。どちらにせよ碌なことにならねぇ。

 

 姿現し特有の内臓を引き伸ばされる感覚を抜けると、湿った日本の空気が肺に流れ込んできた。ロンドンの乾いた石の匂いとは違う、排気ガスと土と人間の生活が混じった匂いだ。俺は嫌いじゃない。拠点の裏路地は相変わらず薄暗く、朝だというのに既に遠くから車の音と人のざわめきが聞こえてくる。時計を見ると、まだ朝の早い時間帯だが、日本はもう動き出している。

 

 「ふぅ……やはり日本は落ち着くのぉ」

 

 ジジイが伸びをしながら言った。ローブの裾を器用に畳み、いつもの勝負服に着替える動作が妙に板についている。何年か前に日本で仕立てた服だ。

 

 「なぁ甚爾、朝飯はどうする?」

 

 シリウスが腹を押さえながら聞いてきた。こいつもすっかり日本慣れしていて、姿現しの後に飯の話をする余裕がある。

 

 「蕎麦か、パンか……牛丼もええの」

 

 ダンブルドアが顎に手を当て、真剣な顔で選択肢を並べる。魔法界の重鎮が牛丼で悩んでいる光景は、何度見てもシュールだ。

 

 「先生方、私は日本の朝食というものをまだよく知らなくてですね……」

 

 コーネリウスが周囲をきょろきょろ見回しながら言った。昨日まで裁判だの魔法省だので神経をすり減らしていたくせに、今はすっかり観光客の顔だ。アルコール臭がしないだけ、今日はまだマシか。

 

 「なら牛丼だな」

 

 俺は即答した。理由は単純だ。早い、安い、腹に溜まる。ギャンブル前の飯としては最適解だ。

 

 「おお、牛丼か!私は汁だくだくが好きだ!」

 

 シリウスが嬉しそうに声を上げる。あの時は競馬で勝った帰りだったか、それとも負けた帰りだったか。どっちでもいい。

 

 俺たちは路地を抜け、大通りに出た。朝の日本は忙しなく、それでいてどこか秩序がある。信号待ちをする人間の流れ、開店準備をする店、コンビニから漂ってくるコーヒーの匂い。魔法も呪いも関係なく、人間の生活がここにはある。

 

 牛丼屋の自動ドアが開いた瞬間、甘辛いタレと肉の匂いが鼻を突いた。

 

 「おぉ……これはまた」

 

 コーネリウスが感嘆の声を漏らす。大臣ともあろう男が、牛丼の匂いで目を輝かせるな。

 

 「並盛でいいか?」

 

 「わしは大盛りじゃ!」

 

 「もちろん汁だく大盛りだ!」

 

 「私は……その、大盛りで」

 

 シリウスとコーネリウスも続く。全員大盛りだ。賭博前の験担ぎか、それとも単なる食い過ぎか。

 

 カウンターに並んで座り、無言で丼をかき込む。熱い飯、柔らかい肉、玉ねぎの甘さ。胃袋に落ちていく感覚が、現実に戻してくれる。魔法省もヴォルデモートも今は関係ねぇ。ただ今日は、日本で遊ぶ。それだけだ。

 

 「それで甚爾、今日はどこから行く?」

 

 シリウスが口の端に米粒をつけたまま聞いてきた。

 

 俺は箸を止め、少しだけ考える。

 

 「まずは腹ごしらえだ。話はそれからだな」

 

 そうして俺たちの、日本での残りの夏休みが静かに始まった。

 

 牛丼をかき込み、ジジイがさっさと会計を済ませ、俺たちは店の外へ出た。自動ドアが閉まると同時に、さっきまで鼻腔を支配していた甘ったるい肉の匂いが、朝の少し湿った空気に押し流される。現在の時刻は8時前。空は既に十分に明るく、通勤途中のサラリーマンや学生が忙しなく行き交っている。競馬場が動き出すにはまだ早く、競艇も時間外。つまり、今この時間帯にやることは1つしかない。

 

 「朝一発目はやっぱりパチンコか?ちょっと歩いたところの店は新台入荷だった気がする」

 

 俺がそう言うと、ジジイが即座に反応した。白い髭を揺らしながら、少年みたいな目でこちらを見る。

 

 「ほぉ!新台か!それは是非とも触ってみたいのぉ」

 

 昨日まで魔法省で裁判の弁護をしていた男とは思えない。いや、むしろあれだけ頭を使った後だからこそ、こういう単純な刺激が欲しくなるのかもしれない。

 

 「新台!ピカピカ光らせたいですなぁ!」

 

 コーネリウスも同調する。肩書きも威厳もどこかに置いてきた顔だ。今のこいつは魔法省大臣じゃない。ただのパチカスだ。まだ酒臭くないだけ、今日は理性が残っている方だろう。だが、台に座らせた瞬間にどうなるかは、俺が一番よく知っている。

 

 「朝から元気だな」

 

 シリウスが呆れ半分、楽しさ半分といった顔で言った。こいつも日本に慣れてからというもの、ギャンブルに対する抵抗が完全になくなっている。一昨年から入り浸ってるだけのことはある。

 

 俺たちは連れ立って店へ向かって歩き出した。大通りを一本外れた場所にある、古くも新しくもないパチンコ屋だ。外壁は派手な色で塗られ、まだ開店前だというのに、既にネオンの一部が点灯している。音も光もない静かな時間帯なのに、店自体が「もうすぐ始まるぞ」と主張しているみたいで、嫌いじゃない。

 

 歩きながら、俺は周囲の人間を観察していた。出勤前に足早に歩く連中、コンビニの袋をぶら下げたまま立ち止まって時計を見る若者、そして同じ方向へ向かう、どこか目つきの違う連中。あぁ、こいつらもだな。

 

 店の前に到着すると、既に10人ほどが並んでいた。全員が似たような空気を纏っている。妙に落ち着きがなく、それでいて覚悟を決めたような顔。歴戦のパチカス共だ。服装はバラバラだが、立ち姿や間の取り方で分かる。こいつらは今日、勝つか負けるかをここに賭けに来ている。

 

 「おぉ……意外といるのぉ」

 

 ジジイが小声で言った。

 

 「新台の日だからな。朝から並ぶ奴は並ぶ」

 

 俺はそう答えながら、整理券配布の札を確認する。まだ配り始めたばかりらしく、列はこれ以上大きくなっていない。タイミングは悪くない。

 

 係員が出てきて、無言で整理券を配り始めた。番号札を受け取り、俺たちは最後尾に並ぶ。俺の前には、無精髭を生やした中年の男。微かにタバコの匂いがする。背後には若い兄ちゃんが2人、昨日は負けたのか、やけに静かだ。

 

 「番号は……まぁ悪くないな」

 

 俺が確認すると、ジジイもコーネリウスも自分の札を覗き込み、満足そうに頷いた。シリウスは少し興味なさそうだが、それでもどこか楽しげだ。

 

 開店まで、あと少し。この静かな待ち時間が、一番神経を削る。まだ何も始まっていないのに、頭の中では既に玉の音と光の洪水がちらついている。勝つか負けるか、その分かれ道は、もうすぐだ。

 

 そして、俺たちは黙ってその時を待った。

 

 「時間だ」

 

 シャッターが上がる乾いた金属音が店内に響き、同時に鼻腔を突く独特の匂いが流れ出してきた。金属、油、埃、そして人間の欲が長年染みついた臭いだ。パチ屋の店員が慣れた手つきで整理券を確認し、無言で客を中へと誘導していく。列に並ぶ連中の背中からは、朝の冷えた空気とは噛み合わない熱が立ち上っていた。

 

 あそここそ魔境、金が増え、そして消える場所。俺は正直なところ、パチンコよりも競馬か競艇の方が性に合っている。広い空、風、音、走るものの躍動、賭ける理由がはっきりしているからだ。だが、それでもパチンコ屋のこの閉じた空間、光と音が暴力的に襲いかかってくる感じは嫌いじゃない。頭を空っぽにして、運と確率と機械に身を委ねる時間は、案外悪くない。

 

 「いくぞい」

 

 ダンブルドアが杖ではなく、今日は財布を握り締めて一歩踏み出す。その背中は校長というより、完全に場慣れしたギャンブラーのそれだ。

 

 「うむ、戦いだ」

 

 続いてコーネリウスが短く言った。肩の力が抜け、無駄な緊張がない。魔法省大臣としての威厳はここにはなく、ただの一人の勝負師の顔をしている。

 

 「今日も稼ぐか」

 

 シリウスは口元を歪めて笑った。その視線は既に台の配置を見ていて、獲物を探す犬みたいに落ち着きがない。

 

 「まぁほどほどに」

 

 俺はそう言いながらも、心のどこかでそんな言葉を信じていない自分を自覚していた。ほどほどで済むなら、ここに来ていない。

 

 順番にダンブルドア、コーネリウス、シリウスが台へと吸い込まれていく。コイツらはもう立派なギャンブラーだ。コーネリウスも、この夏にギャンブルにどハマりしたとは思えない落ち着きを見せている。台の前に立つ姿勢、椅子の引き方、視線の置きどころ、全部がそれなりに板についてきているのが癪に障る。

 

 店内は既に轟音だ。玉が流れる金属音、液晶の効果音、耳障りなBGM、当たりを告げる派手な音。視界の端では、既に当たりを引いたらしい客が肩を揺らしている。空調は効いているはずなのに、体感温度は高く、じっとりとした湿気が肌にまとわりつく。

 

 店に入った俺たちは、それぞれ台に座った。目の前に並ぶのは新台。まだ誰の癖も付いていない、真新しい盤面だ。これは運がいい。少なくとも、そう思える材料は揃っている。

 

 「とりあえず1万円入れようかの」

 

 ダンブルドアが財布から万札を一枚取り出し、迷いなくサンドに突っ込んだ。紙が吸い込まれ、電子音が鳴る。

 

 俺も同じく財布を開き、万札を一枚抜く。シリウスもコーネリウスも同時だった。四人分の一万円が、ほぼ同時に機械の腹へ消えていく。その瞬間、妙な一体感が生まれるのが分かる。ここに来ると、肩書きも立場も関係ない。ただ金を入れ、レバーを捻り、結果を待つだけだ。

 

 椅子に深く腰を下ろし、ハンドルに手を掛ける。プラスチック越しに伝わる微妙な振動。画面が切り替わり、無意味に派手な演出が始まる。頭の奥が少しずつ麻痺していく感覚が心地いい。

 

 隣を見ると、シリウスが既に真剣な顔で画面を睨んでいる。コーネリウスは小さく鼻歌を歌い、ダンブルドアは妙に穏やかな表情だ。全員、賭ける準備は整っている。

 

 ここから先は、運と機械と俺たちの間の話になる。誰が勝つか、誰が負けるか、そんなものはまだ分からない。ただ一つ確かなのは、この瞬間から金と欲と音に支配される時間が始まったということだけだ。

 

 そして――俺たちの戦いが、静かに、だが確実に始まった。

 

 そうして打ち始めて10分——店内の騒音に完全に溶け込んだ頃、最初に空気を破ったのはコーネリウスの声だった。

 

 「うほうお!きた!きた!確変っ!!」

 

 唐突に響いた歓声に、周囲の視線が一斉に集まる。液晶に走る派手な光、甲高い電子音、島全体に伝わる当たりの振動。コーネリウスの台はまるで祝福でも受けたかのように眩しく輝いていた。

 

 最初の動きはやはりコーネリウスだった。やっぱりコイツはパチンコの才能がある。いや、才能というより、台に好かれる体質というやつかもしれねぇ。肩の力が抜けていて、欲が表に出すぎない。その癖に当たるときは派手に当たる。ギャンブルに向いた厄介な性格だ。

 

 「ほぉ…!やりおるのぉ!コーネリウス!わしも負けてられん!」

 

 ダンブルドアが隣から身を乗り出し、コーネリウスの画面を一瞬だけ確認すると、すぐに自分の台へ視線を戻した。白い顎髭がわずかに揺れ、指先に力がこもるのが分かる。レバーを引く動作一つで、年甲斐もなく本気になっているのが伝わってきて、思わず笑いそうになる。

 

 液晶が高速で切り替わり、リーチ演出が走る。だが、結果はまだ分からない。ダンブルドアは眉一つ動かさず、ただ静かに画面を睨み続けている。その背中からは、ホグワーツの校長ではなく、完全に勝負師の気配が漂っていた。

 

 「2人はいつも盛り上がるな」

 

 俺の右隣に座るシリウスが、半ば呆れたように言った。だが、その視線はしっかり自分の台に固定されていて、指は休みなくハンドルを調整している。口では余裕を見せているが、内心は落ち着いていないのが丸分かりだ。

 

 「あの年齢ぐらいのジジイは1番パチンコにハマりやすいからな。他を見てみろ。同じようなジジババばっかりだろ」

 

 俺が顎で島の奥を示すと、確かにそこには年配の客がずらりと並んでいた。背中を丸め、無言で画面を見つめ、当たりが来るたびに小さく息を吐く。その姿は必死というより、もはや生活の一部だ。

 

 「確かに」

 

 シリウスは短く返しながら、ちらりと周囲を見渡した。若い連中もいるにはいるが、数は少ない。ここは時間と金と体力に余裕のある老人たちの戦場だ。

 

 その瞬間、別の台から甲高い音が鳴った。

 

 「おっ!わしも確変がきたぞ」

 

 今度はダンブルドアだ。穏やかな声とは裏腹に、画面では確変突入を告げる演出が派手に踊っている。白い眉がわずかに上がり、口元が楽しそうに緩む。完全に波に乗った顔だ。

 

 「チッ……俺の台はハズレかぁ?」

 

 思わず舌打ちが漏れる。一向に動く気配がねぇ。リーチは来るが弱い。期待させるだけさせて、最後は無情に外れる。玉の流れる音だけが虚しく耳に残り、当たりの気配は感じられない。

 

 ハンドルを握る手に、知らず力が入る。台の微妙な振動、盤面のガラス越しに伝わる熱、周囲の当たり音が神経を逆撫でする。コーネリウスの台はまだ騒がしく、ダンブルドアも波に乗っている。シリウスはまだ無言だが、時折小さく息を吐いているのが聞こえる。

 

 くそ、焦るな。焦ったところで、台は応えてくれねぇ。そう自分に言い聞かせながらも、心の奥では確実に火が点いていた。

 

 勝負はまだ始まったばかりだ。だが、流れは既に動き出している。

 

 そして、その流れがどこへ向かうのか——それはまだ、誰にも分からなかった。

 

 そして遂に来た。

 

 「よしよしよし!」

 

 喉の奥から自然に声が漏れた。長い沈黙の末、俺の台が明確に反応を示した。液晶の中でキャラクターが急に激しく動き出し、背景が切り替わり、普段とは明らかに違う演出が重なっていく。眩しいほどの光が盤面から溢れ、耳障りなほどの電子音が島に響いた。その音は騒音に紛れるどころか、周囲の空気を切り裂くように存在感を主張している。これはただのリーチじゃねぇ。長く打ってきた感覚が、はっきりとそう告げていた。

 

 ハンドルを握る指先に力が入り、無意識に呼吸が浅くなる。胸の奥がじわじわと熱を帯び、背中に汗が滲んだ。外れ続けた時間が長かった分、この一瞬に賭ける期待が異常なほど膨らんでいるのが自分でも分かる。画面の中でキャラクターが跳躍し、エフェクトが重なり、光がさらに強くなる。周囲の台の音が一瞬遠のいたように感じた。

 

 「確変だ!このままいけ!」

 

 思わず台に向かって言い放つ。願掛けみたいなもんだが、言わずにいられなかった。ここまで煽られて外れたら、今日はもうダメだ。そんな予感すら頭を掠める。

 

 「やっとか甚爾」

 

 右隣からシリウスが身を乗り出してきた。いつもの余裕を装った声だが、目は完全に俺の台に釘付けだ。コイツも自分の台の調子が今ひとつなのか、他人の当たりに便乗して流れを掴みたいタイプだ。

 

 「黙って見てろ。今いいとこなんだ」

 

 俺は視線を逸らさずに返した。画面ではカウントダウンのような演出が始まり、数字が一つずつ減っていく。心臓の鼓動が耳に響き、指先が微かに震えた。

 

 次の瞬間、強烈なフラッシュと同時に、確変突入を告げる演出が炸裂した。

 

 「っしゃあ!!」

 

 椅子から立ち上がりそうになるのを堪え、拳を軽く握りしめる。盤面のランプが規則正しく点灯し、連続当たりの準備が整ったことをはっきりと示していた。溜まっていた息を一気に吐き出すと、肩の力が少し抜ける。

 

 「おぉ、来たの!これは流れが来ておるな!」

 

 ダンブルドアが自分の台から顔を上げ、満足そうに頷いた。白い髭を撫でながら、どこか嬉しそうにこちらを見る様子は、完全に同類だ。

 

 「ようやく全員揃ったな」

 

 コーネリウスが笑いながら言った。既にかなりの出玉を積んでいるコイツの余裕が、その声から滲み出ている。

 

 確変に入った俺の台は、そこから一気に動き始めた。次々と当たりが連なり、玉が勢いよく排出口へ流れ込む。耳に心地いい音が続き、視界の端で箱が少しずつ満たされていくのが分かる。

 

 だが、浮かれすぎるな。パチンコは調子に乗った瞬間に牙を剥く。俺はそう自分に言い聞かせながら、ハンドルの角度を微調整し、画面の挙動を冷静に追い続けた。

 

 勝負はまだ終わっちゃいねぇ。

 

 そして、この確変の先に何が待っているのか——それを確かめるのは、これからだ。

 

 と思っていたら、いきなり電気が消えた。

 

 「は?」

 

 一瞬、目が理解を拒んだ。眩しいほどの光と電子音に満ちていた店内が、嘘みたいに真っ暗になる。耳鳴りがするほどの静寂が一拍だけ挟まり、その直後、ざわめきが爆発した。

 

 「おい!なんだこれー!」

 

 「ふざけんなー!」

 

 「返金しろー!」

 

 怒号が四方八方から飛び交い、椅子が蹴られる音、ドル箱が揺れる鈍い音、誰かが店員を呼ぶ甲高い声が重なって、空気が一気に荒れた。さっきまでの熱気が、別の意味でさらに熱を帯びる。

 

 ……待て。

 

 俺は瞬きを繰り返しながら、頭の中で状況を整理しようとした。確変中だった。演出は最高潮で、あと少しで大当たりが確定する流れだったはずだ。つまり今この瞬間、俺の台は勝ち筋のど真ん中にあった。

 

 バキッ。

 

 無意識に力が入り、握っていたレバーが嫌な音を立てた。掌に伝わる感触で、やっちまったと理解する。怒りが腹の底から湧き上がり、喉の奥が熱くなる。視線が自然と足元に落ち、置かれたドル箱を睨みつけた。中途半端に溜まった玉。まだ半分だ。倍になるはずだった。確変が続けば、さらに積み上がるはずだった。

 

 「……ふざけるな」

 

 思わず低く呟いた声は、闇に吸い込まれた。金が消えたわけじゃない。理屈では分かっている。だが、あの流れを断ち切られた事実が、どうしようもなく腹立たしい。

 

 「フシグロ君……停電じゃな」

 

 肩に温度を感じて振り向くと、ダンブルドアが暗闇の中でも落ち着いた様子で俺の肩を摩っていた。声は穏やかだが、状況を把握しているのは分かる。

 

 「んなことは分かってんだよ」

 

 思わず語気が荒くなる。理性より先に感情が口を突いて出た。

 

 「もうちょいだったのにな」

 

 隣から聞こえたのは、シリウスの声だった。暗闇でも分かる。絶対ニヤけてる。こいつ、わざとだ。

 

 「……あぁ、笑えよ」

 

 吐き捨てるように言うと、シリウスは肩を竦めた気配を見せた。

 

 周囲では未だに怒鳴り声が続き、店員らしき声が必死に説明しているが、誰も聞いちゃいない。停電だ、復旧待ちだ、保証はどうなる、と言葉が飛び交う中、俺は椅子に深く腰を沈めた。

 

 チクショウ。

 

 運だの流れだの、そんなもん信じてるわけじゃない。それでも、ここまで噛み合っていた流れを、こんな形で止められるのは納得がいかない。

 

 「チクショウ……!なぜなんだ!?」

 

 思わず声を張り上げた瞬間、自分の声がやけに店内に響いた気がして、余計に腹が立った。暗闇の中、確変中だった台の画面は完全に沈黙し、さっきまで俺の鼓膜を殴り続けていた電子音も、派手な光も、全部まとめて奪われている。耳に残っているのは、客の怒号と床を踏み鳴らす音、そして苛立ちが空気をざらつかせる嫌な気配だけだ。

 

 「おい店員!今のどうなるんだよ!」

 

 「いいとこだったんだぞ!」

 

 「責任取れ!」

 

 あちこちから飛ぶ言葉は、どれも似たような怒りを孕んでいる。そりゃそうだ。ここにいる連中は皆、金と時間と期待を突っ込んで、この瞬間に賭けていた。俺だけが不幸なわけじゃない。それは分かっている。分かっているが、納得できるかどうかは別問題だ。

 

 「……落ち着け」

 

 ダンブルドアが低い声で言った。肩に置かれた手が、やけに現実的な重さを持っている。

 

 「停電は不可抗力じゃ。ここで騒いでも、玉は増えん」

 

 「理屈は分かる」

 

 俺は歯を食いしばりながら答えた。分かるから余計にムカつくんだ。確変は流れだ。勢いだ。あの一瞬一瞬を積み重ねていくもので、こうして強制的に切られた時点で、もう同じ流れには戻らねぇ。

 

 「しかしまぁ……運が悪かったの」

 

 「運で済ませるな」

 

 即座に返すと、シリウスがくくっと喉を鳴らした。

 

 「いやぁ、でも実際そうだろ。私は通常で止まってたから、被害は軽い」

 

 「黙れ」

 

 こいつは後で殴る。そう心に決めて視線を外した。

 

 その時、非常灯がぼんやりと点き、店内が薄赤い光に包まれた。暗闇よりはマシだが、余計に状況の酷さが際立つ。台の前で呆然と立ち尽くす客、ドル箱を抱えたまま固まっている老人、怒りに任せて台を叩こうとして仲間に止められている若い男。全員、同じ場所にいながら、同じ感情を抱えている。

 

 「復旧までしばらくお待ちください!」

 

 店員の声が響いた。震えているのが分かる。無理もねぇ。

 

 「……どうする、フシグロ君」

 

 ダンブルドアが俺を見る。

 

 俺はもう一度、確変が途切れたまま沈黙する台を見下ろした。レバーは俺が握り潰したせいで、少し歪んでいる。修理代請求されたらどうしようか、なんて現実的な考えが頭をよぎって、余計に気分が悪くなった。

 

 「今日はツキが逃げたな」

 

 ぽつりと呟くと、コーネリウスが珍しく真面目な声で言った。

 

 「……こういう日もあります。深追いすると、ろくなことになりませんぞ」

 

 お前がそれ言うか、と思ったが、今は突っ込む気力もない。

 

 「一旦外出るか」

 

 俺がそう言うと、ダンブルドアは小さく頷いた。

 

 「そうじゃな。空気が悪い」

 

 俺たちは立ち上がり、人の隙間を縫って出口へ向かった。背中に残る怒号と電子音の亡霊を振り切るように、自動ドアを抜ける。

 

 外の空気はやけに冷たく、肺に入った瞬間、頭が少しだけ冷えた。

 

 ……まぁいい。

 

 確変は消えた。金も増えなかった。それでも、今日はまだ朝だ。

 

 俺は空を見上げ、ゆっくり息を吐いた。

 

 「次、どうする?」

 

 シリウスの問いに、俺は口の端を歪めた。

 

 「決まってんだろ、取り返す。今何時だ?」

 

 俺が聞くと、シリウスはスーツパンツのポケットから年季の入った懐中時計を取り出し、親指で蓋を弾くように開いて文字盤を覗き込んだ。人混みと騒音の中でも、こいつの所作は妙に落ち着いていて腹が立つ。

 

 「11時半だ、1時間ちょっとしか打てなかったな」

 

 「そうじゃのぉ……もうすぐ復旧しそうではあるが」

 

 ダンブルドアがさっきまで自分が座っていた台の方角を眺めながら言う。店の前にはまだ店員と客が入り混じって騒いでいて、復旧がどうだの補償がどうだのと怒号が飛び交っていた。さっきまでの熱気が、今は濁った蒸気みたいに漂っている。

 

 「もういかねぇよ」

 

 俺はそう言って背を向けた。今さら戻ったところで、俺の確変が戻ってくるわけじゃない。指先にまだレバーの感触が残っているのが余計にムカつく。握り潰したはずなのに、金属の冷たさと反発だけが妙に鮮明だった。

 

 「この時間なら競艇が始まってんだろ。この近くだと……」

 

 俺が頭の中で地図を引き寄せていると、シリウスが肩をすくめた。

 

 「相変わらず切り替えが早いな。さっきまであんな顔してたのに」

 

 「ギャンブルはな、引きずったら終わりだ」

 

 自分で言っておいて何だが、胸の奥はまだ燻っている。金の問題じゃない。あそこまで行って、奪われるように終わったことが気に食わねぇ。それでも立ち止まっても何も始まらないのは、長年の勘で分かっている。

 

 「ほっほっほ、確かに。では次の戦場へ移動といこうかの」

 

 ダンブルドアは楽しそうに笑い、コーネリウスの背中を軽く叩いた。

 

 「競艇……ボートが水を切る音、好きですぞ。あれは実に健康的なギャンブルだ」

 

 「どこがだよ」

 

 俺が突っ込むと、コーネリウスは何故か胸を張った。

 

 「少なくとも店が停電することはないでしょう!」

 

 「それはそうだな」

 

 シリウスが吹き出し、俺もつられて鼻で笑った。さっきまでの怒りが、少しだけ形を変えて抜けていくのを感じる。

 

 駅まで歩く途中、夏のアスファルトが熱を帯びて靴底からじわじわ伝わってきた。汗が背中を伝い、空気は重い。それでも不思議と足取りは軽かった。次がある。それだけで十分だ。

 

 「で、いくら突っ込むつもりだ?」

 

 シリウスが俺に聞いてくる。

 

 「さっき飲まれた分くらいは取り返す」

 

 「ほどほどにしとくのじゃぞ」

 

 「それは俺の台詞だ」

 

 ダンブルドアが口を挟み、三人で顔を見合わせる。コーネリウスだけが少し遅れて笑った。

 

 駅のホームに立つと、遠くで電車の走行音が響き、風が抜けた。さっきのパチ屋の閉塞感とは違う、開けた気配だ。俺は無意識に拳を握り直す。

 

 負けっぱなしで終わる気はねぇ。

 

 水の上なら、まだ勝負になる。

 

 そうして俺たちは、次の賭場へ向かう電車に乗り込んだ。




賭博旅行再開ですね。
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