ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
「日本の電車はすごいですな」
コーネリウスが腰掛けた座席に深く背を預け、吊革の揺れを眺めながら感心したように言った。昼前の時間帯ということもあり、通勤ラッシュは既に終わっていて、車内は妙に落ち着いている。座席は所々空き、立っている客もまばらだ。車輪がレールを噛む低い音と、規則正しい振動だけが床から伝わってくる。
「そうじゃろうそうじゃろう、日本の電車は揺れも少なく、それに時間通りにピッタリ運行するからのぉ」
ダンブルドアが得意げに言う。まるで自分が作ったみたいな顔だが、何度も日本に来ているだけあって誇らしげなのは分からなくもない。確かに、この正確さは魔法界ではなかなか再現できない。呪文よりよほど信頼できる場面もある。
「マグルは侮れませんな」
コーネリウスは真面目な顔でそう呟いた。今日はまだ酒を口にしていないせいか、声も視線も落ち着いている。ただ、膝の上で組んだ指先がわずかに震えているのが見えた。アル中の禁断症状ってやつだろう。時計を気にする仕草がやたら多いのも、その証拠だ。
「おいコーネリウス、昼まで我慢できるのか?」
俺が聞くと、コーネリウスは一瞬だけ視線を逸らし、咳払いをした。
「だ、大丈夫です。ここは日本ですからな。公共の場で飲むのは流石に……」
「夜になれば遠慮なくやるくせに」
シリウスが半笑いで口を挟む。スーツ姿のまま脚を投げ出し、窓の外を流れていく景色を眺めているが、目は完全に遊びに来た人間のそれだ。魔法省の貴族だの不死鳥の騎士団だの、そういう肩書きは今だけ全部脱ぎ捨てている。
車内アナウンスが次の駅名を告げ、扉が開閉する。乗ってきた学生風の集団がこちらを一瞬ちらりと見て、すぐに興味を失う。俺たちはただの外国人観光客にしか見えないだろう。まさか校長と魔法省大臣と指名手配犯上がりが並んで電車に乗っているとは思うまい。
「しかし不思議なものじゃな」
ダンブルドアがぽつりと言った。
「何がだ?」
「魔法を使わずとも、これだけの人数を正確に、事故もなく運ぶ仕組みを築いておる。
その言葉に、コーネリウスが深く頷く。
「魔法界も少しは見習うべきかもしれませんな。規則と仕組みで動くという発想は……」
「その前に酒と賭博をどうにかしろ」
俺が言うと、二人揃って気まずそうに視線を逸らした。全く反省してねぇ。
電車は再び走り出し、窓の外に住宅街が流れていく。低い建物、洗濯物の揺れるベランダ、路地を歩く主婦や自転車の学生。どれも魔力の匂いはしないが、生きている感じは濃い。俺はこの空気が嫌いじゃない。血と呪いと因縁が渦巻く魔法界より、よほど健全だ。
「で、次は競艇か」
シリウスが俺を見る。
「そう、競艇場だ。時間的に丁度いい」
「おぉ……」
コーネリウスの目が分かりやすく輝いた。さっきまでの理知的な雰囲気は一瞬で消え、完全にギャンブラーの顔だ。
「まだ昼前ですよ?」
「だからだ。昼のレースが一番熱い」
ダンブルドアが満足そうに頷く。
「そうじゃ、昼は昼の戦い方がある」
このジジイも完全に毒されている。俺は軽く溜息を吐きながら、次の駅で降りる準備をした。魔法省の裁判だの、ヴォルデモートだの、アンブリッジだの、面倒な話は全部頭の奥に押し込める。今はただ、日本の昼下がりと、金の匂いと、次の勝負のことだけ考えていればいい。
電車が減速し、ブレーキの音が短く響いた。そして扉が開く。
俺たちは無言で立ち上がり、流れる人の波に混じってホームへ降りた。
駅を出て競艇場まで歩く。昼前の空は薄く白み、湿った熱が路面から立ち上って足首にまとわりつく。さっきまで電車の冷えた空気に慣れていた身体が、外に出た途端に現実へ引き戻されるみたいに汗を噴いた。通勤ラッシュは終わっているはずなのに人波は途切れず、日傘の骨がすれ合う音と、遠くの踏切の警報が混じって、夏の街はうるさい。俺の耳はその雑音の中から、川風の湿り気と、どこかで揚げ物をしている油の匂い、それに競艇場の方角からかすかに漂うガソリンと水の匂いを拾っていた。
「腹はまだ減ってねぇか?」
俺が言うと、コーネリウスは腹を押さえて一瞬だけ渋い顔をした。酒が入っていないこいつは妙に礼儀正しいが、手が小刻みに震えてるのを見ると、空腹より別の渇きが勝ってるんだろう。
「そうじゃのぉ……ラーメンでもいくかの?あそこの味源とかどうじゃ?」
ジジイが指差した先に、赤い暖簾と湯気の看板が見える。競艇に向かう途中の腹拵えとしては悪くない。味噌の匂いは遠くからでも主張が強いし、塩気は賭けの前に脳を起こす。
「味噌か……よしあそこで腹拵えだ」
俺が歩調を変えると、シリウスが無言でついてくる。こいつは貴族のくせにこういう汚い店に妙に順応する、というか、日本で遊び慣れてるから今さら驚きもしない。
俺たちは味源という味噌ラーメンをメインに出す店に入った。扉を開けた瞬間、豚骨と味噌が混ざった濃い湯気が顔面を殴ってきて、鼻の奥が熱くなる。鉄鍋の煽る音、寸胴の湧く低い唸り、床に落ちた水が踏まれて鳴るべたついた音、カウンター越しに並ぶ赤い調味料の瓶、そして壁には黄ばんだ短冊メニューがびっしり貼られていて、どれもこれも脂と時間で角が丸くなっている――この雑多さは嫌いじゃない、むしろこういう場所の方が人間の欲が剥き出しで、賭けに向かう前の心臓のリズムとよく噛み合うから妙に落ち着く。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声が飛ぶ。
「4人だ」
俺が短く言うと、店員は俺たちの格好を一瞬だけ見て、それでも表情を変えずに頷いた。
「あいよう!券売機で買ってカウンターにどうぞ!」
配膳を担当する店員が俺たちを出迎えた。入口脇の券売機は古く、ボタンの文字が擦れている。上の方に味噌、下に限定、脇にトッピング。日本のこういう機械は無駄がないが、初見には不親切でもある。
「わしが出そう。どれにする?」
ジジイが懐から財布を取り言った。札束の厚みが紙の擦れる音で分かる。さっきのパチンコで勝ってるから余裕か、いや単に気分がいいだけだな。
「俺はエビ味噌だな」
「私は味噌で」
「私も甚爾と同じエビ味噌でいこう」
「ホッホッホ、ならわしもコーネリウスと同じシンプル味噌でいこうかの」
ジジイが万札を1枚入れてボタンを押す。ガコン、と硬い音がして食券が落ち、返却口から硬貨が跳ねた。コーネリウスはその音に反射的に肩を揺らし、シリウスが口元を歪める。
「お前、今の音でびびるなよ」
俺が言うと、コーネリウスは咳払いで誤魔化した。
「び、びびってなどいません!ただ……マグルの機械は急に鳴くので」
「鳴く、って何だ。鳴いたら肉でも出るのか」
「出るなら毎日通いますなぁ」
くだらねぇ会話をしている間にも、厨房から麺が茹で上がる匂いが濃くなっていく。俺は食券をカウンターに置き、椅子に腰を下ろした。木の座面が汗で少し滑り、背中の筋肉が一瞬だけ緩む。賭けの前に腹を満たすのは、単に空腹を黙らせるためじゃない。最悪のパターン――波が荒れて全滅、ジジイが熱くなって追い金、コーネリウスが酒を探して暴走、シリウスが妙に勝って俺だけ負ける――そういう未来を頭の中で並べて、その中で一番マシな行動だけを残すための儀式みたいなもんだ。
カウンターの向こうで親父が寸胴からスープをすくい、味噌を溶く手首が迷いなく動く。湯気が立った瞬間に鼻孔を刺す甘い発酵の匂いが強まり、唾が勝手に溜まる。先にエビ味噌が来た。丼の縁に赤い油が輪を作り、湯の表面で泡が弾けて海老の香りが熱で膨らんでいく。
「熱いぞ、気をつけろ」
言ったそばからシリウスが啜って鼻を鳴らした。
「ハッフハッフ……これがまた良いんだ」
俺も麺を口に運ぶ。塩気が舌に刺さり、胃の底に熱が落ちた。身体が少しだけ軽くなるのは錯覚じゃねぇ。賭けの前には丁度いい。
奥の席で競艇新聞を広げた男が、小声で「今日、場内の風が変だ」と言った。俺の耳はその言葉より先に、入口の暖簾がふっと揺れて、外の湿った風が一筋だけ店内に差し込むのを感じ取る。
「替え玉一つ!」
流暢な日本語でそう告げるジジイを横目に見ながら、俺は内心で呆れていた。ラーメン屋に入ると必ずこれだ。年を取ると食が細くなるなんてのは大嘘で、少なくともこの男に限っては腹の容量が年齢に比例して増えているようにしか見えない。さっき競艇場まで歩くとか言ってたのに、よくそんなに入るな。
店員が手際よく器を受け取り、湯切りされた麺を湯気ごと滑り込ませた。白い蒸気が一瞬だけジジイの顔を包み、丸眼鏡が曇る。その様子が妙に間抜けで、だが妙に馴染んでいるから余計に腹が立つ。
「ホッホッホ、最高じゃ」
ズルズルと音を立てて啜りながらも、汁は一滴も飛ばさない。箸の角度、口の開き方、器の傾け方、全部が無駄なく洗練されている。俺やシリウスと日本各地のラーメン屋を巡った成果だろう。魔法学校の校長としてより、ラーメン食いとしての経験値の方が高いんじゃないか。
「この卵?味が濃いですなぁ……それに黄身がトロリとしていてクセになる」
コーネリウスが味玉に齧り付き、半分になった断面を箸で持ち上げて感心したように言う。白身に染みたタレの色と、とろけかけた黄身を眺めている。というか、お前いつの間にビール頼んだ?泡がまだ元気に立ってるぞ。さっき電車で我慢してた反動か。
俺はレンゲでスープを掬い、口に含んだ。味噌の塩気がまず舌を打ち、すぐにエビの甘い香りが鼻に抜ける。油の膜が薄く張っているが、しつこさはなく、後味が軽い。次に麺を啜る。少し固めで歯に心地よい反発があり、スープに完全に沈まない芯がある。脂と味噌に負けない存在感だ。ここは間違いなく当たりの店だな。
「どうだ?シリウス、美味いか?」
俺は右隣を見る。
「ズズズズズズズズズ」
返事はない。ただ、凄まじい勢いで減っていく麺だけが答えだった。前屈みになり、無言で啜り続ける姿は犬か何かに見える。だが、耳が少し赤い。気に入ってる証拠だ。
「フシグロ君」
「なんだ?」
左隣のジジイが声を落とす。周囲の客に聞こえない、絶妙に低い音量だ。隣では新聞を広げた客が競艇欄に赤ペンを走らせ、背後では替え玉待ちの椅子が軋む。
「ハリーとヴォルデモートの繋がりを断ち切る術は思いついているかね?」
今この店でする話か、それ。ラーメン屋のカウンターで世界の命運を語るな。だが、ジジイはこういうタイミングでしか切り出さない男でもある。
「思いついてはいる。ただやったことねぇから結果は知らねぇ」
俺は箸を止めずに言った。腹の奥、呪霊の格納空間に沈めてある“良いヤツ”の感触が、ぼんやりと浮かぶ。使えば切れる。繋がりも、呪いも、因果も。ただし、切れすぎる可能性もある。それが賭けだ。
「ジジイこそ分霊箱が何個あるか分かったのか?」
「ふむ……」
ジジイは箸を器に置き、水を一口含んだ。考えるときの癖だ。つまり、確証はない。
「正確な数はまだ分かっておらん。ただ、分霊箱になった物の目星はいくつかつけておる」
「へぇ……なんだ?」
「ゴーント家の指輪じゃ」
「ゴフゥッ!」
その瞬間、コーネリウスが盛大に吹き出した。鼻から麺がはみ出し、ビールの泡が弾ける。店員が一瞬こちらを見るが、見なかったことにしたらしい。
「ゴーント家?」
「うむ。ヴォルデモートの母メローピーの実家じゃ。今は没落し断絶しておるが、かつては聖28一族の一つ。その家宝が指輪として残っておる」
「持ってんのか?」
「いーや。ただ場所は分かっておる」
シリウスがそこでようやく顔を上げ、口元を拭いた。
「つまり、取りに行く必要があるってことか」
「そうなるの」
店内に一瞬、妙な沈黙が落ちた。ラーメンを啜る音、食券が切れる音、鍋を振る音だけがやけに大きく聞こえる。俺は丼の底に沈んだ具を箸で探りながら、距離、時期、面倒事を頭の中で組み立てる。日本で競艇、イギリスで呪いの指輪。その落差に、思わず鼻で笑った。
「まぁ今は腹を満たせ」
俺はそう言って、最後の一口を啜った。胃に熱が落ち着き、身体が次の勝負を待つ感覚に切り替わる。外では暖簾が風に揺れている。先は長いが、動く準備は整った。
スープを飲み干して、店の外に出た。味噌の余韻がまだ喉の奥に残っていて、腹の底がじんわり温かい。暖簾をくぐると、昼前の空気が肌に張り付くように湿っている。蝉の声が遠くで鳴いて、アスファルトの照り返しが目に刺さった。
「よし、じゃあいくか」
「うむ」
歩いて競艇場に向かう。ゲートをくぐると独特の匂いが鼻を突いた。水と油と古い金属の匂いが混じった、賭場特有の空気だ。掲示板の前には人が集まり、新聞を広げて赤鉛筆を走らせている。俺はレース一覧を見上げた。次のレースまで、あと10分。ちょうどいい。
選手一覧に目を落とす。数字と名前、過去成績、モーターの相性。中々に粒が揃っている。突出した一強がいないってのは、荒れる可能性が高い。つまり、狙い目が多いってことだ。
「一応聞くが、ジジイはどう賭ける?」
俺が聞くと、ジジイは顎髭を撫でながら紙を覗き込む。視線は静かだが、奥で火が燃えているのが分かる。
「わしはいつも通り、6号艇を軸に考えておる。内が強いのは分かっとるが、だからこそ外を狙う。ハイリスク・ハイリターンじゃ」
「まぁ……そうだよな」
この男は、こういう場面で一切ブレない。度胸がどうとか、胆力がどうとか、そんな言葉じゃ足りない。生き方そのものが賭けみたいなもんなんだろう。興味はねぇが、今までそれで勝ってきた事実だけは否定できない。
「フシグロ君は堅実に……じゃろ?」
「競艇の場合はな」
競艇は1号艇から6号艇までが水面で殴り合う。競馬より直線的で、展開が見えやすい。スタートで半分、コース取りで八割決まる。だからこそ、読み切れなかった一割が牙を剥く。
「俺は1号艇を軸に考える。とりあえず1号艇だ」
「甚爾はやっぱり安牌を狙うな。間違ってはないが」
シリウスが笑いながら言う。コーネリウスは既にマークシートを塗り潰していて、目が据わっている。コイツ、さっきまでラーメンに感動してた顔じゃねぇ。
舟券を買い、観客席に移動した。水面が陽を反射して眩しい。エンジン音が腹に響く。スタート展示が終わり、本番が近い。俺は自分の舟券を握り締め、予想を頭の中でなぞった。1-2-3、2-1-3、1-3-2、4-1-2。どれも筋は通っている。
スタート。号砲と同時に、艇が飛び出す。予想通り一号艇が前に出た。二号艇が食らいつき、三号艇が内に潜る。序盤は完璧だ。俺の中で勝ちの絵が完成しかける。
だが、3周目に入った瞬間、外から水を切り裂く音が重なった。六号艇だ。信じられない角度で差し込んでくる。ジジイが狙った艇だ。さらにその後ろから、シリウスとコーネリウスが選んだ艇が連なる。水面が荒れ、順位が一気に入れ替わる。
「嘘だろ……」
俺の声はエンジン音に掻き消された。ゴール板を切った順は、俺の想定と真逆だった。掲示板に結果が表示され、場内がどよめく。
「ホッホッホ、やはりの」
ジジイが楽しそうに笑う。
「まさか本当に来るとはな」
シリウスが肩をすくめ、コーネリウスはガッツポーズを決めている。
俺は舟券を見下ろし、静かに息を吐いた。読みは悪くなかった。だが、足りなかった。それだけだ。落ち着け。
「次がある」
そう呟いて、もう一度水面を見据えた。
その後も連続でレースをこなした。気付けば時刻は18時を回り、空は薄く橙に染まり始めている。水面に映る照明が揺れ、エンジン音もどこか間延びして聞こえた。そんな情緒を味わう余裕なんて、今の俺には一切なかった。なぜなら結果は一目瞭然、紙屑同然の舟券がポケットを圧迫しているだけだったからだ。
「クソが……!」
俺は最後の舟券を握り潰し、ゴミ箱に叩き込んだ。力を入れすぎて指の関節が白くなる。あぁそうだ、負けた。しかも中途半端じゃない、大負けだ。読みは悪くなかった、流れも見えていた、それでも結果はこれだ。
「ホッホッホ、フシグロ君。まぁそんなに怒るでない。わし達が勝ってフシグロ君が負ける。これはよくあることじゃ」
「よくあることで済ませられたら苦労しねぇんだよ」
吐き捨てるように言い返す。もう素寒貧だ。財布の中は空っぽ、ポケットを探ってもレシートしか出てこない。一方でジジイは大勝ち、シリウスもそこそこ、コーネリウスに至っては競艇初心者のくせにほぼトントン。どういう理屈だ。俺の天与呪縛は呪力がないだけで、運まで吸い取られる設定じゃねぇだろ。
「甚爾、寿司でもいこう。な?金ならある」
シリウスがわざとらしく札束を扇いで見せる。腹立つが、否定できない。腹も減ってきた。
「……いつか勝つ。必ずな。寿司いこう」
「いや切り替え早すぎじゃろう!」
笑い声に背中を押され、俺達は競艇場を後にした。そして電車を乗り継ぎ、向かった先は銀座。寿司といえばここだろ、ざぎんでしーすーだ。
店に入ると、白木のカウンターと静かな空気が出迎えた。回らない。値段も書いてない。だが今は他人の金だ、遠慮はいらねぇ。
「これが……寿司ですか」
コーネリウスが握りを見つめ、恐る恐る口に運ぶ。次の瞬間、目を見開いた。
「生魚なのに……溶ける……!」
それからは早かった。感動した勢いで日本酒を頼み、がぶ飲みを始める。顔が赤くなり、饒舌になる速度も尋常じゃない。
「日本は素晴らしい国ですな!競艇、寿司、酒!」
「全部ギャンブル絡みだがな」
俺はそう返しながら、鮪を口に放り込んだ。脂が舌に広がり、今日の負けが少しだけ遠のく気がした。
夜はまだ終わらない。そんな予感だけが、妙に確かだった。
寿司屋を出ると、銀座の夜気が肌にまとわりついた。昼間の熱を残しつつも、どこか澄んだ匂いが混じる風が通りを抜け、ネオンの光がアスファルトに滲んでいる。腹は満たされた。舌も満足している。だが、胸の奥に引っ掛かったままの敗北感だけは、どうにも片付かない。競艇場で失った金の額そのものよりも、読み切ったはずの流れを結果で否定された事実が、じわじわと神経を逆撫でしてくる。
「いやぁ、良い店じゃったのぉ」
ダンブルドアが満足げに息を吐く。指先で顎髭を撫でるその仕草が、やけに余裕たっぷりで腹立たしい。
「初めての寿司が、あれですか……」
コーネリウスはまだ少しふらつきながらも、感慨深そうに呟いた。酒が回っているくせに、目だけは妙に澄んでいる。
「贅沢の基準が一気に跳ね上がったな」
俺がそう言うと、シリウスが肩を揺らして笑った。
「だが、甚爾。今日は全部負けたわけじゃないだろ」
「何がだ」
「少なくとも、機嫌は直った」
図星だった。認めるのは癪だが、さっきまで胸を占領していた苛立ちは、鮪の脂と寿司に合う緑茶の熱でかなり薄まっている。人間、結局は胃袋が正直だ。
俺たちは駅へ向かって歩き出した。平日の夜ということもあり、通りを行き交う人々は仕事帰りの疲れを顔に滲ませている。スーツの肩、革靴の音、携帯灰皿を開く音。そういう日常の雑音が、不思議と心を落ち着かせた。
「明日はどうする?」
シリウスが聞いてきた。
「競馬場でも行くか?それとも、また競艇で雪辱戦?」
「どっちもだ」
即答した俺に、二人が同時に目を向ける。
「一回負けただけで引き下がるほど、俺は大人じゃねぇ」
言葉にすると、少しだけ胸が軽くなる。負けた事実は変わらない。だが、次にどうするかを決めた瞬間、人は前を向ける。
「ホッホッホ、それは楽しみじゃの」
ダンブルドアが愉快そうに笑った。
「フシグロ君の執念は、時に魔法よりも厄介じゃからな」
「褒めてねぇだろそれ」
駅のホームに降りると、電車を待つ人々の列に混じった。発車ベルが鳴り、風が吹き抜ける。今日一日の映像が、頭の中でゆっくりと巻き戻された。スタートの号砲、水しぶき、外れた舟券、そして寿司屋の白木のカウンター。勝ちも負けも、全部ひっくるめて俺の日常だ。
「なぁ」
電車に乗り込む直前、俺は小さく呟いた。
「次は勝つぞ」
誰に言ったわけでもない。ただ自分に言い聞かせるように。扉が閉まり、車両が動き出す。夜の東京が窓の外へ流れていく。その光景を眺めながら、俺は次の賭けのことを考え始めていた。