ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾” 作:物体Zさん
ホグワーツが始まった。あぁ遂にだ。今年は俺の体育の授業が倍々になってる。倍にしたいのは金だけなのにな、と口の中で毒づきながらも、校舎に漂う古い石の匂いと、湿った湖風を嗅ぐと身体の奥が勝手に切り替わる。殺し屋の頃の朝も、こういう始まる前の空気は嫌いじゃなかった。だが今は狙われるのが俺じゃねぇ、護るべきガキがいる。金のためとはいえ、油断した瞬間に命が消えるのは同じだ。
もうすぐ日が昇るという時間に俺は起きた。窓の外はまだ藍色で、遠くの森の端がぼんやり沈んで見える。城の中は静かで、廊下のどこかで鎧が軋む音がするだけだ。寝台から起き上がると、肩と背中の筋肉が硬いまま残っていて、昨夜の見回りの歩幅がそのまま身体に貼り付いているみたいだった。
朝起きたらまず歯を磨いて顔を洗う。冷えた床に裸足を下ろすと、石の冷たさが足裏から骨まで突き上げてきて目が冴える。歯を磨く音が部屋にやけに大きく響き、泡の苦みが舌に残る。鏡の前で顔を洗うと、頬の傷跡が水滴で光って、眠気より先に現実が戻ってくる。
蛇口を捻り水を出す。俺は魔法が使えないからな。俺の部屋は基本的にマグル仕様になってる。魔法使いどもはいちいち水瓶に杖振って水を生み出してるらしい。面倒な奴らだ。しかも、あいつらは便利に慣れすぎてて、手を動かすときの力加減を忘れがちだ。俺が授業で指を折られるまで走らせると泣き言を言うのも、その手の甘さが根っこにある。
服を整えて短いストレッチを入れる。肩甲骨を鳴らし、腰を捻り、膝の関節を確かめる。今日は1年から7年までの授業が詰まってる。時間割を見た瞬間、机を叩き割りたくなったが、叩き割ったところで給料は増えねぇ。俺の腹の中の呪霊は空腹で唸るだけだし、財布は相変わらず薄い。こないだ銀座でシリウスに奢らせたツケが、なぜか俺の心に残ってるのがムカつく。
ひと通り済ませると大広間に向かった。飯を食うためだ。廊下を歩くと、窓から入る風がローブの裾を揺らして、石壁の湿気が肌にまとわりつく。階段の踊り場でフィルチの猫が俺を見上げたが、こいつは俺の足音を覚えてるのか、喧嘩を売る目だけして逃げねぇ。俺が睨み返すと、尻尾だけ1度だけ振って暗がりに消えた。
まだガキ共は起きてない。早朝もいいとこだ。大広間は広い空洞みたいに静かで、天井の空が夜明け前の色を保ったまま揺れている。教員席の方に目をやると、早起きのスネイプが黒い影みたいに座っていて、湯気の立たない茶を飲んでいた。あいつの視線は俺を刺すが、刺したところで何も出ねぇだろ。
俺は適当な席に座り声を出した。
「和食、白飯、明太子、豆腐とわかめの味噌汁、佃煮」
そう呟くとテーブルの上にパッと料理が現れた。陶器の器が触れ合う小さな音、湯気が立ち上る匂い、米の甘い香りがいっぺんに鼻に入ってくる。魔法は嫌いだが、飯が出る魔法だけは認めてやる。スネイプが鼻で笑った気配がしたが、俺の朝飯に文句を言う権利はねぇ。
「美味そうだ」
白飯と味噌汁の湯気が食欲を唆る。まず味噌汁を飲む。塩気と出汁の旨みが喉を滑って、五臓六腑に温かみが染み込んだ。胃が目覚める感覚は、呪力がなくても分かる。俺は小さく息を吐き、明太子を箸で千切り米に乗せた。粒が潰れて赤い油が米に滲み、舌に乗せる前から辛味が想像できる。口に入れると、白飯の甘さと塩辛さがぶつかって、頭の中の苛立ちが少しだけ薄まった。
食っている間も耳は遊ばせない。扉の軋む音、遠くの階段を踏む足、羽の擦れるような音。去年は化け物みたいな偽物が潜り込んでいた。ヴォルデモートが復活した今、同じ手をもう1度やられない保証はどこにもねぇ。俺が体育を増やされたのは、生徒を鍛える名目だが、実際は護りの壁を厚くしたいだけだろう。なら俺は壁らしく働く。その代わり、金はきっちり払わせる。
「フシグロ」
スネイプが低い声で呼んだ。
「朝から飯の匂いを撒き散らすな。胃が腐る」
「お前の性格よりは腐ってねぇよ」
言い返すと、あいつの口角がほんの一瞬だけ動いた気がした。笑ったのか、歪んだだけかは知らねぇ。俺は味噌汁をもう1口飲み、箸を置く。腹が満ちると同時に、今日の重さも腹に落ちてくる。ガキ共が起きてきたら、地獄みたいな日課が始まる。俺は茶碗の底を見つめながら、次に誰の骨を折るか、頭の中で静かに並べ始めた。
天井の空が薄紫に変わり、窓の外でフクロウが鳴いた。大広間の扉がきしみ、寝ぼけた新入生の群れが足を引きずって入ってくる。俺は背筋を伸ばし、笑う練習みたいに口角を上げる。今日も生き残れ、ガキ共。俺は金のために、お前らを鍛えて守る。制服の湿った羊毛の匂いが流れ込み、朝が本当に始まった。
朝食を食べて中庭に向かった俺は、そのまま授業の準備を進めた。まだ石畳には夜露が残っていて、踏み込むたびに靴裏がわずかに滑る。空気は冷たく澄んでおり、肺に吸い込むと頭の奥が少しだけ冴える感覚があった。1発目は5年生の授業だ。時間割を見なくても身体が覚えている。ここから先は、甘さを削ぎ落とす段階に入る。
5年生にはハリー達がいる。去年よりも背が伸び、声変わりの兆しが見える生徒も混じっている。5年生ともなれば大人の仲間入り、まぁ片足は突っ込んでると言っていい。骨も筋も未完成だが、雑に扱って壊れるほど脆くはない。適切な負荷をかければ、身体は素直に応えてくる。成長を理由に手を抜くのは、ただの言い訳だ。
特にロン、アイツは最近明らかにサボり気味だ。シリウスの家で見た時もそうだった。椅子にだらしなく腰を沈め、腹だけ前に出して動かない。身体が鈍ると判断も鈍る。戦いに限らず、危険を避ける勘も狂う。ここで一発かまして、頭と身体を叩き起こしてやる必要がある。痛みは最良の教師だ。
準備を終える頃に5年生が中庭へ集まってきた。俺が何も言わずとも、自然と整列が始まる。誰かが指示を出すわけでもなく、俺の立ち位置を基準に列が整っていく。この辺りは去年仕込んだ成果だ。規律は恐怖と理解の両輪で回る。
「全員いるな」
俺は列をゆっくりと見渡した。グリフィンドール、スリザリン、ハッフルパフ、レイヴンクロー。家は関係ねぇ。ここでは全員同じ条件だ。ハリーは前を見据え、ネビルは少し肩に力が入りすぎている。ロンはまだ眠そうな目をしている。いい、後で叩き起こす。
「お前らは5年生になった。闇防も今学期は無くなったというし……今学期は厳しくいくぞ」
俺の声が中庭に落ちると、空気が一段重くなる。
「はい!!!!」
返事は揃っているが、腹の据わり方はまちまちだ。俺は一瞬でそれを見分ける。
「よし、じゃあまずは動的ストレッチからだ。やれ」
指示と同時に身体を動かし始める生徒達。腕を回し、肩甲骨を動かし、股関節を開く。ぎこちない動きの奴も多いが、黙って見ている。自分の身体の硬さを自覚するところから始めさせるためだ。筋が伸びる感覚に顔を歪める者、余裕ぶって適当に流す者、それぞれだ。
「ロン、動きが小せぇ」
名を呼ぶと、ロンはビクッと肩を跳ねさせ、慌てて可動域を広げる。だがバランスが崩れている。体幹が弱い証拠だ。
「無理に速くやるな。雑にやれば怪我する。だが手は抜くな」
俺は歩きながら一人一人の動きを確認していく。足首、膝、腰、背中、首。どこが硬いか、どこが弱いかは一目で分かる。ネビルは相変わらず下半身が安定している。ハリーは全体的にバランスがいいが、右肩が少し硬い。後で重点的に使わせる。
ストレッチだけで既に額に汗が滲み始めている生徒もいる。だがまだ序盤だ。ここから先が本番になる。
「いいか、今日は身体を起こすだけじゃ終わらせねぇ。この後は走る。筋肉も肺も、全部使え」
列の中に小さな呻き声が混じる。だが俺は構わず続ける。
「動ける身体を作るのが目的だ。魔法が使えなくなった時、最後に頼れるのは自分の肉体だ。忘れるな」
そう言い切って、俺は再び腕を組んだ。中庭に朝日が差し込み始め、影がゆっくりと動いていく。5年生の地獄は、まだ始まったばかりだ。
「よーし、お疲れ。じゃあ次は走り込みだ。今から俺に一撃でも入れられたやつは魔力の肉体強化を許可する。じゃあ、はじめ」
そう告げた瞬間、整列していたガキ共の空気が一変した。疲労で重くなっていたはずの脚に、目的という名の火が灯る。走り込みという言葉を聞いた時点で顔を歪めていた連中も、俺に一撃入れればという条件を聞いた途端、目の色が変わった。魔力による肉体強化は、この年頃の魔法使いにとって喉から手が出るほど欲しい代物だ。身体能力が跳ね上がる感覚を一度味わえば、もう元には戻れねぇ。
最初に踏み込んできたのはネビルだった。やはりというか、期待を裏切らない。鍛え上げられた脚が地面を蹴り、石畳が鈍い音を立ててひび割れる。踏み込みの瞬間に生じた衝撃が空気を震わせ、ネビルの体躯が一気に間合いを詰めてきた。筋肉の連動が綺麗だ。無駄が少なく、恐怖よりも覚悟が前に出ている。
「フッ!!」
ネビルの右腕が唸りを上げて振り抜かれる。肩から肘、拳へと力が流れるのが見て取れた。だが、真っ直ぐすぎる。俺は半身をずらし、拳が頬を掠める風圧だけを受け流す。そのまま重心が前に出た胴体へ、腰を回転させて拳を叩き込んだ。
鈍い音と共に、ネビルの息が詰まる。拳が腹筋を貫通し、内臓を揺らす感触が拳に伝わってきた。だが、ネビルは崩れなかった。歯を食いしばり、踏ん張っている。
「悪くねぇ」
俺がそう言った瞬間、ネビルの目が一瞬だけ輝いた。その隙を逃さず、俺は足を払う。重心を失った身体が宙を舞い、背中から地面に叩きつけられる。衝撃で息を吐き切り、それでもネビルはすぐに起き上がろうとした。
次に飛び込んできたのはハリーだ。ネビルとは違い、スピード重視。軽い足運びで左右に揺さぶりをかけ、死角を作ろうとする。判断は悪くないが、焦りが見える。俺は一歩も動かず、ハリーの呼吸を読む。吸って、吐く、そのリズムが僅かに乱れた瞬間、俺は前に出た。
ハリーの肩に掌底を当て、力を殺さずそのまま流す。身体が回転し、勢いのまま地面に転がる。痛みよりも悔しさが先に来た顔だ。
「立て。まだ終わりじゃねぇ」
周囲ではロンが突っ込むタイミングを見計らい、他の生徒達も距離を詰めてくる。恐怖はある。だが、それ以上に負けたくないという感情が勝っている。汗と土の匂い、荒い呼吸、靴底が擦れる音が中庭に満ちる。
「まとめて来い。遠慮はいらねぇ」
俺がそう言うと、一斉に動き出した。拳、蹴り、体当たり。未熟だが、必死だ。俺はそれを一つ一つ捌き、叩き落とし、時には受け止めて弾き返す。骨と骨がぶつかる感触、肉が揺れる感覚、空気が裂ける音。これは授業だ。だが、同時に戦いでもある。
息を切らし、地面に膝をつく生徒達を見下ろしながら、俺は腕を組んだ。誰も一撃は入れられていない。だが、確実に変わり始めている。
「いいか。今のはまだ入口だ。本気で欲しけりゃ、もっと食らいつけ」
そう言い放ち、俺は次の指示を出す準備をした。地獄は、まだ続く。
そんなこんなで、結局俺に一撃を入れられたのはハリー、ネビル、ドラコ、それから数名が辛うじて、というところだった。拳が掠めた程度の者も含めればもう少し増えるが、条件は条件だ。俺が「入った」と認めたのはその面子だけだ。
「走り込みだ。中庭を15周しろ。周回遅れした場合は……まぁ言わないでも分かるよな」
言葉の最後を濁しただけで、ガキ共の背筋が揃って伸びた。これまでの授業で、周回遅れの意味を嫌というほど叩き込んできたからな。
「はい!!!」
一斉に走り出す。魔力の肉体強化を許可された者達は、空気の抵抗が減ったかのように軽やかに前へ出る。脚が地面を蹴る音も軽く、呼吸も安定している。一方、許可されなかった者達は無理に速度を上げず、呼吸と歩幅を計算しながら走っている。それでも周回遅れだけは避けようと、必死に先頭集団へ喰らい付いていた。
集団が最初の直線に差し掛かった頃、耳に馴染んだ声が響く。
「ロンッ!遅れるぞ!」
ハリーだ。振り返りもせずに声だけを飛ばす。あいつなりに周囲を見る余裕が出てきている証拠だ。
呼ばれたロンは一瞬顔を歪めたが、歯を食いしばり速度を上げた。最近サボり気味だったのは事実だが、基礎は腐っていない。魔力の肉体強化もしていないのに、脚の運びはまだ力強く、呼吸も破綻していない。
「……一度死んだことがあるってのは、そこまで変わるか」
俺は腕を組み、走る姿を眺めながら呟いた。
ロンは2年生の時、ポリジュース薬で俺に変身した。その際、
死を経験した人間は変わる。だが、ロンの場合はそれだけじゃない。俺という呪術に属する存在に深く触れ、魔力とは別系統の理を、魂の芯で一度理解してしまった。
魔力と呪力は似て非なるものだが、根源は同じだ。世界をどう認識し、どう干渉するか。その核心にロンは触れてしまった。だからこそ、限界を越えた先で踏ん張れる。無意識下で、自分の肉体を「使い切る」感覚を知っている。
周回を重ねるごとに、隊列は縦に伸びていく。魔力強化組が先頭を引っ張り、次の集団が必死に追う。息が荒くなり、汗が飛び、脚が重くなる。それでも誰一人、立ち止まらない。
「いい顔してるじゃねぇか」
俺は小さく笑った。
苦しいだろう。だが、ここで逃げなきゃ、確実に強くなる。闇防が消えた今期、こいつらを守れるのは、最終的には自分の身体だけだ。その事実を、骨の髄まで叩き込む。
最後尾で必死に走るロンの背中を見ながら、俺は次の追い込みメニューを頭の中で組み立て始めていた。まだ甘い。だが、だからこそ伸び代がある。
授業はまだ半分も終わっちゃいない。
そうして走り込みが終わり、再び俺の前にガキ共が整列した。誰一人として周回遅れはいない。息は荒く、額から汗が滴り、太腿が小刻みに震えている奴もいるが、それでも全員が自分の足で立っている。誰も膝に手をついて崩れ落ちてはいない。その事実だけで、こいつらがここまで積み重ねてきた時間の重さが分かる。
正直、1年時の今頃と比べりゃ別物だ。逃げ癖がついていた奴も、痛みを恐れて手を抜いていた奴も、今は歯を食いしばって前を向いている。鍛えれば変わる。変われる。その当たり前の事実を、ようやく自分の身体で理解し始めている顔だ。
「お疲れさん。ほら、水分補給しろ」
俺は足元に用意してあったカゴを前に出した。木製の簡素なカゴの中には、透明なボトルがぎっしり詰め込まれている。ガキ共は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに察して一斉に前へ出た。
中身はBCAA。必須アミノ酸だ。運動中のパフォーマンス維持、疲労軽減、筋肉の回復促進、筋分解の抑制。ガキ共にとっては魔法薬よりよっぽど即効性のある代物だ。屋敷しもべ妖精に頼んで、余計な香料や刺激物を抜いた仕様にしてある。味は薄いが、効き目は確かだ。
ボトルを開ける音が連続して響き、喉を鳴らして飲み干す音が中庭に広がる。魔法使いだろうが何だろうが、肉体は肉体だ。こういう基本を疎かにすると、どこかで必ずツケを払うことになる。
「それ飲んで10分後に2人1組を作れ。次は組手だ。組み手は両者とも魔力の肉体強化を許可する」
「はい!!!」
返事は揃っている。声に芯がある。ガキ共はそれぞれボトルを飲み切り、地面に座り込んだり、軽く脚を伸ばしたりしながら呼吸を整え始めた。中には既に相手を探す視線を飛ばしている奴もいる。いい兆候だ。
魔力の肉体強化は便利だが、万能じゃない。感覚が鋭くなる分、痛みも衝撃も誤魔化せなくなる。だからこそ、組み手で使わせる意味がある。逃げ場のない距離で、真正面からぶつかり合う。その中で、自分の弱点も、相手の強さも、嫌というほど理解する。
ネビルは黙って拳を握り、何度も開閉している。ハリーは深呼吸を繰り返し、視線を落とさずに前を見ている。ロンはまだ脚の震えが残っているが、ボトルを握る手に力が戻ってきている。ドラコは表情を崩さず、周囲を観察しているが、呼吸のリズムは完全に戦闘前のそれだ。
「……悪くねぇ」
俺は小さく呟いた。
この後、確実に何人かは倒れる。鼻血も出るだろうし、転んで泥だらけにもなる。それでもいい。安全な場所で、管理された状況で、限界を越える経験を積ませる。それが今の俺の仕事だ。
時計を確認し、10分経過を告げるために一歩前へ出た。ここから先は、理屈じゃない。身体で覚えさせる時間だ。
10分の休憩を終えた後、生徒達は自然と立ち上がり、それぞれ組み手の相手を探し始めた。誰かに指示されたわけでもない。汗で湿ったローブを脱ぎ捨て、靴底で地面の感触を確かめ、呼吸を整えながら周囲を見渡す。その空気はすでに遊戯ではなく、鍛錬の域に入っていた。
ハリーは迷わずネビルの前に立った。互いに軽く頷くだけで、言葉はない。ハーマイオニーは少し緊張した面持ちでエロイーズと向き合い、拳を握り直す。その一方で、ロンはまっすぐにスリザリンの集団へ歩み寄り、中央に立つドラコの前で足を止めた。
「ドラコ!俺と組み手やろうぜ!」
燃えるような赤毛をオールバックに撫で付けたロンが、低く腹から声を出して告げた。その体躯はここ数年の鍛錬で大きく変わっている。肩幅は広く、胸板は厚く、腕と脚には無駄のない筋肉が浮き上がっていた。15歳という年齢を知っていなければ、歴戦の兵士と見間違えてもおかしくない。
ドラコは一瞬だけ取り巻きの方を見やり、すぐにロンへ向き直った。
「いいだろう。どっちが“純血”として優れているか……ここで決めてやる」
吐き捨てるような言葉とは裏腹に、ドラコの目は冷静だった。伏黒甚爾の授業を受け続けたことで、血の価値や選民思想が実戦では何の意味も持たないことは理解している。それでも、ウィーズリー家だけは別だった。同じ聖28一族。その意地だけは、どうしても譲れなかった。
「始めろ」
伏黒甚爾の低い声が中庭に響いた。
次の瞬間だった。
「フッ!!」
「ハッ!!」
2人は同時に踏み込んだ。石畳が軋み、靴底の下で細かな罅が走る。魔力による肉体強化が一気に解放され、視界に残像を残しながら距離が詰まる。
ロンは右拳を一直線に突き出した。体重を乗せた正拳だ。対するドラコは半身に構え、前腕でそれを受け止める。拳と腕が衝突した瞬間、鈍い衝撃音と共に空気が弾け、衝撃波が草を揺らした。
ロンはすぐに踏み込みを止めず、左脚で地面を蹴り上げ、体を回転させながら肘を打ち込む。ドラコはそれを紙一重で避け、肩で受け流しながら距離を詰め、膝を叩き込もうとする。だがロンは腰を落とし、腹筋で衝撃を殺して耐えた。
他の生徒達も同様だった。ハリーとネビルは真正面から拳を交え、ハーマイオニーとエロイーズは動きの速さで互いを牽制し合う。中庭のあちこちで、衝撃音と息遣いが交錯し、草と土が舞い上がる。
伏黒甚爾は腕を組み、その全てを無言で見下ろしていた。誰が強いかではない。誰が折れずに立ち続けるか。それだけを、彼は見ていた。
「オラァッ!!!」
「くっ!!!」
獣じみた咆哮と共に、ロンは魔力を拳へ一点集中させ、全身の連動を殺さぬまま踏み込み、腰、背中、肩、腕へと力を通して振り抜いた。その過程で練り上げられた魔力は血流に溶け込み、筋繊維一本一本へ染み渡り、肉体そのものを異物のように強化する。
振り抜かれた拳は、ドラコが咄嗟に交差させた両腕に阻まれた。だが、そこで終わらなかった。
衝突点、その空間そのものに、音もなく透明な罅が走った。
魔閃。
呪術における黒閃と同質の現象だ。打撃と魔力の完全同調、誤差0.000001秒以内で干渉が成立した瞬間、空間が悲鳴を上げるように歪み、不可視の稲妻が走る。ロンの拳から放たれたそれは黒くも眩くもない、ただ無色透明の破壊だった。
「ぐあっ―――!!!」
防御は成立していた。理屈の上では。だが威力は常識の枠を踏み潰し、ドラコの前腕を骨ごとへし折り、その身体を地面から引き剥がして吹き飛ばした。石畳に叩き付けられた音が、中庭全体に鈍く反響する。
「うわ、やべ!」
「ロン!そこまでだ」
即座に伏黒甚爾の声が割り込む。制止は一瞬遅れていれば致命になっていた距離だった。
「治癒魔法を使える奴はドラコにかけろ。その後、クラッブとゴイル、医務室に運べ」
「うす!」
「分かった!」
生徒達が一斉に動く。治癒呪文の光が折れた腕を包み、苦悶に歪むドラコの呼吸が徐々に整っていく。クラッブとゴイルが身体を抱え上げ、足早に城へ向かった。
伏黒甚爾は視線を残った生徒達へ向けた。
「今のを見てたやつはいるか」
「はい、見てました」
手を挙げたのはハーマイオニーだった。すでに組み手を終え、息を整えていた最中だ。
「今のが何か分かるか」
「分かりません」
即答だった。
「そうか。……おい、ハリー」
「え?僕ですか」
名を呼ばれたハリーが顔を上げる。
「今のロンの一撃、お前がクラムに叩き込んだものと同じだ。魔閃だ」
「魔閃……?」
場が静まり返る。ハリーの背筋が無意識に伸びた。
「ロン」
伏黒甚爾が視線を向ける。
「どうだ。今、身体の奥から何か湧いてこねぇか」
ロンは拳を見つめ、ゆっくりと握り締めた。震えはない。ただ、確かな熱と、底の見えない感覚が胸の奥で渦を巻いていた。
ドラコが運ばれていった方向へ、生徒達の視線が吸い寄せられていた。折れた骨が治癒呪文の光に包まれる瞬間に立ち上った焼けた血の匂いと、石畳に残った擦過の跡が、さっきまでの授業の温度を一気に現実へ引き戻す。風が吹くたび、汗と草の青い匂いと、焦げた魔力の残り香が混ざって鼻の奥に残った。
伏黒甚爾は中庭の真ん中に立ったまま、ざわめきを視線だけで黙らせると、ロンの拳からまだ抜けきらない熱を見抜いた。赤毛の少年は息を荒くし、肩の上下に合わせて胸郭が鳴るように震えているのに、目だけは妙に冴えていて、今にも次の一撃を探しにいきそうだった。ネビルは自分の拳を握り直し、ハリーは何かを確かめるように掌の感覚を探っていた。
「いいか」
甚爾が言葉を続ける。
「魔閃ってのは俺が付けた名前だ。実際はどういう名前か誰も知らねぇ。ただ俺がいた日本の呪術界にはこれと同じような現象がある。それが黒閃だ。打撃との誤差0.000001秒以内に呪力が衝突した瞬間、空間がきしむように歪み、黒く光った呪力が稲妻みてぇに奔る。そいつはただの会心の一撃なんて生温いもんじゃなくて、平均で通常の2.5乗っていう暴力じみた威力を生む。今回のは魔力版だ。色がないから目に見えねぇだけで、空間が割れたのは事実だ」
「ロンが今それをしたってことですか?ドラコに?」
ハーマイオニーがロンを見ながら言った。さっきまでの知的な冷静さが、声の端で小さく揺れている。
「そうだ。勘違いすんなよ、褒め言葉だけじゃねぇ。これは狙って起こせる現象じゃないし、起きた瞬間は本人も制御が利かねぇ。剣を振ったつもりが壁まで斬れてる、そういう手合いだ。俺はそもそも無理だ、呪力も魔力もゼロだからな。だから自慢できる立場でもねぇし、2度と調子に乗って人に試すな。試したいなら藁束でも殴れ、石柱でも蹴れ。生徒に当てたら次は骨じゃ済まねぇ」
ロンの喉が鳴った。悔しさと誇らしさが同じ場所で渦を巻き、歯を食いしばる音が聞こえるほどだ。拳の皮膚がじわりと熱く、手のひらの汗が冷えていく。
「それに俺が魔閃そのものを知ったのは、ハリーが対抗試合で起こしたからだ。それまで魔法界に黒閃と同等の現象があるとは知らなかった。だから今のは、俺にとっても見世物じゃねぇ。危険物の発火だ。発火ってのは1回目が一番派手で、2回目からは手癖で雑になる。雑になった瞬間に、人を殺す」
「俺のこの感じは……?」
ロンが身体を動かしながら言った。腕を振るたびに、筋肉の内側が軽く弾むように反応し、関節の可動域が広がった錯覚がある。呼吸が浅いのに酸素が足りている、心臓が速いのに疲労が追いつかない、怖いくらいの調子の良さだ。足裏の石畳の粒まで分かる気がして、逆に気持ちが悪い。
「黒閃を起こした奴は呪力の核心を掴む。簡単に言えばゾーンに入る。見えるもんが増える、反応が早くなる、力の通し方が勝手に最適化される。だが、その分だけ歯止めも薄くなる。今のお前は、銃を初めて握ったガキと同じだ。撃てるって分かった瞬間に、撃ちたくなる。だから俺が止める」
「通りであの時調子が良かったんだ」
ハリーが思い出すように言った。握り拳を見つめる瞳の奥に、対抗試合で感じた手応えが蘇っている。ネビルが小さく頷き、エロイーズは顔を青くしながらも目を逸らさなかった。
「お前ら全員、勘違いすんな。強くなるってのは便利になることじゃねぇ。壊せる範囲が広がるだけだ。さっきの透明な罅は、腕じゃなくて首に入ってたらどうなってた。想像してみろ、血の温度と骨の音までだ。自分の一撃で誰かが崩れる感触を覚えたら、次はそれを忘れられなくなる。その時点で負けだ」
言い終えた甚爾は、ロンの額を指先で弾いた。軽い一撃なのにロンの頭が後ろへ跳ね、周囲から笑いが漏れる。張り詰めた空気が少しだけ緩み、同時に生徒達の目の色が訓練へ戻った。ロンは不満そうに口を尖らせたが、涙目で「いてぇ」と呟いたせいで、余計に笑いが広がった。
「授業はここまでだ。医務室に行きたい奴は許可する。残りは走ってシャワー浴びろ、晩飯までに息を整えろ。ロン、お前は今夜は余計な腕立て禁止。興奮して寝れねぇなら廊下を静かに歩け。解散」
生徒達が散っていく中、甚爾は石畳の罅を靴底で擦り、残った違和感を舌の裏で転がした。魔力と呪力の境目が薄い場所に、あの透明の稲妻が生まれたのだとしたら、次に必要になるのは威力じゃない。誰を守るために刃を向け、誰を殴らずに済ませるか、その選別だ。彼は笛を短く鳴らし、授業の終わりを確定させた。