ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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第十二話

 

 

 

 

 1995年10月某日。

 

 5年生は魔法薬学の授業を迎えていた。地下の教室は石壁が冷え、煤と薬草の匂いが混ざって鼻の奥に貼りつく。窓は細く、外の光は水底みたいに薄い。机に並ぶ真鍮の天秤と乳鉢は磨かれてはいるが、使い込まれた傷が残り、薬液の染みが消え切らずに黒ずんでいる。

 

 担当はセブルス・スネイプ。若干スリザリンに贔屓目ではあるが、他寮でも“優秀”なら容赦なく評価し、駄目なら同じ速度で切り捨てる。皮肉が多く陰湿で冷酷、しかし鍋の泡の色ひとつで嘘を見抜く目を持ち、なぜか一部の生徒はその苛烈さに惹かれていた。

 

 「では今回は元気爆発薬を調合してもらう。これがどんな魔法薬か説明できるものはいるか?」

 

 「はい!!!!」

 

 ほぼ全員の手が一斉に上がった。例外はロン・ウィーズリーで、彼だけが半拍遅れて腕を伸ばし、指先が揺れてからようやく天井を指した。

 

 「では1番遅かったロン・ウィーズリー」

 

 「えっ俺かよ!」

 

 「なにか?」

 

 スネイプの視線が突き刺さる。ロンは喉を鳴らし、頭の中の棚をひっくり返すみたいに記憶を探った。伏黒甚爾の授業で鍛えられた体は強くなったのに、こういう瞬間の脳みそは相変わらず熱に弱い。

 

 「俺これ飲んだことあります。母ちゃんが作ってくれたんです。元気爆発薬は風邪薬で、飲むと体温が上がって耳から煙が出ます」

 

 「知識の出所が幼稚で拙い……が、その通りだ。材料は?」

 

 「あー分かりませーん!」

 

 「グリフィンドール5点減点」

 

 スネイプは容赦なく言い放った。ロンは減点の速さに目を丸くし、周りの空気は遠慮なく彼を切り刻む。

 

 「マジかよ!!!」

 

 「ねぇロン!最低!」

 

 「やったなロン」

 

 「馬鹿だなウィーズリー」

 

 顔を赤くしたロンは唇を噛み、反射で拳を握りかけたが、机の上の薬瓶を見て思い直して手を離した。ここで暴れれば点数だけで済まないのは分かる。スネイプは楽しげに鼻で笑い、黒板の前を滑るように歩いた。

 

 「材料が分かる者は?」

 

 「はい!」

 

 また手が上がる。ロンの腕は上がらない。上げたところで刺さるのは視線だけだと悟ったらしい。

 

 「ハーマイオニー・グレンジャー、答えろ」

 

 「元気爆発薬は二角獣の角とマンドレイクの根を使用して作る魔法薬です」

 

 「うむ、よろしい。では調合を始めろ。教科書の手順を読み、失敗した者は自分の鍋を舐めて確認でもするがいい」

 

 教室に小さな悲鳴が散り、杓子が鍋を叩く音、薬草を刻む包丁の乾いたリズムが重なった。生徒たちは教科書をぱらぱら捲り工程を追うが、手は必ずしも紙の指示だけに従わない。伏黒甚爾の授業で禁じられた森へ放り出され、植物の匂いで鮮度を見分け、根の繊維の向きで火の通りを変え、動物性素材の脂が泡立ちを左右するのを体で覚えたせいで、彼らは材料を“使う”前に“読む”ようになっていた。

 

 ネビルは角を削る刃の当て方を一定に保ち、粉の粒度を揃えてから鍋へ落とす。ハリーは根を薄く裂き、湯気の立ち方で投入の間合いを計る。ロンでさえ、刻み終えたマンドレイクを掌で軽く叩き、余計な水分を飛ばしてから入れた。スリザリンの数名はそれを盗み見て悔しそうに眉を動かす。

 

 スネイプは腕を組み、生徒の鍋を無言で巡った。泡の色、匂い、粘度。どれも教科書の“正解”に近いのに、工程が微妙に違う。彼は内心で舌打ちしつつ、その差が失敗ではなく合理に繋がっていることも理解していた。

 

 (面白い着眼点だ)

 

 だがスネイプがロンのいる机を見たところで何かに気づいた。

 

 「止めろ」

 

 スネイプの一言で、教室の音が引き締まった。音の出所は後方だ。鍋の縁から泡が膨れ上がり、ぱちん、と指を弾くように破裂して黒い飛沫を撒く。飛沫が石床に落ちた瞬間、じゅ、と焼け、酸っぱい煙が立った。

 

 「誰の鍋だ」

 

 名指ししない声が逆に怖い。視線が一点へ集まり、ロンは自分の鍋を覗き込んで背筋を冷やした。泡の色は規定の明るい橙から、底だけが薄く濁り、墨が水に落ちたように筋を引いている。

 

 スネイプが近づき、鼻を寄せて匂いを嗅いだ。眉がわずかに動く。魔力の匂いではない。焦げと鉄と、鬱陶しい湿り気。杖を鍋の上にかざしかけ、呪文を唱える前に手を止めた。

 

 「……グレンジャー。これは何が混ざった」

 

 「分かりません、先生。材料は規定通りです。けれど底に沈むのが早い……性質が変わっている気がします」

 

 スネイプは無言でロンを見た。ロンは反射で背筋を伸ばしたが、喉が乾いて唾が飲み込めない。

 

 「全員、手を止めろ。鍋から離れろ」

 

 命令が落ちた瞬間、黒い泡がもう一度だけ弾け、教室の空気が一段重くなった。

 

 「この鍋は言わずもがなロン・ウィーズリーの使用していた鍋だ」

 

 スネイプが鍋を杖でつつきながら言った。黒い粘液が縁を這い、泡がふくれたと思った瞬間、喉の奥を鳴らすような低い破裂音がして、煤色の飛沫が宙へ跳ねる。飛沫は机の脚に触れた途端に酸っぱい煙を上げ、石床に落ちた分はじゅ、と湿った焼け跡を残した。教室中の鼻孔に鉄と腐った草の匂いが刺さり、誰もが反射で一歩引く。

 

 「何故このようになったか説明できる者は?」

 

 スネイプの声は冷たく、黒板の前の空気だけがさらに重くなる。ロンの鍋はもはや何を調薬していたのか分からない。元気爆発薬のはずの橙は影もなく、グツグツと黒い泡が煮え、泡が割れるたびにゴポッと濁った音がした。鍋底から上がる蒸気は薄い膜になって目にまとわり、吸い込むと喉がひりつく。

 

 「ウィーズリーのように肉体だけを鍛えているばかりで、頭の方はまるで成長していないのはこの鍋を見れば一目瞭然だろう」

 

 「くぅ〜!シンプルな悪口!」

 

 ロンが頭を抱え天井を仰ぐ。赤毛の額に汗が滲み、唇が乾いて白くなっていた。周囲は笑いかけて、泡が跳ねた音で喉の奥が凍り、笑いが途中で引っ込む。

 

 「伏黒の授業によって大多数の生徒が成長している中、ウィーズリーだけがこの体たらく……グリフィンドール5点減点だ」

 

 「やったなロン」

 

 「ロン!もうフェリックスフェリシス作るしかねぇ!」

 

 「いや絶対無理だろぉ!」

 

 悪ふざけの声が飛ぶが、スネイプは眉ひとつ動かさない。杖先が鍋の縁をなぞると、黒い泡が一瞬だけ引き攣った。魔法薬が“反応した”というより、別の何かが不快そうに身をよじったように見え、ハーマイオニーは思わず背筋を伸ばす。ハリーも椅子の背に手を置き、視線だけでロンの鍋を追った。ネビルは自分の鍋を庇うように腕を広げている。

 

 「静かにしろ。今、貴様たちの鍋が無事なのは、私が命じた通り鍋から離れているからだ。ふざけて近づけば、次は鼻だけでは済まん」

 

 スネイプが低く言い切った瞬間、黒い泡が大きく膨らみ、表面に薄い亀裂が走った。透明なひびが水面ではなく空間に入ったみたいに揺れ、教室の壁際の燭台の火が横に倒れる。生徒たちの肩が一斉に跳ね、誰かが息を飲む音がやけに大きく響いた。

 

 「先生、呪いですか?」

 

 ハーマイオニーが震えを隠そうとして声を張る。スネイプは答えず、杖を床に突き立てるようにして円を描いた。黒い液が鍋から溢れかけたが、見えない膜に押し返され、鍋の中へ落ちる。膜に触れた蒸気が白く弾け、焦げた匂いが少し薄まった。

 

 「貴様の鍋だ、ウィーズリー。材料を言え。教科書通りに、どの順で、どの量を入れた」

 

 「え、えっと……角を削って、根を刻んで、温度を上げて……」

 

 ロンは言いながら、自分でも怪しいと思ったのか目を泳がせた。ハリーが口を開きかけ、ロンの視線がそれを遮る。助けられるのが悔しいのか、恐いのか、どちらか分からない顔だ。

 

 「刻む前に、何をした」

 

 スネイプの問いは刃物の角度みたいに正確だった。ロンは喉を鳴らし、拳を開いて閉じ、硬い掌に爪を食い込ませる。

 

 「……水分、飛ばしました。伏黒先生が、森で腐りやすい根は湿り気を抜けって」

 

 「それだけか」

 

 「それだけ……のはず、です」

 

 鍋の泡が、言葉に合わせてゴポッと大きく鳴った。まるで嘘を笑ったみたいに。スネイプは一瞬だけ目を細め、鍋の縁に付着した黒い筋を杖先で掬い取る。筋は糸のように伸び、途中でぷつりと切れて落ち、床に触れる前に灰になった。

 

 「魔力の匂いではない。だが魔法薬学の教室で生まれていい匂いでもない」

 

 スネイプはそう言い、視線を教室の扉へ向けた。誰もいないはずの廊下が、急に近く感じる。ハリーは胸の奥がざわつき、傷跡が熱を持つ気がした。ロンも同じ感覚を掴んだのか、無意識に額へ手をやり、指が震えた。

 

 「グレンジャー、鍋の蓋を取るな。ポッター、ウィーズリーを押さえろ。ネビル・ロングボトム、換気の呪文を、今すぐだ。失敗したら減点では済まさん」

 

 指示が飛ぶと同時に、黒い泡がまた膨らむ。粘液の表面が不自然に滑り、鍋の内側から何かが“外”を覗こうとしているように見えた。教室の空気が冷え、誰の唾も飲み込めなくなる。

 

 スネイプは容赦なく自分の外套の裾を持ち上げ、飛沫が付かない距離を測った。冷静さの裏で、指先だけが僅かに強く杖を握り込んでいる。彼は低く呟く。

 

 「伏黒を呼べ。今すぐだ。貴様たちが好んで鍛えた“力”が、魔法薬に混ざり込んだ可能性がある」

 

 「え、俺のせい!?」

 

 ロンの叫びに鍋が答えるように泡を弾けさせ、黒い蒸気が膜の内側で渦を巻いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「まったくやってらんねぇよ、マジで」

 

 俺は職員室の自分の机に腰掛け、広げた体育のノートを睨みつけながら吐き捨てた。授業回数は倍、内容はより過酷に、安全管理は徹底しろ、だが給料はほんの少し増えただけ。命のやり取りが日常だった頃なら、こんな条件は鼻で笑って切り捨てている。だが今は教師だ。立場も縛りも増えた。金が増えないのだけは、どう考えても納得がいかねぇ。

 

 「先生〜!」

 

 間の抜けた声が耳に突き刺さる。

 

 嫌な予感しかしねぇ。

 

 俺はゆっくり顔を上げ、職員室の入り口を見る。予想通り、ロンが立っていた。妙に愛想のいい笑顔で手を振っているが、その裏にろくでもない事が隠れているのは長い付き合いで分かる。体は鍛え上がってきたが、トラブルを引き寄せる性質まで鍛える必要はねぇ。

 

 「先生、あの……ちょっと来て欲しいんですけど」

 

 「なんで」

 

 短く返すと、ロンは一瞬だけ視線を泳がせた。

 

 「スネイプ先生が呼んでます」

 

 その名前を聞いた瞬間、胸の奥で溜息が形になる。

 

 「スネイプが?魔法薬学で何かやらかしたか?」

 

 「いやぁ……」

 

 完全にクロだ。

 

 調合ミス、爆発、異臭、最悪の場合は生物系の事故。スネイプが俺を呼ぶ時は、いつも“自分の手を汚さずに済ませたい案件”だ。俺はノートを閉じ、椅子を蹴って立ち上がった。

 

 「はぁ……分かったよ」

 

 廊下を歩くにつれ、鼻の奥にざらついた感覚が残る。魔法薬特有の匂いじゃない。腐った感情が焦げたような、呪術界では嗅ぎ慣れた臭いだ。嫌な予感が確信に変わる。

 

 魔法薬学の教室に入った瞬間、空気が沈んだ。スネイプが腕を組み、五年生の生徒達が一斉にこちらを見る。教室中央の鍋から、黒い泡が不規則に弾け、粘ついた音を立てている。

 

 嫌な見た目だ。

 

 「お呼びかな、スネイプ先生」

 

 俺が声をかけると、スネイプは苦虫を噛み潰したような顔で近づいてきた。

 

 「フシグロが熱心に育てた赤毛脳筋ウィーズリーがやらかした。お前が責任を取るがいい」

 

 「は?なんでだよ」

 

 促されるまま鍋に近づき、蓋を少し持ち上げた瞬間、刺激臭と腐乱臭が一気に吹き出した。黒い粘液が煮え、泡の一つ一つに歪んだ輪郭がある。魔力じゃない。負の感情が絡み合った、生々しい呪力の塊だ。

 

 「……これは」

 

 嫌なもん作りやがったな。

 

 「呪力を感じるぞ、ロン。お前何やった。何か混ぜたか?」

 

 「教科書通りやったんすけどねぇ」

 

 「嘘つくな」

 

 顔を近づけ、匂いを嗅ぎ分ける。刺激臭、腐敗臭、そして呪力を込めた時に生じる独特の残滓。いや残穢か。

 

 「力んだな」

 

 ロンの肩が僅かに跳ねた。

 

 「……ちょっとだけです。元気爆発薬だし、元気になりそうかなって」

 

 スネイプが鼻で笑う。

 

 「考えずに力を使う。実にグリフィンドールらしい」

 

 その瞬間、鍋の中身が内側から叩き、鈍い衝撃が伝わった。生徒達が一斉に後退する。

 

 面倒くせぇ。

 

 俺は即座に蓋を閉め、両腕で鍋を抱えた。ずしりと重く、内側から脈打つような振動が伝わる。放置すれば事故る。確実に。

 

 「吾輩では処理できんのでな」

 

 スネイプが愉快そうに言う。

 

 「フシグロにお願いしたい」

 

 「できるくせに」

 

 俺は吐き捨て、鍋を抱え直した。

 

 「コレは俺が預かっとくわ」

 

 最後にロンを見る。

 

 「次から気をつけろ。拳は人に向けるもんだ。鍋に向けるな」

 

 「え?……はい」

 

 教室を出ると、背中に視線が突き刺さるのを感じた。腕の中で鍋が微かに震える。

 

 嫌な仕事が、また一つ増えた気がした。

 

 俺は鍋を抱えたまま自室に戻った。廊下ですれ違う肖像画どもが妙に静かだったのは、腕の中で蠢くそれの気配を感じ取ったからだろう。ジジイに見せるのは後でいい。今は俺が直接確かめる。

 

 机の上に鍋を置き、ゆっくりと息を整える。蓋に手を掛けた瞬間、内側から微かな振動が伝わった。生き物みたいだな、と一瞬思う。だが違う。これは感情だ。人の負の感情が沈殿して、たまたま形を成しているだけの、出来損ないの塊。

 

 蓋を開ける。

 

 ゴポッ。

 

 黒い泡が破裂し、粘ついた飛沫が頬に跳ねた。

 

 熱い。

 

 いや、灼けるような痛みだ。皮膚の表面がピリつき、奥まで痺れが走る。反射的に顔を背けるが、視界の端で鍋の中身がゆっくりと脈打つのが見えた。泡一つ一つに、歪んだ“輪郭”がある。魔力じゃない。完全に呪力だ。

 

 「……へぇ」

 

 思わず声が漏れる。

 

 面白い。

 

 頬を拭い、指先で付着物を確かめる。指に残る感触は重く、粘り気があり、ほんのりと冷たい。天与呪縛で呪力に耐性がなければ、皮膚が溶けていたかもしれない。下手をすれば骨まで侵されていた。

 

 「ロンの野郎……」

 

 あいつ、無自覚だ。だが確かに“引っかけた”。魔力の肉体強化を使った状態で、鍋に感情を乗せた。あの一件の後だ。魔閃を決め、呪力と魔力の境界を踏み越えた結果、身体の奥に沈んでいたものが表に滲み出た可能性はある。

 

 「黒……魔閃を決めて、術式が目覚めたか?」

 

 呟いてから、首を振る。

 

 「いや、まだ早ぇか」

 

 術式ってのは、そんな簡単に芽吹くもんじゃねぇ。だが、核は確実に育ち始めている。鍋の中身はその副産物だ。制御されていない感情、圧縮された力、出口を失った結果の歪み。

 

 危ない。

 

 本当に。

 

 鍋の縁に指を掛け、そっと中身を覗き込む。黒い粘液が渦を巻き、時折、泡の奥で何かが蠢くように見える。生物じゃない。だが無害でもない。飲めば即死、運が良くても魂が擦り切れて廃人だろう。

 

 「魔法薬学で出ていいもんじゃねぇな」

 

 短く吐き捨てる。

 

 このまま放置すれば、鍋そのものが呪物化する可能性もある。素材がどうとか、調合がどうとか、そういう段階はもう超えてる。これは“処理”が必要な代物だ。

 

 俺は再び蓋を閉め、鍋を机の中央に据えた。内側からの振動が、少しだけ弱まる。

 

 「さて……どう料理するか」

 

 独り言が部屋に落ちる。

 

 ジジイに報告はする。だがその前に、もう少し観察だ。ロンの将来のためにも、この黒い失敗作が何を意味しているのか、きっちり見極める必要がある。

 

 ため息を一つ。

 

 嫌な予感と、僅かな期待が、胸の奥で同時に渦を巻いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔法薬学の授業を終え、次の授業へ向かう石造りの廊下を、ハリー、ハーマイオニー、ネビルの3人が並んで歩いていた。その少し後ろを、ロンは距離を空けて歩いている。談笑する声が耳に入っても、内容はほとんど頭に残らない。ロンは無意識のうちに歩調を落とし、右手を開いては閉じ、また開く、その動作を繰り返していた。

 

 掌の奥が、微かに熱を持っている。

 

 (……やっぱ変だ)

 

 拳を握ると、骨と筋肉の隙間に、魔力とは違う“何か”が流れる感覚があった。魔力特有の軽さや伸びとは異なり、重く、沈み、感情と絡みつくような感触だ。嫌な感じじゃない。むしろ馴染む。ずっと前からそこにあったかのように。

 

 (あの魔閃……してからだ)

 

 ロンの思考は自然と、数日前の体育の授業へ戻る。ドラコに向けて振り抜いた拳、衝突の瞬間に走ったあの奇妙な感覚。空気が割れ、音が遅れて追いついてきた、あの一撃。

 

 (2年の時と似てる……)

 

 ポリジュース薬で伏黒甚爾に変身した、あの異常な体験。魂が引き剥がされ、崩れ、そして戻った瞬間の感覚。あの時も、今と同じ“重さ”を感じていた。

 

 ロンは気づいていない。だが確かにその身体の奥では、魔力とは別系統のエネルギーが目覚めつつあった。

 

 呪力。

 

 人の負の感情から生まれ、恐怖、怒り、焦燥、悔恨といった情動に反応する力。魔法使いの世界では体系化されず、日本の呪術界でのみ発展した異質なエネルギー。

 

 ロンは2年生の時、伏黒甚爾へ変身したことで一度“死”を経験している。魂が崩壊し、再構築されたその過程で、呪術的要素が肉体と魂の深部に刻み込まれた。魔法と呪術、双方の性質を併せ持つ、極めて不安定な基盤がその時すでに形成されていたのだ。

 

 そして今回。

 

 体育の授業で魔閃を放ったことで、その基盤が再び刺激された。魔力と呪力が一瞬、完全に同期し、核心に触れた。その反動として、眠っていた“刻印”が表に浮かび上がり始めている。

 

 ロン本人はまだ知らない。

 

 だが彼の肉体には、明確な術式が存在していた。

 

 【拳拳波呪法】

 

 近接戦闘に特化した呪術で、拳を媒介に呪力を圧縮・増幅し、衝撃として解放する術式。禪院甚爾の兄、禪院甚壱が用いた術式と同一のものだ。

 

 禪院甚爾へ変身した際、ロンの肉体は一時的に“完全な器”として書き換えられた。その際、禪院という血に刻まれた術式情報の残滓が深層に焼き付き、消えきらずに残った。そして今、それが再起動しつつある。

 

 ロンは歩きながら、無意識に拳を強く握った。

 

 瞬間、空気が僅かに震えた。

 

 「……ロン?」

 

 前を歩いていたハリーが振り返る。ロンは慌てて手を開き、首を振った。

 

 「いや、なんでもない!」

 

 ハリーは首を傾げつつも、再び前を向いた。ハーマイオニーとネビルは気づいていない。

 

 だが、ロンの体内では変化が続いている。

 

 魔法薬学の授業で、ロンは元気爆発薬の効果を高めようと、無意識に“力”を込めた。本人は魔力を拳に纏わせたつもりだった。だが実際には、呪力が先に反応し、拳から材料へと流れ込んでいた。

 

 呪力は感情を媒介とする。

 

 焦り、取り返したいという気持ち、スネイプへの反発、減点への悔しさ。そうした感情が呪力を活性化させ、鍋の中で魔力と混ざり合い、歪な反応を起こした。

 

 結果として生まれたのが、あの黒い粘液だ。

 

 未成熟な術式と制御されない呪力が、魔法薬という器の中で融合し、半ば呪物化した存在。伏黒甚爾が危険と判断したのは当然だった。

 

 ロンはまだ知らない。

 

 自分が今、魔法使いでも呪術師でもない、境界線上に立ち始めていることを。

 

 拳を見つめながら、ロンは小さく息を吐いた。

 

 (……気のせいだよな)

 

 そう自分に言い聞かせ、足早に3人の後を追う。

 

 だが、その背中には確かに、新たな“波”が静かに、しかし確実に立ち始めていた。




禪院甚壱の術式名は適当です。もっといいのがあれば教えて下さい!それとヴォルデモートにお似合いの術式を募集します。呪術廻戦に登場したものでも、オリジナルでもなんでも募集します。活動報告にありますので“コレ!”というものがあればぜひお願いします。
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