ホグワーツ魔法魔術学校特別体育教師“伏黒甚爾”   作:物体Zさん

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グロ注意かもです。


第十六話

 

 

 

 

 「ドローレス・アンブリッジ、まずは動的ストレッチからやってもらう。運動をする前の準備運動だ。それくらいは分かるよな?」

 

 伏黒甚爾はそう言って、アンブリッジを真正面から睨みつけた。その視線には一切の冗談も配慮もなく、ただ事実を突きつけるだけの圧があった。中庭の空気が僅かに張り詰め、生徒達は息を潜める。彼らはすでに、この授業が「見世物」では終わらないことを理解していた。

 

 「それと、その格好じゃ動きにくいだろ。そのピンクのコートを脱いで、ヒールも捨てろ」

 

 甚爾の言葉は淡々としていたが、逃げ道を与えない断定だった。アンブリッジは一瞬きょとんとした顔をし、次の瞬間、金切り声を上げた。

 

 「は?な、何を言っているのです!?やるわけがないでしょう!わたくしは査察に来ただけですのよ!運動など——」

 

 「はぁ……」

 

 甚爾は深く溜息を吐いた。その音だけで、生徒達の背筋が無意識に伸びる。

 

 「魔法省上級次官ともあろうお方が、口だけで文句を言うのか?」

 

 彼はゆっくりと周囲を見渡した。整列した生徒達は、誰一人として笑っていない。ただ静かに、アンブリッジを見ている。その視線は子供のものではなかった。訓練を受け、汗を流し、痛みを知った者の目だ。

 

 「ほら、見てみろ。生徒達をよ。完全にガッカリしてる」

 

 アンブリッジは、そこで初めて周囲の視線に気づいた。自分を嘲るでもなく、恐れるでもなく、ただ評価するような目。ピンクの装いと権威の肩書きが、一切通用していない空間だった。

 

 「……わたくしが、なぜそんなことを……」

 

 声が僅かに揺れる。

 

 「大人なら、手本になるようなことを見せろよ」

 

 甚爾の言葉は低く、短い。しかしそれは、彼女の逃げ場を完全に塞ぐ一撃だった。

 

 沈黙が落ちる。

 

 風が中庭を吹き抜け、アンブリッジのコートの裾を揺らした。生徒の一人、ネビルが無意識に拳を握る。ハリーは目を逸らさず、ハーマイオニーは唇を引き結んでいた。誰も助け舟を出さない。

 

 アンブリッジは、自分が完全に「場違い」であることを理解し始めていた。魔法省という後ろ盾も、規則も、ここでは意味を持たない。支配しているのは、伏黒甚爾という一個人と、彼が作り上げた秩序だった。

 

 「……わたくしは……」

 

 口を開いたものの、続く言葉が出てこない。ヒールに体重をかけ直す仕草が、妙に小さく見えた。

 

 甚爾は一歩踏み出した。

 

 「やらねぇなら、ここで終わりだ。査察結果は『現場を理解しようとせず逃げた』って書いとけ」

 

 その言葉は、アンブリッジにとって致命的だった。彼女は権威で殴ることはできるが、評価されないことには耐えられない。

 

 「……っ!」

 

 歯噛みする音が聞こえた。

 

 アンブリッジは震える手で、ゆっくりとコートの留め具に手をかけた。その動作一つ一つが、屈辱に満ちている。

 

 生徒達は無言で見守る。

 

 この瞬間、彼女は初めて理解した。

 

 ここは、魔法省ではない。

 

 そして伏黒甚爾の授業は、立場も肩書きも通用しない場所なのだと。

 

 「だらしがねぇ身体だ。なんだその腹は?たっぷり肉がついてやがる。いまや魔法界は戦場だろ?そんなんじゃヴォルデモートから逃げられねぇな〜?」

 

 伏黒甚爾はそう言い放ち、アンブリッジの身体を遠慮なく値踏みするように眺めた。腹部はコートを脱いだ途端に存在感を主張し、腰回りは締まりなく垂れ、太腿は無理に誤魔化そうとしたレギンスに押し込められてパンパンに膨らんでいる。動くたびに肉が揺れ、そのたびに本人の顔が不快そうに歪んだ。

 

 「な、な……無礼ですわ!わたくしは——」

 

 「はいはい、言い訳は後だ」

 

 甚爾はアンブリッジの言葉を途中で切り捨てると、生徒達の列に視線を走らせた。その中で一人、すっと背筋を伸ばして立っている少女に声を投げる。

 

 「おいスーザン。お前がストレッチ教えてやれ。手抜き無しで、きっちりな」

 

 名を呼ばれたスーザン・ボーンズは、即座に一歩前へ出た。ハッフルパフのローブを脱ぎ、下に着ていたタンクトップ姿になる。引き締まった肩、太く隆起した腕、無駄のない体幹。かつてのおっとりとした面影はほとんどなく、今やそこに立っているのは戦士の身体だった。

 

 「はい!」

 

 返事は短く、迷いがない。

 

 「ほら、まず足開いて。そう、もっと。バランス取って」

 

 「ちょ、ちょっと!わたくし、そんな——」

 

 アンブリッジは慌てて声を上げるが、スーザンは一切容赦しない。両手でアンブリッジの肩を掴み、ぐっと姿勢を正させる。

 

 「背中丸まってます。はい、胸張って」

 

 「いたっ……!」

 

 伸ばされ慣れていない筋が悲鳴を上げ、アンブリッジの口から情けない声が漏れる。周囲の生徒達は、決して笑わない。ただ静かに、いつもの光景として見守っている。

 

 伏黒甚爾は腕を組み、その様子を眺めながら鼻で笑った。

 

 「ほら見ろ。これが現実だ。普段から動いてねぇ身体は、ちょっと伸ばしただけで悲鳴上げる。魔法に頼ってるからそうなる」

 

 アンブリッジは歯を食いしばり、額に浮かんだ汗を拭おうとするが、両手はスーザンに固定されていて動かせない。

 

 「ま、まだ……準備運動でしょう……?」

 

 震える声でそう言うと、甚爾は肩を竦めた。

 

 「そうだな。まだ準備運動だ」

 

 その一言に、アンブリッジの顔色が明らかに変わる。

 

 スーザンは次の動作に移り、アンブリッジの脚を持ち上げて股関節を開かせた。動きは丁寧だが、妥協はない。生徒達が日常的に受けているものと同じ強度だ。

 

 「い、痛い!やめなさい!」

 

 「声出せるなら、まだ余裕ありますね」

 

 スーザンは淡々と言い返す。

 

 伏黒甚爾はそのやり取りを見ながら、中庭全体に聞こえる声で言った。

 

 「勘違いすんな。これは罰じゃねぇ。最低限、生き残るための準備だ。敵は礼儀正しく待ってくれねぇし、文句も聞いちゃくれねぇ」

 

 アンブリッジは荒い呼吸を繰り返しながら、必死に身体を支えようとするが、筋肉が言うことを聞かない。普段使っていない部位が悲鳴を上げ、体の内側から恐怖がじわじわと湧き上がってくる。

 

 それは痛みだけではなかった。

 

 自分が、どれほど無防備で、無力であるかを突きつけられる感覚。

 

 生徒達は既に、それを乗り越えている。

 

 「……くっ……」

 

 アンブリッジは言葉を失い、ただ耐えるしかなかった。

 

 伏黒甚爾は、その様子を一瞥すると短く告げる。

 

 「いいぞスーザン。次は肩だ」

 

 授業は、まだ始まったばかりだった。

 

 「そうだ、言い忘れてたが体育では杖を一切使わない。お前の持ってる杖は没収だ。スーザン、アンブリッジの杖を抜いてそこら辺に投げ捨てとけ」

 

 伏黒甚爾の言葉は淡々としていたが、有無を言わせぬ重みがあった。命令というより、当然の前提を述べているだけの口調だ。

 

 「はい!じゃあ失礼します」

 

 スーザン・ボーンズは一切躊躇せず、アンブリッジの腰元に手を伸ばした。ピンクの服に合わせた装飾過多のベルトに、丁寧に差し込まれていた杖を引き抜き、そのまま軽く振り向いて中庭の隅へ放る。乾いた音を立てて石畳を転がる杖に、アンブリッジの目が釘付けになった。

 

 「な、何を……!それは私の——」

 

 「体育の時間だ。魔法に頼る癖を一度全部引っ剥がす」

 

 甚爾はアンブリッジを見下ろしながら言う。声に怒気はない。ただ、逃げ場がないだけだ。

 

 「そのままストレッチを続ける。次は走り込みだ。アンブリッジは初心者だからな、ガキ共より軽めでいい。続けろ」

 

 生徒達の間に、小さなどよめきが走った。だが誰一人として異議は唱えない。伏黒甚爾の授業で「軽め」と言われるものが、一般的な基準から外れていることを、全員が身をもって知っているからだ。

 

 「は、走る……?わ、わたくしが?」

 

 アンブリッジは信じられないものを見るように甚爾を見た。息はすでに荒く、ストレッチだけで体力をかなり削られているのが明らかだ。

 

 「安心しろ。お前は中庭を3周でいい」

 

 その言葉に、数人の生徒が思わず目を見開いた。5年生が普段行うのは最低でも10周、それも時間制限付きだ。3周など準備運動の延長に過ぎない。

 

 アンブリッジはほっとしたような、それでも納得いかないような顔を浮かべた。

 

 「ほら、スタートラインに立て」

 

 スーザンが背中を軽く押す。

 

 「ちょ、押さないで——」

 

 よろめきながらもアンブリッジは指定された位置に立つ。走る姿勢など意識したこともない身体だ。背中は丸まり、腕は不自然に固まっている。

 

 「……走り方も知らねぇか」

 

 甚爾は小さく息を吐き、全体に向かって声を張った。

 

 「いいか、走る時は足だけ動かすんじゃねぇ。腕を振れ。背中を起こせ。呼吸は止めるな。生き残りたいなら、身体全部使え」

 

 その言葉はアンブリッジに向けたものでもあり、生徒達全員への確認でもあった。

 

 「よーい」

 

 アンブリッジの肩が跳ねる。

 

 「どん」

 

 合図と同時に、アンブリッジは必死に足を動かし始めた。最初の数歩はぎこちなく、すぐに呼吸が乱れる。ヒールを脱いだとはいえ、走ることを前提に作られていない靴が足に負担をかけ、地面の感触が直接伝わってくる。

 

 「はっ……はっ……!」

 

 数十メートルも進まないうちに、肩で息をする状態になった。生徒達は横目でそれを見つつ、自分達のペースを崩さない。中には、かつての自分を思い出している者もいた。

 

 甚爾は腕を組み、無言で見ている。

 

 1周目を終えた頃には、アンブリッジの顔は赤く染まり、汗が首筋を伝っていた。2周目に入る頃には、足取りが明らかに重くなる。

 

 「ま、まだ……2周……」

 

 自分に言い聞かせるように呟きながら走る。その姿に、さっきまでの尊大さは微塵もない。

 

 3周目に入る前、ついに足がもつれ、アンブリッジは石畳に手をついた。

 

 「……っ!」

 

 転倒まではいかないが、完全に動きが止まる。

 

 「立て」

 

 伏黒甚爾の声が飛ぶ。

 

 「ま、待って……」

 

 「立て。敵は待ってくれねぇ」

 

 アンブリッジは歯を食いしばり、震える手で地面を押した。身体が重い。肺が焼けるように痛い。それでも、何とか立ち上がる。

 

 生徒達は静かに見守っていた。笑う者はいない。これは特別扱いではない。ただ、通過儀礼だ。

 

 アンブリッジはふらつきながらも、残りの距離を走り切った。ゴールした瞬間、その場に崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返す。

 

 伏黒甚爾は一歩近づき、見下ろす。

 

 「お疲れさん。これが、杖無しの現実だ」

 

 アンブリッジは答えられなかった。ただ、地面を見つめながら、初めて理解し始めていた。

 

 自分が、生徒達の世界を、何も分かっていなかったことを。

 

 「よし、じゃあガキ共と一緒にこれを飲め。BCAAだ」

 

 伏黒甚爾の声に促され、生徒達は用意されたカゴへ一斉に手を伸ばした。金属製のカゴの中には色とりどりのボトルが整然と並んでおり、キャップを開ける軽い音が中庭に重なる。昼下がりの冷たい空気の中で、甘い香りがふわりと広がった。

 

 「うめぇ!」

 

 「筋肉に染み渡るぜ」

 

 「お、私アップル味よ!」

 

 「僕はマンゴーだった!」

 

 生徒達は躊躇なく喉を鳴らし、運動で熱を帯びた身体に流し込んでいく。さっきまでの荒い呼吸が次第に落ち着き、肩の力が抜けていくのが目に見えて分かった。伏黒甚爾の授業では、この短い休息が次の地獄への準備であることを、全員が理解している。

 

 その輪の外で、アンブリッジだけが明らかに挙動不審だった。生徒達が口にする見慣れない液体と、飲んだ直後に表情を和らげる様子を交互に見比べ、額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。呼吸はまだ荒く、頬は赤い。走り込みで消耗した体力が、ようやく現実として身体に響き始めていた。

 

 「ビ……BCAAとは何ですか!?まさか毒を——」

 

 疑念と恐怖が混じった声が震える。

 

 「毒じゃねぇよ」

 

 伏黒甚爾は即座に言い切った。視線すら向けない。

 

 「殺すつもりなら、そんな回りくどいことしねぇ」

 

 言葉は冷たいが、妙な説得力があった。アンブリッジは反論しようとして口を開き、しかし何も言えずに閉じる。先ほどから続くこの授業の流れの中で、彼女の常識は次々と叩き壊されていた。

 

 「ほら、アンブリッジさんもどうぞ」

 

 補助役を任されていたスーザン・ボーンズが、にこやかな笑顔で一本のボトルを差し出した。だが、その動きに迷いはない。逃げ道も与えない。

 

 「ちょ、ちょっと待——」

 

 「はい、栄養補給です!」

 

 スーザンはそのままボトルの口をアンブリッジの唇に押し当て、勢いよく傾けた。

 

 「グボッ!」

 

 不意を突かれたアンブリッジは反射的に飲み込み、派手にむせた。甘酸っぱい液体が喉を通り、咳と共に呼吸が乱れる。だが、数秒もしないうちに、身体の奥にじんわりと温かさが広がっていく感覚に気づく。

 

 「……な、何……これ……」

 

 息を整えながら呟く。その声には、さっきまでの拒絶が薄れていた。

 

 生徒達は誰も笑わない。ただ静かに、その反応を見ていた。自分達も最初は同じ顔をしていたからだ。

 

 伏黒甚爾は腕を組み、全体を見渡す。

 

 「飲んだら次だ」

 

 短い宣告。

 

 「次は筋トレだ」

 

 その一言で、生徒達の背筋が反射的に伸びた。休憩は終わり。ここからが本番だと、身体が先に理解している。

 

 アンブリッジは、その場で固まった。

 

 「き……筋トレ……?」

 

 呟きはかすれていた。だが、誰も答えない。

 

 中庭に吹く風が一瞬強まり、落ち葉が足元を転がる。伏黒甚爾はその中で、いつもの位置に立っている。逃げ場はない。

 

 授業は、まだ半分も終わっていなかった。

 

 「まずは腕立て30を3セット。アンブリッジは初心者だから10回を2セットでいい。年齢も年齢だ。“軽く”だ」

 

 伏黒甚爾の声が中庭に落ちた瞬間、生徒達の間に小さなどよめきが走った。軽く、という言葉に含まれる意味を、ここにいる全員が嫌というほど理解している。伏黒甚爾基準の“軽く”は、世間一般の限界を平然と踏み越える。

 

 アンブリッジはすでに息が荒く、顔色も赤黒い。走り込みとストレッチで体力を削られ、BCAAを無理やり飲まされた直後だ。四十を超えた身体には、回復という概念が追いついていない。

 

 「じゅ、10回……それだけでよろしいのですわね……?」

 

 確認する声は震えていた。

 

 「聞こえなかったか?2セットだ」

 

 伏黒甚爾は淡々と言い直す。感情はない。ただ事実を告げているだけだ。

 

 生徒達はすでに地面に伏せ、構えを取っていた。鍛え上げられた身体が一斉に沈み、また押し上げられる。石畳に手をつく音が規則正しく響き、まるで訓練場のような空気が中庭を支配していく。

 

 「いーち!」

 

 「にー!」

 

 掛け声が自然と揃う。伏黒甚爾の授業では、誰かが数え始めると、全員が合わせる。それがいつの間にか身についた習慣だった。

 

 アンブリッジは遅れて地面に手をついた。指先が震え、体重を支えきれず肘が内側に折れる。

 

 「そ、そんな……わたくし、魔法使いですのよ……!」

 

 抗議とも弱音ともつかない声を上げながら、必死に身体を下ろす。だが、上がらない。腹部の脂肪が重力に引かれ、腕がぷるぷると悲鳴を上げる。

 

 「肘を閉じろ。背中を反らすな。腹に力を入れろ」

 

 伏黒甚爾の指示が飛ぶ。

 

 容赦はない。だが、無理なことも言っていない。ただ“正しくやれ”と言っているだけだ。

 

 「い……いち……」

 

 アンブリッジのか細いカウントが、生徒達の力強い声にかき消される。周囲では既に十回を超え、二十に差し掛かっている者もいる。

 

 ネビルは汗を流しながらも安定した動作を続け、ハリーは呼吸を一定に保ったまま淡々と回数を重ねていた。ロンは表情を変えず、しかし内心ではアンブリッジの数字を横目で追っている。

 

 五回。

 

 そこから先が、地獄だった。

 

 腕が震え、床に顔が近づく。肩が悲鳴を上げ、呼吸が乱れる。

 

 「……っ!」

 

 声にならない声が漏れ、ついに膝が地面についた。

 

 「止まるな」

 

 伏黒甚爾の声は低い。

 

 「初心者メニューだ。まだ半分だぞ」

 

 生徒達の間に、今度は別種のざわめきが走った。あれでまだ半分。アンブリッジの限界が、誰の目にも明らかになる。

 

 「む、無理ですわ……!」

 

 ついに叫びが上がった。

 

 その瞬間、伏黒甚爾は一歩前に出た。

 

 「無理かどうかは俺が決める」

 

 短い言葉だったが、空気が変わる。

 

 「魔法省の上級次官が“無理”で済ませるのか?生徒にはもっと無茶を強いてきたくせに?」

 

 アンブリッジは言葉を失った。反論しようにも、呼吸が整わない。胸が上下し、喉がひくりと鳴る。

 

 「ほら、あと5回だ」

 

 冷酷な宣告。

 

 スーザン・ボーンズがそっと横に立ち、逃げ道を塞ぐように見下ろす。

 

 「がんばりましょう。10回ですよ、10回」

 

 その笑顔は優しい。だが、引き下がる気は一切ない。

 

 アンブリッジは歯を食いしばり、再び手をついた。

 

 腕が沈む。

 

 上がらない。

 

 それでも、必死に、ほんの数センチだけ身体が持ち上がった。

 

 「……ろ、く……」

 

 生徒達は無言だった。

 

 伏黒甚爾だけが、静かに見ている。授業はまだまだ続く。

 

 

 「やればできるじゃねぇか、ババアにしては“動ける”」

 

 「バ、ババアと呼ばないで!!!」

 

 甲高い声が中庭に響いた。アンブリッジは顔を真っ赤にし、肩で息をしながら伏黒甚爾を睨みつける。額から流れる汗が顎を伝い、ピンクの服は汗を吸って色を濃くしていた。先ほどまでの尊大な態度は影も形もなく、そこにいるのはただ息も絶え絶えな中年の女だった。

 

 だが、生徒達の誰一人として笑わない。嘲りもしない。伏黒甚爾の授業では、限界まで追い込まれるのは誰であろうと同じだ。上級生も、下級生も、教師でさえ例外はない。その事実を、彼らは骨の髄まで理解している。

 

 「威勢はいいな。じゃあ次はスクワットだ」

 

 短く告げられた言葉に、生徒達の背筋が自然と伸びた。スクワット――それは伏黒甚爾の授業において、最も“逃げ場のない”種目の一つだ。脚だけでなく、体幹、呼吸、精神力のすべてを要求される。誤魔化しは効かない。

 

 「は……?まだやるんですの……?」

 

 アンブリッジの声は震えていた。膝は笑い、立っているだけで精一杯だ。それでも伏黒甚爾は一切の情を見せない。

 

 「当然だ。腕だけ鍛えても意味ねぇ。立て。足は肩幅。背筋を伸ばせ」

 

 命令口調だが、そこには迷いがない。スーザン・ボーンズがさっと横につき、アンブリッジの足の位置を無言で調整する。指で軽く背中を押し、姿勢を正す。

 

 「しゃがむ時は尻を引け。膝を前に出すな。呼吸を止めるな」

 

 生徒達が一斉に動き出す。鍛え上げられた脚が地面を踏みしめ、静かに沈み、そして力強く立ち上がる。その動きは揃っており、無駄がない。伏黒甚爾の授業の成果が、否応なく可視化されていた。

 

 アンブリッジは遅れて動いた。腰が引け、膝が内側に入る。

 

 「違う」

 

 一言で切り捨てられる。

 

 「それじゃ関節壊すだけだ。やり直し」

 

 「な……っ!」

 

 抗議の言葉は出なかった。出せば倍になると、本能で理解している。アンブリッジは歯を食いしばり、再び構えた。

 

 しゃがむ。

 

 太腿が震える。

 

 立ち上がろうとして、止まる。

 

 「……っ、く……!」

 

 声にならない呻きが漏れる。それでも、ほんの少しずつ身体が持ち上がった。生徒達の視線が自然と集まる。誰かが数を数え始めた。

 

 「……いち」

 

 アンブリッジの動きに合わせるように、空気が張り詰める。

 

 「に……」

 

 汗が滴り落ち、地面に小さな染みを作る。

 

 「さん……」

 

 四回目で、脚が限界を迎えた。膝が崩れそうになり、身体が前に倒れかける。

 

 だが、その瞬間。

 

 「止まるな」

 

 伏黒甚爾の低い声が、背中を打った。

 

 「止まったら終わりだ。やり切れ」

 

 その言葉に、アンブリッジは唇を噛みしめた。屈辱。怒り。恐怖。だが、それ以上に――負けたくないという感情が、微かに芽生えていた。

 

 「……よ、ん……!」

 

 生徒達の中から、小さな息を呑む音が漏れる。

 

 伏黒甚爾は腕を組み、静かにそれを見下ろしていた。

 

 この授業は、査察ではない。

 

 試練だ。

 

 そうしてアンブリッジは、どうにかこうにかスクワットをやり遂げた。脚は産まれたての子鹿のように震え、膝は笑い、立っていること自体が奇跡に近い。汗はピンク色の服を容赦なく濡らし、髪はまるで雨に打たれたかのように顔に貼り付いている。胸は荒く上下し、息を吸うたびに喉から掠れた音が漏れた。

 

 「スーザン、BCAAだ」

 

 伏黒甚爾が短く言い、ボトルを放る。スーザン・ボーンズは慣れた手つきでそれを受け取り、地面に仰向けに倒れ込んだアンブリッジの横にしゃがみ込んだ。

 

 「はい、失礼しますね」

 

 次の瞬間、ボトルの口がアンブリッジの唇に押し込まれる。

 

 「ゴボハッ!!殺す気ですか!?」

 

 液体が喉に流れ込み、咳き込みながらも飲み下す。だが数秒もしないうちに、体内に熱が巡る感覚が広がり、肺に入る空気がわずかに軽くなった。生徒達はその変化を見逃さない。彼らは皆、この感覚を知っている。

 

 「元気だな」

 

 甚爾は鼻で笑った。

 

 「よし、次は組手だ。といってもお前はこれまで杖なしで戦ったことなんてねぇだろ。だから特別に今回だけ、お前だけ杖ありにしてやる。相手はスーザンだ。いけるか?」

 

 「任せてください!」

 

 スーザンが拳を天に突き上げる。返事は短いが、その声には一切の迷いがない。

 

 「……ほら、お前の杖だ」

 

 甚爾が無造作に放った杖が、地面を転がってアンブリッジの足元で止まる。アンブリッジはそれを拾い上げ、ふらつく脚でどうにか立ち上がった。汗で滑る手のひらに、慣れ親しんだ杖の感触が戻る。

 

 「……組み手、ですって?」

 

 困惑と恐怖が入り混じった声。

 

 「じゃあ、始め」

 

 合図と同時に、空気が変わった。

 

 スーザンが踏み込む。石畳が低く鳴り、次の瞬間にはその姿が掻き消えた。残像だけが一拍遅れて視界に残る。

 

 「えっ」

 

 アンブリッジは完全に見失った。杖先は宙を彷徨い、呪文を唱える余裕すらない。

 

 次の瞬間だった。

 

 鳩尾に、鈍く重い衝撃。

 

 「グボォ!!」

 

 息が一気に吐き出され、視界が白く弾ける。アンブリッジの身体は折れ、地面を転がった。生徒達が一斉に息を呑む。だが、誰も声を上げない。

 

 スーザンは止まらない。間合いを詰め、追撃の体勢に入る。

 

 「立て。まだ終わりじゃねぇ」

 

 甚爾の声が冷たく響いた。

 

 アンブリッジは震える腕で地面を押し、必死に身体を起こす。誇りも立場も関係ない。ただ、ここでは立ち続けなければならない。それだけが、この場で許された選択だった。

 

 「フッ!!」

 

 アンブリッジは歯を食いしばり、なんとか視界に捉えたスーザンに向かって無言で杖を振った。呪文名すら唱えない。焦りと恐怖が混じり合い、ただ魔力だけが荒々しく放たれる。空気が裂け、鈍い衝撃音が遅れて中庭に響いた。

 

 「ハッ!!!」

 

 スーザンは一瞬、肩を落とすように半身をずらし、その呪文を紙一重で躱す。頬を掠めた風圧が髪を乱すが、足は止まらない。次の瞬間には地面を蹴り、アンブリッジとの距離を一気に詰めていた。

 

 「や、やめなさい!!」

 

 アンブリッジが悲鳴混じりに叫び、杖を薙ぐように振るう。先端から伸びたのは魔力で形成された鞭だった。空を裂き、蛇のようにしなりながらスーザンへと迫る。

 

 だが、スーザンは怯まない。

 

 伸びてきた鞭を、鍛え上げられた腕で受け止めた。魔力が皮膚を焼くように軋むが、歯を食いしばり耐える。そのまま腕を返し、鞭を巻きつけるように絡め取った。

 

 「なっ……!」

 

 アンブリッジの顔が引き攣る。引き戻そうとした瞬間、逆に強烈な力で引かれた。身体が前につんのめり、足元が崩れる。

 

 スーザンは一気に距離を詰め、肘を畳んだ。

 

 鈍い音。

 

 アンブリッジの肩口に衝撃が走り、身体が横倒しになる。石畳を転がり、杖が手から離れて跳ねた。

 

 「……まだ、やる?」

 

 スーザンの低い声。息は乱れていない。アンブリッジは仰向けのまま、胸を上下させ、荒い呼吸を繰り返していた。喉が鳴り、声にならない音が漏れる。

 

 周囲の生徒達は固唾を飲んで見守っている。誰も笑わない。誰も騒がない。ただ、目の前で起きている光景を、静かに受け止めていた。

 

 伏黒甚爾は腕を組んだまま、冷ややかにそれを眺めている。

 

 「どうした。魔法省上級次官様だろ。立て」

 

 アンブリッジは唇を震わせ、必死に身体を起こそうとした。腕に力を入れるが、思うように動かない。スクワットで使い果たした脚が、命令を拒否している。

 

 「……っ、こんな……屈辱……」

 

 絞り出すような声。

 

 「屈辱?」

 

 甚爾が一歩前に出る。

 

 「今までお前が生徒に味わわせてきたもんに比べりゃ、ずいぶん優しい授業だと思うがな」

 

 その言葉に、アンブリッジの目が揺れた。怒りとも恐怖ともつかない感情が入り混じり、視線が彷徨う。

 

 スーザンは静かに一歩下がり、構えを解いた。

 

 「先生、続けますか?」

 

 「いや、今日はここまでだ」

 

 甚爾が短く告げる。

 

 「十分だろ。身をもって分かったはずだ。杖がなくても、人は立てる。鍛えりゃ動ける。逃げることも、守ることもな」

 

 アンブリッジは答えない。ただ、荒い息を吐きながら、空を睨んでいた。

 

 中庭に、冷たい風が吹き抜けた。

 

 それは、魔法省の権威が地面に叩き伏せられた瞬間を、確かに刻み込む風だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一通り終わった。俺は地面に突っ伏すアンブリッジを見下ろしながら言った。

 

 「どうだ、アンブリッジ。これがホグワーツの“体育”だ」

 

 スーザンがアンブリッジのそばにしゃがみ込み、首元に指を当てて様子を確認する。ピンク色の服は汗と土で汚れ、さっきまで威張り散らしていた姿はどこにもない。ただ呼吸に合わせて背中が小さく上下しているだけだ。

 

 「先生、気絶してます」

 

 「……そうか。大人のくせして弱いな。おい、医務室に運んでやれ」

 

 俺が顎で示すと、何人かの女生徒が慣れた様子でアンブリッジの身体を担ぎ上げた。その手際は完全に救護班のそれで、初めて倒れた大人を運ぶとは思えない落ち着きぶりだった。ホグワーツの中庭に残るのは、荒れた地面と、生徒達の荒い呼吸、それから汗の匂いだけだ。

 

 俺は視線を上げ、残ったガキ共を見据えた。

 

 「お前ら、あの女はどうだった?魔法省の重鎮、上級次官だ」

 

 ざわり、と一瞬空気が揺れ、それからぽつぽつと声が上がる。

 

 「やる気はありましたね!」

 

 「最後まで諦めてなかった」

 

 「私、ちょっと見直しました」

 

 正直な感想だ。誰一人として嘲笑する声はない。途中で逃げ出さず、泣き叫きながらも立ち上がり、最後は気絶するまで身体を動かした。それだけで評価に値する、とこいつらは理解している。俺はその様子を見て、内心少しだけ感心した。

 

 「そうだな」

 

 短く答え、俺は腕を組んだ。

 

 アンブリッジは嫌な女だ。権威を振りかざし、弱い立場の人間を踏みつけ、言葉で人を縛り付ける。そのやり方は気に食わないし、これからも好きになることはねぇだろう。だが今日に限って言えば、あの女は逃げなかった。杖を取り上げられ、泥だらけになり、年齢も体力も差がある中で、それでも歯を食いしばって立ち向かった。その事実だけは、体育教師として、そして戦場を知る人間として、無視できるもんじゃない。

 

 俺は深く息を吐き、声を張った。

 

 「いいか。今日見たもんを忘れるな。強さってのは、立場でも肩書きでもねぇ。魔法の巧さでも、血筋でもない。倒れても立ち上がる意思だ。動けなくなるまで身体を使う覚悟だ。それがなきゃ、どんな肩書き持ってても戦場じゃ意味がねぇ」

 

 生徒達は真っ直ぐに俺を見ている。目の奥に、熱がある。理解してる顔だ。

 

 「授業はここまでだ。シャワー浴びて、次に備えろ」

 

 「はい!!!」

 

 揃った返事が中庭に響く。アンブリッジが運び出され、地面に残った足跡や汗の染みを眺めながら、俺は少しだけ口角を上げた。

 

 ……ホグワーツの体育は、今日も平常運転だ。

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