映画日和
1991年7月のある夜。ようやく仕事にひと息ついた女性は近場の映画館に訪れていた。
前年の冬にアメリカで公開された映画の評判が良かったため、その封切りを楽しみにしていた彼女は姿勢良く街中を歩いていく。少し前に上映開始されたのは知っていたが、仕事が忙しくて見にいく時間がなかなか取れなかったためである。
長い赤毛は後ろで三つ編みにしており、仕事帰りのパンツスーツで一人映画館へと入場し、飲み物とポップコーンを買う。そしてそのままチケットの時間に合わせて移動した。
席にはすでにまばらに人が座っており、その一つに腰掛ける。
同心円状の金の瞳がスクリーンに向き、脇に飲み物とポップコーン。準備万端の状態で上映が始まるのを待っていると、上映時間の直前に慌てたように紫色のワンピース姿の女性がやってきて彼女からひとつ開けて席に座る。
「あら、ごめんなさい。騒がしくしてしまって……」
「いえ、気にならないので大丈夫ですよ」
すれ違う人々は夜でも映画館にやってくるような者ばかりであり、今やってきた女性もそうだろう。席についてからは静かになったため、文字通り眼中にもなくなるほどに映画に集中することができた。
ポップコーンをつまむ音がときおり聞こえるが、それもまた映画の醍醐味だろう。暑いのか、しばらく扇子で自身を仰いでいた紫の女性も上映後には涼しい顔をして映画の余韻に浸っていた。
女性――マキマは問題なく映画を楽しむことができたため、このあとはどうしようかと考える。仕事終わりのためこのまま帰ることも視野に入れつつ、一人で外食するのもありだ。
「本当だって! 確かにポップコーン買って隣に置いてたのに、映画の途中で目を離したらなくなってて……!」
「はあ……」
視界の端で同じスクリーンで映画を見ていたらしき男性が従業員にクレームを入れている。先ほどの映画の感想を言い合う女性同士の囁き声が聞こえてくる。子供に対して、家ではやってはいけませんだのと先手を打って注意をする家族の声がする。その近くで上映している映画のポスターを眺めている、先ほどの紫の女性もいる。
上映中では聞こえなかった喧騒が会場から出た途端にざわざわと騒がしくなっていくこの瞬間を、マキマはあまり好ましく思っていない。
一人で映画の余韻に浸っている時間を邪魔されてしまうから……というわけではない。その喧騒の多くは上下など関係なく仲の良い者達で構成された群れによって形作られているものだからだ。
「帰ろっかなあ」
夜でも明るい街中を歩いて帰路を辿る。
彼女の通る表通りで電信柱の上のカラスがカアと鳴いて、一直線に飛び立って路地裏のネズミを攫って行った。
カツカツと靴音を鳴らしていく。
ときおり不審そうに周囲を見渡すマキマは、あくまで冷静に威圧感のあるその瞳を細めて人通りの少ないほう、少ないほうへと向かっていく。自宅方面とはとっくに違う方向に進んでいた。
悪魔かな、とマキマは思案する。
公安のデビルハンターである彼女は映画館を出たあたりから常に視線を感じていた。どこからか『見られている』感覚というのはあまり気持ちの良いものではない。
普段、ネズミやカラスの目を借りて他者を監視しているマキマ自身も同じことをしているのだが、彼女は自身のことは棚に上げてただ「やだなぁ」と考えていた。
先ほど攫われたネズミの目は潰れてもう視界を借りることはできない。そのネズミを攫ったカラスの目はなぜか借りることができない。己よりも程度が低いと思った者を支配して操ることのできる彼女には、人間や悪魔ならばともかく小動物の目を借りられぬ事態になったのははじめてのことだ。
路地の中に入り、そこら中に自身の配下がいることを確認したマキマはピタリと立ち止まる。そして背後に振り返る。そこにはなにもないはずだが、確かになにかがいた。
「おかしいな。人でも、悪魔でもないニオイがする。でも、混ざりものでもない。気持ち悪いな。ねえ、あなたは誰?」
そこになにかがいることを確信した問いだ。
そして、その問いの答えはすぐに現れた。
空間に歪な亀裂が入る。
端がリボンで結ばれた亀裂がゆっくりと開いていき、その中からひょっこりと現れたのは映画館で彼女の近くに座っていた紫の女性だった。
「気持ち悪いだなんて心外です。とても悲しいわ」
「私は質問をしているんです。あなたはどういう存在? 悪魔みたいな力を使うけど、悪魔ではないよね」
紫のワンピースを着た、長い金髪の女性は亀裂の中から上半身を、そして下半身を乗り出してその亀裂をまるで椅子のようにして腰掛ける。扇子で口元を隠しながらマキマと見つめ合い、「争うためにあなたを見ていたわけではありません」と答える。質問をはぐらかし続けようとする彼女にマキマは無表情のまま、ただ威圧するように見つめた。並の悪魔なら見つめられるだけで威圧され、寒気を覚えるほどの冷たい瞳に、けれど亀裂から出てきた女性は笑顔のまま対峙する。
得体の知れない、悪魔でも人間でもない誰か。そんな彼女を金の瞳で捉えたマキマは試すように語気を強くする。
「命令です、私のした質問に答えなさい」
彼女の言葉に、紫の女性はただ笑って見つめ続けるだけだった。
やはり駄目かとマキマは嘆息する。しかしそれと同時に、ほんの少しだけ期待を抱いた。
「撃つ、斬る、衝く、放つ、殺す、そして能力の行使。死で誘うことさえ、なにを取っても私には効きません。私はただ、興味があってあなたに会いにきただけなんです。支配の悪魔、マキマ」
「そっちだけ知っているのはズルイと思わない? そろそろ質問くらい答えてくれたっていいのに」
のらりくらりと質問の答えを避けているように見える彼女に、マキマは拗ねたように言葉をかける。もちろん心にもないことだが、大抵の相手には効果的な処世術であるためそれを試してみているだけだ。相手の得体が知れない以上、いろいろと試すに限る。
「私は……」
「ぱん」
故に、紫の女性が言ったように『撃つ』が効くかどうかを試しにかかる。
本来なら穴だらけになって即死するだろう攻撃を仕掛けてなお、しかし女性には傷ひとつない。マキマが力を行使した瞬間に一度、女の目前に別の亀裂が開いていたので攻撃を別のもので受け流したのだろう。
「あっぶないわねぇ……私はただあなたと話をしたくて来ただけの善良な妖怪ですのに」
「私を監視しておいてそんなことを言うだなんて、とっても胡散臭いね。妖怪……? それがあなたの正体?」
「ええそうです、私は隙間に潜むスキマ妖怪、八雲紫。あなたならユカリと呼んで構いませんわ」
「ユカリ、あなたの目的はなに? どうして私を監視していたのかな」
ずっとはぐらかされていた質問の答えが返ってきたため、逆にマキマは不審に思う。隠しておきたいから話さなかったのではないのか、と。
「妖怪というのは……いえ、こんなところで立ち話していても良くないわね。ねえ、マキマ。私とおゆはんでも食べながら一緒に話さない?」
「人の多いところで話しても大丈夫な話ならいいけど、人質に取りたいとかならデビルハンターとしては看過できないかな」
「誤解を受けていて私は今とても悲しいです。そんなことしないわ。私は最初からずっと、ただあなたと話したかっただけ」
「なんの話を?」
「映画の感想会をしたいんです。あなたも一人で見たでしょう? 感想戦をしようにも、私も一人だったから寂しくて」
扇子で口元を隠したユカリの言葉は、嘘か本当か分からない。
しかし、その言葉に少なくともマキマは自分もそういうことがしてみたかったなと考えてしばし悩む。
「私と約束して。人は決して傷つけないって」
「契約はできませんけど、こう答えることはできますわ。『今日このあとの食事で、私は人を決して傷つけず、あなたを傷つけることもない』と」
「それなら……いいよ。私もお夕飯はまだだし」
「それなら決まりね!」
「いいお店を知ってるんだ。私の知ってる場所でいい?」
「もちろんですわ」
扇子を閉じて、亀裂から降りたユカリがにっこりと笑う。
「ねえ、マキマ。もしよければ、私と友達になってくださらない?」
マキマは、このときばかりはあまり動かない自身の表情に感謝した。初対面で、相手の目的もまだ知れない。映画の感想だの友達だの、それが本心での提案であるかもまだ不明だ。初対面で弱みに近いものを晒すのは避けたかった。
心の中に長く埋もれたささやかな願望への期待。喜び。
一方的に弱みをさらけ出すことになることを恐れて、マキマは目を伏せる。
「どうしようかな。ユカリと話して楽しかったら考えてみてもいいよ」
「あら、それじゃあ私も頑張りませんと。私の住む素敵な世界の、素敵なお話をいっぱい話すわね。楽しんでいただけたら嬉しいのですけど」
「案内する。こっちから路地を出て」
「分かりました」
二人並んで路地裏から抜け、夜の街を歩き出す。
この日、マキマには奇妙な友達候補ができた。
自身の支配が効かないだろう、対等になれそうな存在。
こうしてスキマ妖怪と支配の悪魔の穏やかな交流が始まったのである。
紫様はその時代に合わせた服装(ただし派手)で現れるらしいので、紫基調のワンピースに合わせていろいろ着こなしているかもしれません。
二人が見たのはホームアローンです。
初手で支配が効いていないのは生前の幽々子にしたものと同じです。自分の支配と自由の境界を弄って事前に対策をしていたから。なにも対策していなければ格下と認定されるだけで普通に効きます。境界弄ってなくてもいつか効かなくなるといいね。
マキマさんもそのうち幽々子みたいに「ああ、これユカリは本音なんだ」と気づきます。初対面はさすがに胡散臭さフィルターがかかってないと紫様じゃないので……。
次の話は紫様視点のはず。