世の中には恐怖症というものがある。
代表的なもので言えば集合体恐怖症や血液恐怖症、高所恐怖症や暗所恐怖症。
人の数だけ恐れを感じる物事は多岐に渡り、恐怖症に該当する存在は増える一方だ。
どんなに些細な概念でも、恐怖を抱く人間が存在する限りそれらに宿った悪魔は出現する。駆逐することは叶わない。それこそ全人類の感情が失われでもしない限りは。
闇の悪魔が超越者と呼ばれるように、多くのものを内包する概念はそれだけで強大な力を持っている。
ならば、水場で最も恐ろしいのはなんだろうか。
海洋恐怖症には闇への恐怖も内包されている。正体の分からないものに対する恐怖も。闇の眷属とも、不明の眷属とも言えるかもしれない。
しかし一番恐ろしいのは、もちろん溺れて死ぬことへの恐怖である。
人は簡単に溺れる。
もし、水そのものの悪魔が出現すればデビルハンターは甚大な被害を受けるに違いない。ある世界の、怪奇を収集する財団が苦戦した、血を飲み干す生きた水の嵐のように。
水そのものでなくとも、その眷属もまた強いに違いない。
スキマ妖怪は、水中において無類の強さを誇る淡水の人魚姫を知っている。弾幕ごっこにおいて雑魚であろうとも、本人の自己肯定感が低かろうと。水中での勝負事で彼女は強い。
ならば目撃された、推定人魚の悪魔はどうだろうか。
現場付近に到着するまで、後部座席に座り雑談に興じていた彼女は横目で同行する人間を眺めた。
運転するのはいつもマキマの運転手をしている人間だ。彼らは悪魔への対処には出ないため待機だ。
出るのはユカリ、マキマ、姫野、佐原の四人。
今回も、この二人には荷が重いかもしれませんよ……マキマ。
口からは出さず、心の中でだけ彼女は呟く。
スパルタにも程があるだろう。
あるいは、マキマが彼女たちの実力を過大評価して見誤っているのか。
契約悪魔の力がなければ手も足も出ない人間が、大自然に属する悪魔に向かっていけるのかと不安になる。
特に姫野は現在、幽霊の悪魔との契約もしていない。そんな彼女には三年後も、そのあともずっと生きていてほしいと願っている存在だ。こんなところで死なせるわけにはいかないと、過保護極まりないことを考えていた。
博麗霊夢でもない、霧雨魔理沙でもない、十六夜咲夜でもない、東風谷早苗でもない。あるいは特別な力を元から持っている宇佐見菫子でもない。人間という種の一般人に対する
どれだけ人間に親しく、人間がいるからこそ成り立つ幻想郷を愛していても、妖怪としての価値観はただの人を下に見ている。それは、悪魔となにも変わらない。
なぜなら八雲紫は、妖怪たちのために社会的に消えても構わない人間を幻想郷に餌として引き込む役割すら担う『妖怪』の賢者なのだから。
「公安の人たち? あんたらが? 女性だけで大丈夫なんかね……」
「問題ありません。ご安心ください、悪魔の駆除はすぐに行われますので」
通報をした人物は船乗りの老人である。
責任者として彼としばらく話しているマキマを遠目に、残った三人は礼儀正しく待機しつつも雑談を続けていた。
「見て見て、バナナボートあるよ。あっちには普通のボートもあるけど」
「海の家も閑散としてますねえ」
「もう秋だもの。海水浴をする季節がとっくに終わっているのはある意味ありがたいことかもしれませんわね。あーあ、夏の間にマキマと海水浴来たかったなあ」
少しばかり肌寒い風が吹いている中、公安の制服を着ている二人とバリバリに制服を改造してユカリらしいフリルやら派手さを盛っている彼女は浮いていた。仕事仲間として来ていても、マキマの友人でなければ他人のふりをするレベルだ。
話を終えたマキマが帰ってくる。
その胸元にはしっかりとユカリの贈ったネクタイピンが溜まっていた。
お互いに記念日として贈り物をしたときからこの任務まで二ヶ月ほどの空白があったが、普段の仕事中でもしっかりと身につけてくれていることを確信してユカリはほくそ笑む。
幽々子は物よりも食べ物を贈るほうが喜ぶし、萃香は酒のほうが喜ぶ。霊夢に贈り物をしたときなどはなにを企んでるのかと怪しまれる始末。
素直に喜んで身につける道具を受け取ってくれるのはマキマしかいないのである。
藍でさえ、唐突に贈り物をするとなにかやったんですか? と、紫がなにかをやらかした後始末に駆り出されるのかと構えるのだ。
全ては日頃の行いによるものだが、八雲紫はその事実を無視して意識の彼方に放り投げる。
「目撃情報は聞けたかしら?」
「うん、問題なさそう。あとは見つけるだけだよ。それと……ついさっき違う悪魔も見かけたらしくて、そっちも退治してほしいみたい」
「どんな悪魔ですか?」
姫野が尋ねる。
するとマキマは遠くを見ながら答えた。
マキマの視線をユカリが追うと、そこにはバナナボート置き場がある。
「バナナの悪魔だって」
「バナナ」
姫野と佐原もマキマの視線を追ってバナナボートを眺める。
「もちろん、あれじゃないよ」
「そ、そうだよね? 見つめてるからてっきりあれのなかに紛れ込んでるのかと思った〜。マキマさん、どっち先にやる?」
「今、探知系の悪魔の力で探してるところだけど……人魚のほうが早く見つかったみたい」
マキマの頭上でカラスが鳴く。
彼女と目があったユカリは理解した。下等生物の目を借りての探索と、匂いでの探知どちらも行った結果『人魚』を先にしたほうがいいと彼女は言っているのだと。
マキマの案内に従って海沿いに歩いてきた面々は、海の中に人影を見た。
ゆらゆらと長い髪が波間に揺蕩い、肌寒い気温の中泳いでいるのはその人影しか存在しない。明らかにおかしいと分かるが、本当に悪魔だと確認を取るまでは迂闊に動くことはできなかった。
「奇特な人が本当にただ海水浴しにきてるだけの可能性もあるからね」
「本当にごくごく稀〜にあるんだよね、そういうの」
姫野も同意する。
ユカリはその手の事例に会ったことがないので、少なくとも一年と少しでは遭遇することもないほどわずかな可能性でそういうこともあるらしい。
「うん、魚の尻尾みたいなのが見えるね。本当に人魚の悪魔なのかも」
「伝説上の悪魔じゃない人魚の可能性もあるわよね?」
「ないとは思うけど、そうだったらどうするの?」
「生肝を食べると不老不死になれると評判ですわ」
「真偽の程は?」
「眉唾物ですね。単に妖怪化して長生きになるだけかもしれませんし。蓬莱の薬でもなければ魂が不死になったりはしませんもの」
「不老不死には興味ないから、この先も真相は分からないね」
「またよく分からない話して二人だけの世界に入っちゃってさ〜。で、あれ攻撃してもいいの? マキマさん」
ポンポンと軽口を叩いていたユカリとマキマは二人で顔を見合わせる。
二人の世界だなんて直接揶揄されるとさすがに気恥ずかしいのか、マキマは前髪を耳にかけて遠くを見る。
ユカリと二人きりでない状況で、普段公安の職員として見せている顔とは違う表情を出すのを僅かに後悔しているようだった。マキマは揶揄われるのはあまり好きじゃないのである。
「許可します」
「そうねぇ……でも、水中は人魚のフィールドでしょうし、外に引きずり出せるならそうしたほうがいいと思います」
「それじゃあ、ちゃちゃっと引きずり出しちゃいますか!」
気合いを入れた姫野が手を半分拳の形に、否。猫の手の形にして目標へ向けて伸ばした。
「猫、魚に悪戯しちゃって」
ニャアオオオオオオオオオウ
巨大な猫の手が伸びる。
その手は水槽の中の魚を叩き出すように海面を叩き、海中の人影を弾き飛ばす。
四人が立っているコンクリートの地面の上に投げ飛ばされた人影は、確かに人魚のシルエットをしていた。シルエットだけは、だが。
下腹部から大量に垂れ下がった臓物が足元で蝶結びになっている悪魔の姿に、人間は間違いなく生理的嫌悪感を覚えるだろう。
しかし、悠々と泳げる海中から投げ出されたのにもかかわらず、人魚はうめき声ひとつあげなかった。
慌てることもなく、ただ顔に張り付いた長い髪の下から見つめる目玉が四人を見上げ、歪に笑う。
その途端、姫野はその瞳の中に亡くした四人のバディの顔が浮かんで見えた。
「後悔していることはある?」
ザブン。
波の音がすぐそばで聞こえて、体が浮き上がる。
ゴボリと口から泡が吹き上がり、天へと昇っていった。
驚いて喉を掻きむしる。
何度踠いてもゴボゴボと酸素が肺から抜け出ていくばかり。
ゴボゴボ、ゴボリ。
周囲を見渡せば、その場の全員が僅かに地面から浮いていて、その口から命の泡を溢れさせていた。
水の恐怖。
それは溺れることにこそある。
「後悔で溺れろ」
空を鳥が飛んでいく。
この場の四人だけを対象にして強制的に溺れさせている悪魔は、まるでそこが水中であるかのように優雅に空を泳ぎ始める。
その悪魔は人魚でもなく、船を沈ませるだけの存在でもなく。
それは沈溺。
沈溺の悪魔によってその場の全員が、地上で溺れていた。
脳内デンジ君
「ギャハハハハ!聞けよポチタ!チンチンの悪魔だチンチンの悪魔!クソみてーな名前だぜ!」
・幽霊の悪魔との契約
右目を対価に〜とのことなので、アキと出会った時眼帯じゃなくて包帯をしている時点でアキと出会う少し前に契約したのかなと解釈している。
なるべく原作本編に出てきそうな大物は頑張って避けようと思うたびに性病の悪魔が頭をよぎって、原作がなんでもありだし逆に王道っぽいものは大丈夫かも……という気分になります。
この頃は第二次オカルトブームのはずなので、普通に口裂け女の悪魔とかいそうですよね。倒されるのも早そうだし、リポップするのも早そう。
原作に出てくる悪魔はみんな恐怖症から来てる説はありますけど、酸味はあっても苦味の恐怖症は見当たらなかったんだよなあ……とwiki見ながら思うなどしている。
沈溺の悪魔戦は次回までです。シリアスにはなりすぎない予定なので軽い気持ちでお楽しみください。