沈んでいる。
沈んでいる。
地上で溺れている。
ゴポリと堪えきれない空気が鼻から抜けていく。
喉を押さえた姫野は背中を丸めて目を閉じた。
――後悔していることなんていくらでもある。
……あのとき、ああすれば後輩が死なずに済んだんじゃないかとか、私が油断しなければ先輩が代わりに死ぬことはなかったんじゃないかとか。もっと悪魔を上手く使えていればとか、自分の力が強ければとか。もっと鍛えてればとか。もっとなりふり構わず悪魔と契約していれば良かったんじゃないかとか。
どうして自分だけが毎回生き残ってしまうんだろう、とか。
数えきれないほどにある。
ゴボリと口から酸素が抜けていく。
地上にいるのに水中のように浮いていて……いや、沈んでいて。前後左右、上下すら分からなくなる。
水中でだって溺れればどちらに水面があるのかどうすら分からなくなるらしい。今はまさにその状態だった。
息ができない。
今度こそ死ぬのだろうか。
ようやく死ねるのだろうか。
暗い気持ちが波のように押し寄せてくる。
「後悔している分、苦しんで、死ねばいい」
おぞましい人魚が私の頬を掴んで覗き込んでくる。
目玉の中に私の後悔を宿して責めてくる。ニヤニヤと愉悦に歪んだ口元はおぞましくも醜悪だ。
その瞳の中では、後悔という名の死者たちが口々に私を罵っていた。
あの人たちが決して言わないだろうひどい言葉も、ナイフを刺すように私へ向けられる。
死ねばいい。
死んでしまえ。
責め立てる声に、後悔の中で溺れて死んでしまえたら楽だと考えそうになって、それから首を振る。
その罵倒のどれもが、かつてのバディたちが言うはずのない言葉だと、希死念慮よりも違和感が勝った。
そして違和感を覚えたら次に浮かぶのは、怒りだ。
あの人たちはそんなこと言わない。
私に生きろと言った。
みんな、みんな、死んでいくそのときまで私なんかの心配をして、笑うんだ。
だからその度に私は泣いて、誰も眠っていない名前ばかりのお墓に花を供えた。天に昇ったであろうバディたちのもとに、私が思い出すたびに綺麗な花が降り注げばいいと願って。
この悪魔は、そんな私の大事な人たちを侮辱している。
ああ、お前に指摘されなくとも、分かってるんだよ。
今の自分がうじうじして、情けなくて、公安に入った当初の夢すらもうほとんど諦めていて、心がとっくに折れていることも、空元気の裏で自暴自棄になって迷惑をかけていることも!
……自分がどれだけダメなやつなのかは、私自身が一番知ってる!
でもそれをさあ! 他人に、しかも悪魔なんかにとやかく言われる筋合いはないっての!
「……っ、ねこ!」
巨大な手が目の前でニヤニヤ笑っていた悪魔の顔面を殴り飛ばして遠ざける。
ゴポゴポ……。
無理に猫を呼び出して口を開いたから、少しは持っていた酸素が一気に抜けていった。
息ができなくて苦しい。
一度後悔に溺れてしまったせいで、肉体はいまだに溺れているのだと錯覚している。そして、その錯覚を自力で解くのはかなり困難だ。
そうしているうちに、目の前に鎖が見えた。
必死に手を伸ばして鎖を掴む。冷たい。
ジャラララと、掴んだ途端ぐんぐんと鎖が引っ張られて浮上する。
そしてようやく呼吸ができるようになったとき、なにやら黄色い足場のようなものに跨ったマキマさんと、ユカリさんの姿を目撃してようやく安堵した。
「掴まって、後ろに乗りなさい。もう一人引き上げますから」
「ユカリ、そこ右」
「はいはい」
ユカリさんがなにやら黄色い乗り物を、取り付けた鎖で右に傾ける。マキマさんも手のひらの前から鎖を召喚して伸ばす。
やがて引き上げられたのは最後の一人。佐原ちゃんだ。
よく見たら私たちは空中に浮いていて、自分の跨っているものを認識した途端思わず悲鳴をあげる。どれだけ気持ち悪い悪魔に会おうと慣れていて恐怖心を抱くことは、もう今更ほとんどないけど。さすがに驚いた。生理的嫌悪感的な意味で。
「ちょうどよく流れてきていて助かりましたね」
「先にバナナボート見てなかったら発想もなかったと思う」
私たちが乗っていたのはバナナの悪魔だった。
鎖を口に噛まされ、泣きながら操縦されているでっかいバナナの悪魔、だった。
バナナの悪魔ボートの上で、真剣な顔で操縦しながらマキマさんが人魚っぽい姿の悪魔について、ユカリさんと対策を話し込んでいる。
この状況、果たしてツッコミを入れちゃダメなのだろうか。
先ほどまで死にたい気持ちになっていたというのに、今は困惑を隠せずに二人を見つめることしかできない。
ザバザバと空中なのに水を掻き分けるような音を出しながらバナナ(の悪魔)ボートが滑空する。
シュールだ。
「バナナボートは海に浮かんで走るものです。その認識がある限りバナナボートの上に乗っていれば水中ではないと脳が判断しますわ。どうかしらこの作戦。完璧ではなくって?」
それで助かったのは確かだ。
でも、得意げに話すユカリさんの言葉へ手放しに同意するのは、抵抗があった。
全員が救出されたせいか、人魚姿の悪魔が空中を泳いで追い縋ってくる。
それを巧みな操縦で躱していくマキマさんに、なんとも言えない気持ちになった。救出のための鎖の射出を終えたあと、すぐに操縦をユカリさんから代わったマキマさんは真剣な顔でバナナの悪魔を誘導している。
鎖の悪魔の力……だと思うけど、マキマさんの契約悪魔はどれだけいるのかとか、どんなものと契約しているのかなど、原則聞いてはならない。
普段使いしているのは鎖なのでそれだけは開示してくれているようなものだけど、確かにこれは便利だ。汎用性も高い。遠距離であれこれできるとこうも違うのかと勉強になった。
猫の悪魔も遠距離で使えるが、攻撃にしか使えないので応用のできる道具を検討してもいいんじゃないかと考える。
ときおり海面を跳ねるように頭上を人魚が飛び越していくが、バナナ(の悪魔)ボートと人魚のカーチェイスみたいなやりとりは客観的に見るとあまりにもデタラメで、冗談みたいな絵面だ。
「猫!」
佐原ちゃんの言葉でバシャアンと海面が叩かれるような音がする。
私も続いて猫の手を使うが、水中を泳ぐように移動する人魚のほうが避けるのが上手い。
「このまま市街地に逃げられたら困りますね。マキマ、鎖を網みたいにして人魚漁でも……マキマ?」
マキマさんの腰に手を回してボートの動きを受け流していたユカリさんは、怪訝そうな声で彼女を呼ぶ。ユカリさんにはいったいなにが見えたのか、心配そうな声だった。
後ろからではマキマさんの三つ編みしか見えない。
自分よりも遥かに頼りのある背中だ。
そんな彼女が振り返った。
「……ど、どうしよう、ユカリ。この状況、すごくクソ映画みたいじゃッガボッ、ガボボボボボ」
「マキマー!?」
青ざめたマキマさんの口から泡が吐き出される。喋るたびに酸素が抜けていくその状態は、先ほどまで私が陥っていた『後悔に溺れる』現象そのものだった。
「気をしっかり!! クソ映画はみんなで見ると楽しいものなのよ!! あなたは一人じゃないから大丈夫ですって!! 死因がクソ映画アレルギーになるなんて冗談じゃありませんわー!」
「ゴボゴボガボボボボ」
「きゃーーーー!! 落ちっ、落ちるっ!! 落ちる〜!!」
「マキマさん落ち着いて!! 佐原ちゃんは絶対私の腰離したらダメだかんね!! マキマさん! マキマさんしっかり!!」
バナナボートがめちゃくちゃな動きをして跳ね回る。上下反転していないのが嘘だと思うくらいにめちゃくちゃな運転のせいで遠心力が牙を向く。
今にも振り落とされそうな佐原ちゃんに活を入れて私は大声をあげた。このままじゃ転覆する!
「あっ、わっ、なんですかなんですか!? わっ、わっ、あわわっ、ばっ、バナナボートが〜!? 大きくなっていきますよ〜!?」
鎖で運転されているバナナの悪魔が肥大化する。
私たちが荒すぎる運転のせいでボートに乗っていること自体に恐怖しているから、それが栄養になったのかもしれない。怖がるなというほうが無理がある。水中のように浮いているとはいえ、バナナボートから落ちたら間違いなく落下死するだろうから。
「マキマ! クソ映画じゃありません! 現実はクソ映画なんかじゃありませんわ! こんなことで自分のしていることを後悔するなら、あなたの次の休みにクソ映画24時間耐久をやらせますよ!?」
「それだけは勘弁してください。うう、命令です。今の醜態を忘れて……」
「は、はあ……見なかったふりしますね……?」
「よ、酔いました……うぶ」
やっとバナナボートの動きが落ち着いて停止する。
鎖で操られたままとはいえ、大きくなったバナナボートはもはや跨ることもできないくらい大きいのでその上で座る。
即座にマキマさんが鎖を出してギチギチに縛られたのでシートベルト代わりだろうか。
「まさかこんなことでマキマが動揺するとは思いませんでした。休日に三本くらいクソ映画を見ましょうね」
「やだ……やだ……」
「これは決定です。こんなお間抜けな弱点は無くしたほうがいいですからね」
「た、助けて………………助けて、姫野ちゃん」
「わあ、ちゃん付けしてくれてる。マキマさんのこと、完璧超人すぎて嫌な人だと思ってたけど……結構おもしろい人だったんですね。今後もちゃん付けしてくれると嬉しいなあ」
「よかったじゃないマキマ。上司として親しみを持ってもらえるのはいいことよ」
「よくない……よくありません……威厳がなければ私は弱体化してしまいます……」
「もう手遅れだと思いま……うぷっ、うう……うべぇ……」
佐原ちゃんが本格的にやばい。ボートの外に顔を出して口元を押さえている彼女の肩を抱く。今にも吐きそうなくらい船酔いしてしまっている。
しかし、これだけ騒いでいるのに他は静かだ。
そこで気がついた。
「あれ、ところで人魚みたいな悪魔は……?」
私が呟いた瞬間、ボートの下から悪魔が鋭い牙の並んだ口を開けながら飛び出してきた。
「きゃああああ!! うぐっ、うぇっ、おぼろろろろろろろろ」
「ギャアアアアアアアア!!」
佐原ちゃんの目の前に飛び出してきた悪魔は不幸にも顔面にゲロを浴びて真っ逆様に落下していった。
「……今がチャンス! 猫、あの悪魔の頭を潰して!」
『いやだ……きたない……』
「あとであげる対価に、高級猫缶にツナ缶と、たっかいたっかいかつお節もつけてあげるから!」
『しょうがないな』
ニャオオオオオオオ
落下中の悪魔は猫の爪によって頭と首が切り裂かれ、そのまま物言わぬ死体となって横たわった。
「マキマ、バナナはもういいから鎖外して、全員手を繋ぎなさい!」
人魚のような悪魔が死んだということは、空中を水の中のように泳げる状態は解除されたということだ。
空中にいれば当然の如く自由落下が発生する。バナナが泣きながら吐瀉物まみれの死体の上へと落ちていった。
ユカリさんの指示通りに全員で手を繋ぐ。
そして次の瞬間、目の前の空間に異様な裂け目が開いて恐怖に目を見開く。新手かと身構えた私たちは、数秒後にはすでに地面の上に着地していた。
「今の……は……?」
「私の契約悪魔の力です。詳しくは内緒ですよ」
ユカリさんが指をさしたほうを振り返ると、先ほど見た裂け目と同じものが地面の近くに浮いていた。頭上を見れば、そっちにも裂け目が開いている。
あの裂け目に入って、地面に近いこの場所に吐き出されたのだろう。ワープのようなその力は契約悪魔の力としても有能すぎる。しかし、聞いたこともない能力だった。
強いデビルハンターはいつも規格外の力を使う。彼女もその一人だったということだと思う。マキマさんの友達と言うだけあって本当にすごい人だったんだ。
近くを見れば人魚のような悪魔の死体と、その上に落下死したバナナの悪魔の死体が重なっている。
「呼称するなら、多分沈溺の悪魔とバナナの悪魔かな。報告して現場の引き継ぎをしたら休みに行こっか」
「ずっと空中でしたけど、水中のような感覚でしたし、すぐにでもお風呂に入りたい気分です。マキマ、その辺のホテルにでも電話をして休める部屋があるか確認しましょう?」
「うん、そうだね」
「さんせ〜い」
ひと段落ついて疲れたので私も賛成の声をあげる。
「うべぁぁ……口の中がぁ……」
そして、四つん這いの状態で泣きごとを言っているバディを見て笑った。
「佐原ちゃんも休ませないとね」
こうして、私たちは二回目にしてまともに合同任務として仕事ができて、思わぬところでお互いを知ってほんのりと仲良くなることができたのだった。
・バナナの悪魔
その辺で歩いてたら突然ボートにされて地獄を見た。可哀想。
・VS.沈溺の悪魔
概念的に落下の悪魔さんの眷属に片足突っ込んでる。足一本だけど。
地獄を見た。一周回って可哀想かもしれない。
・助けて姫野ちゃん!
助けてチェンソーマン! って言いたいのをものすごく頑張ってグッと堪えた。えらい。
・クソ映画
クソ映画アレルギーにはクソ映画を処方しよう。
一人で見るからつまらないのであって、友達とツッコミ入れて笑いながら見る分には楽しいよ。
・猫の悪魔
狐の契約者が男ばっかりなので男しか契約してないのかな……と思って女性が契約できて効果が似ている悪魔を用意したかった。意外と活躍している。
力を貸す対価は基本的に後払いで食べ物を献上すること。マキマに調教されてるので対価は安い。ただし対価を踏み倒そうとすると不意打ちの猫の手に転ばされて怪我をしたりはする。ちゃんと約束は守ろうね。
・佐原
沈溺の悪魔討伐のMVP。コベニちゃん属性がちょっとだけついている。
・姫野
ちょっと立ち直った。
ここからマキマは姫野のことをちゃん付けし始めるし、姫野は敬語が消える。