「……ある、とても心優しい君主は住民たちのために、あらゆる危険や不安を取り除いて娯楽を提供し、平穏に暮らせるようにしてあげました。まるで我が子を危険の一切がない部屋へ閉じ込めるように」
マキマを自身の隣に座らせ、ベッドの上で髪を梳くユカリがぽつり、ぽつりと話し始めた。
勝ったら話を聞く。その約束を守り、マキマも黙ってそれを聞いている。
「けれどその結果……人々はより些細なことに不安と恐怖を覚えるようになってしまいました。包丁も棘もない。丸くて安全な空間にいても、そこからなにかが突然起こるのではないかと、ありもしない危険を妄想するように。互いの思いやりも喜びも忘れて、自分自身の内なる感傷だけを取り憑かれたように気にするようになってしまいました」
マキマの髪の束をいくらか分けて、ユカリ自身の髪のように一束ずつリボンで飾っていく。
淡々と語られる話に耳を傾けながら、マキマは想像する。
あらゆる恐怖を取り除いた結果、今度はもっと些細なことでも、そしてありもしないものにも恐怖するようになり、果てのない不安に取り憑かれてしまうだろう人類のことを。
「とても心優しい君主はそれを見て嘆き悲しんで、怒りのあまりに自ら危険を呼び寄せて人々にけしかけました。しかし人々は危険が迫っても、それよりも自分の考える危険のことで頭がいっぱいで取り合ったりしません。君主は人々を襲いながらも、分かっていました。自分の今の行いは罪だと。そうして、彼は自らを滅ぼす者が現れるのをずっと待つことになりましたとさ」
ユカリの話が一区切りついたところでマキマが首を傾ける。すっかりユカリとお揃いの髪型にされてしまった彼女は人形のように可愛らしく、ユカリは満足げに笑った。
「それって、なにかの寓話? 私は思い当たるものがなくて……結構知っているほうだと思うんだけど」
「いいえ、寓話ではありませんよ。ただのたとえ話ですわ。私が言いたいのは……人々のためにあなたが尽くして、なにかを遠ざけようとしても人々は無くなったものに目を向けず、そこにあるものから新たに恐怖を見出してしまうということです。人の心には果てがありません。それは欲望だけでなく、恐怖も同じことなのです」
「だから、私がチェンソーマンになにかを食べさせてもあまり意味がないということですか。概念ごと消え去ってしまえば幸福に生きられるわけではないと?」
はじめての喧嘩を経たせいか、いまだに少しばかり納得いかないという態度を取る彼女にユカリは微笑ましいものを見る目を向ける。
「喧嘩をする前に言いましたね。たとえば、『死』をチェンソーマンが食べてロストワードになったとしましょう。そうしたらどんな世界ができるでしょうか」
「人々が辿り着く結末の最後の一つが消えれば、死に怯えて生きることもなくなる……と思っていましたが」
「そうねえ、数ヶ月前に見た『永遠に美しく……』を覚えているかしら? あれがまさにそういう状態だったじゃない。死がなくなって、主人公たちは幸福になれたかしら?」
「……本人たちはなにも気にしていないのに、周囲から見ると悲惨そのものでした」
永遠の美しさを得る代わりに、老いず、体が損傷しても死んでも治ることはなく、損なった部分をエンバーミング技術によって補って誤魔化すしかなく、最後には生首になっても二人は口々に言い争い続ける。そんな映画は、永遠の美しさという命題を捉えるうえで、人間が考え得る最高の皮肉に満ちていた。
「戦争を無くしても人々の本能的な競争心、争うことがなくなるわけではありません。争う心とより良い環境を目指す欲望がある限り、人々はたとえ戦争を無くしても再び見つけてしまうでしょう。概念を消し去っても再発見されてしまう可能性がどこまでも付き纏います。だからといってなにもかもを消し去ってしまえば、そこに最後に残るのは果たして人間と言えるでしょうか?」
感情があるからこそ自身の幸せを追い求め、争い、歴史が編まれていく。
その根源まで辿って消し去ってしまえば確かに最悪な平和が訪れるかもしれない。
しかし、そうなった人間を想像してマキマは顔を顰めた。
「なにもかもを取り上げられた人間たちで平和を築くのなら、そこにあるのはお人形遊びをするあなたと、心をなくした無数の無個性な人形たちだけが残されることでしょう。それをあなたは人々の幸福として定義できますか?」
「人形の悪魔を、そして人形にされた人間を知っています……確かに、あれでは幸せな世界を築けるとは思えません」
「世界のニュースで見たのかしら。ええそうですね、日本に人形の悪魔がいないのは良いことですが……あれの天下が来ると考えたら、あまりにも想像する平和な世界とはズレるでしょう?」
ユカリは隣の彼女に頭を傾けて目を瞑った。
寄りかかられたマキマのほうは、いかにも真面目そうな顔で考えている。彼女が人類のために幸福をもたらそうとしていることに嘘はない。
マキマの場合、視点がどうしても犬たちを愛玩し、安全に暮らせるように整える飼い主のそれであるというだけで。
「死を取り除けば終わりはなくなります。老いを取り除けばありとあらゆる成長が止まり、現在生きている人々だけがこれからも存続していくことになります。老いないということは成長をしないということ。新たに生まれる子どもたちも存在しなくなることでしょう。赤ん坊は赤ん坊のまま、妊婦は妊婦のまま、永遠に。世界はなにかを欠けさせてしまうと、それだけでとても歪になってしまうのです」
なにかを取り除けばなにかのバランスが崩れて、それを直すためにまたなにかを取り除けば今度は別の部分が不安定になり、そうして世界は絶妙なバランスの上に築きあげられている。
「私のこのたとえ話で納得はできたかしら」
「……うん。ひとまず、リスクがあまりにも大きいことは理解できました」
「小さな蝶の羽ばたきひとつで世界に変革が起きることもあれば、社会の大きな流れを変えることができず苦悩することもあるでしょう。世界とは恐ろしくも美しい均衡によってできているのです。それはそれは残酷なことですわ」
マキマはすっかり落ち着きを取り戻した声色で返事をする。
それに安心しながら、ユカリはひとまず話を止める。それこそ一人で羽ばたいた結果、大きな流れの波をかき分けてわずかな変化をもたらしたようなものだが、これは本人には決して言うことのできない秘密である。
八雲紫はただ、マキマとともにこのまま友人として付き合っていきたい。そのために必要な心の変化だった。思っていたよりもマキマの考えが固定化されていて、そう簡単には変えることができなかったが、今回のことで少しは今後のことも安心できるだろう。
佐原のことも、少しずつ飲み込んで受け入れられればいい。
大事な友達がなにかのせいで死んでしまったのなら、悲しんで、怒りに我を忘れるのも自然なことだ。そうして少しずつ受け入れて、自分の心をなだめて、心に折り合いをつけていくのが人というものである。
「不老不死の人間にあったことがあるけれど、本人たちにとってはあんまり良さそうなものでもありませんでした。楽しんでいるのと、嘆いているの、両方いますからね」
「へえ……妙に実感があるような話をすると思ったけど、実際にいるんだ。その、幻想郷ってところには」
「ええ、いろんな存在が住んでいますから」
「ユカリはまだダメって言うけど、いつかは連れて行ってくださいね」
「いつかはね。ちゃんとご招待するつもりです」
真面目な話が終わったからか、マキマは言外に幻想郷についての話が聞きたいとユカリにねだる。それに応えて幻想郷の異変や巫女の話をしながら、ユカリは考えていた。
マキマにいくら頼まれても、今はまだ幻想郷に彼女を連れていくことはできない。なぜなら、世界から支配の悪魔が消えた場合にどうなるか……予測がある程度ついているからだ。
まだ、ナユタの登場には早すぎる。
だから、ユカリはスキマ越しに幻想郷の景色を見せるだけで済ませている。
マキマが幻想郷に来なければならなくなるような、どうしようもない問題が起こらなければいいと願いながら。
「マキマ、せっかくの有給休暇なんですし二人でごろごろしましょう? この部屋ならワンちゃんたちにも邪魔されずに触れ合えますから」
「わっ」
座っていたベッドの上にマキマを引き倒して自分自身も寝転がったユカリは、彼女を抱き枕代わりにしてくすくすと笑う。
「上野の動物園か、山下公園のビアガーデンにまた行くか、どちらにします?」
「二日にわけてどっちも行くとかどうかな」
「欲張りさんね。そうこなくっちゃ! それじゃあ……」
満更でもなさそうなマキマを見てユカリは微笑む。
世界のことなど考えず、やっぱり幽々子とマキマに囲まれてお酒飲みたいなあ……と思う心を自制しながら。
・心優しい君主
フリーゲームネタ。Switchでできるようになって嬉しい。OFFはいいぞ。
・幻想入りはまだ
支配の悪魔が世界からいなくなる→新たな支配の悪魔が生まれる可能性がある→まだ連れていくわけにはいかない。
・今後
ユカリはデンジがチェンソーマンになることを止めるつもりがないのでそこは変わりません。マキマに彼らの安全確保を早めにしたほうがいいよとかの忠告もしません。融合したまま意識を分離する術を考える派。
明日は一日更新休みにします