白銀の世界にしんしんと雪が降り積もる。
鉛色の空からゆっくり落ちてくる柔らかくて、冷たいものが肌に触れてじわりと溶けた。
降りしきる白銀の世界で姫野は倒れていた。
埋まりつつある手の感覚はもはや存在しない。冷たさに触れ続け、雪に覆われる大地のように指先の感覚が麻痺し、失われている。
雪は実家の青森で親しんだ、恐ろしくも身近な存在だった。故に、姫野は此度の仕事がスキー場だと知り、不安がよぎったことを覚えている。
雪は冷たくて、寂しくて、儚いように見えるが、なにもかもを覆って隠してしまうほどに恐ろしいものだ。雪の降る日には遭難する者が増えて、人が消える。足を滑らせて滑落する危険性もある。
雪は一見して美しいが、それに親しむ人間は知っているのだ。
遠くから見る分には美しいが、それが人類にとっての脅威であることが。
雪もまた、根源的恐怖に近い存在であると。
遥か昔から寒さと冷たさは、生き物が生きていくうえでの脅威であり続けた。
ある生き物は眠って耐え忍ぶことを選び、ある生き物はそれでも生きていくための毛皮や耐性を得る。
では人間は?
同じく脅威である火と親しみ、そして叡智と経験により生き延びていく術を手に入れた。
しかし大自然の前では人間の一人や二人が耐え忍ぼうとしたところで、他に頼るものがなければ立ち向かうことすらできない。
(ああ……私もここで終わりなのかな……)
毛むくじゃらの滑稽な姿の悪魔が笑っている。
体を無数の手が覆い、口元に人差し指が立てられた腕を添えた悪魔が三人目のバディの上に立っている。
先ほどまで叫んでいたらしきバディの断末魔は聞こえなかった。
雪が降り続け、不自然なまでに無音の世界で、倒れた姫野はただ運が良かったという理由だけで今生きている。先に狙われたのがバディのほうだったという理由だけで、かろうじて息をしている。
つい先日契約を交わした猫の手は寒いからか動きが鈍く、雪の中で縦横無尽に動ける雪の悪魔と、音を消失させることのできる音の悪魔を前にしては相性が悪く攻撃を当てることすらできなかった。移動音さえ消えている中、悪魔たちの奇襲は必ず成功し、姫野たちデビルハンターの動きは積もった雪で足を取られて容易に捉えられた。
直接攻撃ではなく、カビの悪魔のような視界に捉えてさえいれば通用するような力があればあるいは結果は違ったかもしれない。
姫野がこうして、踏みつけにされたバディを前にトドメを刺されないのは悪魔たちの趣向に他ならない。無力感を前に、雪の冷たさでじわじわと絶望させ、命を奪おうとしているのだ。
雪に散った相棒の赤色が白く覆われていく。
(今度こそ私も終わりかなあ……もう、いいかな……どんなに頑張っても、大事に思ってても、みんな私の前からいなくなっちゃうし)
折れた心では前に伸ばした手を動かすことはできなかった。
(銃野郎を殺したくて……公安に入って……せっかく上手いこと生き残ってきたのにな)
この身が滅びようとも殺したい存在があった。
だけれど、今。そうして『生き残ってきた』ことを思う時点で姫野の気持ちは徹底的に折れている。
死んでもいいから一匹でも多くの悪魔を屠ろうと思えなくなってしまった彼女は、どうしようもなく――まともだった。
真っ白な雪が降りしきる。
彼女の折れた心を麻痺させるように。殺すように。
悪魔たちは凍死に向かっていく姫野を眺めながら笑っている。
直接殺さないのは、恐怖する様子を、絶望する様子を眺めるのが面白いからだろうか。
全ての悪魔は人間が苦しんで死ぬべきだと本能で考えている。
だから、今の姫野は彼らに娯楽として消費されているのだ。
(チクショ……もう、一片も動かない……)
悔しいと思う気持ちも、可愛い相棒を殺した悪魔たちへ一矢報いたいと思う気持ちもはじめはあった。しかし、それさえも雪に覆われて見えなくなってしまう。ただただ、寂しさが身体の芯まで貫いている。
雪と音の悪魔が笑っている。
一見して美しいが、恐ろしい雪が降りしきる。
笑っている音の悪魔の下半身が、唐突に空いた裂け目の中に消えてどさりと落下する。
(……え?)
ひうん、とも、ジャラララとも言える音が頭上を通り過ぎて雪の悪魔を捕える。突然死んだ音の悪魔に驚いて、反射的でも逃げることができなかった雪の悪魔は鎖のようなもので引き絞られ雪の中に倒れ込んだ。
動けない姫野にはなにが起きたのか分からなかった。
ザクザクと雪を踏む音が聞こえる。
そして倒れた姫野の真横を静かに歩いていく誰かが見えた。
(あれって……確か、マキマ……さん……?)
自分よりも遥かに実力があり、内閣官房長官直属デビルハンターということで憧れる人物は多い。ピンクブロンドとも赤毛とも言える三つ編みを揺らし、姿勢良く歩く彼女が倒れた雪の悪魔の前で立ち止まる。
「あら、随分と可愛くない姿をしている悪魔ね」
「悪魔はだいたいこういうものだよ」
「雪といえばもっと可愛くてもいいのに」
鎖で縛り上げた雪の悪魔を前に、先ほど音の悪魔を殺した裂け目が開いてその中から女性の上半身が乗り出してくる。
(あれは、誰だろ……マキマさんの契約悪魔……? あれ、私が見ちゃってもいいものなの……? やば)
そうして一言二言交わしたあと、裂け目の中に雪の悪魔が押し込まれて消えていく。振り向いた二人の目があって、慌てて姫野は目を伏せた。しかし目があってしまったのは事実である。姫野が生きて、しっかりと目撃していたことを認識したのだろう二人が近づいてくる。
「姫野さん、だっけ。あなたたちが行方不明になって一日経ってしまったので捜索に来ました、マキマです。意識はあるようですね。あなただけでも助かって良かった。すぐに病院へ搬送するので、もう少しだけ耐えてください。救急車両が麓まで来ますから」
姫野の目の前にしゃがんだマキマがそう話し、彼女の冷たくなってしまった手を取る。
「麓までは私が運びます。抱きかかえますが、失礼しても?」
「……君の、いた、い、は……」
頷く。しかし、先に聞きたかったのはバディの亡骸についてだった。
マキマに対して尋ねると、彼女は隣の空間に浮かんだ裂け目に向かって話す。
「亡骸は回収して葬儀の手配をしよう。姫野さん、遺体の損壊はそれほどされてないから、ちゃんとお墓の下に埋めてあげられると思います。彼も連れていくので、安心してください」
「そ……で……す、か……」
言葉が出ない。
冷たくなりすぎて、瞼が落ちてくる。
気力だけで保っていた意識がついに途切れそうになっているのだ。限界はとっくに迎えていたので、姫野がここまで耐えることができていたのは奇跡に近い。
「お身体失礼します」
マキマの腕が姫野を抱きかかえる。
仰向けに抱えられた姫野は天からいまだ降りやまぬ雪を見た。
一見して美しい雪が降る。
美しくも恐ろしい雪はどこかマキマにも似ている気がした。
「有給中でもこうなるのね」
「仕方ないよ。救出が間に合って良かった。優秀な人だから、私の作る特異課に欲しい人材だったんだよね」
聞こえるのは裂け目の中のもう一人の声だろう。随分と仲良さげな雰囲気に、姫野は亡くなった相棒を思ってじわりと視界が滲むのを感じた。
現場はスキー場のコースから外れた場所であったため、二人は本来レジャーに来ていたのかもしれない。公安の中でも実力のあるマキマが偶然とはいえ近場に来ていたのは、姫野にとってはとても運の良いことだっただろう。
しかし、そうして幸運にも生き残ってしまった彼女は、自分の幸運に感謝するとともに考えてしまうのだ。
どうして、もっと早く来てくれなかったの、と。
理不尽な思いなのは理解していて、マキマを責める謂れはない。しかし、もっと早くに発見されていれば彼女のバディは死ななかったかもしれない。
何度も己のバディとなった人間が死ぬのを経験してきた姫野は、いまだ親しくした相棒の死に慣れることはなかった。
身体が傷ついても恐れず悪魔を殺すことだけを考えて動くことはできた。しかし、心はどうしようもできなかった。心だけは、どうか無痛であれと願っても痛みを堪えることができなかった。
かつての相棒の死に抉られた傷にかさぶたができて、また抉られて傷を治して、また抉られる。決して綺麗に治りはしない跡が残ったぐちゃぐちゃの心を抱えて、姫野は目を閉じる。
「姫野さん、凍っちゃいますよ」
目元に触れたマキマの手は、悲しいほどにあたたかかった。
……
…………
………………
「雪の悪魔は支配して悪魔収容所に確保。音の悪魔の死体は回収してあるから猫の餌にでもして……遺族への説明と葬儀の手配の手伝い。書類仕事に……スキー場の脅威が駆除されたことのお知らせをして……各種方面に連絡。やることがいっぱいあるね」
「頑張って、マキマ。全部終わったら時間を取られた分の有給も要求して遊びましょ」
「うん、ごねられても押し通すつもり。せっかくはじめてのスキーだったのに……」
姫野を救急車に乗せ、後始末に奔走したマキマがホテルに帰ることができたのはもう夜だった。
電話連絡でもう一日有給をもぎ取り、ホテルの滞在日数を延ばす。
自宅の犬たちの世話を頼んでいるサービスにも延長を申し込み、マキマはようやくホテルのベッドに倒れ込むようにして身を投げ出したのだった。
「スキーウェアも脱いじゃいなさいな」
「んう……夕飯のバイキングの時間はもう近いんだっけ」
「あと三十分ほどですね。シャワーを浴びる時間はなさそう」
「なら、あとで一緒に温泉に入りに行こう。寒くなっちゃった」
「私も寒いから眠くて眠くてしょうがないの……あたたかいお風呂でゆっくりするのは賛成よ」
八雲紫は、本来冬には冬眠をしている。
こうして遊び回っている場合もあるが、冬に眠たくなるのは真実であるため今回も雪の中、ユカリは半分眠りそうになりながらせっせとスキマを使って働いていたのだった。
「そのあと部屋でちょっと飲んで寝ようかな」
「最近毎日飲んでいるようだけど、大丈夫なの?」
「私の酔いは適当な日本国民の酔いへと変換され、潰れることはありません」
「どこかの誰かは適切に飲んでいるのにマキマのせいで潰れちゃうのね。おかわいそうに」
「冗談だよ」
「だと思いました」
当たり前のように同じ部屋に泊まっている二人は、そうして着替えて夕食会場へ向けて歩いていく。
「この時期は悪魔の被害でなくとも行方不明が多いから怖いわね」
「たまに神隠し扱いされることもあるみたい。ユカリの仕業……ではないよね」
「もちろんですわ。多数被害が出た際のご遺体をほんの少しちょろまかすくらいしかしておりません」
「してるんだね」
「どちらにせよ身元不明になるご遺体なのだからいいじゃない」
「本当は良くないんだけどな」
幻想郷の人喰い妖怪のために、八雲紫は身元不明の人物や社会的にいなくなっても気付かれない人間を引き込むことがよくある。今回のそれも、同じく幻想郷の食糧事情のためにしていることであった。
困ったように顎に手をやって考え込むマキマを見て、ユカリは誤魔化すために話題を続ける。
「あとは……あなたの上司の、秘蔵のワインセラーから数本お高い年代ものワインを取ってきていたり……」
「もしかして部屋の冷蔵庫に入ってたのって」
「そう、そのワインです」
「最高。許すね」
「おいしく飲みましょうね」
「もちろん」
1991年の冬。
二人が出会ってから季節は巡り、クリスマスも間近に迫る時期の出来事だった。
◇
「二匹ともやられちゃったのね。まあいいでしょう。もうしばらくは大人しく神隠しするだけにしてさしあげますわ。そのあとに会いましょうね、悪魔じゃない、私のそっくりさん」
・姫野
公安三年目くらい。
一年半くらいはじめのバディ(先輩).と過ごして死なれて、次のバディは新人ですぐ死んじゃって、三人目でまた一年ちょっとくらいだったんじゃないかな。
・雪の悪魔
二部で出てきたので、二部で出てきたメンツは多分特異課か悪魔収容所の奴らなのかなと思っての選出。
・音の悪魔
可愛くないルナチャイルド。
捕まえれば人員の契約悪魔として便利だったんじゃないかと思われるが、カッコよく助けに入ろうとした紫が下半身スキマ送りにしちゃった。
・ゆかマキ
有給取ってはじめてのスキーをしにきてたら応援要請が入った。
応援要請は電波が悪くて届いていなかった、亡くなった人物による鬼電の履歴とメールだったらしい。
要請を受けて確認したら丸一日帰ってきていないことが判明した。