これまでのお話の蛇足です。
違和感の正体をお伝えできればと思います。
「昨日からずっと空を見てるのかよ」
その声は、乾いた笑いとともに、僕の耳に届いた。まるで風に吹かれた枯葉が地面を擦るような、ざらついた響きだった。声の主は、僕の背後に立っていた。振り返ると、そこには一人の男がいた。
彼は、時代に取り残されたような風貌をしていた。毛玉のついたコートは色褪せ、袖口はほつれていた。足元の靴は片方の紐が切れ、もう片方は結ばれてすらいなかった。手にはくしゃくしゃになった紙袋をぶら下げており、その中には何か重そうなものが入っているようだった。顔は日焼けしていて、皮膚は乾燥し、ひび割れた大地のように皺が刻まれていた。
「ここは……どこですか」
僕はそう尋ねた。声は自分のものとは思えないほど掠れていた。喉の奥から絞り出すような、かすかな音だった。男は肩をすくめ、何も言わずにベンチの端に腰を下ろした。ベンチは鉄製で、塗装が剥げ、錆が浮いていた。彼が腰を下ろすと、金属が軋む音が静寂の中に響いた。
「公園だよ。昨日もここにいたじゃないか。ずっと空、見てたろ」
僕は空を見上げた。雲は薄く、まるで和紙に水を垂らしたように、滲んだ白が広がっていた。その向こうには青が広がっていたが、その青はどこか人工的だった。絵の具で塗られたような均一さを持ち、自然の揺らぎが感じられなかった。風はなく、葉は動かない。音もない。まるで、世界が一枚の絵になったようだった。
周囲を見渡すと、木々は静止し、鳥の声も聞こえなかった。遠くに見える遊具は色褪せ、誰もいない。砂場には足跡ひとつなく、滑り台の金属は冷たく光っていた。まるで時間が止まってしまったかのような、異様な静けさだった。
男は紙袋から何かを取り出した。古びたパンだった。彼はそれをちぎりながら、僕に差し出した。僕は手を伸ばしたが、指先が震えていた。パンを受け取ると、その温もりが指に伝わった。なぜか涙がこぼれそうになった。
「名前は?」
男が尋ねた。僕は答えようとしたが、思い出せなかった。頭の中が霧に包まれたようで、何も浮かばなかった。
昨日。
その言葉が、僕の中で幾度も反響していた。まるで、深い洞窟の奥で誰かが囁いた声が、幾重にもこだまして戻ってくるように。昨日とは何だったのか。昨日までの記憶は、まるで砂上の楼閣のように、急速に崩れ始めていた。
手形のある窓辺。探偵の影。意味を持たぬ言葉。滲んだ紙片。
それらは確かに、僕の記憶の中に存在していたはずだった。だが、今思い返すと、どこか異常だった。場面は断裂し、人物の輪郭は曖昧で、言葉は意味を持たず、ただ音として脳内を漂っていた。
僕は自分の手を見た。指先は冷たく、爪の色は血の気を失ったように薄かった。まるで、長い間水に浸されていたかのような感覚。ポケットには、数枚の紙が入っていた。震える手でそれを取り出すと、どの紙も文字が滲んでいて、読み取ることはできなかった。インクが流れ、紙の繊維に染み込み、意味を奪っていた。
記録の痕跡はある。だが、それが現実だったかどうかは、わからない。夢か幻か、あるいは誰かが僕に植え付けた虚構か。
「僕は今日来たんじゃないんですか」
僕は、隣に座る男にそう尋ねた。声は掠れていた。喉の奥から、乾いた音が漏れた。
男は笑った。その笑いは、風に舞う枯葉のように軽く、そして冷たかった。
「そんなこと、俺に聞くなよ。お前が昨日からここにいるってだけだ」
僕はベンチに深く腰を下ろし、目を閉じた。記憶の断片が、脳内で回転していた。梨香の声、美里の笑顔、トキのアルバム──それらは、確かに僕の中にあった。だが、それが現実だったかどうかは、わからない。
記憶は、まるで水面に浮かぶ落ち葉のように、揺れながら沈んでいく。触れようとすればするほど、遠ざかっていく。
この場所は、どこなのか。
この身体は、誰なのか。
僕は自分自身が異常であると疑い始めていた。意識の輪郭がぼやけ、現実との接点が失われていく感覚。まるで、世界が僕を拒絶しているかのようだった。
男は紙袋からパンを取り出し、もそもそと食べ始めた。その動作は、まるで儀式のように静かで、無言だった。
「僕は、昨日からここにいたんですか」
その問いは、まるで自分自身の存在を確かめるための呟きだった。声は空気に溶け、誰に向けたものかも曖昧だったが、隣にいた男はパンを噛みながら、億劫そうに頷いた。彼の顎の動きは緩慢で、咀嚼の音すらこの世界には響かなかった。
僕はベンチを離れ、ゆっくりと公園の奥へ歩き出した。背後で男が紙袋を膝に置き直す気配がしたが、振り返ることはなかった。
足元の砂利は、踏みしめても音は聞こえなかった。まるで靴底が地面に吸収されているような感覚。歩くという行為が、物理的な痕跡を残さない。世界は、僕の存在を受け入れているのではなく、ただ通過させているだけのようだった。踏破の感覚が希薄で、歩行が空虚に思えた。
木々は静止していた。枝の先にある葉は、まるで貼り付けられた紙のように動かなかった。風はない。音もない。空気は密閉された容器のように、外界との接触を拒んでいた。世界は、静止画のように僕を包んでいた。まるで、誰かが描いた風景画の中を歩いているようだった。
空は青かった。だが、その青は均一すぎた。絵の具で塗られたような、濃淡のない青。雲は薄く、輪郭が曖昧だった。まるで、誰かが記憶の中で描いた空を、現実に投影したかのような不自然さがあった。空の青は、感情を持たない色だった。憂いも、希望も、何も宿していない。
歩いているうちに、視界の端に人影が見えた。
ベンチに腰かけている女性。長い髪を後ろで束ね、膝の上に紙袋を置いている。横顔が、梨香さんに似ていた。頬の線、首の傾き、指先の細さ──それらが、僕の記憶の中の梨香さんと重なった。
だが、記憶は曖昧だった。梨香という名前が、どこか遠くから響いてくるように感じられた。彼女の声、笑い方、歩き方──それらは断片的に浮かんでは消え、まるで水面に映る月のように、手を伸ばせば揺れてしまう。
僕は歩みを止め、彼女を見つめた。彼女は動かなかった。まるで、僕の視線を受け止めることすら拒んでいるかのように。紙袋の中には何が入っているのか、彼女の指はその縁を軽く撫でていた。
公園の奥は、さらに静寂に包まれていた。木々の密度が増し、光が届かない場所もあった。そこでは、時間が凍結しているようだった。枝の間から差し込む光は、まるで舞台照明のように限定的で、現実感を削いでいた。
僕は再び歩き出した。彼女に近づくにつれ、心臓の鼓動が強くなった。だが、それは恐怖ではなかった。懐かしさとも違う。ただ、何かを確かめたいという衝動だった。
「梨香さん……ですか?」
彼女の横顔は、やはり梨香さんに似ていた。だが、確信は持てなかった。
「昨日から、僕はここにいたらしいです」
声は掠れていた。自分のものとは思えないほど、乾いていた。喉の奥から絞り出されたその音は、まるで長い年月を経て風化した石碑の文字のように、意味を持たぬまま空気に溶けていった。言葉は確かに発せられたはずなのに、耳に届く前に崩れ落ちるような感覚があった。
女性は顔を上げた。その動作は緩やかで、まるで水面に映る月を見上げるような静けさを伴っていた。だが、その目は僕が知らない人間の目だった。瞳の奥にある記憶の層が、僕と交差しない。そこには、僕という存在に対する認識の痕跡すらなかった。
「昨日って、何?」
彼女の声は、風のない空間に響いた。その響きは、まるで水面に落ちた一滴の雫のように、静かに広がった。
彼女は微笑んでいた。だが、それは礼儀の微笑であり、親しみのものではなかった。社交の仮面を纏った、距離を保つための笑み。その口元の動きに、懐かしさは宿っていなかった。
「すみません、人違いでした」
僕はそう言って、頭を下げた。言葉は自動的に口をついて出た。謝罪の形式をなぞるだけの、感情の伴わない音列。彼女は再び視線を逸らし、膝の上に置かれた紙袋の縁を指先で撫でていた。その仕草は、僕の存在が彼女の世界に何の影響も与えていないことを示していた。
足早にその場を離れた。歩みは軽く、だが心は重かった。心臓が妙に静かだった。鼓動はあるのに、感情が伴っていない。まるで、身体が空の器になったようだった。内側に何も満たされていない、ただ形だけの存在。
僕は再び歩き出した。公園の出口を抜けると、舗装された歩道がまっすぐに伸びていた。灰色のアスファルトは、まるで無機質な川のように、両脇の街路樹に挟まれて静かに流れていた。樹々は整然と並び、枝葉は風の気配すら拒むように微動だにせず、まるで紙細工のように空間に貼り付いていた。
電柱の影が地面に規則正しく落ちていた。影は濃く、輪郭が異様にくっきりしていた。太陽は高く、雲ひとつない空に浮かんでいたが、その光はどこか冷たく、温度を持たない。まるで、照明装置が空に吊るされているかのようだった。
だが、何かが違っていた。
車の音がしない。人の声がしない。鳥の囀りも、風のざわめきも、遠くの工事音も、すべてが消えていた。世界は、音を失った舞台装置のように、ただ形だけを保っていた。空間は存在しているのに、時間が流れていない。僕の歩みだけが、無音の中で虚しく響いていた。
やがて、交番が見えてきた。
小さな建物だった。白い壁に青い庇がついており、窓の内側には色褪せた交通安全のポスターが貼られていた。ポスターの人物は笑っていたが、その笑顔はどこか空虚で、意味を感じない。まるで、誰かが「笑顔」として描いた記号のようだった。
中には制服姿の警官が一人、書類をめくっていた。彼の動作は緩慢で、まるで時間の流れに逆らっているかのようだった。僕は戸口に立ち、深く息を吸った。空気は重く、肺に入っても酸素の感覚がなかった。それでも、僕は扉を開けた。
「すみません、少しお話を……」
声は掠れていた。自分のものとは思えないほど、乾いていた。警官は顔を上げた。年配の男性で、眼鏡の奥の目が僕をじっと見つめた。その視線は冷静で、無駄がなかった。彼の目は、僕の服装、髪の乱れ、手の震えを一瞬で把握したようだった。
「どうしましたか?」
その声は、機械のように均一だった。感情の起伏がなく、ただ言葉として発せられた音だった。
「……僕、昨日から公園にいて……でも、昨日のことが、よく思い出せないんです。名前も、住所も……」
言葉が自分の口から出ていくたびに、現実が遠のいていく気がした。まるで、言葉が空間に吸収され、意味を持たずに消えていくようだった。警官はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がり、奥の棚からファイルを取り出した。
「ちょっと待っててください」
彼は電話をかけ、何やら小声で話していた。僕は椅子に腰を下ろし、交番の中を見回した。壁には地図、落とし物の一覧、地域の防犯情報。どれも見慣れたようで、どこか異質だった。まるで、現実を模倣した模型のようだった。椅子の硬さ、空気の匂い、時計の針の動き──すべてが、現実のようでいて、現実ではなかった。
やがて、警官が戻ってきた。手には一枚の紙を持っていた。
「あなた、一昨日の朝、この公園のベンチで発見されました。通報があって、救急隊が駆けつけたんです。意識はあったけど、名前も住所も答えられなかった。病院で検査を受けたけど、外傷はなし。ただ一過性健忘……記憶が混乱しているようだと」
僕はその言葉を、うまく理解できなかった。言葉は意味を持っていたが、僕の中に届く前に崩れていった。まるで、理解するための器が僕の中に存在していないかのようだった。
「つまり……僕は、記憶喪失なんですか?」
警官は頷いた。その動作は、まるで既に何度も繰り返された演技のようだった。
「そういうことになりますね。身元を証明するものも持っていなかった。あなたの話す内容も、正直、支離滅裂で……」
彼は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「……精神的な混乱があるのかもしれないと、病院の先生も言ってました」
僕は目を伏せた。手の中の紙を開いた。だが、そこには何も書かれていなかった。白紙だった。記録は、存在しなかった。まるで、僕の存在そのものが、記録されるに値しないものだったかのように。
「あなた、一昨日は帰る場所があるとおっしゃっていましたが、本当に帰る場所はありますか?」
その問いに、僕は答えられなかった。帰る場所。それは、どこだったのか。アパートの部屋、掲示板、梨香の声、美里の笑顔、トキのアルバム──それらは、僕の中にしか存在しなかった。記憶の断片はあったが、それが現実だったかどうかは、わからなかった。
警官は、僕の様子を見て、少しだけ声を和らげた。
「とりあえず、宿泊施設を探しましょう。お金はありますか」
尋ねられた言葉もわからないまま、僕は頷いた。だが、心のどこかで、もうそれが意味を持たないことを知っていた。僕の記憶は、現実ではなかった。誰にも共有されない、僕だけの夢だった。
交番の外に出ると、空は変わらず青かった。だが、その青は、もう僕にとって何の意味も持たなかった。世界は、僕を包む幻影だった。空の色は、記憶の底に沈んだ絵の具のように、ただ広がっているだけだった。
今日も空を見上げる。
雲は流れず、ただそこにある。
それでも、僕は見上げる。
空のどこかに残っている気がするから。
幸せな日常を考える。
誰かと交わす何気ない言葉、湯気の立つ食卓、窓辺に差す午後の光。
それらは、まだ僕の中にある。
楽しい日々を妄想する。
笑い声が響き、誰かが「おかえり」と言う。
その声は、耳には届かない。
でも、僕には聞こえている。
笑えるような話をする。
くだらない冗談、言葉のすれ違い、それでも通じ合う何か。
それが、僕を人間にしてくれる。
幸福を。
願いながら。
空を見上げる。
僕は今日も、存在している。
このオチにしたかったんです。
駄文であっても最後まで書けたことが嬉しいです。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
可能であれば、感想等頂けると嬉しいです。。。