「私も田舎のネズミが好き」
マキマと相対するレゼは、初めは抵抗するつもりでいた。
首のピンに指をかけ、距離感を測りつつ……そこでふと、先にある喫茶「二道」を見る。
たった1週間の、あの彩り鮮やかな思い出を消したくない。
そう考えると、ピンを抜くことはできなかった。
「……へぇ、意外ッスね。 マキマさん、毎日美味いもの食ってるじゃあないですかァ」
ヴヴン、と。
その場の三者が聞き慣れたエンジン音。
「よォ、朝振りだな、レゼ」
瞬きほどの時間もなかったはずだが、レゼはチェンソーマンとなったデンジの腕の中にいた。
ビルの谷間にいたはずが屋上へ、反対の屋上にはチェーンに捕らえられたマキマと天使の悪魔の姿。
そして、そのデンジの姿はレゼの見たことのないものだ。
マキマは大きく目を見開き、信じられないものを見たように呟いた。
「……チェンソーマン……?」
レゼを抱く左腕は人間のものだが、右腕は肘からもう1本の腕が生え、どちらにもチェンソーが存在している。
チェンソーを模した頭部も、光が漏れていた目に相当する部分が塞がれ、威圧感を増した姿に。
「いつも何でも分かってるってツラしてんのに、珍しいじゃねーか。 俺とポチタを測り間違えましたぁって泣いて謝ってもいいんだぜ」
「……なんのつもりかな。 敵対行動は、悪魔として処理されるって忘れちゃった?」
「敵対行動ォ〜? 公安は良いよなァ、寝床と飯くらいで奴隷ゲットだぜってボケた脳味噌でも勤まってよォ」
「仕方ねーか、支配の悪魔が好き勝手してりゃそうもなるか」
溢れ出した殺気に空気が凍った。
レゼは圧倒的に格上であるマキマの殺気に当てられ、声も出せずにデンジにしがみつく。
正体が暴かれたマキマは取り繕うことをやめ、自らの目的のために支配の悪魔の能力を使用した。
「私のものになると言いなさい」
「なるわきゃねーだろ。 寝ぼけてンスかぁ?」
全方位、声の届く範囲の総てに支配の権能を飛ばしたはず。
本来なら権能を可視化した鎖を対象に繋げるはずが、一切の手応えもなく、鎖すら発現していない。
デンジは勿論、天使の悪魔やレゼにすら効果がない。
「……何を、したのかな?」
「さぁ? 手の内明かすほど俺ぁ馬鹿じゃないぜ」
抵抗しても良い結果は得られないと、マキマは殺気を収めた。
支配の悪魔の権能により即死はありえないため、情報収集に切り替えたようだが、デンジは相手にするつもりはないようで。
悔しげに細められた瞳に、デンジは満足そうに笑う。
「待たせたなレゼ。 来てくれたってことは、一緒に逃げてくれるってことで良いんだよな?」
ずるりとチェンソーの頭が崩れ、いつも通りのニヤケ面をしたデンジが悪戯っぽく笑う。
マキマと天使の悪魔を縛るチェーンだけが残り、腕も元通りになると、力いっぱいレゼを抱き締めた。
「……いいの?」
レゼはまだ恐怖から逃れられないでいた。
要注意人物だと言われていたマキマはその実、支配の悪魔であり、危険度は更に上昇。
今は逃げられたとしても今後一生追われることと、デンジとの逃避行という希望とを天秤にかけられずにいた。
「エェー……初めに逃げようって言ってくれたの、レゼじゃん」
「そうだけど、その……」
「ああ、マキマさんとか公安のこと気にしてんのか。 流石に国外まで出りゃすぐには手ェ出せないだろ」
国外……国外?
レゼは耳を疑った。
本気の本気で、一緒に逃げようとしているのか、この男は、と。
気があるように見せたのも、溶けるような笑顔を向けたのも、赤らめた頬も、全部全部、嘘だと伝えたのに。
まだ伝えていない本当も、あるのだけれど。
「まずはソ連! レゼの心配は絶っておかねーとな」
「……えぇ……本気?」
国外逃亡で天秤にかけて、ソ連からレゼを解放することで完全に傾いたと思えば、それがデンジと2人きりの逃避行となり地面に埋まるかのよう。
にやにやと嬉しそうに頬が緩んでいる自覚はない。
「モチロン!」
「……じゃ、逃げちゃおっか」
何か言いたげだが身動きひとつ取れないマキマと、何を見せられていたんだと死んだ目をした天使の悪魔を担ぎ上げるデンジ。
あ、そうだ、とレゼに振り返り。
「マスターに挨拶、しとけよ。 こいつら置いたらすぐ戻るから」
心臓が跳ねた。
チェンソーの悪魔の心臓を奪う任務のために潜り込んだとはいえ、たった1週間とはいえ、あの安寧の日々を過ごせた場所。
とても世話になったのに何も言わずに消えようとして……壊したくなくて、ピンを抜けなかった、そこに。
「ああ、レゼちゃん。 さっきまでデンジくんいたけど、会わなかったかい?」
「……マスター」
出勤時間もとうに過ぎ、いつも通りの雰囲気も取り繕えないレゼに変わらず笑いかける喫茶「二道」のマスター。
仮初とはいえ、憧れた日々がそこにあった。
「行くんだろう?」
「え……」
「若者の特権さ。 後先考えずやってごらん。 デンジくんなら大事にしてくれるよ」
レゼは人の温かさに初めて触れたような気がして。
ぽろぽろと頬を伝う涙を、止めることはできなかった。
「さて、少しだけどアルバイト代。 足しになるといいけど」
そう言って差し出された封筒はとても1週間の対価とは思えない厚みで、受け取れないと首を横に振るも、マスターはレゼの手を取り優しく握らせた。
「いいんだ。 僕からお祝いさせておくれよ。 きっとたくさん苦労もするだろうけど、君達なら大丈夫」
「……あり、がとう、マスター」
「またいつか2人でおいで。 それまではなんとか続けていけるように、もっと美味しいコーヒーを淹れられるようにするよ」
もう頷くことしかできなかった。
工作員のスキルなんて、役に立たなかった。
「レゼ」
「おやデンジくん、済んだのかい?」
「一通り、挨拶してきた。 もう行くぜマスター」
「行ってらっしゃい。 身体には気を付けるんだよ」
「行って、きます……っ!」
「おォ、マスターも元気でなァ!」
「じゃあまずは北海道だな、カイセンドンが美味ェんだっけか」
「海の幸、だね。 楽しみだな」
「……なんかテンション低めのレゼ、いいなァ」
「なんじゃそりゃ。 雑食すぎない?」