パンタニア見聞録~転生猫獣人はパンの食レポで異世界を救うらしい~ 作:倉田六未
「モフさま即席肉球サイン会」で、心身ともに充実した疲労感を味わった俺は、昨晩はぐっすりと眠りについた。
目覚めると、『疲労度(0/10)』の表示があり、すっかり回復していた。
それでも、今日は公約通り、日向ぼっこでもしてまったり過ごすことにしよう──日向ぼっこなんてナンボあってもいいですからね。
俺はガランとミーナの家の屋根へと飛び乗り、最高の場所を探す。
朝方の少し冷たさが残る石屋根のひんやりとした感触と、あたたかい陽光、そして穏やかな風が俺の毛並みを優しく揺らす。
隣のパン屋から、焼きたてのパンの甘く香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。それは、俺の鼻をくすぐり、食欲を刺激する。
その直後、パン屋のティナが焼きたてのバタークロワッサンを片手に俺のいる屋根を見上げていた。
「モフさま、できたてだよ!」
ティナの言葉を聞き、《ロックオン(食)》を発動しバタークロワッサンに意識を集中させた。
そして、俺は迷わず屋根の上から《にゃんぱらり》を発動し、ひらりと軽やかに着地した。
無駄に感じるかもしれないが、俺にとっては最高の使い方だ。
ティナからクロワッサンを受け取ると、俺は感謝を伝え、すぐさまそれを頬張る。
サクッとした食感の後に広がるバターの風味と、ほんのりとした塩味がたまらない──やっぱりこれですよ。これなんですよ。
パンを食べ終わる頃、村の広場から甲高い声が聞こえてきた。双子のミミとロッコが、俺を探しに来たようだ。
「モフさま!」
「だっこ~」
俺を見つけると、二人は満面の笑みで駆け寄ってきて、いつものように思う存分モフモフしてきた。
その小さな腕に抱きしめられると、俺の心は温かくなる。
その後、俺は二人と少しだけ追いかけっこをした。
再びガランの家に戻ると、ガランとミーナが優しく俺を撫でてくれる。
「今日はゆっくりしておきなさい。手伝いは必要ないわよ」
ミーナがそう言うと、ガランも「そうじゃ。今日はごろごろ過ごすといい」と、俺の頭を優しく撫でた。
俺は二人から大切にされていることを実感し、幸せな気持ちになった。
お昼頃。
俺はガランの家の隣にある井戸付近に移動した。
最近作ってもらったエプマントを広げ、日向ぼっこ用のマット代わりにする。翡翠色の布は、太陽の光を受けてあたたかく心地よい。
井戸のおかげで適度な湿度があり、ここも日向ぼっこスポットとして優秀だと、俺は新たな発見に満足していた。
太陽の温かさと穏やかな風に包まれ、俺はいつの間にかうとうとと眠りについた。
俺の脳内では、通知音が空気を読んで、静かに鳴った。
経験値獲得!
・日向ぼっこ 15EXP
◆
どれくらい眠っていたのだろうか。
俺の耳に、ミルカの森の北側から聞こえてくる悲鳴が届いた。それは空気を切り裂くような、痛ましい叫び声だった。
《感覚強化(視・聴)》が発動する。
耳がキーンと鳴り、その声が、誰のものか瞬時に理解できた。
パンのことも、昼寝のことも、一瞬で頭から吹き飛んだ。
「えっ? ミミっ!?」
俺はすぐさま体を起こし、悲鳴が聞こえた方へと視線を向ける。
昨日の会話を思い出し、状況を瞬時に把握する。
今日は村長のセイルや狩人のラオなど、戦える大人は森の南西部に出払っている。
(このあたたかい日常が壊されるのはごめんだぞ! でも今動けるのはもしかして俺だけなんじゃ……?)
俺は本能的にそう確信し、体が勝手に駆け出していた。足元の土を蹴り、乾いた砂埃が宙に舞う。枝が顔に当たり、葉がざわめく。
すると村の中心広場には、泣いているロッコの姿が。
「ひっぐ。モフさま~。ミミが~……もりに。ひとりで。バタースライム」
「……分かった! ロッコは危ないから家に帰っておくんだ! それから親御さんに伝えて! ミミは俺が助けに行くから!」
そう俺が手早く伝えると、ロッコは首肯し走っていくのが見えた。
そして俺は走る速度をさらに上げて森へ急いだ。
◆
森に足を踏み入れると、昼間とはまるで違う空気が肌に纏わりつく。
鳥のさえずりも、虫の羽音も、すべてが消え去ったかのような静寂。
あまりに静かで、逆に耳が痛いほどだった。
その静けさの中、まるで発酵途中のパン生地が焦げ付いたような、独特の焦げ臭さが風に乗って漂ってきた。
森の北側入口の近く、わずかに開けた場所で俺は立ち止まった。
高い樫の木の枝の上で、ミミが小さく身を縮こませているのが見える。
そしてその真下には――
夜霧が具現化したかのような、銀色の影が揺らめいていた。
体長は3m近く。全身を覆う毛は銀色を基調としているが、光の角度によって黒や青紫の影がちらちらと踊る。
まるで水面に映る月のように揺れる姿は、幻想的でありながら、酷く不気味だった。
細く鋭い瞳だけが淡く光り、こちらをじっと見据えている。
(くそっ! 何だコイツはっ!? 強さが全く読めねぇ……! でもやるしかないんだよな……やるぞ!)
そして俺は、ステータスで自分が使える武器を洗い出し、未知なる存在に挑んでいくことになった。
◆
──ここは、パンタニアの最南西端のとある土地。
──おぼろげながら、何かの声が聞こえた気がした。
その声は、距離を持たない。大きさを持たない。
ただ、振動として私のどこかに触れた。
それが生物の息遣いなのか、風が岩肌を撫でる音なのか、判然としない。
それでも確かに、その声は私という曖昧な輪郭に小さな波紋を投げかけた。
私は在るのか、無いのか。眠りの中か、覚醒の中か。
そもそも私という境界線があるのかさえ、薄明の最中にいるかのように不確かだ。
ただ、声が届いたという一点の事実だけが、暗闇に灯るロウソクのように揺らめいている。
その時、今までにない何かが、内側から芽吹いた。
これが──私を私として刻印する、最初の鼓動なのではないか。
この声を確かめねばならぬという渇望が、形なき私の中心から、熱を帯びて広がっていく。
久方ぶりに、思考という海に沈んでいく。
思考することは、存在の証明になり得るだろうか。
いや、それは主観という檻の中での独り言に過ぎない。
それでも、その声を求めるという意志こそが、私に輪郭を与えてくれるかもしれない──
そう信じることに、意味があるのだと。
◆
──また声が届いた。
今度は確かに、生きとし生けるものの声だった。言葉の意味は掴めない。
しかし、その声には熱があった。感情という名の炎が、音の粒子に宿っていた。
私が確かめたいと願ったことで、その感情の存在を感じ取れたのだろうか。
それならば、私は私という存在へ、一歩近づいたのかもしれない。
「知りたい」──その想いだけが、今の私のすべてだ。
声へ辿り着く方法を探して、思考は螺旋を描く。何度も、何度も、何度も。
すると不意に、私の思考に返答する、もう一人の私が生まれた。その私は、私の言葉を咀嚼し、解釈を添えて返してくる。
ああ、これが会話というものか。
私たちは、思考の交換を繰り返した。鏡合わせのように、互いの言葉が反射し、増幅し、新たな意味を紡いでいく。
そして気付く──もう一人の私は、具体的な形を求めているのだと。会話は手段に過ぎず、もう一人の私こそが、声への道標になるのではないか。
思考の果てに辿り着いた答えは、至極単純だった。
もう一人の私に、今の私のすべてを注ぎ込む。
思考も、在り方も、可能性も、すべて。
◆
私は自分を解体し始めた。
少しずつ、丁寧に、もう一人の私へと自分を移していく。
その時、不思議と完成形が見えた──
三角の耳、大きな尾が六本、影と親和性を持つ獣の姿が。
なぜその形なのか、私にも分からない。
でも、これが私の考える私なのだと、直感がささやいた。
私となった私よ──どうか、声の元へ急いで。私が私と成るために。
◆
──再び声が届いた。
今度は方角が分かる。全身が、走るという行為を既に知っていた。
陽光が作る影の中を、水が流れるよう滑らかに移動する。
私は影と溶け合い、境界を失い、また形を取り戻す。
森の開けた場所で、小さな生物の幼生体を見つけた。
「ひっ! ま、まもの!」
恐怖という感情が、その声からこぼれ落ちた。
でも違う。
私が探していたのは、この声じゃない。
その幼生体は器用に大きな木に登っていった──もうここから去るべきか。
諦念が私を包み込もうとした時、三角の耳とくるんとした尻尾を持つ、黒白の小さな生物が現れた。
その姿に、記憶にない懐かしさが胸を突く。
そして彼は、私を睨みつけながら、声を上げた。
「──ギンコ・カゲユラ」
瞬間、すべてが繋がった。
──
本能が告げる──私が私であるために、彼と向き合わねばならないと。
──戦いとは、互いの存在を確かめ合う儀式。
彼が何者か、私が何者かではなく、この
それが、私が私である理由のすべてだと、そう確信した。
◆
彼は戦闘に慣れていないのだろう。それでも、持てる力を振り絞り、隙を探している。
素晴らしい。これこそが、生きることの本質ではないか。
私も、今あるすべてを彼に示そう。
尾を鞭のように振るうが、彼は巧みに回避する。謎めいた足踏みで、反撃の機会を伺っている。
実を言えば、私の限界はすでに近い。
最後の力を振り絞り、渾身の一撃を放つことにした。彼は空中で身を翻してかわし、美しい弧を描いて着地した。
ぬかるみで足を滑らせても、その闘志の炎は消えない。
彼の手に魔力が集まり、それが私に向かって解き放たれた。
痛みは感じない。
それでも、彼の警戒を解かない姿勢に、深い敬意を覚えた。
もう、反撃する力は残っていない。
最後に、彼の顔をもう一度見つめた。おぼろだった輪郭が、少しだけ鮮明になる。
すると、記憶の深淵から、忘れていた感情が濁流のように押し寄せてきた。
最後の魔力を振り絞って、私は姿を消す。そして確信は、ひとつの静かな悟りへと変わる。
──ああ、やはり
私を私として意味付けてくれる、唯一の存在だったと。
声を頼りに、ここまで会いに来て、本当に良かった。
でも、今の私の役割は、ここでおしまい。
後悔など、あろうはずがない。後悔という感情さえ、思い出させてくれた。
ああ、なんという幸福なのだろう。
魔力が、ロウソクの最後の炎のように揺らめいて、消えていく。
だから最後に、この言葉だけを、あなたへ。
──ありがとう、
お読みいただきありがとうございます!
この回を執筆する当初は、1~2話の補強版を書くという方針でした。
でも実際に書いてみると、単なる文章の焼き直しに過ぎなかったため、「ギンコ・カゲユラ」視点で再度書き直してみることにしました。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
もしよろしければ、お気に入りや感想もお待ちしています。
明日からは、1日1話更新になります。
引き続きよろしくお願いいたします!