パンタニア見聞録~転生猫獣人はパンの食レポで異世界を救うらしい~   作:倉田六未

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閑話:ミミとロッコと、不思議な絵本

 ここは神殿にある図書館。

 

 午後の陽光が琥珀色に染まり、古い羊皮紙の匂いと乾いた木材の香りが漂う静寂の中で、本たちがひっそりと身を潜めていた。

 

 本棚には年代不詳の分厚い本がずらりと並び、背表紙の金文字が薄暗がりの中でかすかに光を宿している。

 

 革装丁の表面には細かな皺が刻まれ、長い年月を物語っていた。

 

 けれどミミは、そうした威厳ある本の間を花畑を駆け回る蝶のように軽やかに歩き回っていた。

 

「わあ……こっちはぜんぶ、パンのずかんだよ、ロッコ!」

 

 返事がない。

 

 ちらりと隣を見ると、ロッコは柔らかな座布団にごろんと寝転がり、むにゃむにゃと口を動かしていた。

 

 規則正しい寝息が、図書館の静けさに溶け込んでいる。

 

「もー……」

 

 ミミは苦笑いを浮かべて、静かに本棚に手を伸ばした。指先が冷たい背表紙に触れる感触が心地よい。

 

 ロッコは神殿で本を読むのがあまり得意ではない。

 

 色鮮やかな挿絵が多ければ目を輝かせて興味を示すけれど、文字がびっしりと詰まっているとすぐに飽きてしまい、こうして夢の世界へと逃げ込んでしまうのだ。

 

 ミミは、一人で森に入ったあの日から、両親に必ずロッコと二人で行動することを固く約束させられていた。

 

 それに子どものうちは、ミルカの森に一人で足を踏み入れないことも、それはもう「鉄の掟」として厳重に申し渡されていた。

 

 

 

 

 

 

 ミミが一人でバタースライムを採取しに森に入ったあの日。

 

 ミミは魔物より恐ろしい存在を知ってしまった。正確に言うなら、決して怒らせてはならない禁忌の存在というべきか。

 

 普段は春の陽だまりのように温厚で、やさしい声で語りかけてくれる父親が、雷鳴のような大声を部屋中に響かせて叱りつけてきたときに、ミミの小さな心臓は跳ね上がった。

 

 父の顔は真っ赤に染まり、普段見慣れた優しい表情の面影はどこにもなかった。

 

 それでも、その直後に起こった出来事と比べれば、そよ風程度の穏やかな出来事に過ぎなかったのである。

 

 父親の怒りが一段落して、ミミが泣き止んできた頃──。

 

 

「……そろそろいいかしら?」

 

 

 静かで、でも有無を言わせない声が響いた。母親だった。

 

 ミミが涙で腫れ上がった目を擦って振り返ると、そこにはいつものような優しい笑顔ではなく、なんだかとても静かで、でも目だけがじっと光っている母親がいた。

 

 その視線を受けた瞬間、ミミの背中にぞくっとした寒気が走った。

 

 あれだけ大きな声で怒っていた父親でさえ、母親の出番と共に急にしゅんとして、まるでミミたちと同じくらいに身長が縮んだみたいだった。

 

 その母親の様子を見て、ミミは『あ、これは、まずい』と直感した。

 

 母親はミミの前にしゃがみ込むと、とても優しい声で──でもなぜか逃げられないホーミング機能のような声で言った。

 

「ミミ、どうして一人で森に行ったの? お母さんに全部教えて」

 

 ミミが震え声で「だって……」と言いかけると、母親の目がきらりと光った。

 

「『だって』は理由にならないわ。最初から、ちゃんと話しなさい」

 

 その後は、まるで穏やかな裁判官のように、母親はミミから事の経緯を全て聞き出していった。

 

 時折「そう」や「それで?」と相槌を打ちながら、でもその目は決して笑っていない。

 

 そして隣の部屋で両手で耳を塞いでいたロッコも、ずるずると連れてこられた。

 

「ロッコも一緒にお話しましょうね」

 

 母親の優しすぎる声に、ロッコは既に涙目になっている。

 

「お姉ちゃんを一人で行かせちゃだめよね?」

 

「ごめんなさい……」

 

 ロッコが小さく答えると、母親はただ静かに見つめた。

 

 その様子を見て、今度は父親の方を向いた。

 

「あなたもね」

 

 たった一言で、父親は背筋をシャキッと伸ばした。

 

「普段から『魔物なんて怖くない』って言ってるから、この子たちが勘違いするのよ」

 

 父親が「いや、だがな……」と口を開こうとすると、母親の視線が一瞬鋭くなった。父親は慌てて口を閉じる。

 

 最終的に、ミミもロッコも父親も震えて、三人で身を寄せ合うことしかできなかった。

 

 一番怖いのは、母親が怒鳴らないことだった。ずっと優しい声なのに、なぜかとても恐ろしい。

 

 母親は最後に、三人の前で手をぱんと叩いた。

 

「はい、お約束よ。ミミとロッコは絶対に二人で行動すること。それから、もっとお勉強もしましょうね──ああ、お父さんは、また晩ごはんの後に続きをしましょう。いいわね?」

 

 三人は慌てて、まるで壊れた人形のようにぶんぶんと首を縦に振った。この恐怖の時間が早く終わって欲しくて仕方がなかった。

 

 その日の夕食は、その恐怖の余韻でミミとロッコと父親は、母親特製シチューの味がしなかったそう。

 

 

 

 

 

 

 そういった壮絶な経緯もあり、今日はミミとロッコの二人で「パンの絵本を見よう」という、ささやかで平和な目的で神殿図書館にやってきたのである。

 

 約束は必ず守らねばならない──あの氷の裁きを二度と受けるわけにはいかない。

 

 リビが奥の本棚の整理で席を外したこともあって、図書室は今、陽だまりの中でミミとロッコの二人きりの時間が流れていた。

 

 ミミはひとり、つま先立ちになって絵本の棚を探す。

 

 古い木材の香りと、ページをめくる音の記憶が染み付いた本棚からは、知的な安らぎの匂いが漂ってくる。

 

 すると、ふと視界の端に、棚のすき間からまるで恥ずかしがり屋の子どものようにひょっこりと顔を出している、一冊だけ異質な装丁の本があるのに気づいた。

 

 

 

 

 

 

 それは桃色で、まるで夕焼け空を染めた雲のような柔らかな布張り。手触りはビロードのように滑らかで、光の加減によって薄紫にも見える。

 

 背表紙にはタイトルも著者名もなく、秘密の宝物のように隠れていた。

 

「…………?」

 

 まるで魔法に引き寄せられるように、そっと指先で引き抜いてみる。驚くほど軽い──ミミの手のひらに収まるその本からは、どこか甘い香りが漂ってくる。

 

 ぱらりと開いた瞬間──

 

 真っ白だった。

 

 何も書かれていない、雪原のように純白な紙が静かに並んでいる。

 

「えー、まっしろ?」

 

 少し拍子抜けして、ページを閉じようとしたそのときだった。

 

 ──ふわっ。

 

 まるで朝の微風が頬を撫でたように、ミミの鼻先を甘くて淡い、そして胸の奥を締めつけるほど懐かしい香りが通り過ぎた。

 

 それは森の朝露に濡れた花びらと、竈から立ち上る焼きたてのパンの香りを混ぜ合わせたような、もっと深い、魂に響く香り。

 

「…………へんなにおい」

 

 でも悪い感じはまったくしない。むしろ胸の奥がぽかぽかと暖かくなり、まるで朝の木漏れ日に包まれたような安心感に満たされる。

 

 ミミの心は高鳴った。

 

 もう一度、今度はそっと、祈るような気持ちでページをめくった。

 

 すると──奇跡が起こった。

 

 ページの真ん中に、まるで朝露が文字の形を成したように、ふわりと詩のような美しい文字が浮かび上がったのだ。

 

 

 

『きおくは かぜにまぎれ

 ねむりのはねで ときをぬう』

 

 

 

 文字は銀色に輝き、読んでいるうちにゆっくりと金色に変化していく。まるで生きているかのように。

 

「…………おうた、かな?」

 

 ミミが声に出して読んでみると、その言葉が耳の奥で、まるで天にたゆたう風鈴のように清らかで神秘的な音を奏でた。言葉一つ一つが魂に響き、体の奥深くで何かが共鳴するのを感じる。

 

 心臓の鼓動が少し早くなる。

 

 続けてページをめくると、今度は──息を呑むような光景が広がっていた。

 

 淡い虹色の絵の具で描かれたような、夢と現実の境界線が溶け合った幻想的な絵。

 

 風のなかを舞い踊る小さな人影と、雲のように白くてふわふわした羽根をまとう神秘的な獣。その獣の瞳は星のように輝き、見つめているだけで涙が出そうになる。

 

 絵は静止画でありながら、まるで生きているかのように動いて見えた。風が実際に吹いているような、羽根が宙に舞っているような──。

 

 どこかで見たことがあるような、ないような。既視感と未知の感覚が入り混じって、不思議と心がざわめいた。

 

「これ……なんのえほん、なんだろう……」

 

 ミミは完全にその絵本の虜になっていた。

 

 ロッコが寝返りを打つ微かな音も、窓の外で響く鳥のさえずりも、風が木の葉を揺らすささやきも、もう耳に入ってこない──世界にはこの絵本と自分だけが存在しているかのように。

 

 ページをめくるたび、新しい奇跡が現れる。

 

 白い霧のなかで誰かが「待って」と切ない声で叫びながら手を伸ばす絵──その指先から涙のような光の粒がこぼれ落ちている。

 

 空に浮かぶ光の繭──内部で何かがゆっくりと息づいている。

 

 流れるような風の線──まるで時間そのものが形を成したかのように。

 

 どれもふわふわして、輪郭がはっきりしない。

 

 でも確かに、何か大切なこと、忘れてはいけない何かを、思い出させるような感覚があった。

 

 それは、自分の魂の奥深くにしまい込まれていた重厚な金庫の扉が、そっと開かれるような感覚だった。

 

 時間の感覚が失われていく。

 

 ここがどこなのか、今が何時なのかもわからなくなる。ただ、この美しい世界に身を委ねていたい──。

 

「……ねえ、ロッコ」

 

 思わず愛しい弟の名前を呼んだけれど、ロッコは天使のような寝顔で熟睡していた。ほんの少しだけ、口元に幸せそうな笑みを浮かべて。

 

 ──ミミは再び、まるで磁石に引き寄せられるように絵本に視線を戻す。

 

 気づけば、最後のページに辿り着いていた。

 

 そこにはどこかで見たことのあるような、神秘的な装飾が施された金の鍵の絵が描かれていた。

 

 鍵からは柔らかな光が放射状に広がり、まるで希望そのものが形を成したかのように。

 

 その下に、美しい一行の詩。

 

 

 

『とざされた ゆめのとびらは

 まことの なまえで ひらかれる』

 

 

 

 文字は前のページ以上に輝いて見えた。まるで星屑で書かれたかのように。

 

 ミミはしばらく、その神秘的な言葉を見つめ続けた。

 

 意味は完全には理解できなかった。

 

 でも、記憶の彼方で何かが呼応し、胸の奥が小さな太陽が宿ったかのように温かくなるのを感じた。

 

 

 ──そのとき、現実世界からの音が聞こえてきた。

 

 

 リビが風に乗って、飛んできている音だった。

 

「ミミちゃん、そろそろ片づける時間よ~」

 

 その優しい声に、ミミははっとして現実に引き戻された。

 

 慌てて絵本を閉じる。

 

 よく見ると──さっきまで確かに存在していた美しい文字も、幻想的な絵も、すっかり消え失せていた。ページは再び真っ白な紙片に戻っている。

 

 そして次の瞬間──その本自体も、光の泡が弾けるように、音もなく消えていってしまった。まるで最初から存在していなかったかのように。

 

「あれっ!?……いまのえほんは、どこ?」

 

 秘密を守るために消えていった魔法の絵本を見て、ミミは驚きと寂しさで胸がいっぱいになった。

 

 手のひらには、まだかすかに暖かさが残っている。

 

「……ふしぎ……またこんど、さがしにこようっと」

 

 眠ったまま、ふにゃっと天使のような笑顔を浮かべるロッコの様子に、ミミは気が抜けるような思いをしつつも、心の奥に新しい秘密を抱えて、帰り支度を始めるのであった。

 

 

 神殿の外では、風がひとひら、白い羽根のような花びらを舞わせていた。

 

 

 その花びらは宙でくるくると踊り、やがて夕日の中に溶けて消えていった──まるで、あの絵本のように。

 

 

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