パンタニア見聞録~転生猫獣人はパンの食レポで異世界を救うらしい~   作:倉田六未

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エルフの薬屋と、焼きたてバタークロワッサン

 

 ──ふわりと、甘く香ばしい匂いがした。

 

 鼻先をくすぐる薬草と、そして何よりも、どこか懐かしいパンの香り。

 

「……パン……?」

 

 かすれた声と共に、ゆっくりとまぶたを開く。

 

 天井は見慣れない木造のくすんだ梁。

 

 寝ている場所は、ふかふかの布団の上だった。

 

 肌に触れる毛布の手触りも、ひどく優しい。

 

 部屋の片隅には乾燥中の薬草が並び、風に乗ってほのかに香っている。

 

 疲労も回復して、体も軽くなった気がする。

 

(ここ……森じゃない……助けられたのか……?)

 

 視線を巡らせていると、階段の下からトントンと軽やかな足音が響いてきた。

 

 緑色の長髪で、スラリとした長身の男が部屋に顔をのぞかせる。

 

 何より印象的なのは、彼の長い耳だ。多分エルフ……なのかな?

 

「ああ、お前さん……ようやく目覚ましたのか……良かった」

 

 その声には、どこか聞き覚えがあった。

 

 最後に意識が遠のく中で聞いた、あの穏やかな声だ。

 

「……あなたが……助けてくれた人ですか……?」

 

「うむ。森の入口で倒れとるもんじゃから、びっくりしたぞ。草をぎゅっと握りしめていたからのう……なんじゃったか、『パン……焼きたての……』って、寝言で呟いとったんじゃ」

 

(おお、言葉が通じて良かった……それより、パンの寝言は少し恥ずかしいな)

 

 手元を見ると、確かにまだ発酵草を握り締めていた。

 

 それを見て、優しそうな男性は、目尻を下げて笑う。

 

「こりゃあただ事じゃないと思うてな。村のパン屋で焼き上がったばかりのバタークロワッサンを、妻のミーナに取ってきてもらったんじゃ」

 

(……見た目が若々しいから、口調に違和感があるんだが……まあいいか。それより、パン屋……! バタークロワッサン……!)

 

 と、しょうもないことを考えていると、タイミングを見計らったように、もう一人、女性が姿を表した。

 

 彼女もまたスラリとした肢体に、柔らかな微笑みをたたえている。小麦色の長い髪が美しく耳が長い──うん、おそらくエルフだろう。

 

 ファンタジー世界にやってきた実感が湧いてきた。

 

「目を覚ましたのね、良かった。ほら、お粥とバタークロワッサン、持ってきたわよ、猫ちゃん」

 

「……ありがとうございます。あの、お名前を聞いても?」

 

「私はミーナ。この人が、うちの旦那のガランよ」

 

「わしら、この村で薬屋をやっとるんじゃ。お前さん、名前はなんて言うんじゃ?」

 

「ユウマ……です」

 

「ユウマちゃん、ね。ふふ、かわいい名前」

 

「まずは腹に物を入れんと話もできん。ささ、冷めんうちに食べなさい」

 

 ガランに促され、俺は真っ先に、木のトレイの上に置かれたバタークロワッサンに手を伸ばす。

 

 指で押すと、パリパリと繊細な音を立てて表面が崩れ、ふわりと沈み、またすぐに優しく戻る。焼き上がった表面は、きつね色に輝き、層の美しさが際立っていた。

 

 ちぎった瞬間、熱い湯気とともに、芳醇なバターと麦の香りが脳髄を直接揺さぶるかのように、鼻腔を、そして意識全体を支配する。

 

 

 ──ひと口。

 

 

 サクサク、ふわふわ、そしてしっとりもっちりとした生地が、噛むたびにバターのコクと小麦の甘みをじゅわっと滲ませる。

 

 素朴でありながら奥行きのある味わいに、心の奥までじんわりと温かくなっていく。

 

 ……ああ、これは……

 

 

 ──脳内のパンを称賛する回路が、音を立てて全開になった。

 

 

 

 

 

 

 

「これ……これさぁ……はぁあ?」

 

 ──瞬間、世界が止まった。

 

「ちょっと待って、このバタークロワッサン、マジで反則じゃないか?」

 

 俺は思わずベッドで立ち上がっていた。

 

「サクフワすぎて、口の中で……え、もういなくなった? いやいる。いるぞ、今もまだ、パンの精霊が俺の舌に宿ってる!! 何層折り重ねたらこんな奇跡が……!」

 

 鼻息荒く手を上に掲げる。ガランとミーナが目を丸くしている。

 

「ありがとうガランさん! ありがとうミーナさん! ありがとうパン屋さん! ありがとうバター! ついでに近所に住んでた黒柴のおはぎ君もありがとう! お前たちが……お前たちが世界を回してるんだよ!」

 

 深呼吸。いや、できない。興奮で息が上がってる。

 

「この軽さ、なのにしっかり噛みごたえ、なのに消える……口の中から一瞬で消える!? この香り、この風味、焼き加減、きつね色の焼き目……」

 

 俺は天を仰いだ。木の天井しか見えないが、関係ない。

 

「ははっ……罪だよこれ……神への冒涜だ……ッ! 俺の魂が……パンの神に吸い寄せられていくぅぅぅ!!」

 

 ベッドからずるりと転げ落ちそうになる。

 

「はあっ!? クロワッサン……俺、前世で何回食べた? たった数十回だと? バカじゃねぇのか! 毎日食えよ!! 三食バタークロワッサンでもバチ当たらねぇ!」

 

 我に返る。いや、戻ってない。そこ(パン)にいる。

 

「それぐらいの完成度がここにあるのに、俺は今まで何やってた!? 仕事? 過労? ちげぇよ、人生とはパンだよ! バタークロワッサンだよ!! 思考! 試行! 志向! 嗜好! 至高!」

 

 言葉が勝手に韻を踏み始め、俺はベッドの上でぴょんぴょんはね飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 ──気付けば俺は無意識の内に、訳のわからないパン賛美を止められなくなっていた。止める必要もない。パンが、そうしろと命じている。

 

 それと同じくして、脳内でけたたましい通知音が鳴り響いた。

 

 

 

経験値獲得!

・パン賛美D 450EXP

 

レベルアップ!

・LV1→4(100/160)

 

パン

・バタークロワッサン(D)

何層にも折り重ねられた生地が特徴の、豊かなバターの香りとサクサクとした食感が魅力のパン。焼きたては特に格別で、至福の味わい。

 

 

 

「……………は?」

 

 俺は固まった。

 

「パンの食レポで……経験値……?」

 

 もう一度、表示を確認する。間違いない。450EXP。レベルも3も上がってる。

 

「ブレッドバット1体が10だから……」

 

 計算する。

 

「よっ……45倍!?」

 

 声が裏返った。

 

「いや待て待て待て! 魔物倒すより、パン食った方が強くなれるってこと!?」

 

 これは……この世界、何かがおかしい。

 

 いや、おかしいのか? 世界の名前、パンタニアだし。魔物もパンみたいな見た目だったし。

 

 

 俺がバタークロワッサンの美味しさとこの世界の仕組みに驚愕している中、ガランとミーナも俺の変貌ぶりを目の当たりにして、呆然と目を見開いて顔を見合わせている。

 

「こりゃあ……相当なパン好きじゃな……」

 

 ガランの声には、驚きと感嘆が入り混じっていた。

 

「うふふ、パンを食べて感激で泣いてしまう子、初めて見たわ」

 

 ミーナは、そう言って優しく微笑んだ。

 

 

 ――あ。

 

 

 その瞬間、頬に、冷たいものが流れているのが分かった。

 

「……なんで、俺……泣いてるんだ……?」

 

 自分でも、理由は、うまく言葉にできなかった。

 

 

 ただ──

 

 

 前世で、パンを食べる時間すら惜しんで働いていたこと。

 

 大学時代、パン屋巡りに夢中だったあの頃。

 

 そして今、異世界で初めて会ったエルフの夫婦が、倒れていた俺を助けて、温かいパンを用意してくれたこと。

 

 それらが全て、このバタークロワッサンの温かさと重なって──心の奥底で、何かが堰を切って溢れ出したのだ。

 

「ユウマちゃん、よしよし……泣かなくていいのよ」

 

「……よう頑張ったのう」

 

 気づけば二人が、俺の頭を優しく撫でてくれていた。

 

 二人の長くて繊細な指先が、モフモフの耳と頭をふわふわと撫で回す。

 

「ぐすっ……ふぁっ……あ、そこ……くすぐったい……」

 

「おお、これは…ずっと撫でておきたい毛並みじゃ」

 

「ふふふ、クセになっちゃいそうね」

 

(あれ……? なんだこの状況……)

 

 パンとお粥を食べ終えるころには、二人は完全に俺のモフモフの魅力に取り憑かれていた。してやったりだ。うんうん。

 

 でも、不思議と嫌じゃない。

 

 むしろ、あったかくて、心が緩む。

 

(あれ……?)

 

 ふと、視界の端に表示が浮かんだ。

 

 

 

経験値獲得!

・ガランとの出会い 30EXP

・ミーナとの出会い 30EXP

 

レベルアップ!

・LV4→5(0/180)

 

 

(……パンの食レポだけじゃなく、人との出会いでも経験値がもらえるのか?)

 

 新しい発見に、少し驚く。

 

(この世界、本当にゲームみたいだな……)

 

 

 ──俺の転生初日は最高のスタートになった……と思う。

 

 

 バタークロワッサンの美味しさに蹂躙されながらも、エルフ夫婦の優しさに包まれ少しだけ泣いちゃったけど……ね。




ユウマははじめて食べるパンに賛美が発動する仕組みです。


学生時代によく食べていたパンは、その形状から、某芸人さんのネタから拝借して、
「持つとしたらこうですねパン」と呼んでました。
当時そのパンの正式名称は知らなかったのですが、大人になって判明しました……
次話の後書きで発表します(謎の引き)
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