【勇者一行の凱旋から数ヶ月後】
俺は失意のどん底にいた。
あのヒンフリ劇場の上映会からもう数ヶ月経つというのに、何もやる気になれない。
習慣で料理や食事は無意識のうちにこなしていたが、それ以外のことは全く手が付かず、日がな一日ベッドで横たわっている。
時々、ソリテールやアウラやリヴァーレが様子を見に来ては、俺を風呂に入れたり部屋を掃除していった。
トートが一度だけ会いに来たが、俺の様子を見て苦笑いしてたな。
「もうこの世の終わりだよ。本当に世界、滅ぼそうかな…」
見飽きた天井を見上げながら、俺は1時間前にも言った言葉を繰り返す。
俺の呪詛を浴び続けたせいか、天井の一部が変色していた…いや、ただの雨漏りだ。
ソリテールかアウラが来た時にでも直してもらおう…リヴァーレの馬鹿力でやったら余計に壊れそうだ。
『”ごめん”フリーレン、す…』
結局、その後にヒンメルが何を言ったかは見ていない。
もし見て、想像通りの拒絶の言葉だったら今以上に落ち込んでいただろう。
「……案外俺も、人間のことをちゃんと理解できていなかったな」
途中までは最良の展開だと思っていた。
それなのにヒンメルがまさか告白を断るとは、まったく考えもしなかったことだ。
だが、今こうして冷静に考えてみると、ヒンメルの断った理由にも何となく心当たりがある。
熱狂していたあの時なら思い浮かばなかっただろう。
コンコン。
扉をノックする音が室内に響く。
ソリテールやリヴァーレはいつもノックせずに入ってくるので、アウラかトートだろう。
だが、魔力を隠しているのか、ノックされるまで存在を感じなかった。
人間の来客という可能性もあるが、ここは険しい山脈と山中に潜む強力な魔物の住処を乗り越えなければたどり着けない場所だ。
普通の魔族でもかなり苦労するので、今まで大魔族の客人しか来たことがない。
(まあ、ちょうどいい。誰にせよ、雨漏りを直すのを手伝ってもらおう)
俺は寝癖を直しもせずに、扉を開けた。
「やあ、こんにちは…」
俺は扉を閉めた。
まだ寝ぼけているようだ…ここにいるはずのない人物がいるように見えた。
目頭を軽く揉みほぐし、俺は再び扉を開ける。
「やあ、こ…」
俺は扉を閉めた。
どうやら俺は
何だよグラザーム、やっぱり約束の続きを見せてくれるのか…いや、精神防御が破られた感覚がないので、それはないな。
俺は深く深呼吸し、扉を開けた。
「えーと、もしかして取り込み中かな?」
「…………”ヒン、メル”?」
何度も繰り返して見てきたあの姿が、俺の目の前に立っている。
絶対に偽物ではないと、ヒンフリガチ勢の血が沸き立っていた。
めっちゃ顔が良い……。
「入ってもいいかな?」
「……1時間…いや、30分ほどお待ちください」
俺は扉を閉めた瞬間に即行で部屋と身を清める。
あと、ついでに雨漏りを直す魔法も作った。
王都が魔王討伐で賑わう中、功労者である僕たちは気付かれることなく城下街の酒場で祝杯を上げていた。
僕たちの名前は知っていても、顔まではまだ広く知れ渡ってはいない。
北側諸国には各地に僕たちの銅像があるが、旅の始まりである王都ではこれから建てられる予定らしい。
当時はまだ無名の勇者一行でしかなかった僕らが、えらく有名になったことを実感してしまう。
「あれ、2人は?」
気づけば、ハイターとアイゼンの姿が見えない。
どうやら変な気を使わせてしまったらしい。
彼ら二人も、僕たちの旅を覗き見してる奇妙な観客の影響を受けているのかもしれない。
僕は困ったように笑いながら、視線を感じる方向にこっそり手を振った。
「ん?」
僕はこれからどうするべきか考えていると、空の端で何かが煌めく。
「
50年に一度流れるという流星群。
おそらく、僕ら人間がこの光景を見られるのは1度か、運が良ければ2度までだろう。
それだけ、人間にとっての50年という歳月は長い。
「50年後…もっと綺麗に見える場所知ってるから、案内するよ」
それなのに、隣にいるフリーレンは何てことのないように次の周期に僕を誘った。
50年ですら、彼女たちエルフにとっては、あっという間の時間なんだろう。
それなら僕たちとの10年の旅は、彼女にはどう感じられたのか…それをつい考えてしまう。
「なあ、フリーレン…」
僕は彼女に声を掛けようとした。
その時、何て言おうとしたかは、よく覚えていない。
僕の言葉を遮った彼女の言葉で吹き飛んでしまった。
「ヒンメル……私たち結婚する?」
僕は、その声の方向に振り向かなかった。
僕たちはただ、流れていく星々のカケラを見つめたまま、永遠にも感じる刹那の時を感じていた。
それを最初に破ったのは僕だ。
「それは……自分で考えたことなのかい?それとも誰かに言われて?」
「…まあ、確かに誰かのお節介はあったけど、自分で考えたよ」
フリーレンの声に、苛立ちを感じる。
僕もそのお節介に巻き込まれた被害者だから、つい思い出し笑いをした。
どれもこれも強力な魔法だったが、内容は実に下らない物だらけだ。
「ヒンメルって、たぶん私のこと異性として好きなんでしょ?」
「そうだね…君のことが大好きだ」
ずっと言いたくて、それでも絶対に言い出せなかった言葉が自然と口を出ていた。
まるで、つい口を滑らしてしまったような軽い一言。
流星を眺めながらとはいえ、少しロマンに欠ける告白だ。
でも、それが僕たちらしいのかもしれない。
「そっか、ヒンメルなら結婚してもいいよ」
僕の告白に、間も置かずにフリーレンは応えた。
だが、仲間だけが感じる些細な変化を感じる。
これは緊張している時の感じだ。
軽い気持ちではない、彼女のなりの真剣な考えの末に出した結論だったのだろう。
「…ありがとうフリーレン、まるで夢みたいだ。ずっとこうなりたかったはずなのに、不思議と実感がわかないな……」
子供の頃からずっと心の中にあった願いだ。
彼女と再会し、一緒に旅をしてからも、その願いはずっと強くなっていった。
そして同時に、叶わないだろうと諦めていく気持ちも強くなっていった。
だからフリーレンの言葉を聞いた瞬間に、その心の中の天秤が揺れた。
彼女の方へと振り向いて、彼女をめいいっぱい抱きしめたい。
どれだけ君に焦がれ続けたかを伝えたい。
そんな感情に押し流されそうになる。
だけどこれは、僕にとっての僕への願いだ。
僕にとってのフリーレンへの願いとは違う。
『ごめんフリーレン、結婚はできない』
僕はそう答えただろう……だが、”今の僕”の考えとは少し違う。
「ごめんフリーレン、少しだけ待って欲しい」
「……分かった」
ようやくフリーレンに視線を向けると、彼女は少し不満そうに僕を睨んでいた。
僕はその予想外の表情に少し呆気に取られたが、くすっと小さく笑う。
彼女も随分と変わったらしい。
「フリーレン、あの辺りに何か魔法の痕跡がないか探してくれないか?」
僕は虚空を指差しながら言った。
ちょうど、そこはさっきまで彼からの視線を感じていた場所だ。
フリーレンが杖を取り出して、その場所を探ると、顔をしかめる。
「相変わらず化け物じみた魔法の構築式だ…でも、時々それが嘘みたいに雑になる。無理やり解除したのか、魔法の痕跡が残ってるね」
「それを使って相手の居場所を探知できるかい?」
「無理…と言いたいけど、こうも痕跡が残っているとね。距離までは分からないけど、この方角を正確に真っ直ぐ行った場所にいると思う」
フリーレンの示した方角はやはり北だ。
せっかく王都まで戻って来て、さらに北へと戻らなければいけないらしい。
「どこへ行くの?」
身を翻し、荷物を取りに宿へ戻る僕に、フリーレンが訊ねた。
「僕らの楽しかった冒険に、いつもそばにいた彼に会うのさ」
「どー、ど、ど、ど、ど、ど、ど、どうぞ、こ、こ、こ、こ、こ、これでも飲んで、く、寛いでいてください」
「あ、ありがとう…君も飲んで落ち着いてくれ」
俺は緊張で震える体を必死に抑えながら、自分の持てる最高の技術で淹れた紅茶をヒンメルの元に置いた。
体を抑えることで手一杯だったので、声帯の震えまでは抑えられなかった。
逆にヒンメルから紅茶を勧められたが、この状態で飲めば最大に咽そうだったので、飲むふりに留めておこう。
「ん、この香りは…」
香りをまず堪能したヒンメルが、紅茶に口をつける前から朗らかな表情を浮かべる。
そしてそれを、躊躇うことなく飲み込んだ。
俺はそれを見て、不安になりながら彼に声を掛ける。
「どうですか…多分、一番好きな茶葉だと思ったんですが…」
「ああ、僕の故郷のお茶だ…最高の一杯だね」
「ふぐっ…う……ひんっ」
「どうしたんだい?」
解釈通りの一言一言に感極まった俺は、ハンカチで口元を押さえた。
何より……。
「推しが目の前で喋ってる…ちゃんと呼吸してる…すごい」
「僕は赤ちゃんかい?」
いつも遠くからの観察だったので、こうして間近で見ると破壊力がすごい。
心がゾルトって体の内側から崩壊しそうだ…助けてクヴァール。
心を落ち着ける魔法でも即興で作ろうかとも思ったが、脳がパンクしててそれどころではない。
体の大部分が脳でできているせいか、興奮物質の過剰分泌でオーバードーズを起こしそうだ。
脳の運動性言語中枢を少しだけ弄り、一応受け答えがちゃんと出来るくらいの状態にはした。
紅茶を何とか一口だけ飲み込み、乾き切った口内を潤す。
俺は口を開けて質問した。
「それで…なぜ俺の家に?」
恐らくはあの王都凱旋の夜に、雑に残してしまった痕跡をフリーレンが逆探知したのだろう。
あの時の俺は本当にどうかしていた…していないと、逆に精神が崩壊していた。
だが、王都からはかなり距離が離れていたから、正確な位置までは分からなかったはずだ。
ここまで来るのに相当の苦労しただろう。
「君は…ずっと僕たちを監視していたんだろう?」
「…………」
ヒンメルのその一言だけで合点がいった。
俺は椅子から降りて、床の上で正座する。
「この場で切腹いたします」
「え”」
時々、カメラ目線でファンサしているくらいだから、俺の監視がすでに気づかれていたことは分かっていた。
問題は、その件について推しがわざわざ俺を訪ねて来たことだ。
今更だが、他人に監視されるというのは気分が良くない…そもそも犯罪だ。
俺は今まで、魔王様からの勅令という免罪符を使って勇者一行を監視してきた。
だが魔王様が死んだ今、それ以降の監視はただの我欲を満たすだけの行為に過ぎない。
推しに迷惑行為を働き、不快にさせるファンはファンとは呼べない。
ただのストーカーだ……死のう。
「介錯は不要、御免!」
「ま、待って!別に責めるために来たわけじゃないよ!」
「止めないで!俺は腹を切らないといけないんだ!いや、腹だけじゃ足りないから背中も切る!」
「それだと真っ二つになるよ!」
俺はヒンメルに止められ、切腹はとりあえず諦めた。
推しに俺の薄汚いはらわたを晒すわけにはいかない……あとでこっそり切っておこう。
そんな現実逃避をしている俺に、ヒンメルは床に片膝をつけて目線を合わせて言った。
「僕はお礼を言いにここに来たんだ」
「…お、れい?」
その言葉が理解できず、俺は呆気に取られた。
呆然としている俺を見ながら、ヒンメルは言葉を続ける。
「僕とフリーレンに変な魔法の罠をいっぱい仕掛けたね」
「…はい」
二人の恋愛の後押しのつもりで色々な魔法を開発しては、それを彼らに使ってきた。
その数は100を超えるだろうが、ほとんどはクソボケエルフのせいで解除されたり、俺が自滅して不発に終わったものも多い。
「すごい魔法だったけど、それ以上に下らない内容だったね」
「おっしゃる通りです…」
「解除するのにもかなり苦労したよ」
「すみません…」
それなりに自覚していたつもりだが、こうして面と向かって言われると、かなり迷惑なことをしてきたと思う。
二人の恋路の為というのは本心だったが、俺の趣味趣向に偏った内容のものが多かった。
思い返すと結構恥ずかしい…。
「すごい下らなかった…でもね、楽しかった」
俺は俯いた面を上げた。
正面にいるヒンメルは、くすっと思い出し笑いを浮かべている。
「辛いこともあった冒険だった。それでも…下らなくて、楽しいことがたくさんあった。その冒険の中には、君もいたんだ」
ヒンメルは俺の手を掴んだ。
そしてその言葉を告げる。
「ありがとう。君のおかげで、とても楽しい冒険だった」
偽りや、欺くための言葉ではない。
何度も見てきた俺だからこそ、それが本心からの言葉だと分かる。
俺は再び、口元を押さえた……そして、少し吐血した。
「ぐえぇ…」
「だ、大丈夫かい!?」
「だ、大丈夫です。これは嬉しい時に出るやつなので…」
「そんな、涙じゃないんだから」
俺はヒンメルに支えられながら何とか席に戻った。
推しが優しすぎて辛い。
俺の体力がこれ以上消費される前に、不躾だが聞きたかったことを質問してみることにした。
「1つ、聞いていいですか?」
「何だい?」
「どうして…フリーレンの告白を断ったんですか?」
ヒンメルの表情が、初めて曇った気がした。
彼は淹れ直した暖かい紅茶を一口し、ため息を漏らすような口調で話を始める。
「1つは、寿命の違いかな。僕と彼女ではあまりにも違いすぎる」
「…典型的な答えですね」
「だが大事なことだろう」
エルフは千年以上の時を生きる種族だ。
それに対して人間は、少し前の時代までは人間50年と言われていた。
現在では長くて100歳前後だが、平均だと80歳までだろう。
人間の生涯は、エルフの100分の1にも満たない…これは確かに大きな差だ。
「フリーレンはね、感情が乏しいように見えるけど…千年以上も前の相手を思い出して、静かに悲しんでいるんだ。きっと彼女は、親しい人間ができる度に同じように傷つく…僕みたいな短い時しか生きられない人間が、その伴侶として相応しいのかなって」
「なるほど…」
「それにもし、子供が生まれたら…」
「……」
是非頑張って作って下さいと、無神経な発言が喉から出そうになったので無理やり飲み込む。
俺は喉に引っかかってるそれを紅茶で流し込んだ。
「その子供はどうなるんだろうね」
「…混血のエルフか、混血の”人間”かってことですか?」
「ああ」
ヒンメルの言わんとする事が分かった。
確かに、後者の場合、フリーレンは今まで以上のひどい悲しみを背負うことになるだろう。
それは俺も考えたことがなかったが、人間とエルフの間に子供ができるかは調べたことがある。
「俺も、エルフの混血児というのは実際に見たことはありません。神話の記録だとエルフの形質が多く遺伝するらしいですが…まあ、大昔の記録なので正確に断言できません」
「そうだね…エルフのように長生きで、フリーレンのずっと側に居られる子供だったら僕も嬉しい。でも、人間の寿命しかない子供だったら…彼女は夫と子供をすぐに失うことになる」
「……」
おそらくは混血のエルフが生まれるのだろう。
だが、数パーセントの確率で混血の人間が生まれてきても不思議はない。
ならば子供を作らなければいいと、簡単に言えるような問題でもない。
もし結婚したとして、彼らは何十年かの時を一緒に過ごすのだ。
その間に深い愛情からそういう行為に発展する場合もあるだろう。
俺は俯いているヒンメルを見た。
いつもの自信に満ち溢れた気配がない…これは、彼が恐怖している時の気配だ。
目の前にいる彼は勇者ヒンメルでなく、ヒンメルとして俺に語りかける。
「怖いんだ…僕のような人間には到底想像できない膨大で漠然とした寿命の差が。どうすればいいか分からない」
俺はヒンメルがここに来た理由がようやく分かった。
彼は俺に、エルフと同等の時間感覚を持った者としての意見が聞きたかったのだ。
ドワーフのアイゼンも長命種ではあるが、エルフ程ではない。
俺はようやく落ち着いてきた頭で思考した。
そして何故だか、この場に関係ない人物の話が思い浮かんでくる。
「これは、普通の主婦の話なんですが…」
「…主婦?」
そのあまりにも場違いな言葉に、ヒンメルが面を上げる。
俺も、何故この人の話をし出したのか分からない。
だが、既婚者の意見として参考にしてもらおう。
「その人はデキ婚して娘を出産したんですが、早くに夫を亡くして、女手一つで娘と…とある事情で拾った男の子を育てることになりました」
「……」
「あ、普通は自称なので気にしないで下さい。で、そんな苦労だらけの生活だったけれど、『お母さんになってよかった』って死ぬ前に言ったんです。結婚て、どんな不幸や苦労があったとしても、最後にそれが幸せだったかはその人次第だと、その主婦は言っていました。それは誰であれ、平等に与えられた権利だとも…だから、人間とエルフが結婚したからといって、必ずしも不幸になるとは限らないと俺は思っています」
「…そうか」
予想通り、ヒンメルが反応に困っている。
そりゃ、よく知りもしない主婦の話されても困惑するか。
「そしてこれは俺の意見ですが、現在のフリーレンはエルフの生き方から人間の生き方に移行している段階だと俺は考えています」
「移行?」
「はい。なぜ、エルフの感情が希薄か分かりますか?」
ヒンメルは首を横に振った。
「長い時を生きる彼らにとって、日々の中で何かを感じ続けるのは非常に容量を消費します。千年以上も蓄積した感情…それが悲しみであれば、人間には想像もできない苦しみとなる。生まれ持った精神の防御機能なんでしょうね」
これは単なる自分の推測だ。
心の構造などという、形のない物の仕組みなんて正確には誰もわからない。
だが、フリーレンというエルフを10年も観察してきた俺の観測結果でもある。
「人間は短い生涯で色々な挑戦をしますが、エルフはただ1つのことを探求し続ける性質があります。それは、長い時を生きるためには、見失わない永遠の道しるべがあった方が生きやすいからです。無駄を省き、より効率的に最適化された生き方ともいえる…案外、魔族が生涯にわたって1つの魔法を研究するのも、それと同じ理由かもしれません」
「魔族の君が言うなら、そうかもしれないね」
「でも、これらの性質は長寿のエルフが同種の集団の中でのみ発揮されるものです。何百年も人との関わりを絶ってきたフリーレンは、これから多くの人類と交流を持つでしょう」
「どうして…そう思うんだい?」
俺は、ヒンメルを見据えて言った。
「勇者ヒンメルならそうしたから…あなたは、自分が想像するよりも周囲に影響を与えている」
実際、フリーレンも初めの頃と比べると、些細だが感情を表に出すようになった。
何より、目の前にいる俺自身が最たる実例だろう。
彼はエルフと魔族という、異なる価値観や感覚を持った存在にまで影響を与えた。
それは歴史上、類を見ない大いなる力だ。
「人の世界でこれから生きていく彼女は、もう本来のエルフの精神構造ではいられない。きっとその変化は、あなたの言った通り千年以上も前から始まっていた。人間が当たり前に感じて来た感情を、これからの長い寿命で経験していく…喜びも悲しみも、人の何倍も経験するはずです」
「それは、人間の僕には想像もできない人生だね」
「それでも、人間の生き方と変わらない部分はあります」
「変わらない部分?それは一体…」
それはありふれたものだ。
誰だって大なり小なり持っている。
俺だって、それが有った。
「幸福だった頃の記憶です。どんな辛い時期があっても、それを思い出し、それを糧にして生きてく。だから、彼女にそれを与えて下さい。本当に彼女のこと思うなら、あなたがすべきことはこれまでの冒険以上の思い出作りだ」
俺の言葉に、ヒンメルが目を見開いて俺を見つめている。
きっと、当たり障りのない意見で驚いたのだろう。
それでもこれが、フリーレンと同じ千年以上の時を生き、人間と共に短い時間を過ごして来た者の意見だ。
「何も伴侶として…とは言いません。友人でもいいから、フリーレンの側にずっといて上げて下さい。子供を作るのが怖いなら、それ用に薬も作ります…いや、魔族の作った薬なんて……」
突然、ヒンメルは俺の手を再び掴む。
「ありがとう…リーベ」
そして、その言葉を発した瞬間、俺の手の甲に数滴の雫が落ちてきた。
予備のハンカチはあるが、今渡すというのは少し無粋だろう。
俺は、彼が落ち着くまで手を握られ続けた。
(涙か…いいな)
これは俺にはないものだ。
代わりに目から出る血は、感情の興奮で血管が切れているだけに過ぎない。
感情の抑制が切れた今でも、俺は感極まった時でさえ涙が出なかった。
だが、人生最初の涙は、彼らの結婚式の時にこそ流したいものだ。
リーベ「あの、不躾ですが1つお願いしてもいいですか?」
ヒンメル「なんだい?」
リーベ「ヒンメル戦記の出版を許可して下さい」
ヒンメル「……もしかして、後ろの棚にある分厚い本のことかい?何冊あるんだいこれ?」
リーベ「編集が色々校正した結果、50冊になりました」
ヒンメル「歴史初の大長編小説だ……まあ、別にいいよ」
リーベ「ありがとうございます!」
ヒンメル「その代わり…」
リーベ「な、何ですか?」
ヒンメル「今度は君の物語を聞かせておくれ。一方的なんて不公平だろ?」
リーベ「い、粋ぃ……ぐえぇ」