次の日、先に起きたのは氏真であった。起きる時間にはまだ少し早いが、起きることにした。部屋の外に出て、外の景色を眺める。いつもと同じ朝のはずなのに氏真にはそう感じなかった。
今日は駿河の城に行く。そこまでのことしか氏真は知らない。それから何がどうなるのか、全く分からない。それでも、姉上がいるなら、と考えただけで不安は和らいだ。
「氏真〜、どこ〜?」
部屋から氏元の声がする。起きたら隣にいるはずの妹がいなかったから、声に出して呼んでみたのだろう。
「姉上、おはようございます!」
氏真は氏元に返事をして部屋に一回戻った。そして、部屋で普段着ている巫女服に着替えた二人は雪斎のところに行く。
「あっ、雪斎様」
部屋に行く前に雪斎と鉢合わせした。
「今から起こしに行くところじゃったが、昨日はよく眠れたかの?」
氏元と氏真は、はいと返事をする。
「それでは準備ができ次第、城に行こうかの」
二人は雪斎の言葉に頷いて歩いて行く雪斎の後について行った。
二人は馬に乗れない。家督を継ぐ予定の無かった二人は馬に乗る練習等したことはなかった。そのため、城までは輿で行くことになっていた。城までは護衛として数百人が着いていた。率いているのは岡部親綱。今川の重臣である。今回のお家騒動でいち早く氏元についた武将である。信頼は置ける人物と言えた。結果から言えば、道中、問題は無かった。ただ、梅雨時の雲が空を覆ってどんよりとしていたのが二人の印象には残った。
城に着いた二人はすぐに服を着替えさせられ、二人とも十二単を着せられた。普段から十二単を着慣れていない二人には動きにくい服装だった。しかし、高貴な身分であることを示すため、着せられた十二単は確かに似合っていた。その姿は、二人が間違いなく昔から続く今川家の人間だと家臣達に思わせるだけの力はあった。
二人は評定の間に行かされ、そこで初めて今川の家臣を見た。今は、半分の者は各城に戻って福島の動きを警戒しており、城にいる家臣そのものは少ないが、氏元と氏真は緊張した。
当主候補は氏元であり、氏真はその妹。評定では一番前の段の上に氏元、家臣達の座る場から一番氏元に近い場所に氏真。一門であることと、二人がまだ幼いことから近くにいた方がいいだろうという判断から、場所はあまり離れずに済んだ。まず、雪斎が話を始めた。
「まず、皆に紹介する。こちらが亡き氏親様の子、氏元様である。そして、そこにおられるのが、氏元様の双子の妹君である氏真様である」
家臣達は静かに氏元を観察し、その後、氏真を観察する。その目はこの娘が果たして当主にふさわしいか、見極めようとする目であったが、当の氏元や氏真にはそれを理解することはできなかった。
「次に、福島正成についてじゃが、あやつは昨日、寿桂尼様の説得に応じず、交渉は失敗に終わった。さらに、これは今朝入った情報じゃが、今朝、福島正成と玄広恵探が挙兵した様じゃ」
今度は場がざわついた。雪斎が静かに、と言うまでひそひそとした話し合いは続いた。
「福島正成の勢力はまだ小さい。早めに決着をつければ問題はない」
「それでは、早急に兵を集めねばなりませぬな」
雪斎の発言に一人の武将が返事を返す。氏元と氏真を城まで護衛した岡部親綱だった。他の家臣の意見も大方同じだった様で、話し合いは何の問題も無く進んだ。氏元と氏真には話の内容は殆ど理解できなかったが……。
後、氏元の名前が義元に変わった。本人達には、これに何の意味があるのか、全く分からなかった。
「姉上、戦には出るのですか?」
話の後、家臣も、雪斎もいない、氏真達に宛てがわれた部屋に通された氏真は姉に聞く。その顔には多少の疲れと不安が出ていた。
話し合いは終止二人が外れた状態で行われた。まず、話が分からない二人に参加する権利すらないのが前提にある。これまで当主になるための教育をされていない二人は何も分からない。政治や戦。そんな俗世にある物事から遠ざけられていたのである。当然の結果だった。朝からの移動に加えて理解できない話をずっと聞かされれば多少疲れるものである。
「……雪斎さんがそう言うなら」
氏元から義元になった姉は、妹と同じ疲労を感じさせる顔で他人任せなことを言う。義元の答えは、自分はどうしたいのか、を示していなかった。それが逆に自分には戦場に出るかどうかの決定権がないことを殊更強調していた。
その一言から会話は続かず無音となった部屋は空気が重く感じられた。氏真も『雪斎がそう言うなら』戦に出ることになる。恐らく、可能性は低いだろうが。
初陣。戦に関する知識の無い二人にはその二文字は『恐怖』と等しかった。
「姉上の名前、また変わりましたね」
恐怖を紛らわそうとした氏真の頭にふと浮かんだ言葉だった。
「……氏真も変える?」
義元の短い返事に氏真は顔を振る。
「せっかく姉上が付けてくれた名前を変えたくないです」
元々、二人は氏元、氏真という名ではなかった。菊と辰。生まれた時から慣れ親しんだ名だった。
それが武将の名前に変わったのは兄、氏輝が死んで数日経った頃だった。あの日、菊は氏元と名乗る様に雪斎に言われた。その時、氏真はまだ、辰だった。今川にとって必要なのは氏元であって、妹の辰は必要ではなかった。そのため、辰の改名は本来なかった。別の理由も存在していたが。
(あの時から姉上がこうなることは決まっていた?)
氏真はふと思う。あの日が一つの転換点であったことのではないか。それにあの出来事が一つの計画であったのではないか、と。
(……まるで双六の駒、ですね)
自分の姉を駒に例えることは良くないと思ったところで、氏真は思考を打ち切った。
(……戦、か)
氏真にも分かっていた。自分も雪斎が言えば戦に出ることになることを。自分の意思は関係無い。氏真は急に不安になった。
「氏真、ちょっと探検しましょう」
「え……」
「この部屋には何もないからつまらないわ」
義元は何も置いていない部屋に飽きた様だ。十二単を着て動きにくい状態にも関わらず、外に行こうと言う。
端から見れば、子供特有の我がままであるが、氏真にはその意味が分かった。
「私のために……ですか」
氏真の返事は皮肉を込めた言い方になってしまったが、義元は気にした風も無く、さあ、どうでしょうと笑ってはぐらかした。
氏真の不安に気付いた義元が気を紛らわすためにこの提案をしていることは氏真には分かっていた。また、義元自身も同じ心境であることも分かっていた。氏真は姉の方に手を出して、了承し、義元はその手を掴んで二人で部屋を抜け出した。
部屋の外に出た二人は廊下を歩いている大人達に見つからない様に物陰に隠れながら進んでいく。寺ではよく雪斎の目を盗んで寺の中を遊び回っていた双子にとって城も寺よりも広いというだけであまり変わりはなかった。
「部屋が一杯ありますね」
「本当、こんなにたくさんの部屋、何に使うのかしら?」
氏真と義元にはこんなに多くの部屋がある理由が分からない。でも、次から次へと出てくる見たことないものはまだ十歳の子供には十分すぎる程に魅力的だった。普段なら氏真がそろそろ帰りましょうと言って義元と一緒に帰るのだが、氏真は何も言わなかった。氏真はずっとこうして忘れていたかったのだろう。これから戦場に立つことを。
「あら、ここは……」
向かいから歩いてきた女中を避けるために入った部屋には仏壇が置いてあり、仏壇の前には一人の尼がいた。
その尼は氏真と義元が入ってきた音と声に反応する。
「私に何用ですか?」
氏真と義元の倍以上の年齢であろう尼は振り返り、氏真達を見て驚愕する。
「……菊……辰」
その名前に二人は驚く。この城にその名で呼んでくれる人はいないのだから。さらに、氏真と義元は尼の顔を見て声を無くした。
二人の記憶の中の顔より少ししわが増えているが、変わらないその顔。自分たちの母親の顔を覚えていないはずがなかった。尼も二人に驚愕していたが、すぐにこちらに近づいてくる。
「……母様?」
「菊も辰も大きくなりましたね」
二人の母は微笑みを浮かべて両手で二人を抱きしめる。
「「母様〜」」
久しぶりに会った母は、昔のままだった。綺麗で優しい母だった。二人は遠い日に忘れていた母の温もりを思い出した。
「母様、あのね。それで辰が————」
「姉上、それは言ったら駄目です」
「はいはい、喧嘩しないの」
中央に母を挟んで「菊」と「辰」は一生懸命に、そして、楽しそうに話をする。この数年会っていなかった親と子の間の距離を必死に埋める様に。しかし、それが逆に今の自分達の現状を少しずつ認識させていく。もう、その名前は二人の中以外にどこにもないこと。ここが今川家の城であること。そして、自分はもう「姫武将」であること。自分達の中に一つずつ事実がしみ込んでくる。母との距離が縮まれば縮まれる程、昔に失ったはず大名家の鎖が巻き付いていく。
「母様……」
「どうしたの、辰」
氏真は一息入れてから母を見る。
「母様、母様は私と姉上が戦場に立つことに賛成ですか、反対ですか?」
その言葉に反対側にいた義元も笑みが消えてじっと母を見る。双子の母は義元と氏真を順番に見た後に黙ってしまった。
「……」
先ほどまでの和やかな空気が嘘だったのでは、と思う程重い空気が流れる。
「私は、…………私は——」
母が何か言おうとする前に氏真達に声が掛けられる。
「二人ともここに居たのか。早く部屋にお戻りなさい」
後ろから不意に掛けられた雪斎の声に二人は思わずびくっと体が反応する。
「困ります、勝手に部屋を出られては。今は今川にとって大変な時だということは分かっておりますろうに」
雪斎の刺を含んだ言い方に二人は、条件反射の様に母に「また、会いにくる」と言い、部屋から出て行く。こういう時の雪斎に口答えすれば、厳しい説教が返ってくることを嫌と言う程知っているからである。
少女二人がいなくなり、大人二人が残った部屋は僧を睨む尼とそれを全く気にしていない僧という形になっていた。
「困りますな。寿桂尼様。あの二人の決意が揺らぐ様なことを言ってもらっては」
「はて、何のことでしょうか?」
「今、貴方様は双子に戦に出るのは反対だ、と言おうとしていらっしゃった」
先ほどの貴方様のお顔は正に母親のお顔でしたので、と雪斎は付け加える。
「二人が戦を放棄すれば、どうなるか、お分かりでしょうに」
「分かっています、分かってはいるのです」
寿桂尼は悲しげな様子で視線を双子が出て行った方を見る。
「……ですが、何故、辰まで連れてきたのですか? 私は菊だけだと思っておりました。年齢もまだ十で、それに女である子を一人戦に出すだけでもこれほど苦しいことは無いのです。それが二人とも——」
寿桂尼は年甲斐の無い少女の様に目元に涙を溜めて訴えるが、雪斎は意図も介さない。
「氏真は自分で選んだのです。それを貴方様が拒む権利なぞないと私は思いますが」
雪斎と寿桂尼はまた睨み合ったが、第三者の声でそれも終わる。
「雪斎様、急ぎ広間に」
「どうした?」
「福島勢がこちらに侵攻中と知らせが」
「あい、分かった」
雪斎は最後に寿桂尼に振り返り、続きは後に、と言って知らせに来た者と共に出て行った。
「……菊、辰」
寿桂尼は両手を合わせて、祈る他なかった。