家来に呼ばれ、軍義に出た二人に家臣が告げる。福島が今川館に攻めてくる、と。
二人が軍義に参加できたのはここまでであった。便宜上、二人は軍議の場にいたが、いただけであった。蚊帳の外に出された状態であった。義元も、氏真も、真面目に話を聞いてはいたが、訳が分からず、家臣の表情を眺めるばかりであるった。
二人にはここが攻められる。その一つの事実が頭を駆け巡った。氏真の隣りに座る義元は家臣の発言を聞き逃さまいとしながら自分が手伝える事を必死で探している様に氏真には見えた。氏真は逆に家臣の言葉を聞かず、自分ができる事を必死で考え、探す。
「では、総大将は誰に致しますかな?」
「それは、譜代の家臣である——」
「私がなりますわ」
家臣達は今まで一言も口を開かなかった主君へと一斉に目を向ける。氏真も考える事を止め、義元を見る。
「それは確かに良き案かもしれませぬ」
雪斎が相槌を打って義元の提案に賛成の意を示す。
「じゃが、姫様は戦の経験がござらん。家の命運を掛けた戦が初陣ではちと荷が重すぎませぬか?」
「それでは、総大将とは別に軍師を置き、その者に戦を任せればどうでしょうかの」
「ですが、雪斎殿!」
「兵の士気を上げるためにもそうした方が良かろう」
それで決着であった。自分の案が通った義元は機嫌を良くした事を十年来の付き合いである氏真は気がついた。だが、味方であった雪斎はすぐに敵となった。
「ですが、義元様。あなた様に何かあれば、今川家の終わりでございます。そこで、総大将は妹の氏真様にお任せなさいませ」
今度は氏真に全員の目が向けられる。
「氏真様、総大将のお役目受けて下さりますかな?」
氏真は一度全員を見て、最後に姉の義元をもう一度見て自分の意思を伝える。
「私が総大将の役目受けましょう」
氏真にできる事。それは義元の身代わりになる事。昨日、雪斎から教わった自分にできる事。先ほど考えに考えて行き着いた結論だった。
「それでは、誰が軍師役となるか、ですが————」
そこからはまた二人には分かりにくい話であり、やはり蚊帳の外に追いやられてしまった。
「氏真、ごめんなさい」
軍義が終わり、二人だけになった義元の最初の言葉は謝罪である。自分の案が何を違えたのか、自分の妹を巻き込んでしまったのだ。
「姉上、いいんです。これは私の望みでもあるんですから」
「望み?」
「はい、私は姉上の手助けをしたいんです!」
氏真の本心である。
「でも、これだと氏真がっ!」
「……姉上、私達は双子なんです。姉にできない事は妹がすればいいんです。でも、妹ができない事を————」
「——私がすればいいんでしょ、分かっていますわ、それぐらい」
氏真は心配する義元を宥める。義元は昔からどこか考えが及ばない事があり、それはこんな風に焦っている時に多い事を氏真は知っていた。それを利用して論点をずらそうとする。
「今回は私が戦に出ます。だから、お城と母様は姉上がよろしくお願いします」
「え、えぇ、分かったわ」
義元が煙に巻かれた様な顔で氏真を見るが、それ以上何かを言う事は無かった。厳密には言う暇が無かった。部屋に戻ってすぐに侍女が二人入ってきて、氏真の戦装束の準備を始めた。氏真は言われるがままに具足や甲冑を身につけていく。
侍女二人が部屋を出て行く時には、一端の武将の姿をした氏真がいた。
「姉上……」
「何、氏真?」
氏真に映る義元の表情と今の表情は、理由は違えど、同じ表情なのだろう、と氏真は思う。一方は、妹を戦に送り出す不安と恐怖。もう一方は戦に出る不安と恐怖。
「氏真様」
家来が予備に来たため、氏真は部屋を出る。出る際に一言だけ義元に言う。
「いってきます、姉上」
「……いってらっしゃい、氏真」
十二単とは違う意味で動きにくい格好をした氏真は多少主おぼつかない歩き方であるが、一歩ずつしっかりと歩いていった。
今川館。現在の今川の居城である。だが、城よりも館といった建物であるために防御には適していない。つまり、篭城は不可能であるということである。そのため、福島を追い払うにはこちらから打って出なければいけない。
本来、現在の氏真の知識や精神状態ではこのような事は全く理解できない。軍師役となった由比正信は氏真に今の状況を軽く教え、姫様は座って構えている様に頼んだ。それに加え、指示は全て自分がすると行った。氏真はそもそも指示等するつもりは無かったので素直に頷いた。今の氏真では、『戦え!』としか命令できないのだ。
(座っていればいい。余計な事はするな。座っていればいい。余計な事はするな)
氏真はそれを心の中で復唱する。そんな氏真を見て正信は声をかける。
「姫様」
(座っていればいい——)
「姫様っ!!」
「は、はい!?」
何も聞いていなかった氏真は驚いて思わず座っていた椅子から立ち上がった。寺住まいの時、雪斎に怒られると、背筋を伸ばして返事をしていた時のくせが悪い意味で出てしまっていた。
「な、何でしょうか?」
「……姫様、まずは座って下され」
「……はい」
恥ずかしさの余り、氏真は顔を赤くして椅子に座り直す。
「姫様。無理かもしれませぬが、落ち着きなされ」
由比正信。少々白髪が混じる五十代程の武将である。氏真から見て、見るからに厳しそうでどこか雪斎と重なって見えてしまう正信が初対面から苦手だった。
「そ、そんな事っ……」
「無理でも自信を持っている様に振る舞いなされ。姫様がそうなされば自然と兵の士気も上がりましょう」
「そ、それは分かりますが……」
それができれば苦労は無い、と思う氏真である。勝てるのか、負けるのか。それさえも見極められない氏真は負けるのではないか、という不安のみが大きくなるばかりなのだ。正信が言う様な振る舞いはできる様な状況ではない。いざ、戦場に出れば出たで恐さを感じてしまう氏真であった。
「姫様は私共を信じて座ってくだされば良いのです。さすれば、福島の軍勢を破ってみせましょう!」
そういう正信は氏真にとって頼もしく見える。氏真の何かに頼りたい心が正信をそう見せているだけかもしれない。そんな氏真でも、大名家の血筋のためか、自分に残された道は目の前にいて戦ってくれる兵を信じて座っているしかない、と分かっていた。
「分かりました」
座り直した氏真は緊張してはいるが、先ほどよりはマシになった。
「正信様」
「姫様、正信とお呼び下され。あなたは当主の妹。私より位は上でございます」
「では、正信」
不安ばかりの心に少しだけ余裕が出た氏真は一つ正信に尋ねる。
「相手とこちらの人数はどうなっているのですか?」
丁寧な言葉を使うのはまだどこかで遠慮しているのか、それとも、その様な性格なのか、分かるのは氏真だけであろう。
「物見は二千と申しております」
「こちらは……?」
「二千でございます」
それを聞いても氏真は何も変わらず座っているのみであった。数で劣っていない事が氏真を一先ず安心させたのだ。その様子を見た正信は足軽に指示を出し始めた。
一通りの指示が終わって一息つける時まで氏真は正信が伝える指示を聞いていた。殆どが分からない内容であったが。
「姫様、どうなさりました?」
氏真は先ほどから空を見上げている。暇を持て余している様であるが、周りから見ると、その姿が滅亡しかけの全てを諦めた大名家の姫に見えなくもない有様であったために正信はもう一度声をかけた。
「氏真様」
「何でしょうか?」
今度の返事はすぐに返ってくる。
「どうなされた。それでは、負け戦をする様に見えまするぞ」
「申し訳ありません。少し思う所がありまして……」
氏真はきょろきょろと周りを見て自分と正信以外近くにいない事を確認すると、ぽつりと呟いた。
「勝てばこの戦は終わりますか?」
戦の終わり。それはどこか。まず、今回の一戦の勝ち負けがどこでつくのか、そんなことも分からず、今ここにいる氏真であるが、ふと考えがこの戦の後に及んだのである。ここで勝ったとしてそれで全てが終わって義元が当主になるのか。それとも、次の戦の始まりなのか。
「ここで勝てば姉上は当主になれますか?」
「さあ、某には分かりませぬ」
「そうですか……」
氏真が望んだ答えは得られなかった。
「静かですね」
雲一つない天候の下に整然と並ぶ弓隊に槍隊、それに騎馬隊。それらの隊列の一番奥にいる自分。
「……静かですね」
本当に相手はいて、ここにきているのであろうか?
「正信、本当にここに攻めてくるのですか?」
「それは間違いございません」
戦があるよりも無い方がいい。そう思う氏真を無視するかの様に遠くから音が聞こえ出す。まだ、姿が見えない状況でも敵がこちらに来ている事がしっかりと氏真には分かった。
姉上ならこんな時どんな顔をするのだろう。姉上なら何も考えてないかの様に悠々と相手を倒す様に家臣に言うのだろうか? 考えが嫌な方向に向かい出すのを感じた氏真は口には出さずに復唱する。
(私は氏真だ。義元ではない。私は氏真だ。義元の妹だ。私は氏真だ。義元の身代わりだ)
そう言っている内に、義元の顔が氏真の頭に浮かぶ。それに続いて、館にいる母親の顔が浮かぶ。ここで負けるわけにはいかないと思う氏真ではあるが、ここで自分ができる事が少ない事も事実。氏真はここでできる事をするしかないと腹をくくる。今まで自分に巣食っていた不安は義元の顔が思い浮かんだ瞬間、急に小さくなった。
(そうだ。恐れても何もできない。目の前の戦に勝つ事だけを考えろ!)
「正信!」
「何でしょう?」
「必ず勝て!」
「はっ」
後はもうできる事はない。黙って座って、これから目の前で行われる戦を祈りながら見るだけである。
「全軍、準備しろ」
正信の掛け声で全軍が動き出す。正信の采配が始まる。
「敵は私のもう一人の姉、玄広恵探。亡き父様はどちらの味方なさるのでしょうか?」
義元なら私でしょうと言い、雪斎なら最後に立っている方と言うに違いない。氏真の父親がどちらの味方なのか、それを見極めるための最初の戦が今ここに始まろうとしていた。