今川狐姫   作:潜水ラクダ

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4話

 玄広恵探。義元と氏真の姉である。姉ではあるが、母が違う。玄広恵探の母は側室である。その側室が福島の出であったために今回の跡目争いは起こったのである。自分の一族の血を引く者を当主にしたい福島正則と正式な直系である義元を当主にしたい家臣の間で起こった争い。後に花倉の乱と呼ばれる一連の戦である。

 

 福島勢による今川館への強襲。ここを落とす事には大きな意味がある。今川の本拠地を落とす影響は大きい。福島一族は今川の有力家臣ではあるが、一家臣でしかないのだ。他の家臣達の中には福島に味方している者もいるが、大部分の家臣は義元についている。本来、不利であるのは福島である。そこで福島は今川館を攻める事を選んだ。時が経てば、義元の兵が増え、それを見たこちら側の家臣達が義元側に寝返れば福島は一気に敗色濃厚になる。しかし、まだ兵が集まっていない今川館を落とし、義元の首をあげれば勝ち。そうでなくとも、義元についた家臣達がこちらに寝返る可能性が格段に上がる。負けた時の危険も大きいが、勝った時の見返りはそれ以上だった。

 

 福島氏が今川館を強襲した理由はこういう事なのだろう。事実、急の挙兵のため、今川館に兵はまだ集まっていない。勝敗は分からなかった。

 

 氏真に戦は分からない。人と人が斬り合い、殺していく。その一連の流れが続いて敵を先に全滅させれば勝ち。そんな印象しか抱いていない。だから、弓がどう強いのか、騎馬がどう強いのか、と尋ねられれば何も返せない。逆にそのような知識が無い状態だからこそ、真面目な氏真はこちらがどう動き、あちらがどう動くのか、を眺めるだけであった。

 

 まず、相手が動き出す。足軽が持つ長い槍をこちらに向けて走り出す。

 

「弓隊————」

 

 周りから弓矢を取り出し、弓を引く音がする。そんな光景を見ているはずの足軽達は怯みもしないで氏真の本陣へと向かってくる。

 

「————放て!!」

 

 その言葉を皮切りに何百もの矢が空に放たれる。その矢が次の瞬間には敵の足軽達に当たる。そのまま倒れる者もいれば、運良く当たらなかった者は止まらず走り続ける。数回弓矢を放たれ、足軽達の距離が縮まって始めてこちらの足軽達が槍を持って突撃する。

 

(これが、戦…………)

 

 氏真は前方で行われる殺し合いの殺気の様なものを肌で感じていた。すぐさまここから逃げ出したいとも思った。刀さえ十分に振るえない氏真は無防備であり、敵がこの陣の一番奥の氏真の陣に辿り着き、隣りの正信や足軽を倒せば、もう氏真の命は無いのだ。

 

 氏真が緊張し、今にも気を失いそうな程に精神に余裕がない状況下で座って戦を眺めていられるのは、隣りで次々と指示を送りながらもどこか余裕を見える正信の姿と自分がこの役目を引き受けた事の責任感からであった。

 

「足軽をもっと押し出させろ」

 

 正信に言われ、指示を伝えにいく伝令役を見送りながら、前方を見れば、また一人足軽が倒れるところだった。

 

「正信、騎馬は使わないのですか?」

「今はまだ、相手の統率が乱れておりませぬ。今、騎馬を突撃させても、槍の餌食となりましょう」

 

 正信はそうは言っても、氏真にはどこが統率されているのか、理解できなかった。氏真は、騎馬は足軽よりも強いと考えていたが、そうでもないらしい、と認識を変える。

 

(乱戦で弓を射てば間違って味方を打ちそうですし、どうすれば)

 

 一見、落ち着いていても味方が倒れる所を何回も見て氏真は自分達が負けていると錯覚しかけていた。焦っていたのである。

 

 もし、総大将が義元であったなら、勝っているのか、負けているのか、と一々聞き、正信を困らせただろう。しかし、氏真は正信の言いつけを守って何も言わずに黙っていた。自分の目に戦の様子を少しずつ焼き付けながら。

 

 戦が始まって数十分経った頃には、氏真も少し回りが見える様になった。至る所で足軽が激しく槍を突き出しているが、相手の数が少なくなった様に氏真は感じていた。

 

 それを決定付ける言葉を一人の伝令が来て、正信と氏真に伝える。

 

「申し上げます。福島勢、撤退を始めております!」

「騎馬隊を出せ、このまま追撃し、敵を討ち取れ!」

「はっ!!」

 

 伝令が出て行くと正信が氏真に一言告げる。

 

「姫様、仰せの通りこの正信勝利いたしました」

「……正信」

「はっ!」

「本当に勝ったのですか?」

「勝ちでございます」

 

 氏真はその言葉を聞いた途端に今までの緊張から解放されて気が遠くなる感覚を覚えるが、倒れる事は無かった。名門の血故か、氏真本人の気合い故か。それは氏真を見ていた正信にも氏真本人にも分からないだろう。

 

 福島勢との戦は兵の士気という点ではやはり氏真がいる防御側が有利であった。それに加え、福島勢には油断があった。挙兵からの今川館への強襲。福島勢から見れば、相手は突然の事で対処できず、簡単に勝てると思っていた所があったのだ。そのため、戦の最初こそ勝敗の行方は分からなかったが、すぐに優劣はつき、福島勢は敗走したのだ。

 

 福島勢の追撃も終わり、一息ついた所で氏真は勝ち鬨をあげる様に正信に催促された。勝ち鬨とは何かと言うと、正信は丁寧に教えてくれた。要は勝った時の掛け声である。氏真は簡単に方法を教えてもらい、その通りに行う。

 

「えい、えい、えい」

 

 その声の後に周りの足軽達がおう、と声をあげる。たったそれだけで終わりである。後は全て正信がする、と言うので氏真は素直に今川館に戻る。氏真の心は勝ったにも関わらず、曇っていた。

 

 館に戻った氏真は侍女に手伝ってもらい、具足を脱ぐ。流石に汚れた体は自分で拭き、それが終わると、再び十二単を着させられる。再び動きにくくなり、少し憂鬱になる。宛てがわれた部屋に戻ると、義元がすぐに駆け寄ってきた。

 

「氏真、大丈夫だった?」

「ええ、姉様。私は傷一つありませんよ」

「……そう」

 

 分かっているからこそ、それ以上義元は何も追求しなかった。

 

「私は……」

 

 それからどれほどか時間が経ってから氏真は義元に話し始めた。

 

「私は座っているだけでした。……私はその場にいただけでした」

「……」

「それでも、恐かったです」

 

 本当は様々な感情が溢れているのであるが、氏真はそれらを言葉で表現する事ができなかった。唯一言葉にできた恐怖だけを氏真は義元に伝えた。

 

「……そう」

 

 義元も氏真の言葉に返す言葉が思いつかない様であった。まだ幼さを残す二人にできる事は本当に少ない。

 

「氏真、隣り、いいかしら?」

「はい、姉様」

 

 義元は氏真の隣りに座る。すると、氏真は突然ぽろぽろと涙をこぼし始めた。義元は驚くが、やはり寄り添う事しかできなかった。氏真は氏真で自分の意志で止める事ができない涙を流しながら義元に寄り添う事しかできなかった。

 

 氏真は泣き終わると、その場で眠ってしまった。義元はそんな氏真の頭を肩に乗せたまま、静かに外の景色を見ていた。そうしている内に義元も小さな寝息を立て始める。実際に戦に出た氏真に加え、城で待っていた義元も疲れていたため、二人が起きる頃にはもう夕方になっていた。

 

「う〜ん、ここは……?」

 

 先に氏真が目を覚ます。少し暗い室内で氏真は姉に寄り添って寝ている事を確認し、姉に長時間不自由な思いをさせてしまったのではないかと思い、すぐに離れようとしたが、その姉も自分に寄り添って寝ている事に気付いて止める。半身に感じる暖かさは氏真には心地よかった。

 

 次はきっと姉の番だ。氏真は、次の戦は姉の初陣になると感じていた。根拠は何も無いが、確信していた。自分は姉を今日の姉の様に送り出し、そして、迎える。今度は私が待つ番だ。だから、氏真はこの暖かさを身に刻んでおきたかった。

 

 姉の寝顔を見ていた氏真はふと思う。自分の体についてである。

 

(昔はこうやって何も掛けずに寝てしまうとすぐに風邪をひいて数日寝込んでいたのに)

 

 義元に比べ、病弱な所があった氏真は寺にいる時から度々寝込んでいた。しかし、今の氏真に疲労感はあっても、体が気怠かったり、寒気がしたり、はしない。氏真は着ている十二単が暑いからかもしれないと考えた。確かめるために、額を拭うと汗で裾が少し湿る。隣りの義元もよく見れば少し暑そうにしている。氏真は義元を起こす。

 

「姉上、姉上」

「何ですの、もう朝ですか?」

 

 氏真が義元の体を揺らしながら呼びかけると、寝ぼけ眼を氏真に向けながら義元はか細い声を出す。目をこすりながら周りを見て、義元はまだ朝じゃないですの、と言って寝ようとする。

 

「姉上、これ以上寝たら、夜眠れませんよ」

 

 毎朝繰り返されている流れと同じ様なやり取りにどこか安心してしまう氏真であった。

 

 

 

 

 

「これで風はこちら側に吹く」

 

 雪斎は館にある一室で他の家臣達と茶を飲みながら一息ついていた。まだ、決着はついていないが、今日の勝利を後ろ盾にすれば、やり方はいくらでもあるのだ。例え、負けていたとしても義元が生きていれば、勝ち目は多いにあった。雪斎はすでに手はいくつも打っているのだ。氏元から義元への名前の変更や北条氏への援助の要請。負ける確率は実は少ない。しかし、この家督相続を確実なものにするならば、ここで勝つ事は確かに重要であった。勝てば、このまま短期決戦に持ち込める。そうして早々に戦を終わらせれば、各地の大名達の今川家への評価は上がる。それほど簡単に事が進むとは恐らく雪斎は思っていないだろうが……。

 

「殆どの重臣はこちら側、もう勝ったも同然」

「後は義元様に才があるか、ですかな」

 

 他の家臣達の言葉にも余裕が感じられる。しかし、その中に一つ懸念がある。

 

「しかし、氏真様の存在は少々危険ではありませぬか?」

「それもそうじゃ、邪な考えを持たぬ内にどうにかする事が肝要では?」

「心配はいりませぬ」

 

 雪斎はそんなことは気にもしていないという風に茶を飲み続ける。

 

「由比正信の話では、武将の器は持っている様ですが……」

「器は持っていても氏真様の義元様への忠誠は絶対じゃ」

「他の者が担ぐ事も有りましょう」

「それも心配には及びませぬ」

 

 雪斎の自身のある返事に他の家臣達は雪斎様がおっしゃるのならとその話題は終える。

 

「さて、後は正成をどう滅ぼすか」

「それは追々決めていく事に……」

 

 雪斎の策略は続く。義元と氏真の二人が運命の渦の中で一つでも多くの幸せを得られる様に、少しでも幸福を味わう事ができる様に。

 

 しかし、玄広恵探と義元の二勢力の争いは今川館付近の戦では終わらなかった。玄広恵探と福島正成は方ノ上城と花倉城の二つの城を拠点として抵抗を続けていく。さらに、その争いに呼応するかの様に不満の持つ一部の武将達が反乱を起こす。しかし、もう一手打てば王手は掛けられる。義元が家督を継ぐまでの道に問題はなかった。

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