氏真は一人で牢屋に足を向ける。入り口に配置している牢屋番に鍵をもらい、少し離れている様に言ってから牢屋のある部屋へと入る。
牢屋に入った氏真は良真の牢の前に立つ。
「名門今川家と言ってもこの程度なのね」
「……」
牢の前には良真に与えられるはずだった食事がばらまかれていた。足軽達がわざと零したのだろう。氏真は哀しい気持ちを押し隠す。今はそんな時ではないのだから。
「良真様、確認したい事があります」
「何か?」
「————生きたいですか?」
文字だけ見ればかなり上から見た発言である。例え、氏真の感情が込もっていても良真にもそう聞こえたに違いない。
「あなた、何様のつもり。仏様のつもり?」
「……いいえ」
「あなたは世の理を理解してる?」
「……」
「私は敗者よ。敗者に生死の決定権があるとあなたは本気で思ってるの」
だったらお笑いね、と。まるで立場が逆転したかの様な笑顔を良真は氏真に向ける。
「それで、何? 私の処刑日でも知らせに来た?」
「……」
「それじゃあ、何、私を逃がしに来た?」
「……」
「それとも、私笑いに来たの?」
「良真様、違います。良真様さえ条件を飲んで下されば命は取りません」
「つまり、私に生き恥をさらせ、と」
氏真が尋ねて来た理由を自分が思いつく限り挙げていった良真であるが、正解を言い当てる事はできず、氏真からは遠回しな言い方で取引を提案される。良真は氏真の事を憎たらしく見つめながら皮肉のつもりで返事を返す。
「……それは」
「ずっと無様に生きろって言うの! 謀反人の蔑みをずっと受けて死ぬまで醜く地を這いつくばって後悔しろって言うの!!」
「……違います!」
「違うって何がよ!!」
氏真は良真の怒り、悲しみ、憎しみ、負の感情がいっぱいに込められた言葉を否定する。
「私がそうはさせません。私が良真様にそんな生き方なんてさせません」
「あなた、馬鹿ね」
「……えっ?」
「何で私に関わるの? 助けるの? 私を助けてもまた裏切るかもしれないわよ」
「……」
「ほら、何も言えない」
「————家族、ですから」
「何?」
「家族を助けたいと思うことが間違いですかっ!」
氏真は腕を真直ぐ体の横につけ、仁王立ちした状態で良真に本心をぶつける。氏真にとっては母が違っても父が同じである良真は家族の範疇だった。義元にも話さなかった理由を意地悪な事ばかり言うもう一人の姉に氏真は怒鳴った。
「良真様、あなたが私と一緒に遠江で起こった反乱を鎮圧する事。それが助命の条件です」
氏真はそのままの勢いで良真が助かる条件も示す。
「……本当に?」
「はい、政治的な理由もありますが、それで今回は許すと言う事です」
「本当の本当に?」
「はい」
良真はそれを聞くと、手で顔を隠してしまった。氏真はどうしたのか、と牢の中を覗き込もうとするが、途中で止める。
「私は代わりの昼食をもらってくるのでその時に返事を教えて下さい」
氏真はそう言い残して牢屋の外に出て行く。部屋を出ると、牢屋番に呼び止められた氏真は鍵を返し忘れていた事を指摘され、さらに、良真の昼食をもらいに行くと牢屋番に言うと、私が持ってきます、と言われ、氏真は牢屋番が帰ってくるまで牢屋の番をしていた。良真にはああ言った手前、みっともないなぁ、と思う氏真であった。
戻って来た牢屋番はお盆に乗せられたおかゆを持っていた。良真の様な捕虜に豪華な物は出ない。氏真はお盆と鍵を受け取って再び良真の所へと足を運ぶ。
「良真様……」
「……返事かしら」
「はい、時間がある訳でもないので」
遠江の反乱の報告が来てすでに三日程経っている。花倉城が落ちてすぐに兵は送っているのだ。氏真達はその援軍として送られる予定であるが、早いに超した事はないのだ。
「返事は、受ける、でいいわ」
「分かりました。それじゃあ、もう牢に入っておく必要はないですね」
氏真は牢屋の鍵を出して牢の鍵を開けようとして止める。
「どうしたの?」
「私が出してもどこに連れて行けばいいのか、聞いてませんでした」
「意外に抜けてるのね、あなた……」
先におかゆ食べますか、と聞いて氏真はこの話から離れようとする。殆ど何も食べていない良真にはその方が良かったのか、そうしましょう、と言う。
「まずは、毒味……」
「いや、あなたが食べたいだけでしょ」
氏真なりの冗談だったのだが、良真には通じなかった。さらに食い意地が張っていると思われた氏真は少し怒って、一口おかゆを口に入れる。
「……あまりおいしくないです」
「それは仕方ないでしょ」
捕虜に上等な食事を与える事は殆ど無い。氏真は檻の鍵を開け、おかゆを良真に渡して、再び鍵を掛ける。
「私はちょっと人を連れてきますので」
氏真は人の食事をずっと見ているのもどうかと思い、説得の成功を伝えに行く。流石に雪斎のいる場所は知っているのでそこに向かう。雪斎の部屋には正信もいた。
「雪斎様」
「氏真様、説得はどうでしたかな?」
「どうにか上手くいきました」
「それでは準備をさせましょうかの」
雪斎が正信に目配せすると、正信は出て行く。氏真も雪斎の部屋を出て正信を追おうとするが、雪斎に、呼び止められる。
「氏真様、小度は上手くいくかもしれませぬが、次からは諦めると言う事も覚えられます様」
「……諦め、ですか?」
「全てを救う事ができる人間なぞいませぬ。どこかで線を引き、選ばねばなりません。氏真様を見ていると、その点が不安になります」
雪斎の氏真を思っての言葉だった。しかし、氏真には耳が痛い言葉ではある。賢い氏真はそんな事分かっている等と簡単には言わない。雪斎の言葉を噛み砕いて、少しずつ飲み込んでいく。
「雪斎様、私は今、間違った事をしていますか?」
「武家のしきたりから言わせてもらえば、ずれております」
「……っ」
「ですが、人道からは全く外れておりませぬ」
雪斎は氏真に近づいて、そっと頭を撫でる。氏真は何も言わず、雪斎の手を受け入れる。
「氏真様はお優しい。ですが、氏真様が幸せになれなければ意味がありませぬ」
「……はい」
「自分の事も大切にして下され」
「……はい!」
雪斎の部屋を出て廊下を歩く氏真は雪斎の言葉を反芻しながら良真に会うため牢屋に戻る。
「私の幸せって何でしょう? その内、見つかるのでしょうか?」
いい返事こそしたが、自分の幸せとは何だろう、と頭を抱える氏真であった。
その頃、良真は氏真の代わりに牢屋に入って来た年配の武将と会っていた。
「良真様、迎えに参りました」
「あなたは?」
「今川家家臣、由比正信と言います」
「それで私はどうすればいいのかしら。もしかして、氏真の言ってたことは嘘で、今から氏真に秘密で処刑でもするんですか?」
正信は目を見開いて驚いた様な顔つきをした後、大笑いした。笑いながらも牢屋の鍵を外す。
「次からは氏真様と呼んだ方がいいじゃろうな、その呼び方じゃと不敬になるからの」
「……分かったわ」
「それにしても面白き姫じゃ。そこまで頭が回る辺りやはり氏親様の子か」
「では、やっぱり……」
「心配はいらぬ。儂は良真様を牢から出せ、と言われただけじゃ」
「……今川家は私が思っていたより甘いのね」
そう言われた正信はまた笑う。檻からようやく出れた良真はどこに笑いの坪があったのか、と訝しむ。
「氏親様に似て身内には甘い今川家になりそう様じゃ」
「父様に、似て?」
「後はどちらかに才気があれば……」
「何を……」
「あれっ、正信、何でここにいるのですか?」
良真にとっては悪いタイミングで氏真が来てしまう。これ以上の追求は不可能である。
「もし、氏真様が良真様の説得に成功すれば、良真様をここから出す様、雪斎殿に言われましてな」
「雪斎様が……」
「氏真様、兵の準備は儂がいたしますので、良真様のお世話を頼めますかな」
「はい、大丈夫です」
「それと出立は明日の朝になりそうですので今日はゆっくりとお休みなされませ」
「はい、分かりました。良真様、こちらです」
「えっ! えぇ……」
氏真は良真の手を掴んで引っ張っていった。誰のいない檻の前には正信だけが残されていた。そこに一人の坊主が入ってくる。そこでの二人の会話を聞いた者はいなかった。
「良真様」
「様はいら……いりません」
「ですが……」
「あなたは当主の妹、私は唯の良真。様をつけるのは可笑しいの、です」
今まで廊下を歩いていて誰にも会わなかったから良かったものの誰かにこれを聞かれていたら、良真の立場は悪くなっていた。良真の方が本来氏真に敬語を使う必要があるのだ。氏真の、丁寧語はともかく様を付ける事は止めさせなければなかった。良真も慣れない敬語を話す様に心がけている。
「良真」
「何でしょうか?」
「……馬には乗れますか?」
「乗れますが……」
そう言った途端、氏真はあからさまに落ち込んだ。
「私は乗れないのでまた輿で移動になりそうです」
「馬に乗るより疲れないと思うわ……思います」
「あれはすごくお尻が痛くなるので嫌です」
氏真は小声で良真に言った。
「だったら……でしたら、練習すればよろしいのでは」
「……そうします」
氏真は絶対に馬に乗る練習をしようと思った。
氏真が良真を連れて自分の部屋に戻る。他に行く場所を思いつかなかったためだ。部屋に良真を入れ、氏真は近くにいた侍女を呼ぶ。氏真は侍女に良真を頼む。初めこそ、何かを手伝おうとするが、侍女が手際よく全て行ってしまうため、氏真は部屋にいない義元を探しに部屋の外に出た。成功の報告をするためだ。
「姉上、どこですか〜?」
義元のことだ。暇を持て余して、どこかに行ってしまったのだろう。
「そこにいるのは、辰ですか?」
声がした後ろの方を見れば、氏真の母である寿桂尼がいた。
「母様!」
義元の事を忘れ、寿桂尼に近づく氏真であるが、近くまで行って立ち止まってしまう。数年間会う事が無かった母にどう接すればいいのか、分からないのだ。
「辰、貴方、また、戦に行くの?」
「……はい、母上」
「戦が男の仕事だと分かって言っているの?」
氏真にはその言葉の意味が理解できない。それは、姫武将の存在の否定であり、氏真の存在の否定である。
「はい、分かっています!」
氏真は勢いで言う。本当は分かっていない。
しかし、ここで分かってないと言えば、母親が絶対に出陣を止めると氏真は感じた事もそう答えた理由であるが、それよりも、子供が大人に意見を押し付けられて反発したのと同じであった。
これが雪斎や正信であれば、氏真は恐らくこの様な反応はしない。雪斎は長年一緒に過ごし、尊敬しており、正信は戦や評定で頼れる大人として認識されているためである。その点、寿桂尼は氏真の母親ではあるが、氏真にはそれだけなのだ。小さい頃に別れてしまった氏真は母親へ甘えたい気持ちはある。同様に指図されると何故か反発したくなる子供の部分もあるのだ。寿桂尼には、雪斎や正信の様に氏真を納得させるだけの何かが無かった。
「……氏真」
「母様、私、姉上を探しに行きますので」
久しぶりに会う氏真にも分かる母親の悲しそうな顔を見た氏真は逃げる口実を作ってその場を去る。
(私は姫武将だ。今川義元の妹だ。私だってできる!)
確証のない思い込みが氏真を戦場へと導いていく。