遠江。この地はかつて今川の領地ではなかった。歴史を辿っていけば、今川の領土であるが、一時期、今川勢は追い出されていた。それを氏真の父親である氏親が戦の末に奪還したのだ。
しかし、今川の本拠地が駿河にあるためか、遠江における今川家への忠誠心は薄い。今回の反乱も今川家への不満や忠誠心の薄さからであった。
それでも、勝てない戦いはしたくはないのが本音である。だから、福島の挙兵に呼応して立ち上がったのだが、遠江の地侍も福島が負けたとあれば、もはや勝ちはない。
そのため、敗北を覚悟して今川の大軍を相手に死ぬ覚悟を固める地侍に、降伏を呼びかける事は効果的であった。しかし、ここで降伏しても、今回の罰としてこれから先、今川家への年貢がさらに追加される可能性もあるのだ。簡単に降伏できない者もいた。他にも油断させておいてもだまし討ちも否定できなかった。
それを上手く回避したのが雪斎である。雪斎は今回の遠江の乱も福島に促されただけとして、新領主である義元に忠誠を誓えば全員許すとしたのだ。これを受けて、遠江の乱は大きな戦闘も無く、収束していった。それには実際に良真が許された事が実際に人前に出て明らかな事実として広がった事も大きかった。
その代わり、全ての首謀者とされた福島一族への弾圧は凄まじかった。女子供を皆殺しとまではしなくても、多くが残党狩りや褒美目当ての農民に討ち取られていた。その中には多少の女子供が含まれていた事も確実である。
氏真はそんな状況の中、まだ遠江にいた。雪斎の策謀が上手く嵌まり、氏真と良真が戦をする事はほとんど無かったが、あるにはあったのだ。一部はこれほどまでの勧告に応じていなかったのだ。しかし、それも多勢に無勢。氏真の軍はこれを討伐し、遠江の乱は完全に収まっていた。
「良真、後は帰るだけですね」
駿河の城を出て、一週間。氏真も呼び捨てには慣れていた。
「そうですね。それにしては嬉しくなさそうですね」
良真も敬語とまではいかずともこの話し方に慣れつつあった。
「そう見えますか?」
「ええ、見えますね」
良真は氏真が嬉しいという感情ではなく、別の感情を抱いている事をどことなく感じ取っていた。
「何で、戦で人が死ぬのか、と思いまして」
「戦だからですよ」
それは良真なりの答えだったのだろう。
「それでは、何で戦は起こるのですか?」
「理由はたくさんあります」
戦国の世が始まって早数十年。元は先の乱で幕府の権威が失墜した事が原因である。そうして幕府の影響力が弱まった事で日本各地の実力者が自分達だけの力で統治を始め出したのだ。
結果生まれたのが戦国大名である。そして、戦国大名達は互いの利益のために戦を行う様になったのだ。
他にも飢饉や疫病も原因となっていた。食糧不足や人材不足を防ぐために隣国に攻め入り、食糧や労働力を奪う乱取りで自国を少しでも豊かにし、不満を減らす意味も戦にあった。
「大体はこのような理由です。今回は前者に近い戦です」
「良真は物知りです」
氏真は、自分はそんな事も知らなかったのか、と恥ずかしい。しかし、そうした思いが氏真を今まで突き動かしてきた要因でもあった。
二人の話に口を挟まず、正信は輿と馬に乗る少女達を見る。昔の戦場を知る正信にその光景がどう映ったのか、誰にも分からない。
「私は井の中の蛙です」
氏真は雪斎に教わった言葉を口に出す。荘子という本にある内容が元らしいと氏真は思っている。それが嘘かどうかなんて彼女は知らない。
そう、彼女は何も知らない。
氏真と良真が駿河に戻った後、事は大きく動いていった。まず、今回の花倉の乱の首謀者に当たる福島正則は甲斐の国に逃げようとしたところを農民に打ち取られた。死体が見つかったので間違いなかった。
そして、今川の家督は義元に完全に決まった。
家督を争った良真は当主になるつもりは最初から無かったのだ。福島正則の操り人形の様なものだった。
こうして、今川の代は義元に変わったが、多くの難題は残る。先の乱によって、未だにまとまりを見せない家臣団、今川への不満を持つ遠江の地侍達、さらには、周りの国を治める守護大名や戦国大名。義元と氏真はまだそれを理解できていない。二人よりも年上で世間を知っている良真であっても二人に毛の生えた程度のことしか知らない小娘である。今川という名門の家の血を持ったたった三人の姫武将は戦国という大海原に漕ぎ出したばかりである。
「今回は、勝ちましたな」
義元が今川を完全に継いでから数日経った夜。今川館では数人が集まって話し合っていた。ここに少女三人の内の誰か一人でもいれば、声だけで半数の者は分かっただろう。蝋燭の火で顔がようやく識別できるこの空間を誰かが見れば、間違いなく密談だと勘違いしただろう。
「じゃが、福島の乱のせいで今川の内側はボロボロじゃ。外見だけはしっかりしておっても攻め込まれたら一瞬で瓦解する」
「それに加えて良真まで助ける等、これ以上問題を増やしてどうする、由比殿。氏真様に泣かれでもして情けを掛けたか?」
由比正信は笑う。
「岡部殿。今はもう良真様じゃ。それに儂はまだそこまで耄碌してはおらん」
「では何故か教えてもらえますかな?」
三人目の声が響く。雪斎だった。
「氏真様に人の心を動かす才があるかを見てみたかったんじゃ。氏真様は義元様の妹。これからの家臣団に必要な存在じゃ。そんな氏真様に才が無ければ問題じゃからのう」
「では、良真様でなくても良いと思うが?」
「良真様のことは儂からしてもどう転んでも良かったのじゃ。失敗すれば、二度と良真様を義元様の代わりにと言って担ぎ出すことはできなくなる。成功すれば、次代の家臣団の柱の一つになる様に育てればいいこと。それができぬ今川家ではあるまい」
それを聞いて今度は岡部が笑い出す。
「全く由比殿。理屈で固めた話等慣れないことはするものではない。雪斎殿か。由比殿に吹き込んだのは」
「わっはっはっは。だから言ったではないか、雪斎殿。儂では岡部殿は騙せぬと。正直に言うと、儂は氏真様が助命を願う姿を見て氏親様を思い出しただけよ」
氏親。その言葉で今まで話していた者達が押し黙る。
「氏真様が氏親様の様に家族思いなら余程のことが無ければ義元様を裏切らん」
「全く由比殿の今川思いは……」
岡部は呆れつつも尚も笑っていた。この老人はいつもそう言うからだ。岡部の他にいた数人も全員が笑う。しかし、雪斎だけは笑っていなかった。
まだ、今川の領地の周りには強力な大名が複数いる。同盟関係にあるが、不穏な動きのある北条家。好戦的で武力のある武田家、先代を失って威光が落ちたが、まだ勢力のある松平家。それに加えて、少し大きな問題も一つ。
「少し夜風に当たってくるとします」
「雪斎様は風流が分かる方じゃからな。後で外の景色で一つ歌を歌ってくだされ」
「ああ」
雪斎は出て行って、外の景色を見る。
「氏真様、前に雀と儂は言ったが、間違ったかもしれん。鷹か鷲か……想像以上に大きな鳥かもしれん……」
虫の奏でる音色が雪斎の心を洗い流す気がした。
「氏真様……あなたはどこまで高く飛ぶおつもりか……その灯がいつ消えるか分からないというのに……」
雪斎はこれから先、ある疑問を持つことになる。そして、その答えが出るまでにはさらに時間がかかることになる。