小さな相談室の中。
壁にかけられた十字架の下で、一人の女性が静かに目を閉じていた。
やがて彼女は深く息を吐き、机の上のノートを開く。
ペン先が紙を擦る音が、静寂を優しく震わせた。
彼女の筆致は穏やかで、祈りにも似ていた。
誰かの痛みを癒すように、一文字ずつ丁寧に綴っていく。
「これは――一人の英雄の記録です。」
インクの匂いが淡く漂う。
その最後の行に、名前が記された。
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彼女の名前は兎山ルミ。
人々はこう呼んだ――ラビットヒーロー、ミルコ。
あの日、日本のヒーロービルボードチャートが新たに発表された場で、
順位よりも長く残ったのは、ただ一つの言葉だった。
「悪さを企む奴らは、全員蹴り飛ばす。」
その誓いはやがて日常になった。
彼女は歩道もカメラも置き去りにして、ただ一人で現場を突破した。
倉庫の鉄扉、地下の裏階段、逆風が渦巻く高層のバルコニー――
足が触れる先々で、悪を企む者たちは崩れ落ちていった。
蛇腔総合病院。警報が鳴り、床が割れていく地下でも同じだった。
数多のハイエンド脳無が行く手を塞いでも、
左腕が折れ、触手が脚を貫いても、
彼女の視線はただ死柄木のカプセルだけを見据えていた。
雄英上空の空中要塞が揺れたあの日も、彼女は顔を上げた。
無数の「手」が身体を締め上げる最中でも、
折れた義手と切断された義足で踏みとどまった。
右腕が引きちぎられる瞬間でさえ。
最後までヒーローの姿勢を崩さなかった。
代償は苛烈だった。
両腕と右の脛、そして耳の先を失った。
だが病室の暁、包帯の向こうで目を開いた彼女の眼差しは、
落胆ではなく、むしろ次を照らしていた。
その後も彼女は走り続けた。
鋼の腕と脚を装着しても、鋼に縛られることなく、
世界のあちこちを戦場に、オール・フォー・ワンの残党を追い詰めた。
幾多の戦いと栄光の中で、人々は彼女の名をもう一度呼んだ。
「ウェポン・ザ・バニー。」
人を超えた兵器。
戦うために生まれた兎。
彼女は無数の賛辞と歓声を浴び、
世界は彼女を勝利の象徴と呼んだ。
だが、誰も知らなかった。
その名の背に落ちる影を。
蛇腔の闇、雄英上空の絶望が、
どれほど深い傷として彼女を蝕んでいるのかを。
誰も知らなかった。
彼女自身でさえ。
その傷が心の奥深くで、いまもなお息づいているということを。
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序文を書き終えた彼女は、そっとペンを置いた。
目を閉じ、静かに息を整える。
窓の外には、細い三日月が浮かんでいた。
――どうか、この記録が誰かの救いとなりますように。
小さな囁きが、夜の静けさに溶けていった。
祈るように組まれた両手が、わずかに震えていた。
ミルコの結末があまりにも切なくて、書かずにはいられなかった。
※本作はPixiv・アカツキにも同時掲載しています。