U.A.のカウンセリングルームの窓から、秋の日差しが静かに差し込んでいた。
十五歳になったエリは、小さな指先に力を込める。
まっすぐ伸びた光の線が、空気をわずかに揺らした。
「先生……もう大丈夫です。ちゃんとできます」
声は震えていたが、瞳には確かな決意が宿っていた。
「あの時は何もできなかった。でも今は――助けたいんです」
机に肘をつきながら座っていた相澤は、しばらく黙っていた。
黒髪の隙間から見えた片目が、ゆっくりとエリを見つめる。
「……やめておけ。俺は平気だ」
淡々とした声には、長年積もった疲労が滲んでいた。
「もう戦うこともほとんどない。歳も取ったしな」
背もたれに身を預けながら、彼は静かに続けた。
「それに……あまりにも昔に失ったものだ。もしおまえが巻き戻せば、副作用が出るかもしれん」
息を整え、低く付け加えた。
「この八年で積み重ねた記憶を、失うかもしれない」
エリの指先の光が消えた。
「でも……」瞳が揺れた。
「先生はいつも私を守ってくれた。今度は私が――守りたいんです」
相澤は小さくため息をつくと、わずかに口元を緩めた。
「その気持ちだけで十分だ。おまえがそこまで成長したことが、俺には何より嬉しい」
少しの沈黙。
彼は立ち上がった。
「それに、おまえの力は一人で抱えるものじゃない。公安に報告する必要がある」
片足が床を軽く叩きながら歩き出す。
「ホークスに会いに行こう。おまえの“リワインド”は、もう国家が共に背負うべき力だ」
エリはうなずいた。
だが、その瞳の奥に残った寂しさは消えなかった。
静かな足音の先。
透明な隔離壁の中、両手を失って二日目の中堅ヒーローが椅子に座っていた。
手首には生体センサー、こめかみには脳波パッド。
相澤は目を細めた。いつでも「抹消」を発動できる距離。
ホークスはモニターのタイムスタンプを確認した。――約48時間前。
エリは深呼吸をし、両手を被験者の身体にかざした。
指先が淡く光る。
光が広がり、心拍・体温・脳波が同時に「巻き戻る」。
一瞬の閃光。
モニターの波形が乱れ、やがて安定。
失われた手が元の位置へ――皮膚、筋肉、細胞までもが「以前」に収束していく。
エリはすぐに手を離した。光が消えた。
相澤は短く目を細めた。
被験者が拳を開いた。
感覚が戻っている。信じられないというように、その手を見つめた。
エリは荒い息を整え、額の角を触って確認した。
「よし。二日前へのリワインド、成功。停止も正確だ」
相澤が低く言った。
ホークスが記録をつけながら微笑む。
「報告書にはこう書こう。“全体時間の巻き戻し、分単位で安定”――だな」
「この調子じゃ外科の仕事が減りそうですね」
相澤がわずかに口角を上げた。
「エリの限界を忘れるな。それに――その力を狙う者たちも。八斎會を忘れたわけじゃないだろう」
ホークスはうなずいた。
「わかってます。それでも、今日ひとりのヒーローが確かに救われた」
彼の笑みの奥、瞳だけが静かに沈んでいた。
都市外縁での掃討任務を終えた日。
公安本部の訓練室前、ホークスは花束を手に立っていた。
中心には赤いガーベラ。
エレベーターが開き、汗の匂いと共に白い耳が飛び出した。
ルミ――ミルコが満面の笑みで現れた。
「なんだよ、ファンクラブでもできたのか?」
花を乱暴に奪い取り、茎を何本か折りながら鼻を近づけた。
「いい香りじゃん」
ホークスは肩をすくめた。
「今回の任務もおまえのおかげだ。あれがなけりゃ、また街ひとつ吹き飛んでた」
短く息をつぎ、静かに言葉を足した。
「おめでとう、ルミ」
「ヒーローなんてそんなもんさ! 大したことじゃない!」
彼女の高笑いが天井に響いた。
ホークスはその横顔から目を離せなかった。
しばらくしてルミは装備室へ向かい、義手と義足を訓練用補助器に交換した。
金属の音と共に、身体が再び兎のように軽くなった。
花の香りと鉄の匂いが空気に混じる。
ホークスの瞳には、笑う横顔と――そこに残る“空白”が同時に映った。
ルミは右耳の義装を外した。
金属片が「シュッ」と音を立てて外れ、光を受けた古い傷跡がわずかに輝いた。
彼女は何事もないようにそれを脇に置いた。まるで鎧の一部を脱ぎ捨てるように。
「今日も走るぞ。おまえはまた見学か?」
「見学専門だ。翼もないしな。拍手だけは得意だぜ」
「太るぞ、局長」
笑いながら、ルミは鉄柱を蹴り上げた。
義手と義足がぶつかるたび、重い音が訓練室を震わせた。
ホークスは腕を組み、目を逸らせなかった。
(あの頃と同じだ……)
まだすべてを失う前――弾けるような跳躍、轟く衝撃音、汗の光。
“ホークス! 見てな! これがルナ・ラッシュだ!”
笑い声、震える耳。
そして今も、変わらず彼女は前へ跳んでいる。
ホークスは心の中で呟いた。
――まさか、こんな未来になるとはな。
「おい!」
ルミの声に我に返る。
「またボーっとしてんの? 目が死んでるぞ」
「いや、感動してた。ウェポン・ザ・バニーの必殺アクションにさ」
「感動は後で! 今は一緒に走れ!」
「今日はパス。あんな動き真似したら死ぬ」
「情けないな、局長」
再び鉄と鉄がぶつかる音。
ホークスの瞳はただ、その影を追っていた。
数日後、公安局長室。
相澤が入ると、ホークスは窓際に背を預けていた。
冗談も笑みもなかった。
「どうした、局長」
相澤が椅子を引き、静かに座る。
ホークスは答えず、リモコンを押した。
壁のモニターにニュース映像が流れる。
〈ウェポン・ザ・バニー、最新型レールガン装備!〉
ミルコ――兎山ルミが両腕に巨大なレールガンを装着し、
軍用輸送機へと乗り込む姿。
強化義足を履いた彼女が、群衆の歓声に笑顔を返していた。
“ウェポン・ザ・バニー、今も最前線に!”
アナウンサーの声とカメラの閃光が交錯する。
映像が止まっても、室内には余韻が残った。
相澤の視線が揺れた。
ホークスはしばらく画面を見つめ、低く呟いた。
「……お願いできますか。
リワインドを。」
相澤の片目が大きく見開かれた。
短い沈黙。
窓の外の風よりも、ずっと冷たい空気が流れた。
原作を読むたびに、ミルコの姿が忘れられませんでした。
彼女の強さの裏にある孤独や痛みを思うと、どうしても「救われてほしい」と願ってしまって。
この作品は、そんな私のささやかな祈りのようなものです。