信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング) 作:A_Kaname
走る。
まどろみに沈む寮を後にして。
走る。
人気の失せた公園を抜けて。
駆ける。
河川敷を漂う冷たい朝霧を千切って。
駆ける。
右脚を蹴り出す。
振り出した左脚で地面をとらえ。
蹄鉄をアスファルトに食い込ませる。
ぐっと縮めた体幹のバネを弾ませて、解き放つ。
地を蹴りつけた左脚が、私を前に進ませて。
少しだけ我の強い右脚が、重心を揺るがした。
調子を外した一、二拍。
続く三、四で取りなして。
繰り返し。
靴音だけが響く。
繰り返す。
響かせるのは私ひとり。
繰り返し。
メビウスの輪のように。
繰り返す。
不格好なループを。
走る。
寂れた神社の石段を登る。
走る。
目覚め始めた商店街を一瞥し。
駆ける。
勢い任せに高台の遊歩道を下っていく。
駆ける。
吐息のリズムが乱れ始める。
足りない。
太腿に溜まる乳酸が行き足を鈍らせる。
まだ、足りない。
一息吐くたびに顎が持ち上がっていく。
これっきりで、足りるはずがない。
両の耳がひとりでに絞られる。
速く。
早鐘を打つ心臓が声高に限界を叫びはじめる。
疾く。
声を殺し。
吐息を殺し。
己の中の甘えを殺し。
足に枷をかけようとする、あらゆるものを押し殺して。
頭の中を真っ白に焼き尽くし、灰の底に残った意地だけを原動力に。
そうして走り続けていた私を押し留めたのは、横断歩道の向こう側で無愛想に灯った赤信号だった。
つんのめるように急ブレーキをかける。
アスファルトの上に乱暴に叩きつけられた蹄鉄が、ガチャガチャと不満を訴える。
空気を求めて大口を開けると、二月の凍てついた空気が鼻を、喉を、気管を浸し、行き止まりにある肺へと突き刺さった。
反射的に膝に手をついて、大きく咳き込んでしまう。
水に浸したスポンジを力強く握りしめた時のように、肌という肌から汗が吹き出してくる。
うつむいた視界の真ん中で、前髪を伝った水滴がアスファルトに落ちて染みを作った。
膝が震える。
胸が痛い。
息が苦しい。
それらすべてが、自分自身の未熟さの証拠に違いなくて。
ロードワークの基礎は
人一倍の練習をこなさなければ、スタートラインにも立てない。
そのはずなのに、自分で決めたトレーニングの半分も消化できないまま、こうして道端でうずくまっている。
その事実がまた、心に重くのしかかる。
同期の中には、既に専属のトレーナーを得て専用のメニューをこなしている者もいるというのに。
息を吸って、吐く。
信号が青に変わった。
それでもまだ、鉛の塊が詰め込まれたように、脚が重い。
耳の奥のほうでは、どくどくと脈が荒れ狂っている。
自分でもうんざりするほどに、息の入りが遅い。
やっぱり、向いてないんじゃないか。
今からでも違う道を探したらどうか。
なぜ、こんな苦しい思いをしてまで、走り続けるのか。
なぜ。なんのために。
なぜ。
なぜ?
――逃げる。
恐れから。
――先んじる。
ライバルに。
――差す。
そして抜き去る。
――追う。
まだ見ぬ勝利を。
私にはそれしかない。
さもなければまた、失ってしまうはずだから。
ピピピ、とジャージのポケットで鳴ったアラームが、自問する私を現実に引き戻す。
ほら。
私がこうして立ち止まっている間に、世界のほうはどこまでも先に行ってしまうのだ。
始業まで三〇分を切ったタイマーの中に、寮までの距離を駆ける時間と、身支度の予定を詰め込んでみる。
無理だこれ。
どこを削っても
今の私の
ようやく息が整ってきたはずなのに、自分でも嫌になるくらいに大きな吐息が漏れた。
遅刻の罰として自主練禁止だとか、たまったものじゃない。
だけど全身汗だくのまま一限に駆け込むなんてできるはずない。
肺全体を冷気で浸すように、ゆっくりと息を吸い。
凍てつく海に潜るように、深く吐き出す。
まだ脚に重さはだいぶ残っていたけれど。
転びそうな勢いでえい、と踏み出してみれば、なんとか前に進んでくれた。
それでいい。
それしかない。
生きているなら、
走らなきゃ。
生きていくなら、
走らなきゃ。
生かされるには、
走らなきゃ。
だって私には。
私が頼みにできるのは。
この脚しか、ないのだから。