信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング)   作:A_Kaname

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1-8.走る理由 / Watershed -2

 

 

 寮のエントランスに横殴りに差し込む朝日を真正面から受けとめて、私はたまらず目を細めた。

 いつもならちょうど地平線の縁に輪郭(りんかく)を覗かせ始めるくらいの位置にいるのに、今日の太陽は建物の屋根を飛び越えて、だいぶ高いところまで昇っていた。

 下駄箱の周りを見回しても、朝練に繰り出すウマ娘たちの姿が目立つ。そのうちの何人かは顔見知りもいて、普段校内で見かけるセーラー服の代わりに海老色のジャージ姿だった。

 

「この時間に出発? 珍しいね」

 

 すれ違いざま、そう掛けられる声に、曖昧な笑みを貼り付けながら蹄鉄シューズを突っかけ、ガラス扉を押し開けて足早に表通りに出る。

 居心地悪く感じるのは仕方がない。今日この瞬間、異物として紛れ込んでいるのは私のほうだから。

 いつもと比べて時間に余裕がないし、世間話に花を咲かせるのも勿体ない。

 だから準備体操は、手早く、でも念入りに。

 

 両肩の周り、肘、手首、背中。

 足首から膝、太もも、股関節。

 

 動かすごとに、じわりと伸びていく筋肉ひとつひとつの感触を手で触れて確かめつつ、呼吸に合わせてテンポを刻む。

 ほどよいところで切り上げてさっさと駆け出してしまおう、と逸る心を鎮めて、呼吸と動作を連動させるのは簡単じゃないけれど。

 意識を向けて手入れをすれば、夜の間にすっかり冷えて(なまく)らになった身体も、熱をもって応えてくれる。

 

 エトにとってのルーチンが毎朝毎夜のストレッチなら、きっとこれが私にとってのルーチン。

 身体の可動域の確認。それだけじゃなくて――いつもと変わらず走り続けられることを、自分に納得させ、心を落ち着けるための、儀式。

 

「よし――」

 

 最後にパチンと両手で頬をはたいて、速歩(トロット)のペースで駆け出した。

 

 春のG1シーズン――皐月賞、天皇賞を筆頭に、いくつもの重賞を間近に控えたこの時期、校内のトラックコースはそれらに出走登録しているウマ娘たちに優先して割り当てられている。

 だから当然、自分たちのようなトレーナーもつかない未出走ウマ娘が割り込む隙間なんてない。

 レースに備えた自主トレとは言っても、できることと言えばいつもと変わらないロードワークしかなかった。

 

 学園の校舎と学生寮を仕切る表通りへ出て、いつもと同じルート上へ体を載せる。

 いつもなら見かけることはない、あくびをしながら自転車を漕ぐヒト学生や、出勤途中らしいビジネスマンの車なんかを横目に見ながら。

 いつもと同じ、ウマ娘専用走行レーン(青色帯)のアスファルト舗装の上を駆ける。

 幹線道路を南に進んで運動公園のランニングコースをたどり、多摩川の河川敷へ。

 東京レース場を左手に見ながら東の太陽に向かって走り、間に競艇場のスタンドが割り込んできたあたりで北へ。

 寂れた神社の石段を駆け上がって坂路ダッシュに替え、商店街を眼下に見下ろす高台の遊歩道を通ってトレセンの方角へ戻る。

 

 それが毎朝のロードワークで回るように決めているコース。

 けれど今日は――、寝坊したせいでいつもの半分しか時間が取れない。

 トレセンを出てトレセンへ戻る一筆書きも、普段よりだいぶ急いで、かつ小回りにならざるを得なかった。

 

 走る。

 新たな一日の幕開けを迎えて、街は既に目覚めている。

 

 走る。

 専用レーンのある幹線道路から一歩外れれば、歩行者を気遣いバイクや車に道を譲りながら、おっかなびっくり進むしかない。

 

 走る。

 交差点ごとに赤信号に阻まれるせいで、ペースはかき乱されて定まらない。

 

 走る。

 朝寝坊のツケにしては厄介極まりないそんなイレギュラーをかき分け、かいくぐって、肉体的な疲労よりも精神的な疲労を気持ち多めに感じながら、ようやくの思いで普段のルートに合流した。

 街の喧騒から隔たった鎮守の森の中に優しく抱かれるように、いつもどおりの姿で、神社は佇んでいた。

 

「はっ、はっ、はっ――」

 カッ、カッ、カッ――。

 

 私の息遣いと連弾するように、石段に打ち付けられた蹄鉄がスタッカートを刻む。

 最近はこの心臓破りの石段をひと息に駆け上がってもそれほど呼吸が乱れなくなった。

 今日に限っては、前座のコースが短くなっているから、負荷を控え目に見積もるべきだけど。

 駆け上がった後の息の入りだって、数ヶ月前に比べるとだいぶスムーズになった、気がする。

 

 石段の天辺にそびえる鳥居をくぐって、境内に入ったところで一息ついていると、ぐるるという鳴き声がお腹から響いた。

 

「……お腹すいたな」

 

 すっかり温まった両足に遅れて、ようやく目覚めだしたお腹の虫をジャージの上から撫ですさって、ひとりごちる。

 朝から食べ物を詰め込んでいると、走り出してすぐ痛みで動けなくなってしまうタチなので、当然中身は空っぽだ。

 この頃のお腹の虫はやけに食いしん坊で、ちょっとやそっと間食をつまんだくらいでは黙ってくれない。

 食べる量が増えて、食べた分だけトレーニングを増やして、またお腹がすいて。

 そうこうしているうちに、カフェテリアではいつの間にかエトに驚かれるほどの料理をお皿に盛るようになってしまった。

 

 それを体育の教官に話してみたら、「一回全力で走ってみて」と提案されたのが二週間ほど前のこと。

 理由もわからず、それでも言われたとおりダートコースを全力疾走で駆け抜けてみた。

 そうしたら、教官は私が出したタイムを見て、選抜レースへの出走を勧めてくれた。「"本格化"かもしれない」と、そう言って。

 

 現代レース学や、スポーツ科学の授業で、あるいは学園に通う()()()()の子たちから伝え聞くしかなかった()()は、言われてみれば確かに私の体に起こった変化とどことなく似ているような気がした。

 

 ウマ娘の人生において一度きり。思春期を迎える前後の、ある一時期に訪れるという、急激な身体能力の伸び。

 期限も伸び幅も人それぞれだと言われるけど、"本格化"が来たということはつまり、自分が願ってやまなかった"機会"が巡ってきたという事実に他ならなかった。

 

 トゥインクルシリーズに打って出る。そして――これまで"何者"としても世界に受け入れられることのなかった私が、"何者か"として世界に記憶してもらえるような成果を手にする"機会"が。

 

 もう後戻りはできないんだ、と現実を突きつけられたような怖さもあったけれど、それよりも先に、胸が高鳴った。

 

「だから――私は」

 

 走らなきゃ、と。決意を新たに、神社の敷地から続く遊歩道の下り道を駆ける。

 教官から直々に推薦をもらったその日も、こんな風に競技課の窓口まで駆けていって選抜レースに登録したっけか。

 結局思ったとおりにならなかったわけだけど。

 

 走り出しながら、ふぅ、と漏れた息遣いは、疲労というよりもやるせなさから出たものだった。

 

 思った通りにならなかったのはエトが原因だけれど、()()()()()()()()()()()()()のは私自身。

 レースと、エトを天秤に掛けたのは自分、揺れ動いていた天秤をエトのほうに引き下げたのも自分。だからこれは私の自業自得。

 私の決断がたとえエトの望みに反するものだったとしても、私には後悔も、失望もない。

 たとえあの子の気持ちを事前に知っていたとしても、私は同じことをしたと思う。

 自分の栄光を優先するあまり、普段から一番近くに居る『友達』に起こった不幸に背を向けるなんて、それはきっとウマ娘以前に()()()()()()()()()()行いのはずだから。

 

 けれど、胸に残った苦いものは確かにあった。

 ――もし、あの時の決断が、エトを傷つけたのだとしたら。

 誰よりも心配してレースを棄権したはずなのに、結果的に、誰よりもあの子自身の自立心や強さ、何より思いやりを、無視していたのかもしれない。

 だからこそ、エトは私の行いを『独りよがり』と切り捨てたのだろう。

 どこまでが思いやりで、どこからが押し付けにあたるのか。わからなくなる。

 これまで自分が誰かに向けていた"優しさ"が、実のところ誰のためにもなっていなかったのだとしたら。

 

 きっと、これから先、新しい誰かとの関係を築くときにも(まず)く作用してしまう。

 たとえば、他のウマ娘や教師、それに――将来ついてくれるかもしれないトレーナーとの関係も、同じ。

 そこまで考えが至ったとき、自分の心に浮かんだこの感情の名前が、少し怖くなった。

 

「それでも――私は――」

 

 坂を下るうち、街の喧騒(けんそう)が少しずつ近づいてくる。

 自販機の裏で鳴く猫の声。遠くから聞こえる小学生の笑い声。開店準備をしているパン屋から漂ってくる甘くて香ばしい匂い。

 目に映るもの、耳や鼻に触れるいろいろな物が、普段よりも早足で私の目の前を通り過ぎていく。

 頭の中では、さっきまでの考えがぐるぐると回り続けていて、脚は確かに前に進んでいるはずなのに、気持ちだけが一歩も進まずに取り残されているよう。

 

 ほら。

 またこうやって、世界のほうは私を置いて先に行ってしまう。

 本格化が本当に来たのかは結局分からないけれど、それ以前の問題だ。

 

「――走らなきゃ」

 

 心の奥底でふつふつと湧き上がる気持ち――焦燥を足元に叩きつけるように、鋭くアスファルトを蹴りつけた。

 遊歩道は下り勾配を緩めながら、トレセンまで続いていく幹線道路へと合流する。

 残すはトレセンまで一直線の道。

 最後くらいせめて気持ちよくトップスピードに乗って朝練を締めよう。

 そう考えて威勢よく青色帯に乗り込んだけれど、――早速出ばなをくじかれた。

 整備不良なのだろうか、ずいぶんと使い古された趣のあるトラックが、ディーゼルの黒煙を盛大に吹き上げながらとろとろ走っている。

 

「――邪魔」

 

 ペースが乱れるのも構わず、足使いを襲歩(ギャロップ)まで引き上げた。

 黒煙に飛び込む。

 顔いっぱいに吹き付けられた刺激臭に、たまらず顔を覆う。

 普段とは違う時間帯、普段とは違うルート。

 あまつさえ、普段と違う思考を頭の中でこねくり回していたのだから。

 きっとそのアクシデントも、偶然ではなくて必然だったに違いない。

 

 黒煙を突き抜け、振り払ったその瞬間、公園脇の植え込みから唐突に一羽の鳩が飛び出してきた。

 速度を落とす余裕もなく、脚が自動で反応して急制動をかける。

 アスファルトと擦れ合った蹄鉄が、ギィン! と耳障りな金属音を立てる。

 柔らかい土の上に一度だけ足を取られたような、軽い沈みと滑り。

 

 何かを踏んだ?

 いや、違う。たぶん、接地の角度が悪かっただけ――。

 

 エトの怪我のことが頭の中にあったせいで、反射的に足首や膝周りの感触を確かめたけれど、特に痛みや痺れがあるわけでもなかった。

 

「……お騒がせね」

 

 ついつい言葉尻に不満が滲んでしまうのを抑えきれず、斜め上を見る。

 鳩は進路妨害を行ったことなんて気に留める素振りも見せず、電線の上で、くるぽー、と呑気に(さえず)っていた。

 私はあんな風に、まったりとした生き方はできそうにない。

 後ろからはさきほど追い抜いたトラックがぶいぶいとがなり立てていた。

 また黒煙を吹きかけられてはたまったものではないから、私は一足飛びにスピードを上げて、そのまま大通りを駆け抜けた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 栗東(りっとう)寮にもどってシャワーを浴びて、出てきたときには始業まであと二十分に迫っていた。

 学生カバンを担ぎながら、セーラー服のリボンを整えながら、あるいは直し損ねたらしい寝癖を気にしながらパタパタと慌ただしく寮を後にしていくウマ娘たちの流れを(さかのぼ)って、かき分けて。

 行儀が悪いのは承知で、朝ご飯代わりのエナジーバーを(かじ)り、紙パックのぶどうジュースで()()()()しながら部屋に戻ると――、

 

「……エト、まだ居たの」

「おかえり。そろそろ出ようと思ってたとこ――って、ちょっと!」

 

 ベッドから松葉杖に手を伸ばした姿勢でこちらを見上げたエトは、私の顔を見るやいなや、びしり、と人差し指をこちらに向けて唇を尖らせた。

 指さされているのは私の顔――正確に言えば、まだ生乾きでジャージの上着に雫型のシミを作り続けている髪だ。

 彼女は呆れ顔で肩にかけた学生カバンを下ろし、サイドボードからヘアブラシとドライヤーを掴み取ったかと思うと、ポンポンとベッドの上を手で叩いた。

 

「――こっちおいで。当てたげるから」

「ううん。もう時間もないし、そのうち乾くからいい」

「ダメ。お天道様が許してもこのプリマエトワールが許しません。髪と尻尾はウマ娘の命なんだから、ちゃんとケアしなきゃ」

 

 コンセントにプラグを突き刺しながら、有無を言わさぬ調子で言う。

 常日頃から『舞台の上に立つのに相応しい身だしなみ』を旨としている彼女は、こうなったら梃子(テコ)でも動かない。

 こういう時、口答えすると余計に時間がかかることはこれまでの付き合いで良く分かっている。

 髪と同じく生乾きでまだしっとりと水を含んだ尻尾を手に抱えて、促された位置にすごすごと座った。

 今の私、きっとかなりバツの悪そうな顔をしてるんだろうな……。

 

「――お願いします」

「はいはい。なるべく巻きで行くからそれ食べちゃいなさい」

 

 こちらの内心を知ってか知らずか、エトは手短に言ってドライヤーのスイッチを入れた。

 グォォォォォォォォォ――と耳障りなファンの音とともに吹き付ける熱風。

 髪をかきあげる細い指の感触。

 髪束が擦れ合うわしわしという摩擦音。

 エナジーバーに混ぜ込まれたグラノーラが口の中で砕ける音。

 風に吹き上げられた右耳のリボンが頬をチラチラくすぐってくる。

 ファンの音に混じって聞こえる、エトの静かな息遣い。

 すいすいと髪が(くしけず)られるごとに、ロードワーク中に昂った神経が、不思議と落ち着きを取り戻していくような感じがした。

 

「暑くなってくる前に、一度切り時かな」

 

 襟足の辺りを撫でつけながらぽつり呟いたエトに、「まだいいよ」と応えようとして、私はむせた。

 口の中いっぱいに押し込んだエナジーバーが唾液という唾液を奪って干上がらせていた。

 後ろから小さく吹き出すのが聞こえる。

 

「いいからいいから。尻尾にタオル当てといて」

 

 のんびりした声色とは裏腹に、悠長ではいられないんだからと釘を刺す物言い。

 私は言われるがまま、鞄からスポーツタオルを取って広げ、尻尾をくるむ。

 耳元でスイッチの音がして、頭に吹き付ける熱風が柔らかな温風に変わる。

 ヘアブラシが頭の天辺の髪束をすくい上げるように持ち上げて、そこに気流が当てられる。

 こうやって髪にボリュームをもたせる……らしい。私にはその目的が、よくわからないけれど。

 

「最近枝毛減ってきたね」

「……しっかり面倒、見てもらってるから」

「目を離すとすぐ雑になるんだもん。ダメよ、トリートメントまでケチっちゃ」

 

 主に懐事情の問題で日頃の美容院通いも億劫(おっくう)にしている私を気づかって、エトは時たま理容師役を買って出てくれていた。

 シニヨンを解くと背中を覆うくらいまで長さのある本人の髪と比べたら、乾かすのはそれほど手間ではないとは言うけれど。

 

「――ごめんなさい」

「髪のこと? いーのよ。アタシが好きでやってることなんだから」

「そうじゃなくて――」

 

 限りあるエト自身の時間を、私なんかのために割いてもらうのが、良いことだとは思えない。

 エトの善意を占有できるほど、私は彼女に報いてあげられていない。

 その思いだけが先走って、思わず彼女の声を遮ってしまったけれど、それに続く言葉が見つからない。

 

 私が傷つけたのは何?

 彼女の思い通りの行動ができなかったこと?

 彼女の期待に答えられなかったこと?

 私は、何を一番に謝らなければいけないのか。

 私は、私が犯した過ちを、どうしたら(そそ)ぐことができるのだろう。

 考えれば考えるほど、思考に靄がかかったように答えが見つけられなくなる。

 

 二の句を告げずにいると、隣から、ピコンと軽やかな音が響いた。

 

「クレディ、競技課からメール来てるよ」

 

 ベッドに置かれたスマートフォンの通知を見て、エトは私の髪を()かす手を止めた。

 ロックを解除してメールアプリを開く。

 受診トレイの一番上に表示されているメールにはPDFファイルが付いていた。表題は――

 

「選抜レース出走表の……修正版? これって!」

 

 真後ろに居るエトにも当然その表題は見えていて、肩に置かれた手に少しだけ力が込められた。

 

####################

 4月12日 選抜レース実施要項 修正版

 学生各位

 本日実施予定の選抜レース実施要項の内容を以下の通り変更します。

 当該のレースに出走予定の学生は、変更内容を事前に確認の上レースに臨んでください。 

 (追加出走)学園メインコース・第4R・芝左1400m

 8枠⑫番

 名 クレディカイゼリン

####################

 

 はっとして、PDFファイルのアイコンを叩く。

 ダウンロードの進行を表すぐるぐる表示が1回転するごとに、とくん、と鼓動が高鳴った。

 読み込みの遅さももどかしく、スクロールする指に力がこもる。

 メール本文に記されていた、第4レースの出走表にたどり着く。

 そこには、前版から新しく修正されたことを示す赤字で、自分の名前が書かれているように、見える。

 けれども、よく似た名前の見間違いかもしれない。そう思って他の欄にも目を走らせる。学年、生年月日、毛色、耳飾り――どれも先日棄権したレースに登録した時の内容と同じ、紛れもない自分の、情報。

 

「は――っぐぇ」

 

 呆けたようなつぶやきが口から漏れ、途中から潰れたカエルみたいな声に置き換わった。

 

「やっっっっ、た! 良かった! レースに出られるんだよ! クレディ!!――――あっ」

 

 エトの両腕が私の胸板をぐるりと取り巻いて、力強く後ろから抱きしめていた。

 ぎゅうぎゅうと肋骨を締め付けるウマ娘の筋力と、背中に当たって押しつぶされた柔らかい感触にサンドイッチされて、胃袋からエナジーバーとジュースが飛び出しかかる。

 ギブアップ、と布団を手のひらでぺしぺし叩いたら、エトは慌てて両腕を引っ込めた。

 

「れ……、れ、レースの前に、物理的に潰されるかと……」

「言うようになったじゃん。ごめんだけど。……クレディ」

 

 ベッドの上でひらりと身軽に体を捻って、エトは私と横並びに並んで腰を下ろした。

 促す声に向き合うと、彼女は真剣な表情を浮かべながら、私の手をとった。

 

「この際だからもう、言い訳も、後悔もナシ。全力で走って――」

 

 ほっそりとした指に力が、熱がこもる。

 宵空を丸く切り取ったような群青色をしたエトの瞳に、私の顔が――黄玉(トパーズ)色の光が一番星のように鏡写しになっている。

 

「絶対に勝って。ね?」

 

 声色だけはいつも通り、落ち着いて、穏やかで、あっけらかんと、エトは言った。

 朝練前の時のように、気難しげに突き放すようなものではなかった。

 

 ……でもそれは、私の過ちを無かったことにしてくれたという意味でもないはずだ。

 エトは普段から他人のことを良く見ていて、相手の呼吸に合わせて()()()()()()()()ことができる、器用な子だから。

 もしかしたら、怒っていないフリをしてるだけかもしれない。

 失望していないように、見えるだけかもしれない。

 心の奥のほうに、溶けきれない苦みがまだ沈殿している。

 

 それでも、もし、エトが私を見限っていないのなら。

 一度彼女の信頼を裏切ってしまったはずの私のことを、また信じてくれるのだとしたら。

 私がするべきことは、自ずと決まっていた。

 

 私は走れるのだから。

 走れるのなら、走らなきゃ。

 

 走って、そして、勝たなきゃいけない。

 それがきっと、私がやらなければならないこと。

 

 さもなければ、私は――ひとりで、自分の居場所を、壊してしまう。

 誰にも()()ってもらえないまま、一人きりに、なってしまう。

 

「――はい」

「うん。いい返事」

 

 私の返事を聞いて、エトが満足そうに、ニッ、と笑ったとき。

 きーん、こーん、と、間延びしたチャイムが、私達二人の頭上を通り過ぎていった。

 つい先程までがやがやと生活音で騒がしかったはずの寮室の扉の向こう側は、いつの間にかすっかり静かになっている。

 

「やっべ。予鈴鳴っちゃったじゃん。早く乾かさなきゃ!」

「流石にもう時間ないよ。着替える時間もあるし」

 

 慌てる私に、「だいじょーぶ」と鷹揚(おうよう)に返して、エトは生乾きのままでいる私の尻尾を引き寄せた。

 反対の手元ではスマホの画面上を指が素早く行き来して、何事か手短なメッセージが送られたよう。

 一瞬目に入ったLANEの画面に、ナイスネイチャという名前が見えた。

 

「同じ遅刻でもさ、()()()()()()()()、言い訳が効くでしょ?」

 

 そう言ってエトは、包帯に包まれた左足をひょこひょこと動かして見せた。

 その表情はなんだかすごく晴れ晴れとしていて、怪我の身だというのに、(みらい)だけをまっすぐに見据えているように輝いた瞳で。

 

 ――ああ、まったく。

 本当に、私はこの子に敵わない。

 

 その表情の裏にあるものが何か、私にはわからない。

 だけど、このまま、()()()()()()()時間が過ぎていくのは、たまらなく怖い。

 何かを失った気がして、そのくせ、何ひとつ確かめる勇気もなくて。

 

 だから、私は走る。

 怖いからと立ち止まっていたら、もう再び走り出すことなど、できなくなってしまう。

 そんな気がするから。

 

 

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