信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング) 作:A_Kaname
「なぁるほどねぇ、良く落とし所を見つけたもんだ」
仕事用スマートフォンに届いた個人宛メールの文面を見て、思わず感嘆の声を上げた。
理事長・競技課長の連名のもとに下された結論はというと、
『クレディカイゼリンの選抜レース追加出走を認める。ただし、出走コース・距離は競技課が指定する』
というものだった。
選抜レース期間ひとつを棒に振る――決して長いとは言えないレースウマ娘のキャリアに及ぼす機会損失は可能な限り無くすが、主にレースに向けた下準備や戦術の面で過度な利益を獲得できるようなボーナスは与えない。
それこそが、『特例』と『競技の公正性』を天秤にかけて、あのメガネの競技課長が下した結論だった。
"本格化"の始まりを迎えたばかり、ジュニア級一歩手前くらいの時期だと、ウマ娘たちの競争能力はまだまだ完成形には程遠い。
メイクデビュー戦の距離条件は1400mから1800mあたりがボリュームゾーンで、トゥインクルシリーズでいう短距離からマイルに該当する距離だ。
選抜レースはそれよりも短くて、最長でも1600m。
成長途上にあるジュニア級未満の時点で、ウマ娘ひとりひとりの距離適性がどこのゾーンにあるのか、なんてのは議論のしようがない。ぶっちゃけクラシック・シニア級になってようやく目星がつくくらいのものだ。
バ場条件にしたって、走破タイムを見比べつつも、芝とダートどっちのほうが走りやすいと感じるか? と、わりあい個々人が雰囲気で決めているのが実情だと聞く。
だから、ダートで選抜レースを走り、そのままダートでデビューした子がいつの間にか転向して芝を走っているとか、その逆も決して稀ではない。
選抜レースへの出走前から、走破タイムにはっきり現れるほど芝とダート、そして距離への適性がハッキリしている子も居るにはいるのだが。
クレディに関して言えば、芝もダートも、同格のライバルたちがもつ
"これはあくまでも『優遇』ではなく『特例による救済措置』なのだから、本人の意向から多少外れる結果になるとしても、出走枠の空きがあるところに組み入れる。
望み通りの結果が出ないことはレースの常であるから、その時は改めて次の機会にチャレンジしてもらう。”
もちろん競技課長から直接思惑を示された訳では無いが、推察するにおおむねねこんな意図があるのだろう。
現に会議のあとで、具体的な要望を出せと言われて書き付けた内容は――もともとクレディが出走する予定だったダートを希望した――残念ながら通っていなかった。
そうだとしても、なにぶん前例のないことだと聞いていたから、関係部署の調整には並大抵でない労力を要したことは想像に難くない。選抜レースの時期に間に合わせるためには協議の時間もそんなに取れなかっただろうに、たったの三日でこの結論を出した実務能力には正直舌を巻く。
何はともあれ。
「満額回答ってわけじゃないけど、――ひとまず最低限の目標は達成ってことでいっか」
それと引き換えに、僕自身には今後何かしらの懲戒処分が下ることは避けられなくなったわけだが、それはこの際どうでもい。
トレセン研修生として過ごした最後の休日――我ながらクッソ情けない
今度こそ、その全体像を選抜レースという環境で目にすることができる。それだけで僕にとっては果報と言えた。
「足元がイマイチだけど。まぁまあ良い感じのレース日和、かな」
明け方から降り始めた小雨も昼過ぎには止んで、雲間からは春の陽光が顔を覗かせていた。
トレセン学園メインコース、第4R、芝左回り1400m。
天候・曇り、バ場状態は「良」の発表だった。
「小椋トレーナー!」
「――やぁ、二人とも。それぞれ体調は問題無い?」
直前の第3レースへの出走を終えて帰ってくるメンバーたちの様子をスタンドの上から見守っていると、背後から声がかかる。
振り返ると黒鹿毛に黄リボンと鹿毛シニヨンのウマ娘――クレディカイゼリンとプリマエトワールがそこに居た。
「ええ。万全、だと思います」
「痛み止め飲んできたんで、あと十五分くらいしたら大丈夫になるはず」
片や体操服にゼッケン姿、少し緊張が滲んだぎこちない愛想笑いを浮かべて。
片や松葉杖を突いて、言葉とは裏腹にそれほど足の様子を気にしていなさそうな面持ちで。
痛みが強いようなら言うんだよ、とエトワールを
「ごめん。力不足で、ダートレースに組み入れて貰えなかった」
「いっ、いえ! 謝らないといけないのは私の方です……このご恩は、絶対に忘れません」
返す刀で、なんだか時代劇で見るお武家の娘さんみたいな物言いとともに最敬礼してくるクレディに、驚き半分、閉口半分に応じる。
「恩だなんて……大袈裟だなぁ。それを言ったら僕の方こそ助けて貰った恩義があるから、これでようやくトントンだよ。あの時は本当にありがとう」
「そんな! 私が頂いたもののほうが多かったのに……」
「『お礼はいつか、精神的に』ってやつさ。まぁ、結果的に思いのほか早く返せたけど――」
『選抜第4レースの入場開始時刻まであと五分です。出走予定の選手は、至急パドックに集合してください』
いつまで経ってもお礼の交わしあいをしている僕達の間に割り込むように、アナウンスが響いた。
ちょいちょい、とエトワールがクレディの体操服の裾を引っ張る。
「呼ばれてるよ」
「……! ええ。そろそろ行かなきゃ」
「クレディ、ちょっと――」
特に隠し立てするような内容でもないのだが、一応耳元に口を寄せて囁きかける。
僕が伝え終えると、彼女は小声でそれを
「……それで、本当に、いいんですか?」
「いいんだよ。なんてったって、今君のことを一番良く知ってるのは、他ならぬ君自身なんだから」
頑張っておいで、と伝えて送り出す。
「クレディに何か伝えたんですか? 作戦とか、展開とか?」
蹄鉄シューズの足音が足早に遠ざかっていくのを待っていたかのように、プリマエトワールが尋ねてきた。
松葉杖を観覧席のシートに立てかけ、その横にちょこんと腰掛けながらこちらを見上げている。
「残念。その辺について、僕から教えられることは無いよ」
「無いんだ……」
「仮に教えられるとしても、レース直前のぶっつけで「あーせい、こーせい」って指示だけ渡されてもノイズになるだけさ」
そうエトワールに返して、僕の彼女から二歩半ほど離れた位置でレーススタンドの手すりに体をもたせかけ、ターフの方を眺める。
第4レースに出走するウマ娘たちが各々の手順でウォームアップを行っており、クレディの姿もその中のひとりとしてそこにいた。
彼女たちウマ娘は、一般教科と平行してレース戦術やスポーツ理論の授業を受けている。
ただ、教科書ベースの知識を詰め込んでレースに臨んだとしても、ゲートが開いてからは万事がセオリー通りに運ぶことはない。
レースというのはタイムトライアルではなく、ライバルに先んじてゴール板を一番に駆け抜けようとする、
「時にセオリーに忠実に、時にセオリーを蹴っ飛ばして、並み居るライバルたちを押しのけて勝利を掴もうと足掻く。作戦っていうのは、言いかえればウマ娘自身がそうやって得た経験値を、出走メンバーの情報と突き合わせて初めて組み立てられる物だからね」
あいにく、僕の手元にはそのどちらも無い。
クレディがどんなレースをするのか、一度でも見て把握していたのなら――彼女がもつ経験値のほどを何かしらの形で把握できていたのなら、ささやかな作戦くらい立てられたのかもしれないけど。
それも、他の出走メンバーがどんなレース運びをしてきそうか、という展開予想ができた上での話だった。
世代の近いであろうエトワールなら、出走メンバーのことは知ってるだろうか?
僕が促すと、彼女はスマホで開いた出走表に視線を落としてメンバーひとりひとりの顔写真を上から下まで眺めて答えた。
「4番と9番の子は同じ学年だけど、違うクラスだし、どういう走りをするのかはわかんない。あそこの栗毛の7番の子とか、高等部で学年も違うし、もう全然」
「だよね。僕たちトレーナーも、よっぽど出走前から評判が立ってる子じゃない限り、ウマ娘個々人とは『はじめまして』の関係だから。パドックで見た第一印象ぐらいしか、レース前の見立ての根拠にできない」
言葉を切って顔の前に手のひらで
実況アナウンスが出走ウマ娘の名を順々に呼んでいたが、ついにクレディの順番が来た。
「第一印象、ね。……それじゃ小椋トレーナーから見て、あの子はどう?」
「走りじゃなくて、見栄えのこと?」
パドックの舞台の上へクレディが姿を表す。観戦に来たトレーナーやウマ娘たちの視線が集まる中、彼女はジャージのジャケットを脱いで、アパレルショップの陳列棚もかくや、とばかりに折り目正しく畳んで足元に置いている。
「うーん、クソ真面目」
「それはそうだけど!」
「や、や、分かってるって」
ムキになって問い詰めてくるエトワールをどうどうと
こちらが思っていたより、緊張している素振りはなさそうに見える。
左足を少しだけ引いて半身に構えた彼女の背丈は、この年頃のウマ娘の中では平均レベル。
華奢な体格ではあるが、スラリと引き締まった手足には無駄なく筋肉が付いていることが遠目にも見て取れた。
本人が元々登録していたのはダートレースだったはずだが、偽らざる感想として言うならば、実のところあんまりダート向きの体つきではない。
「好バ体っちゃ好バ体ではあるけど……、ただ、ちょっと絞りすぎな気も……。でもまぁ、いくら恵体に見えても、いざ走ってみたら案外おおざっぱな走りでロスが大きかったりする子もいるし。だから結局、走ってるところを一戦通して見ないとどうにも評価しづらいねっていうのが、実感かな」
「それじゃぁ、トレーナーって、選抜レースでは全員の動き見てるの? 正直、アタシは自分の走りのどこを気に入られてスカウトされたのか良く分からないんだけど……」
「僕自信の感覚で言えば、流石に全員はムリ。……ぶっちゃけ、レース中にぐねぐね位置関係が変わる中で、それを十何人分? ――目玉がいくつあっても足りやしないサ」
やれ東大合格レベルだなんだとライセンス取得の難易度を引き合いに出してその能力を称揚されることの多い中央トレーナーという身分だが、現実は思いのほか味気ないものだった。
自分なりの手法としては、レースを序盤、中盤、終盤ごとにパート分けして、それぞれ区間ごとに目立った動きをした子三、四人くらいにフォーカスする、という形で見ていくのが正直やっとである。前情報があってどうにか五人。ソレ以上は無理無理かたつむり。
公式戦なら、レースをビデオ録画して何度もリピートすれば競走中の展開は見直せる。だが、今回の選抜レースでは事情が違う。悠長なことをしているうちに有力株の子には先約が入ってしまうこと間違いなしだ。
勝利ウマ娘を囲い込むのはTVリポーターじゃなくて、新たなウマ娘を手元に迎えようと手ぐすね引いているトレーナーたちなのだから。
説明すると、プリマエトワールは「そんなもんかー」と納得したような、しきれないような、なんとも煮えきらない反応を返した。
「じゃあ、前情報を少しでも持ってる子に注目しがちだよね、やっぱ」
「だねぇ……。まぁ、世の中には君が言うように、テンから終いまで、レース出走メンバー全員に均等に注意を向けてるベテランは絶対いると思うけど」
そんなものは変態や……変態の所業や……。
なお、ここは泣く子も黙る中央トレセン。そんな変態だって上の方を見れば恐らくきっとその辺にいる。
僕自身に話を戻すが、エトワールに答えたように、主に目玉というセンサーの性能に限界があるせいで、レース中に注目を向けていられるウマ娘はどうしても限られる。
出走メンバー十二人のうちでも、僕が
だからこそ、否が応でも彼女を注視することになる。
なればこそ、彼女に伝えるべき言葉をほんの少しだけ見いだせる。
「最初の話に戻るけど……、前情報のない選抜レースの展開なんて、どんだけ頭をひねっても当てずっぽうにしかならない。だから僕が伝えたのは最低限のアドバイスというか、心の持ちようだね」
技も、体も、その場のぱっと見じゃ甲乙付けがたい。なら残った心の部分にしか、ライバルを上回るに足るヒントを見いだせない。
本人は否定するだろうけど、真面目なあの子のことだ。
緊張を切らすようなことはないだろう。かといって過度にイレ込み、気負う必要もない。
平静に、沈着に。自分で過去一調子が良かったと思える一走があるのなら、それを思い返しながら、その時の走りを完璧に再現するつもりで行ってみな、と。
クレディに耳打ちした内容をほとんどそのまま明かすと、エトワールは少しだけ不思議そうな顔をした。
「アタシのトレーナーと同じようなこと言うんですね」
「偉大な先輩と意見が一致してるようで良かったよ。……まぁ、変に気取った"作戦"を伝えなかった理由はそれだけじゃないけど」
「それ、聞いてもいいやつ?」
「多分あの子、『考えるより先に体が動くタイプ』でしょ」
「……あー、めっちゃ納得」
噛みしめるようにそんな反応を漏らしたエトワールは、パドックでのパフォーマンスを終えて、ゲートの方へゾロゾロ移動していくウマ娘たちをぼんやりと眺め始めた。
その横顔がなんとなく憂いを帯びているように見えて、僕はつい先日のファミレスでの出来事を思い返しながら尋ねた。
「仲直りはできた?」
「正直、……あんまし」
「なんだ、まだ怒ってるの」
「ちゃうちゃう。無理してる感を露骨に
そう言って、ため息をひとつ。
スタンドの手すりに頬杖を付いて、包帯に包まれた左足をかばいつつ、無事な右足でぺちぺちとタイル張りの床面を叩く。
ウマ娘たちが、口には出せない鬱屈とした感情や欲求を抱いているときに良くやる
「色々あったけど、結局、あの子は選抜レースには出られたわけだし。アタシ的に、一番の心配ポイントはもう解決したんだよね」
「ふむん?」
「それを今更蒸し返してまで怒るのはおかしくない?」
「まあそうだけど……君自身には、こう……消化不良なところは無いのか?」
「アタシだってあの時はむかっ腹のひとつも立ったけどさ……、普段のクレディのキャラを考えたら、まぁ、そういうこともあるかーって、一応納得はできるし」
特にはぐらかす様子もなく、群青色の団栗眼がこちらを見上げてくる。
プリマエトワールというウマ娘は、経緯はどうあれ問題がひとまず解決すれば気持ちがスッキリする小ざっぱりした性格をしているようだった。
喉に魚の小骨が刺さったかのような、なんともモヤモヤの含まれた物言いなのは、純粋に同室との関係の温め直し方に悩んでいるせいか。
「……なるほどね。君が納得してるなら、それはそれで良し」
ということは、二人の間にあるぎこちなさは、どちらかというとクレディの側から歩み寄るべき問題ということになる。
二人の関係性がこうなってしまった経緯の一端に僕は絡んでいるわけだし、もし力になれればそれに越したことはないのだけど。
まあでも、まずはこのレースの結果が出てからの話か。
『今日こそ日頃の研鑽、修練の成果を示すとき。それぞれの決意を胸にウマ娘たちがゲートに入ります――』
音響の調整が行き届かないのか、少し音割れしたアナウンスが会場に流れる。
トゥインクルシリーズの公式戦ではなく、学内で行われる選抜レースとはいえ、なかなか真に迫った実況だ。
クレディがどんな決意を抱いてこのレースに臨んでいるのかは、彼女のみが知るところだけれど。
同室の子はいつもの君が戻って来るのを待ってるみたいだぞ。
そんな呟きを脳裏に浮かべながら、スターティングゲートの前に立つ彼女の姿を目で追う。
東京レース場とほぼ同規模の威容を誇るトレセン学園のメイン芝コース。
芝1400m左回りという条件は、向こう正面中央あたりにスターティングゲートを据え、第3・第4コーナーを経てスタンド正面のゴールまで、トラックコースを半周するような道程だった。
もともと視力に自信があるほうではないが、400mほど離れたところにいる彼女の姿は、小指の爪サイズのぼんやりとしたシルエットくらいにしか判別できない。
それでも、ゲート前で立ち止まり、胸に手を当てて深呼吸してから、12番の枠内に収まる華奢な体躯の黒鹿毛が見えた。
「大外か……直前の駆け込みだし仕方ないけど。……それにしてもトレーナー、選抜レースの追加出走なんて聞いたこと無いよ? 一体どうやったの?」
「特別なことはなにも。ルールが既にあったところに、大人流の責任の取り方って言うやつを試してみたら、できた。それだけ」
「いや、『それだけ』じゃないでしょ。今どき三分クッキングのほうがもっと手順喋るわよ」
そんなことを話しているうちに、ウマ娘たちが次々にゲートの枠中へと収まっていく。
ストップウォッチを片手に出走のタイミングを待つ僕たちの期待を、熱の入った実況が後押しする。
『最後に8番・リコリスブルームがゲートインして、出走準備、整いました。明日の
ガコン、というやかましい金属音が向こう正面のゲートからコースを横切ってスタンドまで届いた時、クレディの体は既にゲートから飛び出して一完歩を終えていた。
そこからタタタン、と鋭く両脚がピッチを刻み、瞬く間に初期加速に乗った。スタートからわずか50mの時点で、他のウマ娘たちと比べても、半バ身ほどの優位がある。
「ナイススタート! ぬるっと出たなぁ!」
「表現……」
ハナを取ったのは内枠3番――鹿毛にテンガロンハットを被ったウマ娘。
クレディは出足の速さで得た
追加出走で負ったペナルティとでも言うべき大外不利を精算し、いずれ来るコーナリングでスタミナ消費の少ない経済コースをとれるように布石を打つ、理想的な動きだ。
スタートダッシュの立ち回りは、初めて出合った時に見込んだとおり、メンバーの中で頭ひとつ抜けた完成度だった。
序盤にかけてのレース運びも、良い意味で教科書通り。奇を
「1
出足のスピードも、あとコンマ5ほど縮めればメイクデビューウマ娘の水準に並ぶ。大外スタートというハンデがなければ、あるいはハナを取っていたのはクレディだったかもしれない。
「やっぱり、あの脚は間違いなく本物だ!」
自分の見立ては正しかった。
心の底から湧き出る興奮を抑えきれず、大人気なく漏らした叫びには、知らず知らずのうちに期待が篭っていた。
「なかなかやるでしょ、あの子――――って、あれっ?」
「んん?」
先行以下、後続のウマ娘たちのポジション争いもひとしきり終わり、先頭が第3コーナーに差し掛かった直後、クレディの姿勢が一度大きくブレた。
それまでピタリと付けていた、先頭をゆく3番との差が僅かに開く。
荒れた芝の穴ぼこにでも躓いたか?
走行フォームはすぐに立て直したみたいだが、どうしたことだろう。カーブを曲がる進路が外に膨れ、じわりじわりと位置取りが2番手集団のほうにずり下がっていく。
「……なんか妙に走りにくそうにしてて……まさか!」
プリマエトワールがスタンドの手すりを掴んで反射的に身を乗り出そうとしたので、危ない、と声をかけて引き戻す。
「――いや、違う。脚の故障じゃないよ、あれは」
レース中の負傷には大小の程度はあるが、ウマ娘の全力疾走が創部に与える苦痛は相当なものだ。走行フォームを維持することはおろか、まともに走ることすらできず、転倒して重大事故につながることもある。
見た目には規則正しくストライドを保っているように見える彼女の走りからは、苦痛を抑えながらピッチを刻み続けているような素振りは伺えない。
じゃぁ何か、と聞かれても正直なところ、分からないと言うほかなかった。
怪我ではないにしろ、何かしらの不調を感じて行き足を抑えているのか。
あるいは、僕がレース前に掛けた言葉を聞いて、彼女なりの作戦を持っているのか。
もしくは、それ以外の予期せぬ出来事が彼女の身に起こったのか。
『第3コーナーを超えて徐々にバ群全体が詰まって参りました! 先頭は引き続き3番・ナラガンセット、二バ身離れてジェイドストーン、ローヴドゥレテ。その外、本日追加出走のクレディカイゼリン。一バ身差でアストラクラウン、その内並んでレイジングハート――』
先頭をゆくウマ娘がハロン棒を超えるごとに、左手に持つストップウォッチのボタンを押す。記録されたラップタイムにチラチラ視線を落としつつ、バ群の先頭から後方までを順繰りになぞっていく。
折り返しの4.5
ハナを抑えた3番のウマ娘が単独で逃げている。良バ場で飛ばしすぎて早々にバテるのを気にしているのか?
その後2バ身ほど後ろに、一塊になって追走する先行集団。そのど真ん中外側にクレディがいる。
後方集団との間隔は狭く、先頭から
レースは淀み無く進み、第4コーナーのカーブを出て最終直線に踏み込むか、といったタイミングで、後方で足を溜めていた中盤手以降の面々が次々に進路をバラけさせ、先行するウマ娘たちを捉えるべく動き始めた。
『残り600、ここで一気に後方集団がペースを上げる! っと――バ群を割って飛び出してきたのは青いベレー帽・ティシュトリヤ!』
急加速した後方集団のウマ娘たちの中でも、一際目覚ましい足を見せたのが6番のウマ娘だった。
鹿毛に青いベレー帽の彼女は、レースを見守る僕達がおっ、と息を呑んだその一瞬のうちに先行集団に取り付いた。
「1000m通過、59.8」
東京レース場1400m左回りになぞらえるなら、ジュニア級としてはもとよりメイクデビューとしてもスローペース。
ならば前残り――脚を余した逃げ・先行ウマ娘が、序盤のアドバンテージを維持したままの勝ち切り――が発生しやすい、というのが定説だ。
瞬発力に長け、前目につけてレースを運んでいるクレディには有利な展開だが――。
『ここで先頭変わってティシュトリヤ! 物凄い足で一人突き抜ける!』
文字通り抜群の末脚を発揮したベレー帽のウマ娘は、進路を大外に持ち出して先行集団をあっさりと追い越し、既に最終直線入口の時点で失速しつつあったテンガロンハットのウマ娘を抜き去って、一気に先頭に躍り出た。
「なんなのあれ! なにあのスパート!?」
「――まだレースは終わっちゃいない! 走るんだ! クレディ!!」
6F目のラップを刻んだストップウォッチを手から離して、精一杯の声援をクレディに送る。
残るゴールタイムは、後でどうせ掲示板に出るのだから!
『残り100m! ここで一気にローヴドゥレテが詰めてくる! ティシュトリヤを差し返す! ジェイドストーン、伸びが苦しい! 12番クレディカイゼリン、追いすがるが先団に届くか――後ろからはレイジングハートも上がってくる!!』
仕掛けが僅かに早かったか、青いベレー帽のウマ娘の行き足が鈍る。
代わって先頭を奪ったのは、クレディのすぐ前から力強く加速を付けた、胸元にバラのコサージュを付けたウマ娘。
団子のように固まっていた先行集団は、体力の限界を迎えて失速するもの、末脚のブーストを点火させて最終加速に突っ込むものに分かれて散り散りになりつつあった。
後方集団にいたウマ娘たちがいよいよ追い込んで来て、後ろから、あるいは外から彼女たちを飲み込む。
ゴール手前でいくつもの体操服とゼッケンがぶつかり合い揉みくちゃになり、順位が激しくかき回される。
「行けえっ! クレディ!!」
「頑張れ!!」
エトワールと二人、スタンドの手すりから身を乗り出して絶叫する。
僕達の声が届いたか、クレディがわずかに顎を引いて、姿勢を一段低く落としたように見えた。
しかし――、彼女の脚にスタート直後のようなキレは残されていなかった。
『レイジングハートが躱して前に出た! クレディカイゼリンは一杯か――! 先頭はローヴドゥレテ、3バ身のリード! 2番手争いはティシュトリヤとレイジングハート!』
そうして、
『――ローヴドゥレテ、今ゴールイン! 2着レイジングハート、3着にティシュトリヤ!!』
クレディはゴール板を超えてスピードを緩めつつ、そのまま50mほど走りぬけたところで立ち止まり、崩折れるようにしてターフの上に両手を突いた。
肩で荒く息をしつつ、ぼう、と見上げる掲示板に番号・12番はない。
ゴール寸前でさらに後続の二人に差され、終わってみれば12人中、7着。
それがこの選抜レースでの、彼女の戦績だった。
「……お出迎えの時間だ。――行こう、エトワール」
「……っ、うん……」
僕はストップウォッチを鞄にもどし、肩紐の具合を確かめてからそう促した。
エトワールはターフの上にぺたんと座り込んだクレディを見つめていて、すっかり両耳を
口では応じつつもスタンドの手すりを掴んだまま離さない彼女の肩を叩いて、松葉杖を手に押し付ける。
多少強引かもしれないけど、分かってほしい。
結果はどうあれ、僕たちはクレディを出迎えて、走りを労ってあげなくちゃならないのだから。