信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング) 作:A_Kaname
「頂いたチャンスを無駄にしてしまいました。……大変申し訳ありません」
開口一番、クレディはそう言って深々と頭を下げた。
西日を背負った彼女の表情ははっきりと伺え知れないが、その声色はか細く震えている。
「……ごめんなさい、エト。あなたとの約束、また、守れなかった……」
言うや否や、こちらに背を向けて歩き出そうとする彼女の手を取って、エトワールが引き留める。
「あれはただ……、クレディに全力を出して欲しかったからで! 約束とかそういうのじゃ……。 トレーナーも! 何か言ってよ!」
片側の松葉杖を芝の上に放り出したまま、縋るようにこちらを見上げてくるエトワールの群青色の瞳は、かすかに涙で潤んでいた。
対するクレディはというと、エトワールも、僕のどちらの姿も瞳に映すことなく所在なさげに視線を
その内心にどんな感情が渦巻いているのかは、そんな彼女の振る舞いや、何より直前のレース結果を考えれば、あえて分析するまでもないのかもしれないが。
とりあえず、落ち着いて話を聞いてもらうためにいくつか手順を踏む必要がありそうだった。
鞄のジッパーを開けて、中身を
「
「は――?」
「水分補給」
「……?」
「……何て?」
僕が鞄の中から引っ張り出したスクイズボトルと、僕の顔を交互に不思議そうな面持ちで見つめてくる二人のウマ娘。
これは滑ったかな……、と内心で反省しつつ、僕は努めて真面目くさった表情を作って続けた。
こういう形式張ったアプローチのほうが、今の彼女にはきっと届きやすいはずだと、そう信じて。
「運動後のクールダウン、してないでしょ? スムーズに移行できないときは、せめて電解質バランスだけは整えておきな。――購買で買ったばかりの新品だから、ご心配なく」
「…………わかりました」
たっぷり五秒ほど僕の顔を見つめたクレディは、幸いにして、目を伏せながらではあるが素直に頷いてボトルを受け取った。
松葉杖を突くエトワールのペースに合わせ、ゆっくりした歩みでスタンド際まで戻ってきた僕達は、それ以上彼女の脚に負荷をかけるわけにも行かないので、ターフと地続きにある観覧席のベンチに並んで腰を下ろした。
コースの外ラチ近くでは、先程の第4レースでクレディと競って上位に入着したウマ娘たちが、何人ものトレーナーに囲まれてスカウトを受けている。
それを目前に眺めながらというロケーションはちょっとクレディには酷だろうけど、コースの近場で話し込める場所はここ以外なかった。
ひとまず渡したスポーツドリンクでクレディが給水を済ませたところで、僕は彼女に提案をひとつ持ちかける。
「――デブリーフィング?」
「うん。レース前の打ち合わせ――ブリーフィングは正直アドバイスくらいのモノだったけど、だからこそ終わったあとの振り返りは、きちんとやっておくべきかなって」
そう言って意図を説明したのは良いが、聞き慣れない用語なのだろう。
クレディとエトワールは顔を見合わせて「知ってる?」「いや……?」と囁き合っている。
「走ったウマ娘本人が、レース中に何を感じ、何を考え、どうレースをしようとしたか。レースを観戦していたトレーナーが、ウマ娘全体の中で走る一人と、他のライバルたちの動きを見てどう考えたか。双方の認識をすり合わせて、次に活かすための、言ってみれば『反省会』だね」
選抜レースはあくまでも学内で行われる非公式レースだが、ウマ娘たちが自主的に行う並走や模擬レースとは異なり、レース全体のラップタイムや個人の区間タイムまで記録されている。
そんな公式戦に準じた形式のレースを終えて、ウマ娘個々人のフレッシュな情報が一番積み上がっている今だからこそやるべきことだ。
トレーナーとして働き出してから知って驚いたのだが、このデブリーフィングというものは、未出走ウマ娘たちにはとんと
「私は、レースで負けました。……これが、今の私の実力。それ以外に、ありません」
「そういう事じゃなくて。よく聴いて――」
スクイズボトルを握りしめ、目を伏せながら呟くように言うクレディ。ついつい自罰的な方向に流れようとする彼女を宥めつつ、話を続ける。
選抜レースというチャンスを
プリマエトワールと交わしたらしい
断片的ではあるが、クレディが口走った内容とこれまでの彼女の振る舞いを見る限り、中途半端な励ましの言葉は、本人自身が御しきれていない感情をいたずらに逆なでするだけだろう。
だからちょっと向き合い方を変える。彼女が自分自身ではなく、外界に意識を向けさせるように。苦い経験だけではなく、新しい知識に手を伸ばせるように。
「視野角って、憶えているかい?」
「……公道講習でやるやつ?」
「そう、それそれ」
エトワールが言うのは、ウマ娘たちが公道の
おさらいしよっか、と前置きしながら、僕はタブレット端末を取り出す。
ペイントソフトの真白いページにスタイラスを走らせ、簡単なイラストを描いて示した。
ひとつは、尖った二等辺三角形の両側面に丸一対。
もうひとつは、円形の前よりに丸一対。
「こっちが羊なんかの草食動物の頭と目玉の位置関係で、こっちが僕たちヒトやウマ娘」
説明しながら、ふたつの図に青ペンで大きく扇形を書き込んで、両者の目玉がカバーする視野範囲を示す。
草食動物は目の配置故にほぼ全周の視界を得ていると言われているが、僕達ヒトやウマ娘の視界は、物理的に真横ちょっと後ろまでしか見えないのだ。
その上に――、
「僕達も車の免許教習なんかでは口酸っぱく言われるんだけど、走行速度が速くなればなるほど視野角は狭まるんだよね」
言いながら、青ペンで描いた扇型を内側にすぼめる形で、赤ペンでひと回り小さな扇形を描いて示す。
ウマ娘がラストスパートで発揮する速度は時速70キロほどに達する。高速道路を飛ばす車には遅れるが、それでも悠長に景色を目で追っている余裕などあるはずもない。
「レースで走っているウマ娘本人が思っているよりも、戦局ってものは意外と本人の
「走っていた私からは、見えていないもの……」
「そう。それと同時に、君がレース中に感じたことは、君自身に語ってもらう以外に僕たちが知る術はない」
呟くように、噛みしめるように呟いた彼女に相槌を返す。
彼女の視線は相変わらず手元に落とされていたものの、黒鹿毛の髪から伸びた笹場耳だけは、おずおずとこちらへと向けられた。
「だからクレディ、さっき君がレースで見て感じたことについて教えてほしい。良かったことも、悪かったことも、全部ね。……多分それが、これからの走りを高めるヒントになる」
そう僕が伝えると、彼女は少し考える素振りを見せたのち、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ゲートから出るときは、スタートしてから一番加速の早い子についていこうと……、もし私が一番なら、そのままインコースに入ってハナをとろうかって、考えてました……」
レース中の記憶をたどりつつ、時々じっくりと思い返すような素振りを見せながら、クレディは語りだした。
芝1400mというレース条件は、彼女にとっても今朝突然決まったこと。
もともとダートの選抜レースに出走する予定だった彼女は、想定と違う芝レース、それも200mの距離延長が自身のスタミナにどれだけの影響を与えるか測りかねていた。
どうやら僕の助言も全く的外れというわけではなかったらしく、本人なりに一番理想的なコース取り、ペース配分を維持することをひとまずの目標にしつつ、あとはほとんどぶっつけ本番でレースに臨んだというのが実情らしかった。
本人としても、もともとスタートダッシュを自分の武器として認識していたようで、序盤のコース取りは出走表を見た時から考えていた展開どおりだったという。
目を瞑り、先程のレースを思い返しながら語っていたクレディは、「でも――」とそこで一度言葉を切った。
「コーナーに入ったあたりから急に、右足に力が入らなくて……」
「やっぱりそれだ」
語りに合わせて脳裏にレースの経過を描き出していた僕は、第3コーナーでがたりと姿勢を崩した彼女の姿を思い出した。
靴を見せて、と促す。クレディは少し不思議そうな顔をしながら靴紐をひっぱり、足から蹄鉄シューズを脱いて、裏返した。
「――っ! これって……!」
「えっ、ああっ――!」
裏替えされた右の靴底に、肝心の蹄鉄は付いていなかった。
レース中の落鉄。おそらく発生したのはスタート直後の直線区間のどこかだろう。
「レース条件は左回り。バ場は良かったけど、雨の後で芝は濡れて滑りやすい」
観覧席から立ち上がって、ターフの外縁部に手を伸ばす。
均一に刈り揃えられた芝を撫でると、さらりとした感触に混じって、細かい水滴がいくつも飛んだ。
「コーナーのアウト側――右足のグリップ力不足がてきめんに効いたね。道中で余計にスタミナを消耗して、ラストスパートまで足を残せなかった」
そこまで分析して、フウ、と息を吐く。
がっくりと肩を落としたクレディに、何と言葉をかければいのだろう。
本来の彼女はダート志望だが、良バ場の芝レースにも加速力で食らいついていた。
距離延長の影響こそあれレース自体はスローペースで、展開も本来の脚質に合っていた。勝機は、確かにあったはずだった。
だけど結果は、先程決したとおり。
予期せぬアクシデントで本来の実力を発揮できずに敗退するウマ娘なんて、トウィンクルシリーズのレースでも日常茶飯事だ。
だけど、それを『勝負のアヤ』の一言で片付けてしまうのは、死力を尽くしてレースを走りきったクレディの頑張りを軽んじることになる。
「ロードワーク中に、変な立ち止まり方をした時に、違和感があったんです。……蹄鉄をちゃんと確認しておけば、早く気づいて打ち直しておけば、こんなことには……」
「朝もバタバタしてたもん、仕方ないよ……」
俯いたままでいるクレディの頭を撫でさすり、エトワールは彼女を労るような優しい口ぶりで慰めていた。
この二人の関係が今日この時まで不穏なままだったら。普段から彼女を良く理解している同室が、もしこの場にいなかったら。
クレディは多分、レース場から後悔に満ちた思い出しか持ち帰れなかっただろう。
我慢強く、情の深い同室の存在に、感謝しかない。
年代も、立場も、性別も、あまつさえ種族からして違う僕だけでは、どう慰めようとしても言葉に空疎さが混ざってしまう気がしてならなかった。
僕が黙ったままで居ると、エトワールはクレディの肩に手を置きつつ、こちらを見上げて、「続けて」と視線で促してきた。
……ある意味では、彼女に未来を向き直してもらうための役割分担、と言えなくもないか。
「ともあれ、そういう理由で、第3コーナーから先は想定外のスタミナ消費とコース取りの困難さをなんとか制御しようとしていたように見えたけど――」
「そのデブリーフィングに、ひとつ追加で反省を加えてほしい」
と、僕が気持ちを切り替えて、レースのレビューを再開し始めたその時、すぐ後ろのほうから無遠慮な男性の声が割り込んできた。
オールバックの髪に銀縁の眼鏡、薄水色のカッターシャツ。
その襟元には蹄鉄を象ったトレーナーバッジが光っている。歳の頃は自分よりもひと回り以上は年上、――中堅といったところだ。
彼の後ろには体操服姿のウマ娘がいて、少し遠間からこちらを伺っている。
はて、あの子は誰だろうと首を傾げたところで、エトワールが発したささやき声が耳に届いた。
(さっきのレースの10番枠の子――)
そうだった。
合点がいった僕は、観覧席から立ち上がって中堅トレーナーと、彼が伴ったウマ娘に向き直って問い返した。
「失礼、反省というのは?」
「君も見ていただろう。第4コーナー近辺で12番・クレディカイゼリンがアウトコース側に膨れた進路を取ったことで、こちらの彼女が煽りを受けて押し出された。それによってルート選択に大幅な制限が加わり、着順にも影響している」
「……! それは本当ですか? 検証はどうやって? パトロールビデオでも撮られていらっしゃったんですか?」
「手元にはない。だが当人からレース展開を聞き取る中で、そういった事態があったと断定した」
中堅トレーナーは、さながら数学の定理や法律の条文のような、揺るがしようのない事実を詳らかにするかのように答えた。
言葉の裏付けなど、用意していない、というより、用意する必要もないと言外に告げるような眼差しが眼鏡の奥からこちらを伺っている。
ちょっと待ってくれ、という言葉を反射的に飲み込んで、僕は額に手をやって天を仰ぐ。
ええと、つまり――。
「――当事者の印象だけで、一方的に非を認めて反省しろと? それは道理が通らないじゃないですか。……お言葉を返すようで恐縮ですが、僕が見た限りじゃその時点でクレディとそこの10番の子の間には前後1バ身ほど間隔がありましたよ?」
言いたいことは山ほどあった。中堅トレーナーがいうコーナーでの
けれど、その事実をそのまま口にしたら、きっとクレディはより一層自分を責めてしまう。
だから慎重に言葉を選んだつもりだったが、抑えようもなく声は荒さを増して行く。
「そもそも、現行ルールに当てはめて、クレディと彼女の最終順位を考えれば降着の基準にはあたらないはずです」
掲示板へと視線を移す。双方の着順は、クレディが7着、10番の子が4着。
『加害者の違反行為によって、被害者が走行を妨害されたと認める事象で、かつその妨害行為がなければ被害者が加害者より先に入線していたと判断した場合』
URAが規定する降着の基準はこうだ。
今回の場合、10番の子はクレディの走りによって自分本来の走りをかき乱されようと、お構いなしに掲示板入りを勝ち取っている。
「降着だけがレースに与える影響と思うのは早計だ。たとえ結果が到達順位どおりだとしても、被害者の走行を妨害した責任が消えるわけではない。行為には相応のペナルティが伴うものだ」
「――彼女の走りに、
クレディに起こったのは、完全なる事故。アクシデントだ。
何より自分の走りだけを考えてレースに臨んでいた彼女が、他のライバルを蹴落とそうとする意志など抱くはずもない。
心中に湧き上がったありったけの不快感を視線に乗せて、中堅トレーナー目掛けて突き出す。
が、中堅トレーナーは顔色ひとつ替えずにこちらの視線をいなして、「いいや」と首を横に振った。
「風の噂で聞いたが、君は彼女の出走権を得るために秋川理事長まで動かしたらしいじゃないか。新人にしては大した度胸だが、彼女を選抜レースに推薦した君自身の目に曇りがないかは一体誰が保証してくれると言うんだね?
「……つまり、僕が
「やめてください!」
甲高い、悲鳴にも似た叫びが、僕と中堅トレーナーとの間にあった応酬をばさりと断ち切った。
「クレディっ!」
エトワールの制止を振り切って、クレディは観覧席から立ち上がって中堅トレーナーの前まで進むと、後ろにいる10番のウマ娘に向けて静かに頭を下げた。
一見して礼儀正しく、心からの謝罪が込められているに違いない最敬礼。
それでもそれは、さきほどの悲鳴じみた叫びに滲み出した彼女自身の思いを、固く、深く、体の内へと封じ込めるような、そんな動作にも見えて仕方がなかった。
「――全部、私の責任です。私の身勝手なコース取りによって、貴女の身を危険に晒してしまいました。本当にごめんなさい」
「……次からはもう少し周りを見て走ってね」
10番のウマ娘は言葉少なに答えて、それきり口をつぐむ。
中堅トレーナーはウマ娘二人のやりとりを見て少し目を細め、無遠慮な咳払いとともに、僕に向けて言い放った。
「どうやら、トレーナーよりもウマ娘のほうがよほど身の程を弁えているようだ」
「――!」
「老婆心ながら忠告させて貰うがね。君も早々に振る舞いを改めたほうがいい。その冒険心がウマ娘のキャリアを
「…………ご忠告、痛み入ります」
胸中で渦巻いた呪詛を精一杯の社会性と道徳規範で着飾らせ、どうにか、その一言を口から絞り出す。
当事者であるクレディが頭を下げているというのに、彼女の肩を持つ僕だけが頑として態度を改めないわけにはいかなかった。
苦々しい思いを呑み下しながら彼女に
オールバック眼鏡の中堅トレーナーは、フン、と至極つまらなそうに鼻を鳴らしたのち、後ろに控えた10番の子に「こちらも反省会の続きだ」とだけ告げて、校舎の方へと立ち去っていった。
「感じ悪ぅ……。アレが教師のやること? トレーナーにあんな――」
「エトワール。それ以上はだめ。本人はともかく
僕が釘を刺すと、エトワールはレース場を後にする彼ら二人の背中に向けて、陰口の代わりに、べぇーと大きく舌を出した。
「……色々聞きたいことはあるけど、ホントにクレディに何をしたの?」
「人聞きが悪いなぁ。こっちはやるべきと感じたことをやっただけだって」
もっとも、その『環境を整えて彼女の背中を押す決心』の元になった僕の
湿った空気を肺いっぱいに吸い込んで、肩で息をするように大きく吐き出す。
最後にパン、と柏手を打って、多少強引にではあるが話題を元にもどした。
「ま、真実がどちらにせよ、もし何かあれば競技課が言ってくるはずさ。……続けよっか」
「えぇ……メンタル強者……」
エトワールは何やらドン引き顔を浮かべているが、そんなに可笑しいことだろうか。
何せ、クレディ本人の走りに関して建設的な提案ができるのは僕以外にいない。
ケチを付けるだけ付けてあの中堅トレーナーはサッサと立ち去ってしまったワケだし、それ以上のフィードバックをもたらすつもりはさらさらないと見える。
正直なところ、「僕がそんなに信用ならないと言うならアンタ最後まで責任持って指導に参加しろよそれでも中央のトレーナーかよ」と、恨み言のひとつやふたつ言いたくなるけど、既に当事者不在だった。
「クレディ、いいかい?」
「……はい」
どこまで話してたんだっけ、と思い返しながらクレディの顔を見ると、彼女は居心地悪そうにソッポを向いた。
実のところ、どうして僕とあのトレーナーの間に割って入ろうと思ったのか、その意図を問い質したい気持ちがないではないけれど。
他ならぬ自分から話題を替えたのだから、いつまでもそこに
ただでさえ本人にとって選抜レースの結果が満足いく内容ではない上に、――ぶっちゃけ言いがかりのような気がしているけど――あのご指導だ。
僕でさえ内心が穏やかじゃないのに、彼女はまだ子供と大人の境目といって差し支えのない年頃だ。
その繊細な心中に負ったストレスの大きさを考えれば、ズケズケと無遠慮に踏み込む気にはなれなかった。
「落鉄のことがあった中でも、君はほとんどベストに近い走りをした。でも、最終直線で後続に競りかけられても埋もれないような勝負根性がもっと欲しい」
表情は晴れないけれど、クレディは黙って僕の言葉に耳を傾けてくれている。
だからこそ、この機会に伝えたかった。
彼女がこのトレセンで、自分自身の力で身につけた技術は。
その体に秘められた潜在能力は。
君自身が思っているよりも、ずっとずっと、高みを目指せるはずのものなんだ、と。
「要所要所の実力は間違いなく本物だった。特にスタートから序盤にかけては、もうトウィンクルシリーズでも通用するはず。それだけじゃなくて、君の走りはこれからもっと充実していける。だから――」
心臓の鼓動が高まる。
唾をゴクリと飲み込んで、右手を差し出しながら、僕は続けた。
「クレディカイゼリン。君を担当ウマ娘としてスカウトしたい」
その瞬間、クレディはわずかに顔を伏せた。
頭の天辺で笹葉の耳が忙しなく向きを変える。
ややあって、膝の上で固く握りしめられていた拳がほどかれ、おずおずとこちらに向けて伸ばされた。
が――、
「……ごめんなさい、お受けできません」
少しの間中空を
僕の視線から顔を背けて、消え入りそうな声とともに、彼女は答えた。
彼女が僕の視線から背を向けるその直前、黄玉色に輝く彼女の瞳の奥に、一瞬だけ、何かを押し込めたような色が浮かんだ、そんな気がした。
「ちょっと、何言ってるのクレディ!?」
エトワールがクレディの肩を掴んで、ずいとその顔を覗き込む。
クレディは彼女に向かって黙って首を横に振り、居心地悪そうに視線を逸らした。
口の中に広がった苦みを飲み下しながら、僕は彼女に問いかける。
「……一応、理由を聞かせてもらえると嬉しい」
「先程の、
彼女が応じ、そして確認して来たのは、言い訳も申し開きもしようのない、事実についてだった。
「……ああ、そうだね」
「でしたら、やっぱりごめんなさい」
僕の肯定に、返ってきた言葉は、さっきよりも幾分トーンがはっきりとしていて。
「……貴方に私の"たった一度きりのキャリア"を任せてもいいか、決心がつきません」
ご指導、本当にありがとうございました、と。
最後の最後まで生真面目さを崩さずに、深々と頭を下げる。
最後に僕の手にスクイズボトルを押し付けて、クレディはひとりで歩き出した。
「さっきのいけ好かないトレーナーが言ったこと、まだ気にしてるの!? 選抜レースまで小椋トレーナーにお
エトワールが慌てて松葉杖を引き寄せながら声を上げる。
小走りで距離を取り始めていたクレディは、その呼びかけに一瞬立ち止まり――、
「違う……違うのよ、エト……これは、私の……自分の問題だから」
振り向きざまにそう紡ぎ出した唇は、かすかに震えていた。
つややかな黒鹿毛を揺らしながら、彼女はそれっきり、こちらを振り返ることなく背を向けた。
淀みない足取りで、華奢な背中が遠ざかっていく。
何かに追われるように。あるいは、追ってくるものを振り切るように。
「ちょっと、待ちなさい! 話はまだ終わって――っ」
プリマエトワールは慌てた様子で松葉杖に荷重を預けて立ち上がり、一歩分前へと踏み出したところで、一言も発さずに立ち尽くしている僕の顔を見上げた。
きゅっと結ばれた口元が、何事かを紡ぎ出すよりも早く、僕は彼女に言い含める。
「……本人の気持ちが最優先だ。僕のことはいい」
「あの子、多分また混乱してるだけだから! きっと……!」
「いいんだ。――さぁ、行って!」
松葉杖を突いて、一歩ずつ遠ざかっていくエトワールの背中を、僕はただひとりで見送った。
専属契約は、ウマ娘本人とトレーナー、双方の合意のもとで結ばれるものだから。
僕自身が彼女に選ばれようと願っても、本人が受け入れてくれる保証なんてない。
あの会議の場で僕自身が言ったことだった。
だから、彼女が残した拒絶の意志も、一度受け止めてしまえばするりと胸の中へ収まった。
でも、どうしてだろう。
彼女の拒絶の奥底のほうには、言葉にしきれないザラつきが、確かに漂っていたような、そんな気がした。
数ある作品群の中から本SSを手にとっていだだき、誠にありがとうございます。
毎日連載は一旦ここまでです。
第1章分の原稿ストックは丸々あるものの、諸事情あって目下第2章を大改稿中・内容ふわっふわなので、以降は週イチ更新ペースとなります。
92,93世代の空気感を知るために神保町で仕入れた当代前後の優駿やGallopを読み漁ってるのですが、ウマ娘から入ったオタクには「これがあのアレやね」と「ウワーッ! 親父!!」が多すぎる。資料代が飛ぶ。たすけて。
これを上手い所ストーリーに落とし込みたいところで、大変恐縮ですが漸時お待たせいたします。
(2025.11.6 記)