信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング) 作:A_Kaname
「――ここが、クレディの入学願書にあった住所」
トレセン学園の最寄り駅から、電車を乗り継いで小一時間。
スマートフォンの地図アプリを頼りに、閑静な住宅街の中を練り歩いて十五分ほど。
画面の中で赤いピンが突き立っている、小ぢんまりとした建物の前に行き着いて足を止めた。
古びた白いタイル張りの外壁に、細長い採光窓。スレートで覆われた三角屋根のてっぺんにはシンプルな造りの十字架が掲げられている。
「教会、……だよな?」
トレセンを出るときにメモしてきた住所を再度確認する。
学生資料室から持ち出した資料をコピーして手元に残すことはできたが、当然ながら部外秘のデータだから、学外には持ち出し禁止になっていた。
メモ帳に手書きする、というアナログな方法で情報を控えてきたのだが……もしかしたらその際に転記をミスったのかもしれない。
「どうかされましたか?」
「――うわっ!」
スマホの画面と手帳を交互に見て唸っていると、背後から鈴を転がすような声が投げかけられて、思わず叫び声を上げてしまった。
「あらあら、驚かせてしまって申し訳ございません」
振り返ってみると、黒い長衣に身を包んだ女性が、籐籠を片手に、物腰柔らかく頭を下げていた。
年の頃は五〇代ほどだろうか。こちらと比べると頭ひとつ低い位置から見上げるようにして、メガネの奥から優しげなまなざしが投げかけられる。
「申し訳ございません。本日の
「あっ、いえ……自分は、――こういう者です」
名刺を取り出して渡す。メガネの位置を調整しながらそこに記されている文字を読み上げて、女性の顔には驚きの表情が浮かんだ。
「日本ウマ娘トレーニングセンター学園……。ひょっとして、クレディの?」
そしてその口から発せられた名前は、紛れもなく僕が
「彼女のことをご存知ですか?」
僕が慌てて聞き返すと、女性は小さく息を呑んで、静かに目を伏せながら胸元で十字を切った。
「……この出会いも
促されるまま教会の中へと通される。
女性はスーサ、と名乗った。クレディの入学願書上で、緊急連絡先として記されていた名前だ。
教会にいる女性の聖職者、ということで
不勉強ながら、僕のキリスト教知識は、高校の世界史の授業で習った『カトリックとプロテスタントという二大派閥がある』程度で止まっていたので、不用意な物言いをして危うくとんだ失礼をしてしまうところだった。
教会建築らしい高い天井と、
カツン、カツン、と明瞭に反響する二人分の靴音を聞きながら、教会の礼拝堂を横目に通り過ぎて、奥の部屋に通される。
「どうぞ、楽になさってください。いまお茶を入れますので」
「お構いなく……。その……貴女のことは、どのようにお呼びすればよろしいですか?」
「聖書を紐解いて、皆様に分かりやすく教えを共有する。教師のようなものと考えていただければ」
仕切り直すように尋ねた自分に、彼女は今度こそ柔らかく微笑みながら、頭の天辺に伸びた
「……それでは、スーサ先生、とお呼びしても?」
「ええ。皆さんにはそのようにお声がけしていただいておりますので。さ、お席にどうぞ」
中央の席を示した"先生"は、柔らかい笑顔とともにそう告げながら、薬缶に水を注ぎ入れた。
ガスコンロのつまみが捻られ、チチチ、とスパーク音を響かせる。
一礼して着座した僕は、部屋の内装をぐるりと見回した。
部屋の奥側には先生が立つキッチンが設えられ、幅広のテーブルと椅子が六脚設えられている。いわゆる一般家庭のダイニングキッチンを連想させる間取りだった。
調度品はどれも、優美な曲線で構成されたシルエットをもつシンプルな造り。
風に波打つカーテン越しに差し込んだ昼下がりの光が、落ち着いた色合いのそれらをまだらに照らしている。
壁には掛けられた小さな十字架と、鳩時計。
それだけ見れば異国情緒の漂う家庭的な生活空間という印象なのだが、ところどころに紛れ込んだ少数の小物たちが、そこはかとない異物感を漂わせていた。
艶を落としたダークオークの棚の上に、可愛らしいが教会にあっては不釣り合いな七福神の土人形が並んでいる。
壁際のキャビネットの取っ手にぶらさがっているのは、紅白のだるま。
テーブルの端、菓子鉢の隣に置かれたでんでん太鼓。
花瓶のとなりで首を傾げる赤ベコ。
年代物の飴色をした独楽や、竹製のけん玉。
僕の脳裏に、夏休みに訪れた祖父の家で手頃なおもちゃを手にとって縁側を走り回る、親戚の子供達の姿が蘇った。
携帯ゲームや動画配信サービスに慣れ親しんだ現代っ子からは見向きもされないだろう、時代の流れに取り残されたような古びた風合いの小物たち。
それぞれの置かれている場所が、ずっと昔から変わらぬ居場所であるように。
その一方でどことなく所在なさげに佇んでいる様は、本来の持ち主によって手に取られることを静かに待ち続けているような、そんな気がした。
「失礼ですが、この教会には貴女以外にどなたか――?」
「いえ、ここに居るのは私だけです。……今は、もう」
短くそう答えながら、先生はティーポットに薬缶の湯を注ぎ入れる。紅茶の芳しい香りが漂う中、うつむき加減に見える彼女の顔に、さっと陰が差したような気がした。
……さっきのはちょっと失言だったかもしれない。
初対面で、なおかつ事前のアポもなしに押しかけた身であることを己に再認識させて、粗相の無いようにと一旦口を噤んだ。
卓上に紅茶のティーカップとお茶請けのクッキーを並べて、対面の椅子にスーサ先生が腰を下ろす。
「本日は、ようこそおいで下さいました。この教会の管理者をしております、スーサと申します。公的には『司教』という立場ですが、一般の方には『牧師』という方が通りがよいでしょうか。……ともあれ、今後ともどうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、過分なおもてなしをいただき、恐縮です。日本ウマ娘トレーニングセンター学園所属のトレーナー、小椋と申します」
自己紹介を交わしたあとで、スーサ先生は「お恥ずかしい限りですが、外回りの後ですので」とこちらに断って、早速ティーカップを口元へ差し上げた。
こちらも釣られるように、カップを手に取る。芳醇というよりも素朴でスッキリとした茶葉の香りが鼻腔をくすぐる。
もしかして、こちらの緊張を解そうと配慮して下さったのだろうか。
そんなを脳裏に浮かべながら、琥珀色の液体を口の中で転がす。
味わいは香りに似て軽やかで、ごく仄かに舌の上に残った渋みも、飲み下せばすっと溶けるように消えていった。
普段ペットボトル入りの紅茶くらいしか口にしない味音痴も良いところの自分にとって、平穏な日常にそっと寄り添うような飾り気のないその風味は、初めて触れるものに違いなかった。
「とても美味しいです。とても暖かくて、……なんだか優しさを感じる味です」
「かねてより繋がりのある子が育てて、送って下さった茶葉なんです。そう言っていただけると、あの子も喜びます」
僕が感想を伝えると、スーサ先生は花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
もう一口紅茶を口に含んでみる。いかにも「紅茶!」と主張するような発酵された茶葉の印象が、ほんりの控え目な水準に抑えられている。
これは毎日飲んでも飽きがこない。買い求められるものならぜひ詳細を――っと、違う違う。
ついつい横道に逸れかけてしまった思考を本流に引き戻して、僕はカップをソーサーに置いて切り出した。
「……今日お伺いしたのはほかでもありません。クレディカイゼリンという、ウマ娘のことについてです」
「ええ! 私の方こそ、ぜひお聞かせ願いたいのです。あの子は……、クレディの生活ぶりはどのような様子でしょうか。怪我や病気など、してはおりませんか?」
「ええと……?」
スーサ先生は心なしか早口にそう応じ、こちらに向かって半身を乗り出して、僕の言葉を一言一句聞き逃すまいとウマ耳をピンと立てている。
予想外の反応に、僕は面食らい、口ごもった。
「クレディ――さんは、もしかして先生に、ご連絡を……」
「……誠にお恥ずかしいことですが、あの子が学園に入学してからというもの、直接言葉を交わしたのは、たった二度、三度ばかりです」
「何ですって!?」
続いた先生の言葉に、僕は耳を疑った。
聞けば、先生のほうから折に触れて学園に連絡を入れているが、当人は『手が離せない』、『また別の時間に』と、電話を取り次いだ担当者経由で返すのみ。
先生からの言葉は"伝言"という形でしか受け取っていないのだという。
「どうしてそんなことに……?」
短い時間とはいえ、クレディと接して言葉を交わした時に感じた彼女の人物像を思い返してみる。
思いやりが深く、真面目で、人にアレコレ言われても自分を曲げない頑固さがあって、義理堅い。
そんな彼女のパーソナリティと、彼女の身を案じて連絡を取り続けてくれている相手からのコンタクトを片っ端から謝絶し続けるという行動の間には、強烈すぎるほどの断絶があった。
「そうですね……彼女は――」
「いえ、でしたら、私の方からまずはお話しさせてください」
事情を語ろうとする先生を押し留め、僕はひとつ咳払いをした。
何も持参せずに押しかけたにも関わらず、するりと招き入れられてしまったせいで多少気後れする部分があったのだが。
そういう事情ならば、僕が伝える彼女の近況は丁度よい土産話になるのかもしれない。
「もっとも、僕自身、彼女と知り合ったのはつい一週間ほど前のことなんですが――」
そう前置きしつつ、クレディとの出会いから、選抜レース、スカウトに至るまでの経緯をかいつまんで伝える。
僕が彼女と関わった局面は、端から見ればあまり安穏としたエピソードばかりではないはずだが、それでもスーサ先生は、心底安心したような表情を浮かべながら胸に手をあて、ほっと一息吐いていた。
「ああ、小椋トレーナー。本当にありがとうございます。あの子は学園でも立派に過ごしているのですね……!」
万感の思いの込められたその言葉に、僕は内心でとんでもなく申し訳無さを感じながら応じた。
こんなコトなら、ここを訪れるより先にクレディの身の回りの交友関係や学園での振る舞いについて、人づてでも良いから探っておけば良かった。
学生ファイルに収められた、学業成績や競走データなどという無味乾燥な数字の羅列や評定なんかよりも、スーサ先生にとってはずっと価値あるものだったはずなのに。
「――ええ。彼女は毎日、精一杯自分の走りを磨いています。そして、レースウマ娘として本格的なスタートラインに立てる、そんな実力の持ち主だと、僕は思っています」
そして同時に、自己嫌悪も。
僕が話した印象は事実であるし、前情報なしで聞けばクレディのことを心から案じているように聞こえるだろう。
だが、ここに足を運んだきっかけは布施田トレーナーからの勧めあってのことだし、僕がクレディの近況を伝えることも、本人の同意があって許された訳では無い。
これでは彼女を都合よく囲い込むために、根回しに来たのと変わらないんじゃないか。
自分の行いに対して、にわかに疑念が持ち上がる。
行動の屋台骨を成していた理屈の自他境界が、語るたびに曖昧さを増していく。
正直なところ、それに不安を感じずにはいられなかった。
「……ですが、お恥ずかしながら僕は、彼女の信頼を得ることができませんでした」
だから僕は、黙って言葉の続きを待っているスーサ先生に、隠し立てすることなく、全て明かした。
彼女の競争能力と、それをレースの中でどう活かすかということにばかり目を向けていたこと。
クレディ自身の人間性や意志、そして彼女が背負ったものについて、表面的に理解したつもりを装っていたこと。
恩師の
自分の過ちと、自分がこれまで至らなかったことについて、全てを。
「彼女が背負っているもの、心に抱いているものが一体何なのか、ヒントだけでも分からないものか、と。そう考えて、ここまで伺った次第です」
そこまで語り尽くすことで、はじめてここを訪れた理由を伝えることが許される。
「クレディは、僕が見る限り真面目な子です。真面目で、一度「こう」と決めたら揺るがない。本人と接するうちに、そう感じました。でも、トレセンの中だけが彼女の人生じゃない」
視野角。
デブリーフィングのとき、僕はクレディにそれを引き合いに出して彼女を引き止めた。
レースで走っているウマ娘本人が思っているよりも、本人から直接見えないところに――レースを外側から俯瞰していた者にしか見えないところに、糧にすべき情報はある、と。
彼女に向けたはずの言葉は、今の僕自身にも――否、あの時の僕自身にも形を変えて当てはまっていた。
トレセンに入る以前の彼女を知る人であれば、トレセンの中でクレディと向き合った僕たちとは全く違った視点から、彼女の人となりを捉えているに違いない。
だからそれを、何としてでも手元に引き寄せたかった。
理屈はどうあれ、僕はクレディの走りを支えるため、そして支えることができる立場に就くために手を尽くそうと。
そう決めたのだから。
「ぜひ教えてください。彼女がここで何を見て、何を感じて過ごしていたのか。……それが分からなければ、きっと僕は、彼女と向き合うには力不足のままなんです」
僕は懇願の言葉を絞り出して、頭を垂れた。
スーサ先生は、すぐには何も言わなかった。
紅茶の湯気が細く立ち上り、カップの中の琥珀色の水面が、わずかに揺れている。
カーテン越しの光が部屋をやわらかく包み込み、静寂がじんわりと二人の間に広がっていく。
先生は膝の上でそっと手を組み、うつむいたまま、何かを胸の奥で確かめるように小さく息をついた。
まるで、その静寂の中から言葉をすくいあげようとするかのように。
「小椋トレーナー。貴方はご自身の至らなさを悔いておられると思いますが、どうか、頭を上げてください」
顔を上げると、スーサ先生はそっと微笑んでいた。
その瞳には、どこか悲しみの色も混じっていて――僕は、安堵しながらも、少しだけ言葉を失った。
「お話しいただき、本当にありがとうございます」
優しさと配慮に満ちた、温かい謝辞。けれどその声は、わずかに震えていた。
語ることの重さを飲み込むように、先生は一度まぶたを閉じて、短く息をついた。
「クレディのことをお話する前に、トレーナーさん、私はまず貴方に自分の罪を告白せねばなりません」
「罪の……告白」
見るからに控え目で、物腰柔らかく、温厚そうな彼女のイメージと、その口から発せられた言葉の含意が到底近しいものには思えず、僕は思わず聞き返した。
「彼女を、いえ、……彼女だけではなく、この場所にいた多くの子供達を、私は十分に導くことができませんでした」
静かに目を伏せると、スーサ先生は胸元からロザリオを取り出し、両手で包み込むように握った。
そのままテーブルの向こう側――否、もっと遠くの“誰か”に向かって語りかけるように。
悲しみと後悔、そして一抹の懐かしさが入り交ざったような、複雑な面持ちで、そう告げたのだった。
僕は、その祈りにも似た声に、ただ黙って耳を傾けるしかなかった。
「彼女……クレディカイゼリンは、この教会で引き取った孤児でした」