信の標の彼方まで / 生き急ぎ系ウマ娘と新米トレーナーの競走記録(デブリーフィング) 作:A_Kaname
1-1.蹄音はしじまを裂いて / A Fumbled Roll
チャカポコチャカポコという軽妙なメロディが、まどろみの中にいる脳味噌を揺さぶる。
音源となっていたスマートフォンを手探りで探し当てて、接着剤でへばりつけられたように重たい上下のまぶたをこじ開けた。
その瞬間、頭全体を締め付けるような痛みが沸き起こる。
「いっっってぇ」
漏れ出た声は自分のものとは思えないくらいにガサガサだった。
頭を抑えながら体を起こしてみる。
ぐるん、と胃袋が捻れる感覚とともに吐き気が込み上げてきて、たまらずトイレに駆け込んだ。
やれやれ、失敗した。
『研修を終えて、俺達も新年度からは社会人。もう学生時代と同じノリで羽目を外すことなんて今後できなくなるんだから、今夜は盛大に飲み明かそう』
要約すれば概ねこんな感じの、パーティーピーポーな同期の発案に乗せられて夜の街へ繰り出したのが確か夜七時ごろだったか。
自分で言うのもなんだが、酒は好きでもアルコール耐性は世間一般人の平均以下という、下手の横好きタイプの酒呑みだ。
だから二次会くらいまで顔を出して適当なところでお
結局その後三軒ほどハシゴ酒して、帰宅したのがてっぺん超えて午前二時。
それがこのざまである。紛れもなく二日酔いです。本当にありがとうございました。
しばしの間便器と熱烈なハグを交わして胃の中に溜まった
「とりあえず、水……」
ハイドレーションしなきゃ、と仕事道具でもある医学知識に導かれてリビングの冷蔵庫を開ける。が、生憎と在庫は最低限の調味料と氷くらいしかなかった。
よくよく思い返してみるに、この寮室に家財を搬入したのもつい数日前のことだった。
がーんだな……出鼻をくじかれた。
仕方ない。コンビニまで出るか。しつこい二日酔いにはしじみの味噌汁と、なにはともあれ大量の水に限る。
グワングワンと脳を揺さぶり続ける頭痛に
明けて時刻は朝五時半。
今日は中央トレセン研修生として過ごす最後の休日だ。朝型生活を維持するために目覚ましを平日とおなじ時刻で設定していなければ、昼時まで
流石にこの期に及んでそんな
なにせ明日には入職式を控えている。もう自分は名実ともに正規の中央トレーナーなのだから――。
眠気と鈍痛が頭に重くのしかかる中、寝ぼけた思考をどうにか繋げ、あくびとともに外階段を降りていく。
と、学生寮のほうからカツカツという金属音が響いてきた。
春先のまだ肌寒い時期ではあるが、ここ、トレセン学園に通うウマ娘の多くにとっては別段トレーニングを妨げるものではない。
音が聞こえた方向に視線を向けてみると、右耳元に黄色いリボンをなびかせた黒鹿毛のウマ娘がひとり、
今日も頑張ってるな。と、後方腕組み保護者的目線に立ちながら心の中でエールを送っていると。
「うぐぐ……」
ちょうどエントランスを出たところで胃袋の底から吐き気がぶり返してきて、
つい先ほど中身を精算しきった後だったのが幸いして、まろび出てきたのは酸っぱい胃液だけだったが、それと同時に激しい頭痛が再び襲いかかってきた。
背中や胸周りから冷や汗が噴き出し、手足の先からさぁっと血の気が引いて、目の前が暗くなる。
あっヤバ、と焦るが身体が付いてこない。
色を失った景色がスローモーションのように傾いていき――、
「――大丈夫ですかっ?!」
アスファルトに倒れ込む直前で、力強く身体を支えられた。
そのまま後頭部と腰回りに添えられた手に導かれるようにして、身体に負荷のかからない
ゆっくりと深呼吸を繰り返していると、徐々にくすんでいた視界が色を取り戻していく。
その真ん中でこちらを心配そうに覗き込んでいるのは、ちょうどトレーナー寮の門前を通り過ぎようとしていた、あの黄色リボンのウマ娘だった。
「申し訳ない……ちょっとその、体調不良で」
なんとかそう絞り出す。
男のつまらないプライドといえばそれまでだが、流石に未成年の女の子に『二日酔いで死にそうになってます』なんてあんまりにも情けなくて言い出せなかった。
「……迷走神経反射ってやつだ、たぶん。少し休んでたら良くなる」
「休むって、ここでですか? そんな薄着じゃ風邪を引いちゃいますよ。――捕まって下さい。学園の保健室なら、校医の先生が……」
「……今日は日曜日だし、先生も、保健委員も、たぶん居ないよ」
「それは……」
僕の指摘に彼女は何やら言い淀むような素振りを見せ、返事の代わりに背中を支えてくれた手に力を添えた。助け起こされる形でアスファルトの地べたに座る。
ガンガン鳴る額に
朝焼けを受けて艷やかにきらめく黒鹿毛の髪。伸ばされた
右耳には紅白の
歳の頃は中等部か? 高等部か?
物腰や振る舞いは丁寧で大人びて居るが、顔立ちの輪郭は柔らかく、どことなくあどけなさがある。
このくらいの年頃のウマ娘は特に成長が著しい。年齢不相応に大人びていたり、その逆もあるので、ぱっと見ただけでは見当がつかなかった。
ともあれ、いつまでも彼女の両腕に体重を預けているわけにもいかないと、自力で立ち上がったのだが……その動きだけで頭痛がぶり返してきてしまって当分身動きは取れそうにない。
相変わらず背中を支えてもらいつつ、どうにかエントランスの壁際まで体を持って行く。
彼女はその様子を見て、なぜそんな体調でわざわざ外出してきたのかと、当然の質問を投げかけてきた。
冷蔵庫の中身が空っぽだったこと、食料や薬類を買い出しに出てきた旨を素直に答えると、艷やかな尻尾をゆらゆら揺らしながらスマホでメモをとりだす。
「わかりました。私が行きますから、少し待っていて下さい。水と、それから何か消化に良いものがいいですね。あと、薬か……」
「いやいや、君にもトレーニングがあるだろう? そこまで手を掛けさせる訳には行かないさ」
「ダメです。途中で身動きが取れなくなったらどうするんですか?」
「大丈夫だって、大した距離じゃぁない――ッぷ」
「だから言ってるのに……」
「……面目ない」
申し出を丁重に断ろうとした矢先、またもや胃がぐるぐると
確かに。ここで押し問答をしていてもラチが明かないか。
観念して腰から財布を出す。出したのだが……、開いてみて思わず眉根を寄せた。
なんだこれは。
冷蔵庫と同じくこちらも空っぽ、というわけではない。むしろ真逆で、やたらと大量の紙幣が金額も向きも、てんでバラバラな形で詰め込まれていた。
諭吉、野口、諭吉、樋口、新顔の柴三郎と栄一、また会ったな野口。――ええいまどろっこしい。
適当に端から三枚目ほどまとめて引き抜いて、彼女の手に押し付けた。
「それじゃあごめん。お遣いを頼まれてくれないか?」
「承りました。寒いので、中で待っていて下さいね」
言うが早いか、くるりと踵を返した黄色リボンのウマ娘は、眼の前ですっと重心を落とすと、
「――ふッ!!」
鋭い息遣いとともに踏み込み、駆け出した。
つややかな黒鹿毛が残像を残して遠ざかり、あれよあれよという間にトップスピードまで加速する。
カン、カン、カンと、朝の
◆
「お待たせしました。どうぞ、お水です」
エントランスの壁にもたれ掛かり、目をつぶって、時折思い出したかのように波状攻撃をかけてくる吐き気と頭痛をこらえていたところに、声がかかる。
「――ああ! ありがとう」
目を開けてみるとペットボトルの中でミネラルウォーターの
こころなしか頬が上気して呼吸が早く、吐く息には白いものが混ざっている。
それとなく時間を見やると、彼女が矢のように駆け出してからたったの五分ばかりしか経っていない。
走行姿勢は紛れもなく
これはトレーニングメニューを滅茶苦茶にしてしまったんじゃないか……と、申し訳無さでいっぱいになりつつも、厚意を
ごくりごくりと中身を煽る。ひやりとした冷気が喉元から胃袋に落ちてきて反射的に
ふう、と息を吐くと、先程までグワングワンと割れ鐘のように響いていた頭痛が少しばかり和らいだ気がした。
「ちょっと楽になった気がする。ありがとう」
手のひらについた結露を拭いながらそう伝えると、ウマ娘は、かすかに頬を緩ませた。
「お食事は取り急ぎお味噌汁と……、おかゆを買ってきましたが、こちらで良かったですか? レトルトですけれど……。あと余分でしたらすみませんがティッシュと、こっちが頭痛薬と吐き気止めです」
レジ袋の中を開けて、品物一つ一つに目を通せるよう丁寧に示してくれる。体調不良の身にはどれも有り難いものばかりだった。
「何からなにまで、本当に迷惑をかけてごめん。お金は足りたかい?」
「十分すぎました。それより、これ――」
お札の間に、挟まってました。
そんな一言とともに目の前に突き出された紙片は、四つ折りにしてようやく財布の幅に収まる長大なレシートだった。
最上部にはつい六時間ほど前に厄介になった店の屋号がプリントされていて――、
「おぅっふ」
一読して、あまりの衝撃に思いがけず変な声がまろびでた。
何をどれくらい飲んだか、などという理性的な記録は
牛飲バ食とか、そんな生易しいものではない。
いくぶん和らいだもののこめかみのあたりでジクジクしている頭痛と、正直現実味が失せる
なんかこんな名画、SNSのタイムラインで見たな……。というどこか他人事めいた現実逃避が脳細胞の端を掠めた。
「あの……おせっかいだとは思いますが、もう少しお酒との付き合い方を見直した方が良いんじゃないでしょうか?」
黄色リボンのウマ娘の言葉には、聞く限り最大限の配慮が含まれていたが……、どことなく、こちらに向けられる視線の温度が先程よりだいぶ低くてよそよそしい。
「……違う……いや、違くはないんだが。流石にコレはない」
合点がいった。財布の中身が偉人たちですし詰め状態だったのはこのせいか。
おそらく参加者全体からどんぶり勘定で飲食代を回収して、一括決済した結果だろう。普段の買い物では到底見ることのない大量のポイント還元が付いていたが、それと引き換えに来月の更新日までクレカは使い物にならないだろうことは明らかだった。
週明けに限度額を引き上げて貰うよう連絡をしておかないといけない。
それはさておき、自分のやらかしの後始末は付けねばなるまい。
改めて彼女に向き直って、深々と頭を下げた。
ことここに及んではもはや、男のプライドなんてうすら長いレシート未満の、それこそ吹けば飛ぶような軽さである。
「白状します。自分の限界を超えて飲みすぎました。二日酔いです」
「だろうと思いました」
「学生気分が抜けきれず、同期一同でさんざん飲み食いして、結果がコレです」
「なーる、ほど……この請求はそういう」
「挙げ句生徒の練習機会を奪うなんて恥ずかしい限りです。わたしはだめなおとなです」
「――い、いえ……、距離もペースもちょうどいいくらいの負荷になりましたから、そんなにお気になさらず。確かに、いい歳してお酒の失敗というのはどうかとは思いますけど……。というか、ちゃんと割り勘の収支合ってますか? これ?」
「後で参加者一人ひとりに確認します。この度は本当にご迷惑をお掛けしました」
「まぁ、今後……しっかりしていただければ良いのではないでしょうか……? ああもう……、謝るのはもういいですから、早く頭を上げてください!!」
重ね重ね頭を下げ続けていたところ、肩をぐいと掴まれて、最敬礼の姿勢を強制解除、続いて品物の入ったレジ袋がぐいと手に押し付けられた。
「体調が優れないのなら、大人しくご自宅に戻って休んでいてください! はい、これ持って!」
「アッハイ。そうさせてもらうよ」
世話焼きのお姉さん、という形容がしっくりくる物言いだった。これじゃあどっちが年長かわからない。
これ以上彼女のトレーニングを引き止めるわけにもいかないし、最後に礼を告げて自室に戻ろうとしたのだが、数歩踏み出したところで、「待ってください」と呼び止められた。
「これ、買い物分のレシートとお釣りです」
「……いやいや、お釣りは取っておいて。せめてものお礼さ」
「お使いのお
まさに
となると彼女の手に渡ったのは三諭吉だったのか。お遣いを任せておきながら手持ちが足りない、なんてことにならなくて良かったと安堵しつつレシートを見る。
当然というか、案の定というか、記載された金額と釣り銭の間に一切食い違いはなかった。
「トレーニングを邪魔しちゃったお詫びも兼ねてるから、どうぞ、気にしないで」
もとよりそのつもりで渡したのだが、僕の説明を聞いてなお、黄色リボンのウマ娘は首を横に振った。
「いえいえそんな。学生のアルバイトひと月分ですよ。いくらなんでも……」
「いえいえどうぞ。後輩たちに美味しいものでも奢ってあげなよ」
「いやいやそんな! どれだけ豪遊すればいいんですか!?」
お札を挟んで押し合いへし合い、双方譲らず、ああ言えばこう言うで、まるでコンビ芸人のコントのフリのようである。
「いやいやどうぞ。ここで言い合いしてるとこちらもなかなか休めないから、ひとまず受け取ってくれると嬉しいな」
「……その言い方は、ちょっと
「ぐへへへ、俺は悪いトレーナーなんだ。――うっ、痛ててて」
バカなことを言っていたら次の頭痛の波がやってきた。
「あっ……あぁー、もう! 分かりましたっ!」
痛みに
痛みを
僕自身、晴れて社会人になったのもついこの間のことだし、なかなか自由にできるお金が持てない学生身分のもどかしさは記憶に新しい。
学生が過ごす青春は、大人たちが思っているほど安くはないものだ。
そこに降って湧いたとはいえ、人助けの謝礼という、どこに出しても恥ずかしくない正当な対価としてお小遣いが手に入るというのに、そんなにムキになって固辞することもないだろう。
そんなふうに、考えていた。
「真面目なんだな、君は」
「まじ……っ――」
「真面目で、優しい子だと、そう思うよ」
だから、ぱっと頭の中に思い浮かんだ感想をそのまま漏らした時に、黄色リボンのウマ娘がさっと顔色を変えた、その理由がわからなかった。
「いえ。違います。断じて……。これは、真面目さなんかじゃ、優しさなんかじゃ、ありません」
彼女の右手の中で、ぐしゃり、と音を立てて紙幣がひしゃげ、擦れ合った硬貨が軋む。
それを乱暴な手つきでジャージのポケットの中に詰め込みつつ、彼女は
「どういう――?」
投げ掛けた問いかけは、ぐるりとこちらに向けられた背中に当たって弾き返された。
はぁ、と大きく漏らした息吹が肩越しに聞こえる。
「――トレーニングに戻ります。くれぐれも、お大事に」
彼女が首だけこちらを振り仰いだ時には、もう左右の瞳に浮かぶ感情はがらりと変わっていた。
たった一メートルにも満たない距離にいる双方の間に、不可視の境界線が引かれたような、明確な断絶と、拒絶。
深入りは、してはいけないようだった。
「……君もね。オーバーワークにはくれぐれも気を付けて」
「……善処します」
頭を抑えながら絞り出すこちらに、それでは、と会釈を残して、彼女は足早にエントランスを出ていった。
直ちに走り出すのかと思えば、予想に反してそうではなかった。
とん、とん、とん、とその場で軽くジャンプを数回。軽い膝の屈伸から、肩回し、体幹ひねり、アキレス腱伸ばし、と順々に済ませていく。
いずれも所作は淀みなく、ほとんどルーチンワーク化しているであろうことが見て取れた。
こういう、ショートブレイクを挟んだ後の準備運動、意外とみんな飛ばしちゃうものだけど。
本人にとっては不本意でも、やはり真面目という評価が似合う。
彼女にとっては仕切り直しになるはずのウォームアップを済ませたところで、左足を前に出したスタンディングスタートの姿勢をとり、膝を軽く曲げて腰を落とす。
カン、と鋭い蹄鉄の音がアスファルトの上に打ち鳴らされて。
ガラス一枚挟んだ先から、ほんの僅かに漏れた息遣いこそ聞こえなかったが。
黒鹿毛の尻尾がふわりとたなびく。
鋭く繰り出された両足が、目にも留まらぬ速さでピッチを刻む。
音を置き去りにして飛び出した肢体の運びは伸びやかで、一歩ごとに力強く推力を生み出す。
見ていてほれぼれするほどに
彼女の言葉に感じた違和感は、その走りを目の当たりにした瞬間に僕の中で霧散して、ただ視線だけが見る見るうちに小さくなっていく華奢な背中に釘付けられていた。
「……いいね。すごく、いい」
――うん。あれは間違いなく逃げ向きだ。
先頭に立ってレース展開を握るもよし。切り替え上手な性格なら展開次第で番手に下げて、ペースメーカーの
脚質それ自体に優劣はなく、あるのは様々なレースコンディションとの相性と展開や時の運、なによりウマ娘本人の能力次第ではあるが。
揺るがぬ王道を体現し、覇道を
強かさと大胆さを兼ね備え、末脚一刀のもとにバ群を撫で切る”差し”とも。
最後方から大外を突き抜けて、
並み居るそれら全てを従えて。
あるいは先陣を切って勇壮に。
あるいは捕まえなどさせぬと死に物狂いに。
ああ。
彼女の適性はターフか、あるいはダートか。
どんな走りをして、どんなふうに競うのか。その走りでどんな未来を目指すのか。
願わくば。
まだひよっ子未満のトレーナーだけれども、彼女のようなウマ娘を担当できるとしたら――。
そんな憧れにも似た希望を抱いたとき。
「――名前聞き忘れたあアアアッ! ――っ痛!」
それ以前の問題に思い至った自分の頭を、二日酔いがすかさず引っ叩いたのだった。